【SS】エクウス

  • 1二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:11:44

     彼女たちは、森に住んでいたとされる。
     木の実を好んで食べた。体は小さく、仲間たちと身を寄せ合って暮らす。森にはほかの住人たちもいて、中には恐ろしいものもいた。襲われることがあった。その度に小さな体をより小さくし、息を潜めて危機が去るのを待った。森の木々の枝振りは旺盛で、その先に伸びた葉は笠のように太陽を遮る。大地はいつも、やや薄暗い。茂みは猛々しく成長し、太い根が生き物のようにそこいらを這っている。さいわいにして、隠れる場所には困らなかった。
     長い年月が経ち、豊かな森は少しずつ衰えていった。木の実が採れなくなり、隠れる場所が減っていく。彼女たちは決断を迫られた。そして、森を出る覚悟を決める者が現れた。遮るものが何もない平野へと、その最初の一歩を踏み出したのだ。今から4000万年ほど前のこと。

    「ああ、古い学説だね」
     タキオンはひどく散文的に笑った。
    「今では否定的な立場をとる研究者がほとんどだ。あくまで推測、語弊をおそれずに言うなら、空想の域に留まっている。古生物は専門外だが、それでもメディア向けに組み立てられた理論なのではないかと訝ってしまうね」
    「そうなの」とスズカはそのすらすらとした語り口に感心した。

  • 2二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:12:40

     ある秋の昼下がり、ふたりはカフェテリアで同じテーブルを囲んでいる。
     待ち合わせたわけではまったくない。スズカがカフェテリアに足を運んだところ、たまたま混雑していた。しかしながら、一席だけ穴が空くようにして人の寄り付かないテーブルがある。そこにタキオンがひとりで座っていた。
    「……相席してもいいかしら?」
    「もちろん」
     というやり取りがあり、今の状況がある。
     会話は弾まず、話題はあまり見当たらない。
     注文したさつま芋のタルトが届き、スズカはそれを小さく切り分け、口へ運んでいく。感想としては、実にスイートポテト然としているといったところだ。
     タキオンは飲み物だけを注文しており、メモ帳とペンをテーブルの上に並べている。「ちょうど茶葉が切れていてね」と言い、「たまには環境を変えるのもいいだろう」と言う。
     タキオンというウマ娘が、スズカにはいまいちよくわからない。期せずして何度か関わりを持つ羽目にはなったが、全容は掴みかねていた。はっきりしているのは三つ。スズカの理解が及ばないほどに頭がいいことと、ウマ娘のパフォーマンスに並々ならぬ執着を抱いていること。そして、走ることを好んでいる。
     三つ目の特徴は、スズカも共感するところだった。だから、必要の有無に応じて口を開くのではなく、自然な形で言葉を交わせれば、それもまた悪くないと心のどこかで考えている。つまり、ようやく話題に思い当たったことは、何かを狙ったのではなく、単に偶然だった。
    「少し前にテレビで見たの」熱いほうじ茶をすすりながらスズカは言う。

  • 3二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:13:23

     その番組は、古いドキュメンタリーの再放送だった。題して『古代のウマ娘』。当時最先端だったDNA鑑定技術を下敷きに、ウマ娘がどこから来て、どこへ行くのかを探っていく。
    「ゴーギャン」とタキオンが言うのは、スズカが番組で目にした絵画の、作者の名前であるらしい。
     それはウマ娘の謎を解き明かそうとする試みのひとつだった。文明の種が芽生えてから、長い時間が流れている。現在、いわゆる普通の人間の足跡については、ある程度まとまった見解が得られていた。阿州を離れた古の狩人たちは、その末裔を瀛州の地に立たせることに成功し、系譜を遡っていくことも可能である。
     しかしながら、ウマ娘の誕生には謎が多い。文明あるところにウマ娘の影があるものの、果たして彼女たちがどこから来たのかというと、学者の間でも意見が分かれる。いわく、共通の祖先から分岐した種である。またいわく、宇宙から飛来した未確認生命体の一種である。またまたいわく、きわめて情報的な性質を有し、人類の繁栄とともにいずこから取り出されてきた。またまたまたいわく、普通の人間とは異なる起源を持ち、奇跡的な合流を果たして今へと至っている。
     ドキュメンタリーの撮影者は、最後の立場に属する。植物を束ねた簡素な羽織りをまとい、鼻の下が猿のように長いウマ原人の姿が、復元予想図として映し出されていた。
     科学的な考証はわからないなりに、スズカはその番組を興味深く視聴したのだが、タキオンに言わせるなら、先のような評価に落ち着くらしい。

