- 1二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 00:38:39
はいこれ、と手渡された紙袋を受けとると、ずしりと手を下に引く重さが皮膚に食い込んできた。
中を覗くと、単行本の背表紙が数字を順番に揃えられて並んでいるのが見える。
「今回は千束さんのイチオシだよ~!」
わたしは今、千束から借りた……半ば押しつけられた漫画を読み終えて、それを返し部屋まで遊びに来ていた。遊ぶといっても、千束があれやろう、これやってと次々に飛ばしてくるリクエストに応えるだけで、千束がわたしで遊んでいるようなものだ。
その帰り、再び重たい手荷物を抱えさせられ、小さく溜め息をつく。
まあ、もう慣れたものだが。
「私は読み終わってるから、返すのいつでもいいからね~。じっくり読んでみて」
「はあ、ではお借りします」
千束から借りた漫画を読むこと自体は苦痛ではない。むしろ楽しい……と感じている、と思う。
それでも今一つ乗り気になれなかったのは、やはりこの腕を地面に引っ張る重量だろう。
千束の部屋に来るまでにも、十冊以上、二十冊以下の単行本を入れた紙袋をぶら下げて歩いてきた。
帰りは楽な道のりになるかと思っていたが、千束を相手にその考えは甘かったようだ。
まあ、もう慣れたものだが。
いひひと歯を見せて笑う千束と手を振って別れ、家路につく。
途中、夕食の材料でも買い足していこうかと思っていたが、既に片腕を占領している紙袋の重みに、やむなく断念することとした。
自宅に着き、自室の机に借りてきた漫画を重ねる。
やっとスッキリ片付いたと思った傍から、また平積みの単行本が山を作る。
「読むのは、明日からにしましょうか」
返却期限は設けられていないのだし、今日は千束のところで、色々と遊んできたから疲労が溜まっている。
風呂に浸かって、ゆっくりと疲れを取ろう。
部屋を出る時、いくつかある漫画のタイトルの内、その一つが目に入る。
どんな内容なのだろうか、少し、気になった。 - 2二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 00:39:10
風呂あがり、湿った髪の毛をタオルで包みながら冷蔵庫の蓋を開いて、冷えたスポーツドリンクのボトルを手に取る。容器が体温と外気に触れるとじんわり表面に水滴が浮かび、その冷えた感触が暖まった肌に丁度よく馴染んで心地がいい。
一口あおると、喉を清涼感のある塩味がさっと駆け抜けていく。湯船に浸かって流した水分と塩分が、身体に浸透していくのを何となく感じ取れるかのようだ。
ちゅぽん、とボトルから唇を離して、手の甲で軽く口許を拭う。
冷蔵庫の前から、自室の扉へ視線をやる。
入浴中にも頭の中で気になっていたのは、千束から借りてきた漫画のタイトル。
タイトルのなにが引っかかったという訳ではないが、千束の言葉を思い出す。
『今回は千束さんのイチオシだよ~!』
イチオシ。
今までのものがオススメではない、ということではないのだろうが、その中でも特にひと押ししたい作品ということだろう。
ボトルを冷蔵庫に返し、湯上がりの手入れもそのままに自室へ。
机の上に積まれた単行本のタイトルを確かめる。
『白百合の塔』
このタイトルが特別に興味を引くとか、そういうことはないのだけれど。
ただ、表紙に目を引かれる。
一巻の表紙には、紺色のセーラー服を着た二人の少女。
背が高く、切れ長の目をした黒い長髪の少女と、それよりも背が低く大きな瞳をした、銀白色に輝くボブカットの少女。
二人は向き合い見つめあって、黒髪の少女が銀髪の少女の頬に手を添えている。
その雰囲気は妙な色気を湛えていて、友人同士……と呼ぶには憚るような表情をしている気がする。
もっとも、これは人の手によって描かれたキャラクターの表情で、描き手の癖で表情にそうした色気が出ているだけという可能性も、なきにしもあらず。創作とは往々にしてそういうものだろうと思う。 - 3二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 00:39:45
作者の意図と、意図せぬ現象。そのどちらか確かめる手段は、作品に触れるか、作者に直接問いただす他はない。
後者は、今取れる手段として現実的ではないだろう。そうなれば答えは必然。
わたしは椅子に座り、その漫画の一巻を手にとってページを開く。
カバーの裏に作者のコメントが載っているスペースには、作者が女性だという簡単な自己紹介が短く書かれているだけで他に特筆すべきことはない。
目次には各話のタイトルが、儚げな花のエフェクトを背景に記されている。
さらにページを進めれば、一話の冒頭へと話が入り、そこには表紙にいた銀髪の少女が、夕暮れの教室の片隅で立つ黒髪の少女を見つめるという導入のシーンが描かれていた。
なるほど、主人公はこの銀髪の方か。
コマの中には、少女のモノローグが四角い吹き出しで語られている。
『夕焼けに赤く染まった教室』
『その一角に立つ女性の姿に』
『私は惹かれた』
『どの光にも染まらない黒に』
『景色さえも呑み込む漆黒に』
『私は、その日』
『恋をした』
……恋。
なるほど……恋か。
表紙の少女から感じた色気は、恋をする少女の色だった、というわけだ。
答え合わせは存外早いもので、この漫画は少女が少女に恋をするジャンル、所謂『ガールズラブ』というものらしい。
そういえば、前回千束に借りた漫画の中にも作風は違えど、少女同士での恋仲を描いた風な作品があった。
あれはファンタジー世界が舞台で、その世界に生まれ変わった少女と、元々その世界にいた少女の出会いから始まったのだったか。
他にも借りていたのに、今日漫画を返しにいった時、その漫画だけ感想を聞かれたことを思い出す。
それと合わせて、千束がこの漫画をイチオシの一つとして勧めてきたことを考えると、今の千束はガールズラブ系の漫画に傾倒しているのだろうか。
判断を下すには、材料が些か少ない。
まあ、千束の好みは置いておくとして、今は読み始めたこの漫画を読み進めることに集中してみよう。 - 4二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 00:42:55
「おはようございます……」
「おっはよーたき、のわぁ……なにその顔……え、たきなマジで大丈夫? なんかあった?」
翌朝、リコリコで千束に会って早々に心配をされた。
原因は至って単純なもので、昨夜は一睡もせずに『白百合の塔』を読むことに熱中していたのだ。
その結果、今朝に鏡を覗いた時には眼球は真っ赤に充血し、目の下には大きな隈ができていた。
わたしとしたことが……まさかちょっとした興味で読み始めた漫画で、こんな体たらくを晒すことになるなんて。
ただ漫画の内容は興味深いもので、主人公が女子高に入学した初日、放課後に忘れ物を取りに入った校舎内の教室で、黒髪の先輩と目があって恋に落ちるというもの。
あの冒頭のシーンは、主人公の『白崎』が先輩の『黒江』に一目惚れをするシーンだったわけだ。
黒江は成績優秀な美人ながらも、口数が少なく気難しい性格や問題行動を繰り返すことから、学校内で孤立した存在。
白崎は明るい性格の女の子で、先輩の黒江と仲良くなりたい一心で、どれだけ冷たく突き放されてもめげずに黒江の近くにいようと、真っ直ぐひた向きに走り続ける。その頑張る白崎の姿に、月並みな言葉だが、胸を打たれた。
普段はこういった創作物に、心動かされるほどの感動を覚えることは滅多にないはずなのだが、なぜかこの『白百合の塔』は、主人公の白崎に甚く感情移入してしまったのだ。
「それでたきなが徹夜なんて、よっぽど気に入ってくれたみたいだねぇ。一睡もしてないとは思わなかったけど」
「こんなことで体調管理を怠るとは……リコリス失格です……」
「はははー、たきなも立派な不良リコリスかぁ」
休憩時間、そのことを千束に話したら笑われた。
不良が立派とは矛盾している。
たった一回のミスで勝手に不良にしないでほしい。不良だとして、その原因を作ったのは他の誰でもない、漫画を貸して寄越した千束のはずだ。
「でも徹夜で漫画読んでたのは、たきなの勝手じゃん?」 - 5二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 00:43:28
ぐうの音もでない。
キリのいいところで終わらせて寝て、翌日からの空いた時間に続きを読めばよかっただけの話。返却の期限も自由なのだし、ゆっくり読み進めてもよかったはずだ。
それでもあの漫画には……白崎には、何故かそれだけ心惹かれるなにかがあった。
そのなにかを上手く言語化することは、わたしには難しいのだけれど。
「……それでさ、どこまで読んだ?」
「今は五巻を読み終わったところですね」
「そうかー、まだそこかぁ」
まだ、ということは、この先に千束が読んでほしいシーンが待っている、ということだろうか。
五巻では、すっかり仲がよくなった二人だったが、上級生の黒江が東京から北海道まで、四泊の修学旅行へ行くことになり、二人が出会ってから初めて遠くに離れる事実に白崎がショックを受ける……というところで六巻に続くという話で締められた。
正直、たった四泊の旅行でそこまで衝撃を受けるという点ではあまり感情移入できなかったのだが、四巻までのストーリーでは二人はほとんどに同じコマにいるぐらいにはずっと一緒にいたことを考えると、きっと作中のタイムラインではもっと長い時間、一緒にいたことになるのだろう。
そしてこれは創作なのだから、ただ旅行に行って帰ってきておしまい、ではなくその間の二人の認識や関係性にフォーカスされるはずだ。
これまで白崎から黒江には、一目惚れから始まって内心に抱える情愛が少しずつ大きくなっていく描写が中心に描かれていたのに対して、黒江から白崎への心情はほとんど描かれていなかった。
そのせいか黒江の、人に従わない行動や言動には今一つ共感できなかったのだ。
