- 11/322/11/15(火) 22:59:39
「ただいま」
「おかえり、トレーナー」
時刻は夕方の5時。自宅のドアを開けると、部屋からスウェット姿のオグリキャップが駆け寄ってきた。
さっきまで寛いでいたのか、マンションの短い廊下の奥の部屋からは、バラエティ番組の笑い声が聞こえる。
「あれ、オグリ仕事は?」
「テスト期間で今日は午前だけだったから、午後は暇だったんだ」
「あ、そういえばそんなこと言ってたね」
体がピークを過ぎてレースを引退してから、教師になりたいと言い出した時は驚いたけど、どうやら上手くいっているようで安心する。
普通科の高校ではあるが、やはりレースの実績もあり人気らしい。そのキャラクター性もあるだろうけど。
そんな話をしながら、玄関先で俺が脱いだスーツを何も言わずに受け取ってくれる。オグリはそれを、しばらく眺めていた。
「どうしたの?」
「……トレーナー。本当に、引退したんだな」
オグリがじっと見つめていたのは、もともとトレーナーバッジをつけていた襟元だった。
引退という言葉は、普段のオグリからは考えられないほど小さくて、切ない声だったと思う。
「……うん。引退……そうだな。退職とも言うけど。前に話はしてたよね」
「ああ、前から聞いてはいたけど。でも」
スーツを握るオグリの手に、ぎゅっと力が入ったのがわかる。
「少し、寂しいな」
「そっか」 - 22/322/11/15(火) 23:00:35
引退の理由は、まぁ色々あるけど……リアルな話、肉体の限界って言うのが一番大きい。
働きに見合った給与は貰っているし、やりがいはある。が、流石にこの年になってくるとあの激務には耐えられない。
「じゃあ、これからはトレーナーの事をなんて呼べばいいかな」
「うーん、でも卒業してからもずっとトレーナーだったしなぁ……」
「そうだな。それじゃあ、トレーナーのままでいいか」
「うん、まぁオグリの呼びやすいようで良いよ」
オグリと同棲し始めてから、もうずいぶん長いな。
卒業の時に、オグリが「住むところがない」ってことで、一緒に住むことになったんだっけ。
タマちゃんは地元に帰るけど、オグリはこっちでレースを続けるから……とか、そんな話をした覚えがある。
……周りからは色々言われたが、同棲しているだけだった。それ以上はない。
「お疲れ様。ご飯の用意をするから、少し待っててくれ」
「ありがとう」
オグリは受け取ったスーツをハンガーにかけると、エプロンを巻いてキッチンに立った。
椅子に座って、作業をするオグリをしばらく眺める。
俺も何かするべきなんだろうけど、退職後の挨拶やら何やらでいつもより疲れてしまった。
「よし。今日は鯖の味噌煮にしよう」
そう言ってから、しばらくお互いに何も話さず、無言で淡々と時間が流れる。テレビを消したせいで、部屋には包丁やコンロの音が静かに響くだけだった。
いつもの、ふたりの時間。
「ねえ、オグリ」
俺は、別のことをずっと考えていた。
料理のために向こうを向いたままのオグリに、後ろから話しかける。 - 33/322/11/15(火) 23:01:15
「なんだ?」
「俺たち、一緒に住んで長いし、俺も退職していいタイミングだしさ」
「うん」
「結婚、しよっか」
部屋には変わらず、コンロの音が響く。包丁の音は、ぴたりと止んでいた。
「……なんだ、その……もう少し、ムードというか、ないのか……?」
「えっ、いや、ごめん」
「ずっと一緒に住んでいるのに、いつまでも言い出さないし……」
「あー、えっと、それはその」
「ふふ、いいんだ。この方が、私たちらしいかもしれないな」
今度はオグリが摘みを捻って、コンロの音が止む。部屋の中に、俺とオグリの声だけが残った。
「うん。結婚しよう」
振り返ったオグリの顔は、いつもと同じだった。プロポーズとは思えないシチュエーションだけど、俺達にはこれくらいがちょうどいいと思う。
いや、いくら何でも淡泊すぎたかな……と考えていると、オグリがいつもと同じトーンで語った。
「トレーナー、明日は空いてるか?」
「うん、何もないけど」
「じゃあ、指輪を買いに行こう。あとは書類と……あ、そうだ」
何か言いかけたオグリが、深々と頭を下げる。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
「お、ちょっとそれっぽくなったね」
やっぱり、これくらいがちょうどいい。