  • 4二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:14:10

    「……かつて神々が争ったとき、天を支える四つの柱の一本が損なわれた」
     素直に感心するスズカをよそに、タキオンは事もなげに続けた。
    「そこであるウマ娘は、五色の蹄鉄で天蓋を補修すると、自らの脚を断って新たな柱の一本としたいう」
     スズカはタキオンが本格的におかしくなってしまったのかと思い、さすがに同情した。
    「また別の神話では」ニヤリとタキオンが笑う。スズカは彼女が与太話をしていることを察する。「この世の始まりは、芝とも砂ともつかない茫洋としたバ場だったとされる。これを一組のトレーナーとウマ娘がかき回し、均していったことで最初のレース場が生まれた」
     ジロリとスズカはタキオンを睨んだ。彼女は肩をすくめ、くぐもって笑いながら両手を挙げるとこう言う。「からかっているわけじゃない」飄々とした態度だった。
    「実証の伴わない起源論というのは、こうした創世神話と変わることがないと言いたかっただけさ。いくら尤もらしい理屈を添えたところで、作り話は作り話でしかない」
     スズカは少し、残念に感じた。その理由をうまく言葉にして伝えることはできなかったが、敢えて述べるならこうなる。
    (……遮るものが何もない草原を走るのは、さぞかし気持ちよかったでしょう)と、想像という名のゲートが開かれる。(地平線の向こうに“果て”が見えるのか、古代のウマ娘もきっと考えたはずだわ)
    「必ずしも誤りだというわけではないよ」
     そう言ってタキオンは紅茶をすすった。その一杯は、スズカが彼女に声をかける前から提供されていた。すっかりぬるくなっているはずだ。しかし、熱が残っていないわけではない。
    「たとえば……そうだね。デジタル君に教わったことだが」タキオンは半ば独り言のように言い、右手をペンに伸ばした。「『夒』という字がある」
     ドウ、とスズカは呟いた。
    「猿を表す象形文字らしい」タキオンはさらさらとペンを走らせた。白紙だったメモ帳には、見慣れぬ文字が大きく記されている。「さる王朝は、これを自らの祖として奉った」

  • 5二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:14:48

     彼女たちの視界は、一気に開けたものとなる。
     手足より太い枝や、顔をおおうような葉など、どこにも見当たらない。ただ、ぼうぼうと草花が生えている。その景色はどこまでも続いているように思えた。しかし、そうではない。陽光に照らされて金色に輝く草原の奥の奥には、これまで目にしたことのない一本線が引かれていた。地平線だ。そのとき、彼女たちは”果て“を学んだ。
     遮るものがないということは、隠れる場所がないということで、彼女たちは新たな戦略を求められた。立ち向かうことはできそうにもない。ならば、と勇気ある者が更なる一歩を踏み出した。逃げればよい。恐ろしいものたちが追いつけないほど、何よりも速く新たな住み処を駆けてしまえばよかった。
     走ることに意識が向いたのは、この頃のことである。爾来、進化を積み重ねていく。

