- 1二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:12:21
以前載せたスレが消えたので載せ直し
リユウフオーレル(62年世代・通算37戦15勝・天皇賞秋・宝塚記念・有馬記念)
史上初めて同一年で天皇賞と両グランプリを制した馬。
デビュー後しばらくは安定した優秀な成績を収めていたがクラシックは菊花賞の2着が最高で獲ることは出来ず重賞1勝を挙げたのみで4歳を終える。
5歳に入ると徐々に本格化し、春の天皇賞では3番人気で出走。逃げ切りを図る1番人気コレヒサを大外から追い込むが僅かに及ばず2着に終わる。その後重賞2戦を挟んで宝塚記念2番人気で出走。1番人気の関東馬エムローンと激闘の末クビ差で下し優勝した。その後秋に入ると前哨戦2戦をこなし、大目標である天皇賞・秋に出走。同期の皐月賞馬ヤマノオー・菊花賞馬ヒロキミなどを抑え1番人気に支持された。レースでは直線でこれまた同期のヒカルポーラとの激しい競り合いとなり、結果リユウフオーレルがクビ差で抜け出し優勝。ダイナナホウシユウ以来8年ぶりとなる関西馬の天皇賞制覇をレコードで成し遂げた。名実と共に現役古馬最強馬となったリユウフオーレルは、一つ後輩の二冠馬メイズイと有馬記念で激突。事実上の最強馬決定戦となったこのレースは、逃げ込みを図るメイズイを残り100mで急襲したリユウフオーレルが差し切り勝利。関西馬史上初の有馬記念制覇を達成した。またこの年の年度代表馬をメイズイと共に同時受賞した(年度代表馬同時受賞は現在でもこの一例のみ)
翌年も現役続行し、過酷な斤量を背負いながら勝利を積み重ねたリユウフオーレルは海外レースのワシントンDC国際に日本代表として招待され出走。だが当時の海外輸送の困難さに加え体調も崩したこともあり最下位に惨敗。このレースを最後に引退した。
引退後は種牡馬となりそれなりの成績を収めていたが、内国産種牡馬冷遇の時代であった為やがて種牡馬を引退。その後は行方不明となってしまった。
通算37戦15勝。5歳以降は王者に相応しい安定感と強さを見せつけており、シンザン出現前の現役最強馬だったことは間違いない。東高西低と言われた当時において関西馬として傑出した成績を上げたことも評価出来る。また冒頭で記したように天皇賞・宝塚、有馬を史上初めて同一年で制した馬であり、その点は歴史に残るべき実績だと思う。当時の時代背景があったとはいえ行方不明になってしまったことが残念でならない。 - 2二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:14:17
その2 カブトシロー(65年世代・通算69戦14勝・天皇賞秋・有馬記念)
稀代のクセ馬にして世紀の化け物。エリモジョージ・ダイタクヘリオスの先輩として有名。
小柄で見栄えのしない馬体の上気性難で暴れまくっていた為調教もろくに出来ず全く期待されてなかった。デビュー後2戦目で勝利を挙げたがその後は冴えずに連戦連敗。身体は頑丈なのでレースには出されまくった。その後鞍上が優秀な騎手になると勝ち星も増え好走も多くなるが、その騎手が八百長事件で逮捕され、その影響によりカブトシローはその後周囲から良くない目で見られるという不幸なことまで起きる。
3歳時に10戦、4歳時に18戦、5歳時に16戦と凄まじいタフさで走り続けたカブトシローは、重賞での勝利や大レースでの好走も目立つようになってきたものの、はかったように人気薄時に好走、高人気時に惨敗を続けた為「新聞の読める馬」と呼ばれるようになる。
6歳になってからもレースに出まくったカブトシローは年明けから好走を続け、秋の天皇賞で悲願の大レース制覇。更に有馬記念ではスピードシンボリ以下を6馬身ぶっちぎり優勝。現役最強の一頭になる。なお年度代表馬はスピードシンボリに奪われる。この年は11戦して2勝だが2、3着が7戦あり比較的安定した年だった。
7歳でも現役を続行。勝利と着外を繰り返しながら引退レースの有馬記念まで14戦を走りきった。
通算69戦14勝。大レースを制した実力馬としては当時でも異常な出走数であり、この馬の頑丈さを際立たせている。この出走数なので時代の名馬(ダイコータ・キーストン・グレートヨルカ・ハクズイコウ・ウメノチカラ・コレヒデ・ヒシマサヒデ・スピードシンボリ・ヒカルタカイなど)と数多く走っている。残念ながら成績にムラがあった為ほぼ全員に負け越しており、評価も彼らと比べ低い。だが出走数と話題性ではダントツに突き抜けている。まさに歴史的クセ馬である。