この修学旅行編で、その内面が描写されるかもしれないと思うと、やはり続きが気になってしまう。 - 6二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 00:43:52
「ぅ……くぁ……」
「眠そうだねぇ」
「すみません……三十分ほど仮眠を取ります……」
「ん、はいはいどうぞどうぞ、起こしてあげるから」
千束は居ずまいを正し、自身の膝をぽんぽんと叩いている。一体なにをしているのだろう。
「たきなー、カモン、おいでー」
千束は笑顔で手をわきわき動かしながら手招きする。
ああ、これはつまり。
「一人で寝れますが」
「ツレないこというなよー! 三巻の膝枕のシーン見たでしょ!? めちゃくちゃ気持ち良さそうだったじゃん! 貸すよ! 膝貸すよぉ!」
千束が吠える。
そんな千束は余所に、壁に背中を預け目を閉じる。一睡もしていない影響はやはり大きいようで、喧しい千束の騒音もすぐに水の中のようにぼやけて聞こえなくなっていく。
窓から差す午後の柔らかな日差しを背に、意識は心地よい微睡みの中へと沈んでいった。 - 7二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 00:44:30
窓の外から教室へ、茜色の光が煌々と差し込んでいる。
鉄のパイプに取り付けられた木製の勉強机、日にちと日直だけが記された黒板、開けられた窓から吹き込む風に揺れるカーテン。
その窓際に立つ人影。
その身を包む白いセーラー服は、真白なカンバスのように周囲の色を映し、膝上丈の紺色のスカートは、はたはたと揺らめきながらその下に絹のような肌をちらりと覗かせる。
肩まで垂れた薄い金髪は、汚れなど知らないように外から差し込む茜を受け入れ、淡い桃色の輝きを放ちながら風に舞う。
美しい。
その綺麗な横顔に、ただ見惚れて立ち尽くす。
その人がこちらの気配に気付いたのか、振り向いて、視線が交わる。
胸元を飾る赤いスカーフは、一つ上の学年の証。
不思議そうな顔でこちらを見つめる瞳は、外から差し込む夕焼けの色と似ている。
ぺこり、頭を下げて挨拶する。
柔らかい微笑みが返ってくる。
耳に届くのは聞いたこともないような、華やかな音色。
あなたは?
わたしは……。
- 8二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 00:45:04
「………………」
くぅ、かぁ、
耳の横から聞こえる小さな音。
規則的なリズムが、覚めきらない眠気を刺激して、目を閉じたままもう一度眠りに落ちたい衝動に駆られる。
そういえばわたしは仮眠を取っていたのだと思いだし、まだ微睡んでいる意識を水の底から引き上げるように、肩に力を入れて壁に寄りかかった体を起き上がらせごつん。
「ぐ……」
そう強くはない衝撃だったが、眠りの淵から目を覚ますには十分な威力。
なにごとかと目蓋を開いて眼球だけを動かすと、視界の端に金色の糸がはらはらと垂れているのが見える。
意識がはっきりするにつれて次第、現在の状況を鮮明に理解していく。
「んん……たき、な……」
肩を合わせた隣で、千束が頭をこちらに寄りかからせて眠っている。いや、これは……わたしが寄りかかっているのか。
……どうやらそれも少し違うようで、わたしが千束の肩に、そこに上から千束の頭が被さるように寄りかかってきているようだった。
「はじめ……して」
一体どんな夢を見ているのか、わたしの名前を呼んで初対面の挨拶を交わしている。
初めて千束と出会った日のことを思い出して比べてみれば、あの騒々しさが嘘のように別人な大人しさに、自然と口の端が吊り上げるのを感じる。
まったく、わたしを起こしてくれるのではなかったのか。
「千束、もう休憩時間が終わりますよ」 - 9二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 00:45:24
そっと頭を押し返し、肩を揺すって声をかける。千束は「んお」という間抜けな声をあげながら目をぱちぱちさせている。
その頬を軽くぺちぺち叩いて今度は、もう閉店時間ですよと囁いてみると、「うぇ」なんて慌てておぼつかない足どりで立ち上がって、転びそうになる千束の体勢がそれ以上崩れないよう、腕を取ってしゃんと立ち上がらせる。
「おはようございます」
「お……? あー……わたし、ねちゃってたか……」
千束はようやく状況を理解してきたようで、ばつが悪そうに頭を掻いて目を背ける。
「やっぱり千束に目覚まし役は任せられませんね」
「うぅ~……だって、たきなが気持ち良さそうに寝てたからぁ……」
それがどうして添い寝に繋がるのか、問いただすには少々時間が押しているようで、いつまで寝てんだぁ、と部屋の外からミズキの怒鳴る声が聞こえてきた。
微かに乱れた店の制服を急いで正し、二人で急いで休憩室を後にした。
そういえば、ミズキは何故わたしたちが寝ていたと分かったのだろう……いつかの似たような経験は、わたしの記憶の引き出しからは、ついぞ取り出すことができなかった。 - 10二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 00:45:41
一旦ここまで
- 11二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 00:50:46
乙、光っすねぇ……
- 12二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 00:51:20
いい………
- 13二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 00:53:31
良き…
- 14二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 07:09:51
浄化される…
- 15二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 08:07:08
これはよいちさたきの匂い…
- 16二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 08:14:41
本編とは逆に千束の方から外堀を埋めに行ってますねクォレは……
- 17二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 13:56:00
昨日の失態を反省し、今日は徹夜すまいと就寝の準備を完璧に整えて、机の前に腰かける。
寝不足の状態では、仕事から帰ってもすぐ眠気に誘われてしまい、結果的に漫画を読む時間を得られなかった。
正しく娯楽を楽しむためにも、規則正しい生活リズムは必須。わたしはそれを学んだ。
就寝前に一冊、それ以降は明日。
このルールを守って、正しく楽しむ。
早速『白百合の塔』の六巻を手に取って、ページを開く。
相変わらず作者コメントは簡易的で、今回は自宅で飼っている猫の写真と、その猫が好きなオモチャだけ紹介されている。
あまり自分のことを語りたがらないタイプなのだろう。こういうところを読むのも、作者の個性が反映されていて案外面白いものだ。それが分かるのは、千束にいくつも漫画を貸してもらって文化に触れたからこそ。
わたしの知らなかったことを教えてくれる千束に小さく感謝をしつつ、単行本のページをめくり、もくじを確認し、前回の話の続きを読み進めていく。
修学旅行の間、黒江と離ればなれになることを嘆いた白崎は幾度となく電話やメールを繰り返して、黒江に軽く呆れられてしまっているシーンが描かれている。どれだけ仲がよくとも、電話が三十分に一度、というのは間違いなく迷惑だろう。
そんな頻度で電話をかけられればわたしだって怒る。
- 18二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 13:56:14
そんなわけで黒江は携帯の電源を切って、鞄に入れて放置してしまうのだが、それがまた白崎を暴走させる原因になってしまった。
修学旅行二日目、白崎は携帯の電源を切られたことで深く落ち込み、自宅で引き込もって塞ぎ混んでしまう。
これまでの二人の交流で、白崎は大きく黒江に依存していた。その存在は白崎の中で非常に大きく、こうして日常の生活に影響をきたす程に心の支えとなっていた。
一方で黒江も、一日のあいだ連絡を絶ったことで、これまでずっと着いて回ってきた白崎の存在からの解放感を覚えながらも、時には鬱陶しいとさえ思っていた白崎の不在に一抹の寂しさを胸に抱くという、今までにはない黒江の一面が描写されていた。
二人の関係は、初めの頃から友人のまま変わりはない。けれどその心境には、確かな変化が訪れていて、この旅行中の白崎の不在を通し、黒江が自らの変化を自覚していく。それが二人の恋愛模様に繋がってゆくのだろう。
そう思っていた矢先の次の回、わたしの予想は大きく外れることとなった。 - 19二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 13:56:37
「たきなさん、今日はすっきりしたお顔ですね~」
「だから言ったじゃないですか。不良ではありません」
「はーいはいはい、ごめんね~。たきながぐっすり眠れたのなら何より何より~」
はい、は一度でいい。申し訳なさを欠片も感じない謝罪に少しムッとしながら、着なれた群青の袖に腕を通す。
今回は徹夜も夜更かしもすることなく、きっかり予定通りの時間に就寝、起床を迎えることができた。
その分、漫画の続きは気になってしまうが、まあ時間はいくらでもある。そう焦って読み進めることもない。
「それで六巻までは読んだわけだ」
「ええ」
「どう? どうだった?」
「信じられませんね、学業を放棄して修学旅行先まで押し掛けるなんて」
休憩時間、いつものように千束と雑談を交わしながら、借りた漫画の感想を伝える。