  • 6二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:15:29

    「ところで、『夔』という字もある」
     キ、とスズカは耳に入った音をそのまま繰り返す。
    「一本足の怪物で、牛に似た姿をしている。また、歌舞音色、つまり歌と踊りと音楽の神であったともされる」
     タキオンはメモ帳を一枚めくり、白紙のページに新たな文字を書き記した。そして、手早く用紙を綴じ目から切り離すと、スズカから見て字が正しい向きになるよう、テーブルの上に並べた。
     実によく似た文字たちだった。「夒」と「夔」。筆致の勢いもあり、手癖の違いがあるのみで、本当は同じ字が書かれているのではないかとさえ思える。しかし、頭の上に強調されて打たれた二点が、このふたつは異なるものだということを、強く主張していた。
    「……あなたって、変なことばかり知ってるのね」
     スズカは言った。
    「あまり褒めないでくれたまえ。さすがの私も照れる」
     タキオンが笑う。
    「……」
    「……」
     沈黙が挿入され、二人は見つめ合った。むろん、ロマンチックな意味合いは含んでない。
    「冗談はさておき、この怪物が本当に一本足だったのか、議論がなされたことがある。すると孔子はこのように答えたそうだ。──『夔』は一本足ではない。音楽の才能が一つあるだけで足りると古の帝が語ったので、一足である」
     実際のところ、スズカの意識は少々遠のきつつあった。目の前のウマ娘が何を言おうとしているのか、やはり掴みかねている。
    「更に古い時代では、『夔』は牛ではなく龍に似ているとされた」
    「ねぇ、タキオン」思いかねてスズカは口を挟んだ。
    「なんだい?」タキオンが小さく首を傾げた。表情は穏やかである。
    「なんの話をしているのかしら?」
    「古代のウマ娘の話だろう?」
     そうだった、とスズカは手を打つ。同時に、タキオンが当初の話題を忘れていないことに驚いた。
    「まあ、少々文脈が遠回りしたことは認めるが、そろそろ結びだよ。安心したまえ」

  • 7二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:15:55

     彼女たちは、最終的にふたつのグループに別れることになる。
     片方はかつてのように森へ戻ることを選び、絶えた。もう片方は、平野での暮らしを続けることにした。
     見晴らしのいい草原では、恐ろしいものたちにすぐ見付かってしまう。だから逃げた。一目散に。あの地平線に向けて。その過程で、数えきれないほどの仲間が倒れていった。それでも止まらなかった。新しい同胞が生まれては、置き去りにした過去の向こうに消えていった。走った。ひたすらに。いつしか彼女たちは、走ることそのものを好むようになっている。生き延びるために逃げ続けた結果、少しずつ“果て”に近付こうとしていた。


    「人間が猿から変化した生き物であるならば、ウマ娘にも同じような継承関係が見出だせるはずだとする姿勢は、さほど不自然なものじゃない」
     タキオンが言うが、スズカはあまり判然としない。その感情が伝わったのか、
    「普通の人間とウマ娘は明らかに異なるが、似ている部分もたくさんあるだろう。要は、その似ている部分を進化の歴史にも当てはめることができるのではないか、ということさ」
     と、続けられる。
     スズカは目を閉じた。授業で習った、生物学の知識を思い出していく。
    「……ウマ娘にとっての、猿がいるかもしれない?」
     絞り出した言葉は、そのようなものになる。スズカなりの理解を言葉にしたつもりだったが、自信がないので語尾は上がっていた。
    「そう」満足した様子でタキオンは言い、ソーサーを持ち上げ、ティーカップのハンドルを摘まんだ。「誤りというわけではないとは、そういう意味さ」
    「でも、さっきは古い学説だって言ってたじゃない」
    「新しさと正しさは、必ずしも直接繋がらない」ぬるくなった紅茶を飲み干し、ソーサーにカップを置く。「きわめて小さな可能性でも、無下に扱うものではない」
     いつの間にやら、ペンとメモ帳を仕舞っていたらしい。タキオンはそのまま立ち上がると、挨拶もそこそこに席を離れた。
     説明はそれで終わりらしく、テーブルには二枚の紙が残されている。スズカにとって、やはりタキオンはいつもほとんどわからない。