20世紀の名馬100選にも選ばれてるが、出走数が桁違いな為エンディングがかなり長い。 - 3二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:15:25
その3 ハクズイコウ(64年世代・通算18戦11勝・天皇賞春)
シンザンと同期で、春天を驚異的なレコードで制した馬。
怪我などもありデビューが4歳9月とかなり遅れた為クラシック出走は叶わなかった。しかしデビュー後は翌年秋まで条件戦からオープン戦を10戦9勝2着1回と圧倒的な好成績を収め、この年での秋天では重賞未勝利ながらシンザンに次ぐ2番人気で出走した。だが同期の3冠馬には敵わず2馬身差の2着に完敗。暮れの有馬記念ではミハルカスと共にシンザン追い詰めかけるが一蹴され4着に敗れた。シンザン引退後も現役を続け、翌年初戦のアメリカJCCではシンザンとは似ても似つかない後輩クセ馬カブトシローを下し初重賞制覇、その後一戦を挟んで天皇賞・春に出走。レースには前述のカブトシローの他に皐月賞馬チトセオー、ダービー馬キーストン、菊花賞馬ダイコータ・牝馬初の宝塚記念馬エイトクラウンなどの錚々たるメンバーに加え、同期でシンザンの宿敵と呼ばれたウメノチカラも出走と当時最強のメンバーが集った。その中で1番人気に支持されたハクズイコウは、ウメノチカラに2馬身の差をつけ優勝。悲願の天皇賞制覇であったが驚愕すべきはそのタイム3分19秒4であり、これは従来のレコードを1.9秒更新する大レコードだった。このレコードは京都春天の不滅のレコードとなり長らく破られず、14年後に阪神開催の春天でニチドウタローによって、更に2年後に京都春天でモンテプリンスによってようやく更新されたた程のものだった。春天後のハクズイコウはその後三戦を走ったが勝てず、翌年引退した。
引退後は種牡馬となったがさしたる成績も残せずやがて引退。残念ながら行方不明となってしまった。
通算18戦11勝。白眉はやはり春天の歴史的レコード勝利であり、この一走で競馬史に永遠の栄誉を残している。またこの走りによってシンザン世代の強さを証明したとも言え、その功績も非常に大きい。シンザン世代といえばウメノチカラやカネケヤキが有名であるが、彼ももっと知られて欲しい名馬である。 - 4二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:15:59
長い
3000字以内に要約しろ - 5二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:16:27
その4 ハククラマ(59年世代・通算22戦8勝・菊花賞)
菊花賞をレコードで逃げ切った短距離馬。意味不明だろうが事実である。
デビュー戦は1000mのスプリント戦を4馬身差で完勝、その後は1800〜1400mのレースを5戦走って3勝を挙げた。だが2000mのNHK杯と2400mのダービは距離が長かったようで共に惨敗して春のクラシックを終える。秋になると緒戦のハンデ戦のマイル重賞を圧勝し好スタート。次戦の1800m戦を2着とし、2400mのセントライト記念に出走。明らかに距離は長い筈であったが3番人気に支持された。するとダービー2着馬のカネチカラ以下をあっさり逃げ切りで下し優勝。タイムもレコードであった。勢いのまま3000mの菊花賞に出走。もはや距離適性外も甚しかったが前哨戦のレコード勝ちを買われ1番人気に支持された。するとレースではスタートから先頭に立つと、そのまま快調に疾走。ダービー馬コマツヒカリやオークス馬オーカンらが沈む中で独走を続け、最後は後続に3馬身差をつけて逃げ切り優勝した。タイムは3分7秒7と、あのダイナナホウシユウやメイヂヒカリが打ち立てた従来のレコードを1.4秒更新するレコードであった。このレコードは16年後にプレストウコウが更新するまで破られず、更に菊花賞の逃げ切り勝ちに至っては39年後のセイウンスカイまで現れなかった。
菊花賞の後は1700mのオープン戦を2着とし、当時2600mの有馬記念に1番人気で出走。だが長距離な上不良馬場であったことも影響したか最下位12着に大敗。史上唯一の有馬記念1番人気の最下位(競走中止を除く)という不名誉な記録を作ってしまう。
翌年は2000m以下のレースを中心として6戦1勝2着3回とそれなりの成績を挙げ、この年を最後に引退した。
種牡馬になったが特に活躍した産駒はなく、やはり行方不明になった。