そう、それが修学旅行編、後半の展開だった。
黒江にどうしても会いたくなった白崎は、学業をサボタージュするだけに留まらず、なにかを決心して失意の底から立ち直ったと思ったら、まさか翌日の朝一番に、新幹線とフェリーを乗り継いで東京から北海道まで黒江を追いかけていったのだ。
信じられない。
ただ会いに行くためにそこまでの時間や金銭、労力を考えれば、ただ数日待っているだけで会えるはずなのに。
白崎の全く合理的でない思考に、しかしわたしは、何故だか親近感を覚えた。
遠く離れた人に会いたい、側にいたい。
その為に塞がる障害など関係ないと、全て蹴散らしてみせると。
その白崎の留まらない感情の奔流は、理解まではできなくとも、わたしの心を打つことは確かにした。 - 20二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 13:57:03
「ふんふん……それで?」
「それで、とは?」
「いや、そんだけかなって……もっとこう、二人の関係性とか……なにかに似てるなぁ、とか」
「似てる、ですか……」
指を添えてしばし考える。
側にいたいと黒江を追いかける白崎。
そして黒江も、そんな白崎の無茶苦茶を「仕方のない子だ」で済ませて、自身に向けられる感情がただ事ではないことを理解しながらも甘んじて受け入れていた。
関係性が明確に発展したわけではなかったが、お互いにはお互いの存在が必要なのだと、認識を得るための話だった。
そんな二人に抱く既視感か……。
「特に思いつきませんね」
「あ、そう……」
今までに借りた漫画や映画の記憶、仕事で会った人やリコリコの常連客。
色々な記憶を引っ張り出してみたが、こんなに道理から外れた行動を起こす人間など、さっぱり覚えがない。
千束は不満げに、なにかぶつぶつと呟いている。そういうとこだぞ……とかなんとか。どういうところだろう。
結局、千束がなにに納得いかないのか分からないまま、その日の感想会はお開きとなった。 - 21二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 13:57:34
頭が柔らかな、枕とは違う心地のいい感触に、微かに沈みこむ感覚。
頬に触れるそれは繊維のような毛羽立つ荒さもなにも一切なく、つるつるとした肌触りと瑞々しく吸い付くような夢みたいな素材。
顔を押しつけるようにして息をすると、鼻腔いっぱいに如何とも表現し難い甘い匂いが広がって、心が満たされていくのを感じる。
甘えん坊だなぁ。
頭の上から響く声。
髪を梳くように触れる温かな指。
ああそうか、ここは誰かの膝の……太ももの上。
脚の谷間に鼻を埋めて息を吸えば、その人の匂いと感触で頭がいっぱいになる。
くすぐったいよ。
困ったような、呆れるような笑い声。
それでも、その人は甘えさせてくれる。受け止めてくれる。
そんなに、気に入った?
はい。と口で素直には言えず、頭を縦に振って意思表示をする。
髪を梳く指は相変わらず頭を撫でてくれて、その心地の良さにだんだん眠りに誘われ、意識がボヤけていく。
このまま眠ってしまいたい気持ちと、眠ってしまうのは勿体ない気持ち。
じゃあ、またしてあげるよ。
うとうとしながら眠気に抗う姿を見てか、そんな風に声をかけてくれる。
なら、今はその言葉に甘えよう。いつも甘えているけれど、今も甘えて。
身も心も、大好きなその人の全てに包まれながら、わたしは意識を手放した。
- 22二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 13:58:10
意識が覚醒する。
目覚めと同時、眠気も吹き飛ぶ。
夢を見ていた。
内容は思い出せないが、無性に恥ずかしくなるような、顔が熱くなる夢。
顔まで布団を被って、足元をばたばたと蹴り飛ばす。
んがぁーなどという情けない音が自分の口から沸き出る、初めての経験だった。 - 23二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 13:58:30
一旦これまで
- 24二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 15:27:49
うぽつ
心が穏やかになる… - 25二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 18:06:30
たきなは自分の行動には自覚がないタイプ
- 26二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 22:27:49
自分のした事ナチュラルに棚に上げてそれに気づいてないあたり最高にたきな
- 27二次元好きの匿名さん22/09/28(水) 22:28:52
百合漫画のキャラに自己投影する千束は乙女だな…
- 28二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 05:55:34
夢の中で甘えん坊たきなはいい…
- 29二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 10:27:39
今日も今日とて、千束に漫画の感想を語る時間が訪れた。
七巻の内容は白崎が誕生日を迎えることと、黒江の家に泊まりに行くという話だった。
黒江は他人の誕生日を祝ったことがなく、どうやって祝えばいいのか一人悶々と悩みながら、最後にはプレゼントを用意できずに謝りにいくのだが、白崎は自分のために悩んでくれたことと、お祝いの言葉が貰えたことが嬉しいのだとそれを笑って許し、一緒にプレゼントを買いに行くという話。
自分へのプレゼントを一緒に選ぶ、というのも不思議な気がするが、プレゼントそのものよりも気持ちが嬉しい、ということが大切なのだろう。
以前、千束の誕生日を祝った時に、わたしも物より気持ちを選んだ。昔のわたしなら、きっと選ばなかった贈り物。
あの時の千束の顔は、今でも鮮明に覚えている。
「ぁあったねぇそんなことも。あのプレゼントはね、めっっっ……ちゃ嬉しかった!」
「それは、よかったです」
「たきなの誕生日にも、今度とっておきを用意するから、楽しみに待ってて!」
「分かりました、期待してますね」
「……話ずれてない?」
- 30二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 10:28:01
そうだった。
今は『白百合の塔』の話をしていたのだ。
宿泊の話は、四巻の時点で一度あった。
その時は黒江が白崎の家に泊まるという逆のパターンだったが、夜の外出中に雨に濡れて着替えがない黒江を泊めるという、やむを得ない事情での宿泊だった。
それが今回は全く違う理由。
単純に白崎が泊まりに行きたいというだけの理由。宿泊を通して、黒江との距離を縮めたいという下心で構成された。
秋の修学旅行を終えたのち、冬休みの連休を利用した連泊を目論む白崎の想いを、やはり黒江は受け入れて抱き止める。
修学旅行の一件も踏まえると、白崎を連泊させるというのはもう、懐が深いとかいう言葉では済まされないと思う。
ただ、黒江も自分には白崎が必要だと考えるようになってから、連休中に会えない時間が増えることへの不安感を無意識に募らせていたことで、二人の距離は大きくた近づいていたのだということが分かった。
しかしここまでお互いに依存していると、色々と不便なことの方が勝ってきてしまうのではないだろうかという考えも浮かぶ。
常に傍にいるのが当たり前だという思考は、危険ではないだろうか。
もしもまた、今度は修学旅行などではなく、もっと別の理由で本当に離ればなれになってしまったら……その時、二人はどうするのだろう。 - 31二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 10:28:22
「それは……どうなるんだろうね」
「もっと視野を広く持って交流を広げるべきです。普通なら」
「普通ならそうかもね。でも漫画だし、もしそれぐらい好きになられたら、やっぱり嬉しいんじゃないかな」
そういうものだろうか。
相手の存在に縛られ過ぎていて、他のことが疎かになってしまう。
ともすれば、二人以外の人間関係さえも犠牲にしかねない、危うい橋。
「だからだよ、そんな二人でしかいられない世界って、なんかロマンチックだと思わない!?」
「思いません」
「えぇ~……もっと夢を持とうよぉ……」
「夢ならあります、わたしの夢は」
「それはもういい」
夢を持てと言ってきたのは千束の方なのに。
時間を確かめると休憩の終わりが近づいていた。
立ち上がって制服の襟を整える。
「さ、戻りますよ」
「ほーい、気合い入れますか~!」
千束はぐっと伸びをして自分のお尻を叩く。
わたしの方まで叩いてこようとしたその手を叩き落として、業務に戻るのだった。 - 32二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 10:29:08
いない。
いない、いない、どこにもいない。
あの人が、消えた。
どうして、なんで、また、わたしの前から。
連絡を受けて急ぎ駆けつけたわたしを待っていたのは、もぬけの殻となった病室のベッド。
その場にいた誰の言葉を聞くこともなく、即座に踵を返して病院から飛び出した。
心当たりのある所を転がるようにして駆けずり回る。
幼稚園、組の事務所、日本語教室。
思い出を探って、心当たりを引きずり出す。
カフェ、洋服店、水族館、公園……。
脚の筋肉が千切れそうだと悲鳴を上げても、そんなものは無視して脚を回し続ける。
日が暮れる東京中を駆けた。
日が暮れてもひたすらに走り回った。
心当たりのない土地も、見たことのない場所も、止まることなくわたしは探し続けた。
やっと、助かったと思ったのに。
やっと、一緒にいられると思ったのに。
馬鹿、バカ、ばか。