  • 8二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:18:06

     群れの中に、ひときわ前に出る者がいた。
     名は伝わらない。そもそも、当時の彼女たちに「名」という概念が有効だったのかどうかは、タイムマシンでも発明されなければわかりそうにない。
     彼女は常に、先頭を走っていた。外敵から逃げるときも、新たな食糧を求めて移るときも、決まって群れの前を駆けた。それに並ぼうとする者がいれば、すぐさま引き離す。許さなかった。自分の前を誰かが走っていることが、どうしても我慢ならなかったのだ。
     その生きざまは、走ることを好んだ彼女たちの中でも、特に異質なものだった。具体的な言葉にならずとも、彼女の背中を追う群れの疑念は一致していた。いつか離れてしまうのではないか。現代的な語彙を転用するなら、その走りぶりは「異次元」の一言に尽きる。
     彼女の毛色は、太陽に照らされた草原の色にも似ている。今でいう栗毛だった。

  • 9二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:18:56

     数ヶ月前に終わりを告げた「夏」の字は、本来季節を表さなかったとされる。「面を被って踊る人間」を指し、儀礼、祭事と深い関わりを持っていた。
     切り離されたメモ用紙を二枚持って、スズカはトレーナーを訪ねた。休養日だったが、彼は精力的に事務仕事をこなしている。
    「漢字の勉強?」と、ふたつの字を前にしてトレーナーは言った。偉い、と褒められスズカはちょっと嬉しく思うも、本題はそうではない。
     カフェテリアでの出来事を、スズカはトレーナーに伝えた。なるべく正しく伝えたつもりだった。必要なら、タキオンの話しぶりを真似ることさえした。
     ウマ娘にも、人間に対する猿のような祖先がいるはずだ。そしてそう考えるのは、不自然なことではない。これはスズカにもわかった。しかし、ふたつの文字がここで問題になってくる。つまりどういうことなのか。スズカにも見当はついていたが、ウマく言葉にできないでいた。お手上げであり、だからトレーナーを頼る。
    「人間の祖先が『夒』、ウマ娘の祖先が『夔』と言いたかったんじゃないか」
     シンプルな答えがあり、スズカは腑に落ちた。腑に落ちたところで、新たな疑問が沸いてくる。
    「でも、『キ』は牛みたいな妖怪だってタキオンは言ってました」
     スズカがそれを口にすると、
    「龍にも似ているんだろう?」と、トレーナーは言った。「ウマ娘の走る姿を、龍に喩える伝承がある」
     スズカは顎に手を当て、トレーナー室の天井を見上げた。そこには小さく一筋の染みが走っている。

  • 10二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:19:36

     目を疑った。
     ぼんやり眺めていると、突如として、染みは天を駆ける龍の姿に変化したのだ。小さな龍が、出口を探すように宙を泳いでいる。龍はしばらくその長い髭をたなびかせていたが、見えない出口に突っ込んでいってしまったかのように、頭から姿を消していった。
     消失の過程で、龍の姿はまた変じた。胴が膨らみ、後ろ足が長く伸びて、尾がふさふさとした毛におおわれていく。
    「どうかした?」
     トレーナーに声をかけられて、スズカは現実に引き戻された。
    「なんでもないです」と答え、さりげなさを装って、天井の片隅を見やる。そこにはやはり、一筋の染みがあるだけだ。
     スズカは改めてふたつの文字を見比べた。
     トレーナーが調べたところによると、ふたつの字は「夏」の字とも関わりがあるらしい。じっとふたつの文字を眺めていると、確かに顔に見えなくもない気がした。
    「耳みたい」
     自然、口を衝いている。
     タキオンの意図を、このときスズカは理解した。
    「なるほど」とトレーナーは両手を頭の上に持っていった。「確かに、耳みたいだ」
     伝説の振り付けを真似ているつもりなのだろう。その様子がおかしくて、スズカはつい笑ってしまう。