通算22戦8勝。セントライト記念と菊花賞を除く勝ち鞍は全て1800m以下のレースであった。その為4歳時には菊花賞を勝ったにも関わらず短距離でのレースでの活躍(1800m以下のレースは10戦5勝2着3回。2000m以上のレースでは前述の2レース以外は3戦全て7着以下)が評価されて最良スプリンター(現在の最優秀短距離馬)に選ばれている。当年に3000m以上の重賞をレコードで勝った最優秀短距離馬は恐らく空前絶後であろう。 - 6二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:16:53
50年前って資料残ってんのか
- 7二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:17:53
その5 ヘリオス(60年世代・46戦14勝)
大レース勝ちこそないが短距離で長く活躍し、史上初めて2年連続で最優秀短距離馬に選出された馬。
同名の馬が多いが恐らく初代のヘリオス。
デビュー戦は800mの超スプリント戦。その後18戦目まで一貫して1800m以下のレースを走り続け、4歳時には当時1800mだった宝塚記念にも出走した(結果は8着)。秋には1800mの京都杯で重賞初制覇、更に距離が長い2200mの京都記念でも優勝し、有馬記念にも出走した(8着)。この年は1800m以下で7勝を挙げ、クラシック路線とは無縁でありながらその活躍を評価され最良スプリンター(現在の最優秀短距離馬)に選ばれた。
翌年も主に短距離〜中距離で走り、重賞を2勝するなど活躍。史上初めて2年連続で最優秀短距離馬に選ばれた。翌年2戦走ったのを最後に引退。
通算46戦14勝。5歳までで44戦を走っており、当時においてもかなりの出走数である。5歳以降は中距離でのレースも増えたが4歳までの30戦はうち26戦が1800m以下の短距離であり、路線堅守の元祖ともいえる。当時の最優秀短距離馬はクラシックや中距離以上での実績が高い馬が多く選出されていたが、純粋に短距離での成績で選ばれたのは本馬が初めてであった。またヘリオスの主戦騎手は、後に調教師としてナリタブライアンやメジロパーマーを輩出した名伯楽大久保正陽氏である。 - 8二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:18:36
- 9二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:19:31
その6 ラプソデー(57年世代・34戦11勝・菊花賞・安田記念)
全盛期を前にして歴史的災害に全てを狂わされた悲劇の名馬。
名前の由来は狂詩曲ラプソディーにちなむ。半弟にシンザンとの激闘で有名なミハルカスがいる。デビュー戦は2着だったがその後4連勝。朝日杯では惜しくも2着に敗れるが3歳時で5勝2着4回と優れた成績を挙げ、クラシックへ向け大きく期待される。しかし年明け後は惜敗が続き、皐月賞では6着と惨敗。ダービーは故障などあって断念する。夏以降になるとオープン戦で勝利を積み重ねるなど調子を上げていき、菊前哨戦でのセントライト記念では2着に好走。菊花賞では3番人気に支持されると、1番人気の牝馬二冠ミスオンワードや後に天皇賞と有馬記念を勝つオンワードゼアなどの強敵を退け優勝した。
菊花賞優勝後は有馬記念3着、天皇賞春3着など好走するが勝てず、路線を変更して短距離路線へと向かう。すると安田記念を当時のレコードタイムで優勝し鮮やかな復活を遂げる。その後2戦した後、秋に向け静岡の伊豆にある温泉地に休養に出された。
だがこの年の9月末、後に『狩野川台風』と名付けられる巨大台風が日本列島に上陸。関東、主に静岡伊豆半島を中心に甚大な被害を与え、死者・行方不明者1200名以上を出す歴史的大災害をもたらした。静岡伊豆の温泉地の牧場にいたラプソデーはこの台風による鉄砲水に襲われ、濁流の中で行方不明になってしまう。翌朝になって発見されたラプソデーは奇跡的に救出されたものの全身に傷を負った状態であり、更にラプソデーの厩務員がこの鉄砲水によって命を落としていた。この悲劇のショックによりラプソデーは精神的に立ち直れなくなり、その後の周囲の懸命な努力も実らず遂にレースに復帰することなく引退した。その後は残念ながら不明である。
通算34戦11勝。菊花賞と安田記念という全く距離の異なる大レースを制した数少ない馬である。また有馬記念や天皇賞春でも好走、1400m以下のスプリント戦でも好走していたことから距離不問のオールラウンダーだった可能性もあり、もっと活躍が見たかった名馬である。『狩野川台風』という歴史的な大災害の被害に遭ったのは人間だけではなかったことを覚えておきたいと思った。 - 10二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:20:09
今のところ何頭ぐらいリストアップしてるの?