顎が浮いて、脇腹がきりきりと痛み、呼吸が乱れて、足がもつれる。
とうとう意思に反して動かなくなった脚は、コンクリートに膝から崩れ落ちてごきんと嫌な悲鳴を上げる。
そのまま倒れる体を支えることも出来ず、無様に顔から地面に落ちていく。
どこにも、千束がいない。
書き置きの一つだって残さないで。
相棒だと言ってくれた、わたしを置いて。
悔しくて、悲しくて、寂しくて……。
固く冷たい地面に倒れ伏したまま、わたしは……わたしは声をあげて……。
わたしは激怒した。 - 33二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 10:29:38
寝覚めは最悪の気分だった。
あの日の夢が、今になってどうしてわたしの中に現れたのか。
目元を拭うと、手の甲に小さな水滴がつく。
もうとっくに忘れたものだったと思ったのに。
あれから何週間もの間、千束の手がかりを探して、探し回って、ようやく手に入れたのは、クルミがネット上で見つけた一枚の画像。
いつかわたしが千束と一緒に護衛を引き受けた女性とその交際相手を写したもの。
かつてはその背後に写してはならないものを写してしまったことが、狙われる原因になった。
今度はその背後に写したものこそが、わたしが探し求めていた、大馬鹿女。
逃げ出した千束を捕まえに、わざわざ東京から沖縄の宮古島まで飛んでいったのだ。
いくら東京周辺を探しても見つからなかったはずだと、内心でいくらか悪態をついた。
そんな千束とも、今はこうして共に過ごしながら、千束がいる当たり前の日常を享受することができている。
この当たり前の日々と、それを守ってくれたあの人に目を閉じて感謝しながら。ついでに、生きていてくれた千束にも。 - 34二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 10:30:12
「なーんか今日のたきなご機嫌ななめ?」
「そうですかね」
「そうだねぇ」
「じゃあ千束のせい、とだけ」
「マジ、私なんかしちゃった?」
「あえて言うなら、いつもしてますね」
わからん、と千束は頭を抱えて唸る。
今朝みた夢のせい、だなんて理不尽なことだとは分かっていても、元々を辿ればやはり千束が悪いことには変わりないのだし、しばらくそのまま悩んでいてもらおう。
しかしなぜ今さらになって、あの夢を見たのだろう。
人が夢を見る理由は諸説あるが、睡眠中に脳が記憶の整理をするためだと一般にはよく言われている。
直近の記憶から過去の記憶を結びつけ、それが映像となって脳内に流れるものが、人の見る『夢』ということらしい。
つまり最近の出来事の中に、あの記憶と繋がるようなことがあった……ってコトなのだろうか。
最近の記憶であの出来事と繋がりそうなこと……なにか心当たりがあるだろうか。頭を捻って記憶をこねくり回す。
……。
…………。
………………。
思い当たる節は、ない。
大事なものを無くした覚えも、走り回ったことも倒れるようなことも、激怒というほど感情が昂ったことも記憶にない。
では一体なにが、あの時の記憶を刺激したのだろうか。
夢という無意識に近い領域を思考で探り、正解を見つけるというのは至難の技だ。
正直、あまり深く考える必要はないのかもしれない。あくまでも過去の記憶と結び付いたというだけで、最近の記憶の方はわたしが思うほど重大なことではないのかもしれない。 - 35二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 10:30:41
「そういえば七巻はどうだったー?」
「え? ああ……そうですね」
考えるのを放棄したのであろう千束は、暇そうに足をぱたぱた泳がせている。
七巻の感想か。
全体的には暗い話の巻だった。
黒江はある日、校舎裏で話している女子生徒の声を聞いてしまう。その内容が「白崎さんって黒江さんに距離近いよね」「そっちの人なんじゃない?」「それって正直さ……」……。
その後に続く言葉を聞いた黒江は、陰口を叩いていたその生徒たちに殴り掛かり、暴力沙汰になってしまった。
幸いというべきか、相手の怪我は大したことはなかったものの、黒江はしばしの謹慎処分を言い渡される。
それでも陰口の内容は、教師にも白崎にも、誰にも言うべきではないと判断し、暴力を振るった理由を説明せずに一人でこの問題を抱えてしまうのだった。
その日以来、殴られた生徒が流した黒江に対する悪い噂が広まり、謹慎明け後の黒江はますます周囲から孤立した存在になって、嫌がらせまでされるようになってしまう。
黒江は自分の側にいると白崎まで嫌がらせの対象になってしまうことを恐れて、距離を取るようになった。
そして、それを知って黙っていないのが白崎だった。
学校の中庭で、他の生徒たちが大勢見ている前で堂々と、落ち込む黒江を抱き締めて励ましたのだ。黒江は暴力事件の真相を話し、こんなことをすれば嫌がらせに巻き込まれてしまうと、距離を置くように説得する。
白崎はそれでも構うものかと、大勢の前で「黒江が大好きだ」と笑顔で告白をした。
その告白を受けて、涙を流す黒江を再び抱き締めて、二人は結ばれる。
公に関係を示したことで、翌日からもそんな二人を揶揄する声は聞こえるが、直接的な嫌がらせにも堂々と手を繋ぐ二人の姿に、事情を知らず噂しか聞いていなかった人たちは理解を示し始め、中には応援する人も出てきて、次第に嫌がらせの数は減っていった。
明確に変わった二人の関係性と、その二人に影響を受けて変わる周囲の人たち。
二人だけの世界が描かれてきた作品で、二人の周囲から与えられた理不尽と、それに飲まれながら抗いながら、幸せを掴んだ二人。
救われてよかった、報われてよかったと、ただただ思った。 - 36二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 10:31:32
「確かに暗かったかもだけど、私は一番好きな話だったなぁ。落としてからの最後に逆転展開はやっぱ燃えるでしょ」
「谷を作ってから山場を作るのはシナリオの基本ですね。それは同意見です」
「でっしょ~? たきなも分かってくれて嬉しいよ」
「それで、話の続きなんですが、調べたら刊行されてるのは九巻までなのに、千束から借りた中には七巻までしか入ってませんでした」
「あ、あ~……うん、そう、だったかな? ははは」
露骨に白々しい。
千束の反応からすると、知らなかったとか買っていないという訳ではなさそうだ。
話のキリとしては付き合って終わり、でも成立するのだが、続きがあるのなら見ない理由というのも特にないし、単純に二人の今後は気になる。
恋愛作品はものによっては付き合い始めてからは物語が失速するという評価は散見されるが、それを恐れて続きを読まないのは勿体ない。
「今度、読んだ分を返しに行くついでに、続きを読みに行っても構いませんか?」
「うぇ!? え、っとぉ……まぁ、いい……んだけどもぉ……」
「……?」
先程から千束の態度が妙だ。
歯切れが悪く判然としない。
なにか都合の悪いことでもあるのだろうか。まあ、それならそれで自分で買って読むだけだが。
そもそも本来ならば、借りるよりもそうすべきなのだろうし。 - 37二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 10:31:53
「駄目じゃ、ないんだけど……うん、来ても、いい……よ」
「そんなに嫌なら無理にとは言いませんが……」
「嫌じゃない! 全っ然嫌じゃない! んだけど、ね……」
「なにか理由があるなら……」
「んん~……! まあ、いっか……どうせ気づいてないし……」
結局、千束の態度はよくわからない。
ただ、嫌だったり迷惑だということではないらしいので、後日に千束の部屋へ訪れる約束をして、その日の休憩時間を終えた。 - 38二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 10:32:09
一旦ここまでです
- 39二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 11:16:14
解像度の高いちさたき最&高
- 40二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 17:47:36
走れ正直者の出だしは
「わたしは激怒した」だな - 41二次元好きの匿名さん22/09/29(木) 22:00:20
保守
- 42二次元好きの匿名さん22/09/30(金) 07:34:32
保守
- 43二次元好きの匿名さん22/09/30(金) 17:46:54
保守
キリのいいところがないので終わってからまとめて投下予定です - 44二次元好きの匿名さん22/09/30(金) 18:39:06
ほしゅ
- 45二次元好きの匿名さん22/10/01(土) 00:40:02
ほしゅ
- 46二次元好きの匿名さん22/10/01(土) 08:46:42
保守
- 47二次元好きの匿名さん22/10/01(土) 12:03:41
待ってるよ
- 48二次元好きの匿名さん22/10/01(土) 15:24:09
保守
まってます - 49二次元好きの匿名さん22/10/01(土) 17:34:53
千束に逃げられたときのたきなの反応が自分の想像してたのと一致しすぎて感動した
たきなはあそこ辛かっただろうな - 50二次元好きの匿名さん22/10/01(土) 23:56:16
14話見て待ってます
- 51二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 08:33:37
保守。待ってます。
- 52二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:23:49
独りでいることは辛いことではなかった。誰にも気を遣わないで済むし、誰かに踏み込まれることもない。
