- 1二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 20:12:15
- 2二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 20:12:44
馬(むま)さんはウマ娘である。
中学生の頃からの友人で、付き合いはそれなりになる。その人となりは善良だが、変人に属する。パートタイマーとしてレース場の整備員と飲食店の配達員を兼業し、収入を得ている。趣味人を自称し、拘束を好まない。中央で走ることも志したが、夢破れている。
「何もかもが足りなかった」と、語る。
古民家に一人で住み、色気より食い気が勝る。実家が太く、ご両親は一人娘を自由にさせている。嫁入りを諦めたとも言う。在宅の際はたいてい縁側に面した部屋で作業をしており、この日は庭に立っていた。何かを焼いており、明らかに髪が短くなっている。失恋でもしたのかと訊くと、「ある意味では」と真剣な顔で答える。黙って煙が立つのを眺めていると、すぐにふにゃふにゃと笑う。「嘘だよ。髪を燃やして煤にしようと思ったんだ」意味はわからない。「水に溶かして、墨に混ぜるんだよ」
汗をかきながら消火を手伝い、髪を燃やした煤とやらを手に入れて上機嫌な馬さんは言う。
「お茶にしよう。さ、上がって。いい茶葉をもらったんだ」
合鍵を預かっているが、玄関から入ったことは数えるほどしかない。馬さんの「お茶にしよう」とは「茶を淹れてくれ」の意味であり、目的の品が手に入った本人はさっさと部屋の奥に消えていく。その行き先は台所ではない。 - 3二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 20:13:18
ところで、「馬」は誤字ではない。
意符としての「馬」に対する、音符をど忘れしたわけでもない。四本脚の「馬」を一字で正とするところが馬さんの変人たる所以であり、公的文書でもない限り、彼女はこの表記を好む。一部の人には強いる。
居間はいつも散らかっており、家主も客人も、とうの昔に整頓を諦めている。書道半紙が丸められており、わざわざ青竹からこしらえたという、竹簡が転がっている。亀の甲羅は貴重なのか、粘土板が危うげにバランスを保って積み上げられている。友人が文字の禍に巻き込まれては笑えないので、さすがにこれは分割し、低く積み直しておく。
ちゃぶ台を挟み、馬さんと向かい合って茶をすする。この居間で食事を共にすることもある。たとえば「暑いからそうめんが食べたい」とLANEがあった場合、これは「家に来てそうめんを茹でろ」ということを意味する。
軸が掛けられており、そこには楷書体で「馬」とある。馬さんの書であり、書かれていることはちょくちょく変わる。「一本脚の馬」だったり、「三本脚の馬」だったりもする。ウマ娘が疾走する躍動感を表すのだという、四本の横棒が増えたり減ったりしていることもある。「漫画の効果線みたいに扱うのは乱暴じゃないか?」などと馬さんは語る。文字が物事の抽象化を進めたものであるのなら、効果線はむしろ正しい理解なのではないかと思わなくもない。
「しかし甲骨文字を見ればどうだろう、何か体の一部分を表しているように見えないだろうか」
お得意の法螺話が始まる。馬さんの正しい肩書きは、パートタイマーでも趣味人でもなく、法螺吹きと呼ぶのがいいだろう。 - 4二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 20:13:42
甲骨文字と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、中学生の頃の社会科の授業である。その時は隣国の古い歴史を概観していた。些細な脱線があり、当時の社会科教師が漢字の最も古い形態、つまり甲骨文字を紹介したところ、ある女子生徒から以下のような意見が挙がった。
「先生はそれが典型的な象形文字だって言いますけど、ウマ娘には全然似てないと思います」黒鹿毛の尻尾をぶんぶん振ってその女子生徒は語った。「私からすると、それは四つ足の獣の姿を横から写したようです。仮にウマ娘が走る様子を表しているんだとしても、もっと「人」の字に近い方が自然なんじゃないでしょうか」
女子生徒というのは、既に漢字の大先生だった馬さんのことである。 - 5二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 20:14:12
「人の黒歴史を気軽に掘り返すものじゃないよ」
馬さんは苦笑し、茶をすする。法螺話に紛れて、苦い思い出話に花が咲くことはよくある。
「もっとも、基本的な考えは変わってないけどね」と、続ける。「私と君は明らかに違うが、ウシやシカやキリンほど違うわけじゃない。しかし古い文字を見ればどうだろう、「馬」には「鹿」の方が近いように思える。そしてどちらも「人」からは程遠く、強いて言えば「牛」の方がよほど似ている気がする」
麒麟はどこへ行ったのか、瑞獣は急に来て去るものだと理解しておく。あるいは「鹿」字の派生でしかないのかもしれない。
「たとえば今から120億年後の未来を想像してみよう」馬さんの数字のスケールは雑にインド的だ。「漢字が日常的に使われなくなって久しい世界で、ある日「馬」と「人」の字がサルベージされる。専門家にもその正しい意味はわからない。口角泡を跳ばす議論の末、これらはかつて存在した絶滅動物を表す言葉であるとの見解が得られる」
その場合誰が議論をしているのかは知らない。もちろん馬さんにもよくわかっていない。
襖を挟んで居間の隣にあり、縁側に面した作業部屋には、一枚の大きな和紙が広げられている。馬さんが言うには、水墨画は下書きを施さないことが一般的だそうだ。下絵を置くことはあるが、ここにはない。つまりまだ何も描かれていない。
「気になるかい」と、馬さんは笑う。本人は不敵なつもりらしいが、彼女の笑みには昔から迫力が欠けている。 - 6二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 20:14:37
馬さんの主張は、おおむね次のようになる。
・「二本脚の馬」字の起源である甲骨文字は、ウマ娘を象ったものには見えない
・仮にウマ娘を象ったものだったとして、「人」字と形態がかけ離れているのは不自然ではないか
ここまでなら理解できるが、その大法螺は留まるところを知らない。