- 11二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:20:49
その7 ヒカルタカイ(67年世代・地方20戦12勝・中央11戦3勝・天皇賞春・宝塚記念)
ハイセイコー・オグリキャップらと並ぶ地方競馬史上最強の一頭。天皇賞を約3秒差で勝ったことで有名。
南関東公営競馬でデビュー。たった70万円で購買されたことや脚部不安があったこともあり評価は高くなかったが、全日本3歳優駿を勝つなど3歳時を7戦4勝2着3回という傑出した成績でスタートする。4歳になると黒潮盃および南関東三冠競走(羽田盃・東京ダービー・東京王冠賞)を全て制し史上初の南関東三冠馬となる。年末の東京大賞典は2着に敗れたが、この年の公営最良4歳馬に選ばれた。翌年春から中央に移籍。だが初戦はあのカブトシローに大差負けの2着、続く2戦も中央の実力馬に2着に敗れ(地方時代から数えて5戦連続2着)、やや実力が疑問視されてしまう。それでも春の天皇賞は1番人気に支持される。雨が降りしきる重馬場で行われたこのレースで、ヒカルタカイは3コーナーから先頭をうかがうと、直線に入った瞬間鬼脚を爆発。重馬場に苦しむ後続を置いて一頭大独走。カメラワークに一頭しか映らない程の差をつけてゴールした。2着との着差は2.8秒、およそ18馬身であり、これは八大競走(G1レース)史上最大着差として今でも残る記録である。なおこの圧勝は馬場状態によるものとしヒカルタカイの実力を疑問視する指摘も多かったが、続いて良馬場で開催された宝塚記念ではあのカブトシロー以下をレコードタイムで下し優勝。その実力を証明した。以後のレースは脚部不安の為休養したが、この年の最優秀5歳以上牡馬に選ばれた。
翌年は脚部不安の影響で思うような走りが出来ず不振が続き、この年を最後に引退した。種牡馬としては特に実績もなかったが無事に余生を送り長寿を全うした。
通算地方20戦12勝、中央11戦3勝。南関東三冠馬の栄光に加え、天皇賞春の圧勝と宝塚記念のレコード勝ちが印象深い。春天の動画はまだ残っており、それで観る直線の豪脚は凄まじいとしか言いようがない。また5歳までは全レースで3着以内という安定感も備えていた。後のハイセイコーやオグリキャップと比べると知名度は低いが、決して劣らない強さはあったといえるだろう。天皇賞春・宝塚で騎乗した野平祐二は彼について「強いの一言」と言葉を残している。 - 12二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:20:57
- 13二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:23:57
その8 ダイコーター(65年世代・30戦13勝・菊花賞)
現役時代はヒール的存在、引退後は救世主的な存在になった馬。
デビュー戦を大差で圧勝。その後も落ち着いたレース内容が続いたことから、クラシックの有力候補に挙げられる。4歳になるとオープン戦ときさらぎ賞を連勝し、前哨戦のスプリングSでは宿敵となるキーストンを下し優勝する。しかし1番人気で迎えた皐月賞本番では伏兵チトセオーにクビ差で敗れ2着になる。それでも続くNHK杯では優勝し、雪辱をかけてダービーへと向かう。ところがダービー直前、馬主が橋元幸吉氏から上田清次郎氏に変更となる。かつてあのダイナナホウシユウを擁しながらダービーを敗れた上田氏はダービー制覇に燃えており、その執念の程はトレード額がダービー賞金の約2.5倍であったことからも伺えた。このダービー本命馬の突然の馬主変更は大きな賛否両論を呼んだ。そして不良馬場で開催されたレースでは宿敵キーストンが逃げそれをダイコーターが追う展開となったが、馬場状態が明暗を分けキーストンが逃げ切り優勝。ダイコーターは2着に敗れた。このレースは「ダービーは金で買えない」という典型例として語り継がれることになる。