独りでいることを孤独だとは思わなかった。人は誰しも他人でしかないから。
わたしにとって繋がりは、わたしに居場所をくれた人と、その場所だけだった。
二人でいることが嬉しいことになった。いつからそう思うようになったのかは分からない。
気づけば一人でいることが少なくなっていた。他人と一緒にいることに安心感を覚えるようになっていた。
わたしにとってその繋がりが、わたしに居場所をくれたその人が、わたしの居場所になっていた。
いつもそこにいる、一緒にいる。
当たり前で、かけがえのない日常。
二人を知って、独りが怖くなった。
生きていてほしかった。
なにもできなかった。
理不尽を受け入れられなくても、それでも受け入れることしかできなかった。わたしがどれだけ全力を尽くしても、わたしが無力では意味などなかった。
いいことなんて、なにもなかった。
そう思った。
それでも、その人は今、生きている。
わたしがいたからだと、言ってくれた人たちがいた。無力ではないと、教えてくれた。
全力で頑張って、いいことがあって、嬉しいことが沢山あって、少しだけ、本当に少しだけ、涙が出た。
二人よりも、もっと沢山の繋がりができた。
その人がくれた居場所で、わたしは沢山の他人との繋がりを知った。
大事なものが沢山できて大変だった。
悲しくて、憎くて、寂しくて、嬉しくて、怒って、また嬉しくて。
その大変さが、今では愛おしくて。
独りにはもうなりたくない。独りにはさせたくない。
つまらない理由でどこまでも逃げるその人を、わたしはどこまでだって追いかけて、追いついてみせる。
わたしと、わたしたちと。
誰がなにをしてきても、誰がなにを言ってきても構いやしない。
わたしたちは、わたしは。
千束が、大好きだ。
- 53二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:24:33
目が覚めてから、天井を見つめて何分くらい経ったのだろう。
ぼけっとしながらただずっと固まってこうしている。
夢を見ていた。
内容は今でもはっきりと思い出せる、無性に懐かしくなるような、目頭が熱くなる夢。
千束め。
やっと繋がった、過去の記憶と今の記憶。
ああそうか、なるほどな、と。
いつからなのかは、具体的には分からない。でも、もしそうなのだとしたら……いつからだとはっきりした日時を決めろと言われたのなら、それはきっと……多分、間違いなく、絶対、あの日あの時あの場所。
みんなの前で抱き上げられた、あの噴水の前。
誰の声も跳ね返すその人に
孤独さえ飲み込むその光に
わたしは、その日
恋をした - 54二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:25:08
「いらっしゃーい」
「お邪魔します」
借りていた漫画を返しついでに、千束の部屋に遊びにくる約束の日。
千束は相変わらずの部屋着と短くまとめたツインテール姿で出迎えてくれた。人がくる時くらい、着替えたらいいのに。
先日はあれだけ渋っていた千束だったが、こうして来てみればいつものように歯を見せてにこやかに笑う千束の顔が見られる。
胸の中に光が射すような、向日葵のように眩しく咲く笑顔。
この笑顔にわたしは……恋を、しているのか……そう思うと、途端に顔がかあっと熱くなる。
きっと赤くなっている顔を隠すように、少しだけ頭を下げて玄関を跨いだ。
「どうするー? 漫画読む? 映画見る?」
「千束はなにかしたいことはないんですか?」
コーヒーを淹れる千束を尻目に、借りていた漫画を纏めていた紙袋から取り出し、本棚に並べて戻していく。
その棚の中には『白百合の塔』の八巻とか九巻もちゃんと揃えられていて、やはりあの態度は貸し出す本の中から意図的に抜いてあったのだと察することができた。
漫画の続きも気になるところだが、まあ後に回しても、読み終えるだけの時間は充分にある。
遊びに来て早々に一人で漫画を読んでいるというのも、なにかそれだけが目的みたいで申し訳ない。
「うーん……じゃあ膝枕ごっことかどう?」
「はい?」
「ほら、この前のリコリコの休憩中にはさ、膝枕しなかったじゃん? 今日は一日ゆっくりだから、膝枕でごろごろしながら映画でも見るのはどうかなーって」
「ごっこなんですか、それって」
「まぁまぁまぁ細かいことはいいのよ!」
「寝転がってたらコーヒー飲めませんよ」
「飲む時だけ起きればいいし」
「それはまあ……まあいいですけど」 - 55二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:25:37
そこまで膝枕に拘る理由は分からないが、千束がそうまでしたいのなら、こちらも意固地になって断る理由もないのだし付き合ってもいいだろう。
やったー、と小さくガッツポーズをする千束を見て、可愛いなと内心で呟く。
千束の何気ない一挙一動をこんな風に思うのは、千束への恋心を自覚したからなのだろうか。
別段、千束が特別な挙動をしたわけではなく、普段からこんなものなのだから、やはりわたしの方が変わったのか。
一方的にこんな風に思わされるのは、悔しい。あとで仕返しをしてやろうと決めた。
「どーれーにーしよっかなー♪ たきなは観たいのとかあるー?」
「千束に任せます」
「おっけー! よーし、久しぶりにこいつだぁ」
千束はディスクを機械にセットすると、ソファに座る私の横でごろんと寝転がる。
「あれ、わたしが膝枕するんですか?」
「ん? あ、たきなしてほしかった?」
「いえ、どっちでもいいです」
「じゃあこのままでー」
太ももにずしっと重みが増す。
以前は千束が膝枕する側をやりたがっていたので、てっきり今回もそうなのかと思っていた。
千束はしっくりこないのか、何度か頭の位置を調整しながらぽちぽちとリモコンでテレビ画面を操作する。
「おっ、これは結構……」
「なんです?」
「いやぁ、たきなの太もも、いいなぁって」
「いいんですか? なにが?」
「ふふふー、千束専用の枕に♡」 - 56二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:25:58
茜色の双眸がこちらを見上げて、にやけている。
千束の言葉と、その楽しげな表情に何となく気恥ずかしさを覚えて、顔の熱さを誤魔化すためにぺちっと千束の顔に手を当てて視界を遮った。
なにすんだよーという言葉は聞き流し、始まった映画の本編映像へと視線を移して、意識の切り替えを図る。
雨の中、作業着の男たちが生き物を入れた檻を運んでいる。相当に狂暴な生き物らしく、爪らしきものが鉄製の檻を引き裂いて、一人の作業員の足に引っ掛かり引きずられていく。複数人がかりで引っ張って助けようとするも、圧倒的な力になす術もなく男が襲われて……そんなモンスターパニックのお手本のような導入。
手元でもぞもぞ動く気配は、千束が顔を横に戻して画面の方を向いたようで、さらさらとした髪の感触が指に触れて心地いい。
思わず手を動かして、その髪を摘まむようにして撫でる。
「…………」
「…………」
千束から特に反応はない、のでそのまま撫で続けてみる。髪は一切絡まることなく、枝毛一つない毛先がはらりと指の間をすり抜けて落ちる。
するする、はらはら。
癖になりそう。
気づくと、映画を見ながら何十分も無心で千束を撫でていたようで、普段は「このシーンが好き」「あの役が好き」と話ながら鑑賞する千束がいやに大人しかった。
少し画面から目を離して千束に目をやると、髪の隙間から覗いている耳が、若干だが朱みを帯びているように見えるのは気のせいではないだろう。
ただ、今はそのことに触れないでおく。
結局わたしは映画を見終えるまでの間、千束の髪を撫で続けた。 - 57二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:26:21
「ふぁ……ぁあ~」
「寝てたんですか」
「あはぁ、たきなの膝枕が気持ちよくってさ……寝落ちしちゃった」
いつから寝ていたのか、本編が終わったあとも足の上から動かないのでどうしたのかと思えば、すぅすぅと寝息を立てている千束がいた。
そのまま寝かせていても構わなかったのだが、なにもしないでいるよりは、気になっていた『白百合の塔』の続きを読みたくなった。
本を取りに行くのに千束を起こさないよう、そっと動いたつもりだったが、頭を足から降ろしたところで目が覚めてしまったようだ。
それならそれで、映画の感想や評論に花を咲かせることとした。
「だから私は思うわけよ、もっと恐竜たちにバクバク食べられるシーンが必要だと」
「シリーズが進むに連れて、捕食されるのは恐竜を利用した悪人になり、恐竜はヒロイック的な存在として描かれていくようになっています。全体の捕食シーンが減るのは仕方のないことだと思います」
「でもさあ、やっぱりモンスターパニックの醍醐味は人が無差別に襲われるシーンなわけよ、そこを削っちゃあ恐竜の恐怖感まで削れちゃうじゃん?」
こういう時、千束とはいつも意見が一致しない。
わたしたちは根本から、物事を見る方向性が違っていて噛み合っていないのだろう。
でも、それを不思議と悪いことだとは思わない。
千束とこうやって意見を並べてぶつけ合える時間は、わたしにとってとても有意義で楽しい時間だ。
話は逸れて別の映画への評論にも及び、気がつけば一時間ほど話し合っていた。 - 58二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:26:56
「おっと、盛り上がったねぇ」
「千束がどんどん話題を広げるからです。議題を一つずつ片付ければここまで時間は……」
「はーいはいはい、わかってますよー。んじゃあちょいと休憩ってことでー」
千束はそう言って立ち上がり、トイレへと歩いていく。
手持ち無沙汰になり、今度こそ本棚へと手を伸ばして『白百合の塔』の続きを手に取ってページを開く。
部屋主の許可は取らなくとも、このぐらいのことは平気なくらいには通い慣れている。