  • 11二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:20:11

     彼女は孤独を感じていた。
     前を走ろうとする自分のあり方を、嘆いていたわけではない。むしろ性に合っていた。遮るものが何もない大地を駆け、地平線へ向けて思うままに走る喜び。幸福だった。心地よかった。先頭の景色は、誰にも譲るつもりはない。背中を追う仲間たちにも。それでいて、たまらなく寂しかった。
     誰か、隣にいてくれないだろうか。
     とうとう群れを離れた彼女は、常々そう考えていた。草を編んだ羽織りは、草原を一歩、また一歩と駆け抜けていく度に、ぼろ切れのように擦れていく。
     やはり、群れに戻るべきなのかもしれない。
     彼女が立ち止まったとき、背の高い草花の影を、何者かが横切った。

  • 12二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:20:45

     ある晩秋の昼下がり、スズカはカフェテリアで紅茶を飲んでいた。お茶請けには、マロングラッセを頂くモンブランを選んだ。甘さは控えめで、すっきりとした後味があり、澄み切った冬の空気を予感させなくもない。
     特に混雑はしていなかった。
    「相席してもいいかな?」
    「……もちろん」
     というやり取りがあり、必ずしも本意ではなかったが、スズカはタキオンを受け入れた。
    「かつてホモ・ハビリスという種が存在した」
     注文を済ませると、タキオンはやにわにそう語った。
    「残念ながら、今から140万年ほど前に滅びたとされる。おおよそ100万年の間、存続していたようだけどね」
     地質学的なタイムスケールは、正直なところ、スズカにはぴんとこない。100万年前と100年前とでは、前者の方がはるかに長い歴史を有するはずなのに、後者の方がその歴史を深く知られている。
    「人間の想像力は慎ましやかなもので、その力が及ばないことを悟ると、神話という名のゲートを設けてしまう。すべてはここから始まった、と。しかし実際はそうではなく、化石研究が発展する度に、創世の日は繰り下げられていく。神話というこの世の“果て”の向こう側には、誰も見たことがない太古の沃野が広がっているわけだ。そしてもちろん、そこでは生存競争という名のレースが繰り広げられている」
    「タキオンって」
    「うん」
    「思ったよりおしゃべりなのね」
    「時と場合によるさ」
     タキオンの分の紅茶が提供される。彼女はシュガーポットに手を伸ばし、続けてテーブルに備え付けられた小皿を一枚取った。ポットを開け、トングを使って小皿に角砂糖を移す。ひとつ。ふたつ。みっつ──。
     砂糖の山がティーカップの中に放り込まれていくのを、スズカはしげしげと眺めた。きちんと溶けるのかどうかは定かではなく、砂糖はカップの底に沈み、地層のようにして紅茶と分かれるのかもしれない。

  • 13二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:22:58

     ふたりの時間は、重なり合っている。

    「『器用な人』という意味で、昔は人間の直接的な祖先だと考えられていたんだって」
     トレーナーが言う。タキオンが口にした、滅びた生き物のことだ。
     スズカはトレーナーの隣に座り、タブレットを覗き込んだ。そこにはホモ・ハビリスの頭蓋骨の標本が映し出されている。いつか見た普通の人間の標本とは、形が異なっているのがわかった。
    「で」とトレーナーはタブレットを操作した。「スズカの言っているホモ・エクウスと、もしかしたら同じ時代を生きていたかもしれないらしい」
     ふたつの種は、伝わらない。
     ドキュメンタリー番組において、ウマ娘の直接の祖先と語られた生き物は、ホモ・エクウスと呼ばれる。架空であり、実在した証拠はまだない。
     トレーナーとスズカがその系譜を遡っても、今のところ、そこにたどり着くための理論はなかった。適者生存、進化という名のレースで、数多の種が絶えている。
     倒れる仲間たちの横を、ふたつの種が通り抜けていった。振り返らない。ゆえに進化という。ふたつの種はぐんぐん走り、長い、それはもう途方もないほど長い時間をかけて、やがて「夒」と「夔」の姿を得る。
     レースは現在に至るまで続けられており、それはトレーナーとスズカも例外ではない。遠い過去から眺めることができるなら、ある意味で先頭に立っているとも言える。そしてはるかな未来から見渡せば、過程にあった。
    「古代のウマ娘たちにも、トレーナーさんみたいな人がいたんでしょうか?」
     そしてその未来では、「夒」と「夔」をそれぞれ、絶えた種と架空の種に繋ぐ方法が、見付かっているのかもしれない。
    「どうだろう。でも……」
    「……いたとしたら、なんだか素敵ですね」
     トレーナーは頷いた。スズカは彼に肩を寄せ、目を閉じた。たまらなくそうしたかった。時間を忘れるくらいに。