・気が遠くなるほどの昔、ウマ娘の姿は現在と大きく異なったのではないか - 7二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 20:14:54
「大陸の方では、今も二本脚を部首に用いている」硯に水を差しながら、馬さんは言う。「少し前に、月間トゥインクルか何かで記事があっただろう。わが国では、四本脚を部首として用いることが正統とされる」普段のものぐさな態度が嘘のように、丁寧に墨を磨っていく。「私はあれを幻覚の類だとは思わない。古の歌人たちは、その慧眼で私たちの真の姿を看破したのだ」
煤が溶かれる。髪を燃やしたのだと言う。本当かどうかはわからない。
馬さんは姿勢を糺し、呼吸を整える。筆を執り、先端を墨液に浸す。目を閉じ、小さく息を吐く。筆が硯を離れ、目が開かれる。
それは書のようであり、画のようでもある。
敢えて中間を走ろうと試みているのだろう。筆運びはややぎこちなく、しかし迷いは感じられない。かくものは決まっているが、かいたことが無いために、まだまだ手慣れていないのだ。
「むま」
筆が払われ、呟きがある。
一体の獣が躍動している。
脚は四本で、細くしなやかだ。胴はウシやシカに似ている。横顔は首を詰めたキリンのようでもあるが、精悍だ。角はない。尾の毛とともに、長いたてがみが風そのもののようにして、掠れた筆致となって走り、翻り、棚引いている。
「文字は私と君が考えているより遥か昔に誕生し、その正しい意味が誰にもわからなくなるような未来になって、発掘されたのかもしれない」
馬さんは筆を置き、額に浮かんだ汗を手の甲でぬぐった。
「私たちと文字の関係は、その誕生から現在まで変わっていないのだろうか」足を崩し、胡座になって馬さんは続ける。「金文、篆刻、隷書と時代を経るに従って、その中身がが入れ替わったりはしてないだろうか」
ふにゃふにゃとした笑みがあり、そこにいるのが「馬」ではなく、馬さんだとわかる。
「私と君の関係も、まったく違ったのかもしれないよ」 - 8二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 20:15:26
以上です
「バ」字についてのあれこれでした - 9二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 20:30:19
なんでこんな場末に文豪が……
それはそれとしてこんな感じの落とし込まれた考察は結構好き - 10二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 20:46:42
読んでくださってありがとうございます
考察というほどしっかりしたものでもなく、法螺話なのですが、ウマ娘ワールドにおける「馬」字の成り立ちってどう翻訳されるのかなと考えました
現実の甲骨文字を人間の形に落とし込もうとすると、なかなかダイナミックな読み方が要求されるのではないかとも思います
そういえば、いわゆる「四本脚」のうち、二本はそもそも脚ではないとかなんとか
投稿した後に誤字を見付ける現象、どうにかしたいものですね - 11二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 21:00:05
深い…作品に入り込んでしまう
- 12二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 21:02:49
好きな(いちばん読む)作家は誰ですか?
- 13二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 21:30:44
雰囲気がすごく好き
東洋の「馬」という字の謎を魅力的な小説に落とし込んでるのすごい - 14二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 21:40:28
深読みするとボロが出るので、表面を軽く撫でるように読み流してください。そうでないと悶えます
好きな作家は何人かいますが、今は円城塔の『文字渦』を読みんでいます。影響をモロに受けていることは言うまでもありません
フィクションの言語体系って面白いですよね。ウマ娘の「二本脚の馬」もそのひとつです。他にも「憑」という字はウマ娘ワールドではプラスの意味合いを持つのだろうか、などと思ったりもします - 15二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 21:56:29
西洋の方でもウマ娘は全員女性なのに古代の言語ではウマ娘を意味する単語になぜか男性形があることが謎になってそう
例えばラテン語のequa(女性形)とequus(男性形)とかギリシャ語のἵππη(女性形)とἵππος(男性形)とかサンスクリット語のaśvā(女性形)とaśva(男性形)とか - 16二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 22:04:16
髪を墨にするって話は軽く調べても出てこなかったのでミステリアスな描写なんかなと思ったり
ただ馬の毛を筆にするというのは知ってたのでそこそこ深読みしてたりした - 17二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 22:22:38
男性名詞と女性名詞の話も面白そうですね
そういえば「nature」は古風に「her」で受けることができるそうで、つまりネイチャですが、そこのところどうなんでしょう
髪を墨にするのは髪でたてがみを描くというぼんやりしたイメージの産物でしかないので、むしろ典拠があったら驚きです。ただ、そういうまじないの類はありそうですね。庭は何かを燃やす場所だということもあります - 18二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 22:25:51
英語のnatureがherで受けることができるというのは初耳ですが、おそらく語源であるラテン語のnātūra(ナートゥーラ)が女性名詞だからだと思います
- 19二次元好きの匿名さん22/09/11(日) 22:32:53
岩波文庫の『対訳 フロスト詩集』に、以下のようにありました
“Nature を古風に女性化して、her で受けている”(通し番号[21]Nothing Gold Can Stay 脚注より)
学のある方のコメントはためになります。ありがとうございます