相変わらず簡素な作者コメントと目次に目を通し、前巻からの続きを読み始める。
告白の後、付き合い始めた二人と周囲の変化、それがどういうストーリーになっていくのか。付き合うまでが主題だったストーリーが、付き合い始めた後にどんな話になるのか。
ページをめくって確かめる。
開幕、舞台はあれから数年後~……ということもなく、また普段の学校生活から始まる。
前回の告白から周囲の態度も軟化し、二人は平穏な学校生活に戻り、日常を追うか謳歌している。
しかしそれだけでは漫画のストーリーとしては成り立たない。なにか変化があるはずだが、もう少し読み進めてみればわかるだろう。
白崎と黒江は休憩時間に、校舎の屋上へと繋がる、人気のない階段で、
「あ、」
「ああ、千束。勝手に読ませてもらってますよ」
「ん、うん、まあ……どうぞ」
トイレから戻った千束に、単行本の表紙を見せて漫画を借りていることを知らせる。
先ほどまで普通に話していたのに『白百合の塔』のこととなると、相変わらずもごもごして歯切れが悪くなる。
その理由は、もう察しはついているのだが。
先ほど一方的に照れさせられた仕返しの時だ。
「これ、わたし達ですよね」 - 59二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:27:31
本の表紙を指差して言う。
千束が口をあんぐり開けて目を見開いて、しばしの沈黙。
その顔はみるみる内に茹で蛸のようぽっぽと赤く染まり、浮いた手がわなわなと震えている。
確信を得た。
この反応ではっきりと。
千束はこの漫画の主人公二人に、わたしと千束を重ねて見ていたのだ。
黒の長髪と色素の薄いボブは確かに、最初から既視感はあったのだが、振り返って考えてみると、引っ掛かる部分がいくつかあった。
それは漫画にも、千束の態度にも。
白崎が北海道まで黒江を追いかけたシーンは、わたしも千束を追って沖縄まで追っていった行動と合致しないでもない。千束が病院から逃げ出した日の夢を見たのは、きっとこのシーンがわたしの以前の記憶と結び付いたのだろう。
もっとも、わたしと結び付くのは、あとは黒江の外見くらいしか思い当たらないが、白崎の他の行動や言動は、千束といくらか重なる場面もあった。
それから千束の態度。
リコリコでの休憩時間中に感想を語る中で、
『いや、そんだけかなって……もっとこう、二人の関係性とか……なにかに似てるなぁ、とか』
そんなことを聞かれたことがあったのを思い出す。
千束はわたしにも、この二人を重ね合わせてほしかったのだろう。
なんだってそんなことを、というのはまだ分からないが。
推測するなら、千束のことだし「ただ自分たちに似ていて嬉しかった」くらいのことで、それを共有したかっただけ、とか。ありえる。
なにせ千束の方から似ているんじゃないかとアピールしてきていたのだし。
それだけに気になるのは、どうして八巻以降は貸してくれなかったのかということだが。
この先の展開はあまりわたし達の行動や言動を想起させる話は無かった、とか。
それを貸さない理由とするのは無理があるか。やはりこの目で確かめてみないことには分からない。
固まっている千束は置いておいて、漫画の続きを読むために視線を落とし - 60二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:27:52
「ちょちょちょちょちょい! たきな気づいてなかったんじゃないの!?」
「なにがです?」
「いや、その、私たちって……」
「ああ、本当にごく最近」
「おーぅおーおー……それならそう……ちょおっとその巻の続き読むのは待ってもらってぇ……」
「どうしてですか? 話の続きが、わたし気になります」
「あ、ちょっ……」
ページを捲って続きを
「…………」
「……た、たきな?」
確かめた。
校舎の屋上へ続く、人気のない階段。
そこで白崎と黒江は見つめあい。
「……これ、わたし達ですか?」
「…………ぁえっと……」
開いたページを千束に向ける。
そこには、恋仲となった二人が、口づけを交わすシーンが描かれていた。 - 61二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:28:30
気まずい沈黙が場を支配する。
どうしてこんなことになったのかと言えば、間違いなく私の責任。
この漫画を最初に見つけた時には、外見が似てるなぁ程度の感想だったのだが、興味本位で読んでみれば、思いのほか感情移入……いや、自己投影してしまい、すっかり二人の世界に入り込んでしまった。
孤立しがちな黒江にぺたぺた懐いてくっつく白崎。
なんだか自分とたきなを客観的に見ているようで、少し恥ずかしかったけど、まるで思い出を辿っているようで、たきなにもそんな気持ちを共有してもらえたらなぁった思っていた。
ところどころ、行動が私たちとはちぐはぐになっているけれど、そもそも漫画のキャラクターが似ているってだけのことだし、出来事が似ているってことの方が大事な気もするし、今度たきなに貸してあげようと思いながら読んでいた。
だが、それも後半まで読み進めると、躊躇するものになっていった。
そもそもの題材が恋愛なのだから、告白があるのはまあ当然のことだし、最初から「恋をした」と始まっている物語だし。
でも、自分たちに重ね合わせていたキャラクターが実際に、キスまでしている場面まで見てしまったら、それを自分たちの姿で想像してしまい、何度一人で妄想に耽ったことか。 - 62二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:29:04
考えてみれば、恋人になればキスぐらいするものだろうし、さらに読み進めればその先の関係までも意識する二人が描写される。その先は、さすがに直接的な描写こそないが。
だから、この漫画を貸して自分たちを当てはめてほしい、ということは『そういう』関係を自分たちにも当てはめてしまうことに繋がってしまう。
元々がラブロマンスなら、告白までなら自然で当たり前の展開で、そこで切ってしまえば深く意識はしなかったけど、その先まで見てしまえば否が応でも意識してしまう。
私がたきなと共有したかったのは、白崎と黒江の性格や行動が、私たちと似ていたことによる自己投影感であって、二人の恋愛模様を私たちに重ねたかったわけではない。ないのだ、決して。
だから、続きは貸さなかった。
でも、たきなにはあまり自己投影できていなかったようで、なにか似てないかなーなんて直接的に聞いた時にも、全然ピンときていなかったようだった。
なんだか一人で盛り上がっているみたいで、ちょっとショックだったし、でもたきなはそういうとこあるし、とそれも一人で納得した。
だから続きを読みたいと言ってきたことにも、まあいいかと思っていたのに、それが今さらになって、どうして。
「これ、わたし達ですよね」
「……これ、わたし達ですか?」
待ってよ。待って。
私が、この二人が私たちに似てないかなぁってアピールしても気付かなかった癖に。
私は、この二人に私たちを重ね合わせてほしいってアピールをしてしまったのに。
これじゃあ、それじゃあまるで……。
私が。
「千束は」
「キス、したいんですか?」
……それは、正直したいけど。 - 63二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:29:32
返事は無かった。
というより、できなかったのだと思う。
もはや茹で蛸よりも赤く染まったまま固まる千束。ここで立ったまま、のぼせるんじゃないかと心配になる。
この漫画の……『白百合の塔』の二人の関係性にわたし達の関係性を見出だしているのなら、その逆にわたし達の関係性にも、この二人を関係性を重ねているのかもしれない。
そう思った。
案の定、なのだろう。
千束はもはや糸の切れた人形のように、両腕をだらりとぶら下げて項垂れている。
今にも倒れるんじゃないかというくらいに体をふらふらさせて、わたしから少し離れた位置に座って「ぅあぁ……」なんて小さく呻く。
そうか。
千束は、わたしとキスがしたいのか。
それは、その以前に、キスをするような関係になりたいということか。
つまり、千束もわたしのことを……。
「…………」
とりあえず、漫画の続きを読む。
「ちょおーいおい! なに普通に漫画読んでんの!? メンタルどうなってんの!」
「だって続きが」
「それより先に話すこととか! 私に聞きたいこととかないの!?」
「落ち込んでるようだったので、後にしようかと」
「はーお気遣いどうも!? でも今はこっち優先してほしいしそれ以上続き読まないでほしいから!」 - 64二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:30:10
千束ががばっと顔を上げて猛抗議してくる。
続きを読まれるのは困るのか。それはますます気になる。
この先なにがあるのが、千束はなにをわたし達に重ねたのか。
わたしが千束を好きだと自覚して、千束はなぜラブストーリーの主役二人にわたし達を重ねたのかを知りたくて、その答えが今ここにある。
高鳴る鼓動に従って、ストーリー展開を読み飛ばし二人の行動の行く末を
「やーめーろぉ~!」
「ちょっ、なにするんですか!」
「見ないでぇ! 人を暴くように見るなぁ!」
千束が腕にしがみついて妨害してくる。
なんという力か、振りほどこうにも振りほどけない。伊達に最強と呼ばれるリコリスではない。
あまり力を入れるのも、手に持っている本を痛める可能性もあるので、腕だけでなく足も使ってなんとか千束を引き離せないか試みる。
自分の腕としがみつく千束の間に膝を入れて押し返すが、駄目。むしろ足ごと固定されて余計に力が入れにくい体勢になってしまう。
「離してくださいぃ!」
「いやだぁ~!」
「なんで見ちゃ駄目なんですか!」
「駄目なものは駄目なの!」
「じゃあなんでこの漫画貸したんです!?」