  • 14二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:23:16

     青々と芝草が生い茂る沃野に、ひとりのウマ娘が立っている。
     栗毛で、長い髪を丁寧に切り揃えていた。深緑のケープを羽織り、草原の果てをじっと見つめている。
     じき、夜が明ける。
     空は白みはじめ、天地を分断する一本線の向こうから、太陽が少しずつ顔を覗かせた。朝焼けのほんのわずかな時間、大地は黄金色の絨毯のように染められる。
     そのウマ娘の傍らに、ひとりの男が進み出た。旅慣れた雰囲気をまとっている。
     彼が隣に立つと、彼女は安らかな微笑みをたたえた。彼もまた、穏やかな顔で彼女に笑いかけてみせた。
     ふたりは並び、日の出のぬくもりを感じる。
     ──じゃあ、走ってきますね。
     ウマ娘が言った。
     ──いってらっしゃい。
     男は答えた。
     彼が待ってくれているから、彼女は自由に駆けることができた。
     彼女が自由に駆ける風景こそ、彼の求めていたものだった。
     ふたりは自分たちがどこから来て、どこへ行くのかを知らなかった。本当のところでは、何者かさえわかっていないのかもしれない。その姿が伝わるかどうかも定かではなく、足跡は風雨に晒され削られるだろう。あるいは数多の絶えたものたちに埋め尽くされ、掘り起こされることがない。ただ、ここに在ることだけが確かだった。

  • 15二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:25:40

    以上です
    「初期案のケープを羽織ったスズカさんに、だだっ広い草原を思うままに走ってもらいたい」という気持ちがあり、こうなりました
    あの装い、旅人然として好きなんですよね。よく似合ってる。どこかで拾ってもらいたいです
    長々と失礼しました

  • 16二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:28:08

    とても興味深く拝読しました。おもしろかった〜……またあとで読み直そう

  • 17二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:32:28

    ウマ娘の作中目線でのルーツの一考察としてすっかり一通り読み切ってしまった

  • 18二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:33:54

    円城塔先生はあにまんに新作投稿せずに普通に出版社通して出版してくれ。

  • 19二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:34:46

    >>18

    円城塔がこんなにわかりやすいわけないだろ!!!!!!

  • 20二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:37:24

    夒といい夔といい阿州といい瀛州といいさては文字渦を読んだな?
    こんないい文章投げやがって、地平線の果てまで語り継ぐからな。

  • 21二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:52:12

    読んでくださってありがとうございます

    ネタがすでにバレてて草生える。あからさまでしたね


    >>18 >>19 >>20

    ウマ娘ってめっちゃSFやってますよね

    彼女たちの存在をどう捉えるかって問題は面白く取り組めると思います

    >>17

    たぶん明かされることはないんでしょうけど

    ファンからするとあれこれ考えるの楽しいですよね!

    >>16

    表面を撫でるように、軽く読んでください(嘆願)

  • 22二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 20:57:29

    エクウスは牡馬という意味だからウマ娘世界ではエクウスというラテン語がどういう意味になってるか気になりますね
    ちなみに牝馬はエクア(equa)という

  • 23二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 21:00:23

    深い内容のはずだけど一気に入り込んで読み終わった……すごく面白かったです!