ダービー制覇こそならなかったが、秋では連勝街道を驀進。菊花賞では春に敗れたチトセオー、キーストンらを下し優勝した。この活躍ぶりから海外遠征の話も出る程だったが、しかしその後不運にも喉鳴りを患い成績は急降下、オープン戦は勝つも重賞以上では惨敗が続く。果てには障害戦にまで出走するがそれでも結果は残せず、6歳を最後に引退した。
引退後は種牡馬になったものの内国産種牡馬不遇の時代でもありさほど期待はされてなかった。しかし予想に反し決してニシノライデンなど活躍馬を多く輩出。母父としてもダイユウサクを輩出し、当時の内国産種牡馬としては異例といえる成功を収めた。種牡馬引退後は西山牧場で余生を送り、長寿を全うした。
通算30戦13勝。馬主変更の件でややヒール扱いされていたが菊花賞までは13戦10勝と圧倒的な成績を収めており、また宿敵キーストンにも勝ち越していたことから、喉鳴りを患わなければ古馬以降も活躍していたことは間違いない。それでも引退後は不遇な環境でも種牡馬として結果を出したことは大きく評価出来ることであり、競走馬・種牡馬成績双方が伴った名馬といって差し支えないだろう。 - 14二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:24:19
「昔のプロスポーツ選手は競技全体のレベルが低かったからしょぼい!」とか言ってそう
- 15二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:26:40
その9 フイニイ(67年世代・通算47戦12勝)
キーストンの悲劇とエピソードで有名な阪神大賞典の勝者にして、彼もまた悲運の連続の末に思わぬ最期を遂げた悲劇の馬。
世界的良血馬の仔として生まれたフイニイは、競走馬としての成績だけでなく引退後の種牡馬としての活躍も期待されていた。しかしデビュー後それなりの活躍をしてクラシックに挑んだものの、皐月賞3着が目立つ程度でその他は出走取り消しなどもあり期待外れの成績に終わる。それでもクラシック後の京都記念で初重賞制覇を果たすと、続く阪神大賞典でも優勝した。だがこのレースでは強豪キーストンが不慮の故障で最期を遂げており、その影がフイニイにも濃く影響していくことになる。
古馬になって以降は目標を天皇賞に絞っていくが、5歳時の天皇賞秋は惜しくも2着に敗れる。翌年は春先から不振が続いたが秋以降に重賞を勝つなど調子を上げ二度目の天皇賞に挑む。しかし3着と敗れ悲願はならず。年末の有馬記念も惨敗しこの年を終える。
7歳は年明けから好調で、春の天皇賞に挑む。ところがまた2着と惜敗。秋の天皇賞で今度こそ悲願達成を目指したが3度2着に敗れる。計4度の天皇賞で2着3回3着1回とツキに見放される。その後、7歳を最後に引退する予定であったが、八大競走を勝っていないことから種牡馬としての価値が微妙とされ、8歳となる翌年も現役を続行することになる。しかし5度目の天皇賞を前に故障を負い離脱。そしてその療養中の5月末、腹痛を起こし倒れ、その後手当のかいもなく急死した。種牡馬になる夢も叶わなかった。
キーストンの悲劇のレースの勝者としても有名なフイニイだが、キーストンの悲劇は人間と馬の絆の美しさの点も語られるのに対しフイニイの方は虚しさしか残らない悲劇としか言いようがない。今なら愛されそうな天皇賞での惜敗の連続もその最期を思えばなんかやるせない思いしか湧かない。キーストンと共に彼の悲劇も忘れられて欲しくないと思う。 - 16二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:27:36
その9 タニノハローモア(68年世代・30戦9勝・ダービー)