「途中までで終わりだから!」
「終わってません! 続きを読ませてください!」
「うおぉ~……やめろぉ……!」
ぎりぎりと腕が締めつけられる。
こんなに必死になって、一体なにがマズイというのか。
千束はキスのシーンを指摘されて真っ赤になっていた。図星だったはずだ。
ならこの先にもまだわたし達を重ねてしたいことが描かれているはずだ。
それを知る権利がわたしにはある。
だってわたしは、千束のことが、 - 65二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:30:38
「千束は……! なんでこの二人のことをわたしに見せたんです!?」
「だって……似てると、思ってぇ……!」
「それは分かりました! わたしもそう思います! なんで続きを読んじゃ駄目なんですか!」
「分かったなら尚更だめぇ……」
「キスは駄目なんですか」
「うっ……」
一瞬、千束の手から力が緩み、その隙をついて千束の拘束から逃れる。
千束はそれ以上追い縋ってくることはせず、唇を尖らせてしゅんと項垂れた。
「なんでキスは駄目なんですか」
「だって……」
「なんです」
「…………似てるのに、そういう関係の漫画を見せるのって……意識してるみたいで……」
「そもそも最初から恋愛ものじゃないですか。貸す時点で意識してるんじゃないですか?」
「ぅぐ……で、でもそれは……付き合うまでの話なら、セーフ、的な」
「……基準がよく分かりませんね」
ようやく諦めたのか、千束はもじもじしながら質問に答えはじめる。
わたしとしては、千束が白崎と黒江の関係性にわたし達を当てはめていることが、ただ外見や性格だけでなく、恋愛関係への期待も含めてわたしに見せてきたのだとしたら、それは……喜ばしいことなのだが。
これまでの態度からも、きっとそういうことなのだと思って「これ、わたし達ですよね」と揺さぶってみれば分かりやすく赤くなって。
だからきっと、千束もわたしのことを少なからず意識の中にはおいてくれているのだと思って、それで満足していたのだが……。
その後に見た、白崎と黒江のキスシーン。
正直これを見たせいで、わたしの中でも少し感情と情報の整理が追いついていなかった。
だから聞いたのだ「キス、したいんですか?」と。
返事こそなかったが、その時の千束の反応を見れば、答えは一目瞭然だった。 - 66二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:31:07
「それで、キス、したいんですか?」
「…………」
再度の問いかけ。
千束は俯いたまま答えない。
「わたしのことを……恋愛対象として、見ているんですか?」
もっと、直接的に切り込む。
こうでもしなければ、きっと千束は答えない。
「たきなは……」
「はい」
「たきなは、どうなの……?」
「……なにがです?」
「私のこと」
それは、どう思っているのか、ということか。
そういえば、わたしは千束を好きだと自覚はしたが、それを伝えてはいなかったと、思い至る。
ああ、なるほど。
それでは千束が一方的に感情を暴かれているようなものか。
わたしが千束をどう思っているのかも、千束は知らないから、それが一方通行でないかと不安も感じているのかもしれない。
それは、申し訳ないことをした。
わたしも少し気持ちが昂って、千束の気持ちにまで気が回らなかった。
ならば当然、答えは決まっている。
「わたしは、好き、ですよ、千束のこと」
「……え?」
「千束がしたいなら、キス、だって……したいと、思いますし……」
「……ほんと?」 - 67二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:31:33
いざ言葉にすると、想像以上に恥ずかしい。スムーズに言葉にならず、途切れ途切れにつかえてしまう。
それでも千束の耳にはしっかり届いたようで、千束は顔を上げて、驚きと喜びの入り交じった表情で目をきらきらと輝かせる。
ただその表情を見つめているだけできゅうっと胸が苦しくなる。なんたる愛らしさだろう。
顔が熱くなっていくのを感じる。
正面から目を合わせていられなくなり、堪らず顔を背けてしまう。
「ええ……千束と、特別な関係、というのも……悪くないと、思います」
「そっか、そうなんだぁ……たきなも……」
顔を見ずとも伝わってくる嬉しげに弾む声。
横目で確かめればやはり、千束の表情は晴れやかで、メトロノームのように体を左右に揺らして全身で喜びを表現しているようだった。
きっと千束に尻尾があれば、犬のようにぶんぶん振り回していることだろう。
犬千束。飼いたい。
「千束はどうなんです」
「んお?」
「わたしは言いましたよ、確かに」
「あ、あー……うん、そう、だよねぇ」
「はい」
「えっと……私も、たきなが……好、き……です」
「ふっ、なんで敬語なんですか」
「いや、なんか、なっちゃう……笑うな」
正座でがちがちに緊張している千束の姿に、つい吹き出してしまう。
わたしが千束のことを笑えるような告白をしたかは甚だ疑問だが、それでももう少しまともだったはずだ。
そのおかしさに、告白の後の恥ずかしさも若干引いて……まだ少し恥ずかしいけれど、千束の顔を真っ直ぐに見られるぐらいには、回復して。 - 68二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:31:58
最後の言葉は本当に聞き取れるか否かの小さな言葉。
小さく跳ねるように肩を上下に動かしている様は、やはり愛らしい。
手を伸ばして、映画観賞の時のように、髪をつまむように頭を撫でてみる。
最初は少し驚いているようだったが、特に抵抗もなく大人しつ受け入れているようだ。
それならと、もう少し力を入れて強めに撫でてみる。ぐりぐりと。
これもまた、抵抗することなく受け入れられ、むしろ千束の方から頭を押しつけるようにしながら、気持ちよさそうに目を瞑っている。
犬だ。やはり、犬千束。
一言お手と言えば、お手をしてきそうな、凄みがある。
手に触れて踊る艶々の毛並みが、指をくすぐって心地よい。
少し場所をずらして、頬を撫でる。
「ん……」
これも目を瞑ったまま、触りやすいよう顔を傾けて頬をこちらに向け、顎に触れれば顎を浮かせて喉元を晒して露にする。
猫だ。猫千束。
首からにかけて指を這わせるように軽く撫でると気持ちよさそうな表情を浮かべて肩をすくめる。きっと喉をころころ鳴らしているのだろう。
飼いたい。すごく。
「千束」
「んぅ……はっ!?」
千束は夢から覚めたように目を見開いて顔を引っ込める。
我に返ったように顔を覆って恥ずかしがっている様子だ。
犬猫な千束を撫でているのは楽しかったので少し勿体ない気もするが、やはり気になるので声をかけずにはいられなかった。 - 69二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:32:28
「わたしも」
「お、おぉ?」
「撫でてみて、ください」
ぐいと頭を差し出す。
膝枕の時から眠っていたり、撫でられるのがそんなに気持ちのいいことなのだろうか。
気になる。
上目で千束の顔を窺うと、少しと惑ったような表情を見せるものの、すぐに柔らかく笑い。
「……ほれ」
ぽふっと、髪の上から頭に指が乗る感触。
髪を撫でつけるように、上から下へと千束の指が流れていくのを、目を瞑ってより深く感触を確かめる。
する、する、耳の側を指が何度も行き来する。
千束の手は、肩まで下ると髪を巻き込まないよう軽く離れて上まで戻り、また上から肩まで滑るようにして髪を押さえながら頭の形に沿って下りていく。
ほぅと息を吐く。
これは、なるほど確かに。
体も頭も、とてもリラックスする。
どうだー、という千束の声が遠くから聞こえるような気がして、意識が薄ぼんやりしていたことに気がついた。
ああ、癖になりそう……もっと……。
「甘えん坊だなぁ」
「……千束だって」
「じゃあ、また甘えさせてね?」
「……はい」
「ほれ、今はたきなの番だ」 - 70二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:32:55
くしゃくしゃと、今度は遠慮なしに髪を乱しながら頭を撫で回される。
これはこれで指の感触を強く感じられて心地がいい。その後は乱れた髪を直すように、指で梳かしながらのまた優しい撫でつけ。
まるで千束の犬になった気分だ。
さっきまではわたしが千束を犬だ猫だと思っていたのに。
わたしもこのまま顔に、喉に触れられたら猫になってしまうのだろうか。
気になる。頭を撫でられるだけでこんなに気持ちいいのに、他のところも撫でられたら……きっと……。
「ちさと……」
気づけば無意識の内に喉を差し出していた。
薄目で確かめた千束の顔は、少しぽかんとしていて、しかしやはりすぐに笑顔に変わる。
千束はわたしの意図を理解したのか、喉に指先だけが触れるように添えられ、そのまま先端でくすぐるようにして撫でてくる。あ、すごい……。背中をぞわぞわと言い知れぬ感覚が走り、全身がぶるりと震える。
息と一緒に勝手に声が漏れて、体の熱が上がる。
千束が気持ちよさそうにしていた理由が分かった気がする。
これは……癖になってしまう…。
「どう? たきな、気持ちよさそうだけど」
「ぁ……もっと……」
「うしうし、もっとしてやろう」
わたしの返事に機嫌をよくした千束は、そのままわたしの頭を自らの足の上に運び、両手で頭部全体を撫で回してくる。
髪を、顔を、首を。
千束の両手が余すところなく愛撫する。
体が勝手に反応して、腰が浮き足を擦り合わせる。
飼い主の膝に抱えられたペット。
今の私はそれだ。
こんなに気持ちのいい思いが味わえるのなら、千束のペットも、悪くない。 - 71二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:33:28
「……たきなさぁ、」
「ん……は……んぁ?」
「自覚、ある?」
……なんの?