  • 24二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 21:36:57

    とても興味深い内容のSSでした。
    ウマ娘のルーツを探るSFとして非常に完成度の高い文章を読めて満足です。
    他の方も挙げられていますが、円城塔を背景に強く感じる文体ですね。

  • 25二次元好きの匿名さん22/11/30(水) 21:40:21

    こういう作中世界を掘り下げるタイプの二次創作大好き
    良いもん読ませていただきました

  • 26二次元好きの匿名さん22/12/01(木) 02:44:44

    こういう素敵な話を読むと、魂は流転して繰り返し繰り返し似た形を描き、それは様々なレイヤーで描かれるよなあ…ってしみじみしてしまう。

    魂と言われるものがある程度の複雑さを持った生き物の上に現れるパターンなのだとしたら、馬のサイレンススズカもウマ娘のサイレンススズカもこの先頭を走るのが大好きなウマ娘も同じパターンで、皆等しく愛おしいし、先頭を一番早く駆け抜けていくスズカは力強くてかっこいい

  • 27二次元好きの匿名さん22/12/01(木) 03:14:27

    しゅごいぃぃ……(語彙力

  • 28二次元好きの匿名さん22/12/01(木) 07:00:48

    おはようございます
    今日から12月ですね。師走ですから、ウマ娘も走るでしょう。スズカさんはいつでも走ってるんでしょうが
    読んでくださってありがとうございました。感想も嬉しいです
    指摘があるように随所のネタは『文字渦』にあるのですが、書いてる間にちらついてたのは「あなたの人生の物語」でした
    「競走馬を元にしたウマ娘の物語」は、ヘプタポッド的な宇宙観を感じなくもないです

    では、今日もよい一日を

  • 29二次元好きの匿名さん22/12/01(木) 11:50:41

    きれいで静かな良い文章だった。100点!

  • 30二次元好きの匿名さん22/12/01(木) 15:54:48

    こういう世界観を広げるようなお話かけるの憧れちゃう。
    自分がやるとせいぜい日常ネタくらい出てこないから深堀出来るの本当にすごい。

  • 31二次元好きの匿名さん22/12/01(木) 19:25:45

    すごく…すごく素敵ですごいです!

  • 32二次元好きの匿名さん22/12/02(金) 01:23:42

    ...他の子でも読みたいわ!

    とりあえずカフェとブーちゃんとタキオンとオグリの場合を読みたいわ!(強欲な壺フェイス

  • 33二次元好きの匿名さん22/12/02(金) 01:34:46

    難しい話をしていたはずなのにスーッと情景が頭に浮かんでくるのは筆致ゆえか

    初期スズカさんいいですよね大好きです

  • 34二次元好きの匿名さん22/12/02(金) 02:40:42

    最後の1レス全部好き

  • 35二次元好きの匿名さん22/12/02(金) 03:10:13

    >>34

    ウワーッいつものファンアート職人!?

    白中心の部分と黒中心の部分の対比が良い

  • 36二次元好きの匿名さん22/12/02(金) 06:37:55

    おはようございます
    まだスレが残っていてとても驚いています

    イラストを描いていただいて、わたしのイメージする映像は、ごく平面的なのだなと思いました
    奥行きはあるらしいのですが、舞台を観るように上下の感覚に乏しいのです
    アオリの構図を見ていて感じました

    スズカさんはもちろんですが
    読んでくださった方々の中に、それぞれの推しのウマ娘の姿が、素敵に思い浮かんでいればいいなと考える次第です
    重ね重ね、ありがとうございました
    あとは適当に落としてください

    寒くなってきたので、風邪など召されませんように

  • 37二次元好きの匿名さん22/12/02(金) 11:13:44

    このスレを見て「はえ〜円城塔って人の文章はこんな雰囲気なのか」と感心し、とりあえず円城塔の本を6冊ほど買ってきました

    出会いのきっかけになった>>1に感謝

オススメ

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