千束の顔を見上げて思う。
先程までの笑顔は消えて、赤い顔で、赤い眼差しで、真剣な表情でこちらを見つめている。
「私たち、もう、付き合ってる、ってことでいいんだよね……?」
「……ちさと?」
「じゃあ、しても、いいよね」
その顔がゆっくり、わたしの目の前に近寄ってくる。
千束の言葉の意味の理解するのに数秒、飲み込むのにもう数秒。
その頃には、わたしの目の前はもう、千束の喉元が目一杯に映っていて、息ができなくなっていた。
そして、甘い香りが鼻腔に広がり、気が遠くなる。
このまま目を閉じれば眠ってしまいそうな、幸せな夢見心地。
少し苦しい、と思い始めた頃、ぷちゅ、と小さな水音を立てて千束が離れる。
「…………」
「…………」
その顔と目があって見つめ合う。
千束の顔は紅葉よりも紅い。きっとわたしも。 - 72二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:33:53
「キス、しましたね」
「うん……」
「一回……だけですか?」
「……もう一回、いい?」
「勝手にしてきた癖に聞くんですか」
「うっ……でも、たきなも嫌がらなかったしぃ……」
それは当然、嫌じゃないから。
付き合って、キスもしようと、返事だってとっくにしているのだから。
後はいつするかぐらいの違いでしかなかった。
気まずそうに逸らされた千束の顔に手を当ててこちらを向けさせる。
「冗談です、いいですよ。何回でも」
「……たきな、意地悪だな」
「誰かの影響ですかね」
「そういうとこ」
千束は不満げな顔をしながら近づいてくる、そんな子供っぽい表情も可愛い。もっと、色んな千束の顔を近くで見たいと、そう思う。
付き合ってみてこれからは、そんな風にもっと変わっていけるだろうか。
まだ、よく分からないけど。
考えている内に、千束の唇が触れる。
先程よりも、少し強く押しつけられるように。
角度を変え、体勢を変え、千束は何度も触れてくる。
目蓋を閉じ、細かな思考は一度捨て置いて、今はその感触を存分に堪能することにした。
抱き締められ、撫でられながら、唇を貪られて、ただただ千束に身を任せる。
今のわたしは、千束のペットだから……。 - 73二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:34:28
「結局、漫画の続きは見せてくれないんですか?」
「え? あぁ……えっとぉ……」
気になっていたことを聞いてみる。
だが、千束は相変わらず続きを読ませること渋っているようだった。
ここまでくれば、もう大抵のことは漫画と同一視しても大丈夫だと思うのだが。
「なにがそんなにマズイんですか」
「マズイっていうか~……見られたくないっていうか……」
「駄目ならどうせ自分で買いますよ」
「うぅ……」
「はいこれ、千束の」
どうせ内容は遅かれ早かれ分かること。落ちているシャツを千束に手渡しながらそう訴える。
「いや、でもぉ……」
「もういいですよね、読みますよ」
「あぁ~……」
スカートを履き直して、テーブルの上に放置されていた漫画を手に取る。
床に腰を下ろして、流し読みでぱらぱらページを捲ってみるが、やはり今の私たちの関係と大きく逸脱したような場面は見当たらない。
ならさらに続く九巻の方にあるのだろうか。
漫画のストーリーはまた後でゆっくり読むとして、今わたしの最優先事項は千束がこの続きを見せたがらなかったことだ。
千束の方を振り向いて、目で問いかける。 - 74二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:35:04
「……はぁ……」
ようやく観念したように、どうぞと手を差し出すジェスチャーを確認して、本棚に並ぶ九巻を手に取って、ページを捲った。
八巻のストーリーは読み飛ばしてしまったので、こちらのストーリーもあまり頭に入れないようぱらぱらと飛ばしながらコマの中の絵だけを確認していく。
しかし、最後まで捲って見たが特別目につくようなシーンは見当たらなかった。
破局を迎えた様子もないし、浮気すらあった様子でもない。
「これのなにが駄目だったんですか?」
「……おまけ」
「おまけ?」
それは、巻末のおまけ漫画。
本編からは少し外れた二、三ページほどのショートストーリーが毎回載っている。
ここもちらっと見たが、別段変わった絵は無かったように思うのだが。
そこに載っていたのは、白崎と黒江が少し大人になった姿。
本編の時間軸とは違って、学校を卒業し、二人でどこかマンションの一室らしきところで山積みになった段ボールの荷を崩している。
状況と会話から察するに、二人でこの一室に引っ越してきて、同棲を始めるということだろう。
同棲。ふむ。
「千束」
「……はい」
「これ、わたし達ですか」 - 75二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:35:48
おまけの巻末漫画、最後の一ページを指差して、耳まで真っ赤に染まった千束に問いかける。
千束が最後まで渋っていた理由が、そこにあった。
部屋から窓の外を眺めて、小指同士を絡める二人。
その間で交わされた、一つの約束。
わたしは、自分にできうる限りの、思いっきりの笑顔で、千束にもう一度問いかけた。
「婚約、したいんですか?」
返事はなかった。
というより、できないのだろう。
もう千束はなにかリアクションを返せるような状態ではない。顔を両手で覆って膝を抱えたまま動かない。
そうか。
千束は、わたしと結婚したいのか。
なるほどなぁ。
なるほどなぁ……。
口角が上がるのはもはや意識的ではなく、無意識的で、自分の感情がどこにあるのかはすぐに理解できた。
「ちさと♡」
丸まって固まったままの千束に寄り添って、その名前を呼ぶ。
自分でも驚くくらい、自分の物とは到底思えないくらいの甘ったるい猫なで声が出た。
千束の肩に頭を乗せて、千束の頭を指で撫でる。
今は、わたしからはこれ以上はなにも言わない。
この団子虫のように丸まった可愛い生き物から、さっきの質問の返事を聞けるまでは。
何分でも何十分でも待っていよう。
そう、例え、一生だって。
おしまい - 76二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:36:35
すっかり遅くなってしまってすみませんでした
保守してくれた人、読んでくれた人、ありがとうございます - 77二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 09:51:51
甘い!甘いよぉ!
- 78二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 10:39:41
乙です
最高でした… - 79二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 11:58:44
おつでした
とても素晴らしかった - 80二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 12:21:40
とても素晴らしかった、ありがとうございました、おつです
- 81二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 13:23:09
乙
最高のちさたきだった - 82二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 14:02:29
他の作品もそうだけど
頭をなでる描写と匂いを嗅ぐ描写が特徴的で癖になる - 83二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 14:41:54
これはネコはリバですね
- 84二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 21:22:44
服を着直してる…?
エッチなことしたんですね? - 85二次元好きの匿名さん22/10/02(日) 23:27:53
おつ
甘々だった…