スパルタで知られるカントリー牧場で育ち、スパルタで知られる戸山為夫氏の指導で開花した“スパルタの申し子”。
生まれはカントリー牧場。「鍛えて最強馬を生み出す』という同牧場の方針のもと幼少期から徹底的に鍛えられたハローモアは、仲間の半数がデビュー前に競走能力喪失する中で同期のマーチスと共にそれに耐え抜いた。しかしその後幸か不幸か、入厩先が全く同じような調教方針を取る戸山為夫厩舎になり、全く休むことなく鍛えられ続けてしまう。
それでも耐え抜いてデビューに漕ぎ着けたハローモアは、逃げ戦法を武器に4戦目に初勝利を挙げると3連勝なども含め3歳時を10戦5勝という上々の成績で終える。だが年明け後は、この年の3強と呼ばれたタケシバオー・マーチス・アサカオーらがいたこともあり勝てないレースが続く。皐月賞も幼馴染のマーチスが優勝する一方で6着に惨敗。しかし続くNHK杯では敗れたもののマーチス・タケシバオーに次ぐ3着に好走し上昇に気配を見せる。迎えたダービーでは、前述の3強が人気を分け合い、ハローモアは9番人気の低評価であった。しかし1枠1番で出走したハローモアは好スタートから逃げに出ると、後ろで牽制しあう三強を尻目に快走。3強が気づいた時は既に時遅く、そのまま後続に5馬身差をつけて完勝。ダービー馬の栄誉に輝いた。展開のアヤに助けられたフロック勝利などと言われたが、その後朝日チャレンジCで勝利し京都杯ではアサカオーを下して優勝するなど実力を証明した。菊花賞はハイペースもあり6着と惨敗したがその他のレースでは掲示板を外さない安定感を見せこの年を終えた。翌年もレースに次々と出走し、中京記念をレコード勝ちするなど成績を残した。この年の春を最後に引退した。
通算30戦9勝。1年半程の現役生活でこの出走数であり、まさにスパルタ教育の申し子であった。ダービーの栄誉だけでなく逃げ馬でありながら掲示板を外したのは僅か2戦という安定感も光る。同期の3強に比べると知名度や実力はやや低く見られているが決して劣らない強さがあったことは間違いない。後にミホノブルボンを輩出したことで有名な戸山為夫にとっては自身の調教理念で初めて輩出した名馬であった。 - 17二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:29:12
その10 タカオー(54年世代・中央46戦27勝・地方18戦4勝・天皇賞春)
ダイナナホウシユウの宿敵にして、“走る精密器械”の異名をとった稀代の頑丈馬。
デビュー前は後の宿敵ダイナナホウシユウと共に厳しい鍛錬を施され、それにより頑健な身体を手に入れる。ただ馬体は同馬と似て比較的小柄であった。3歳7月にデビューすると3戦目で勝利。3連勝後一戦2着を挟んで年末の朝日杯まで5連勝。3歳を11戦8勝で終える。年明け後も快進撃を続け、スプリングSも優勝するなど中央競馬のタイ記録である11連勝を記録する。しかし皐月賞では10戦10勝のダイナナホウシユウとの2強対決となりながら同馬の4着に完敗。それでもNHK杯では同馬に初敗北を与える雪辱を果たし優勝。ダービーでも直線で逃げ切りを図るホウシユウを捉え交わしたが、後続の地方出身馬ゴールデンウェーブの豪脚に屈し2着に敗れた。その後は現在ならば休養に充てられるところだが、タカオーは菊花賞まで約半年間でなんと13戦を消化。その疲労が祟ったか菊本番ではホウシユウ(同馬はダービー〜菊まで4戦)の圧勝を許し4着。クラシックタイトルは逃した。翌年も相変わらずレースに出まくり、天皇賞春ではホウシユウ不在の中圧倒的な強さでレコード勝利。悲願の大レース制覇を果たす。その後は、当時は古馬大レースが天皇賞以外なくまたそれも勝ち抜き制であったこと、更に過酷な斤量が課されるようになったこともあり、同年6月に公営南関東競馬に移籍する。しかし長年の連戦の疲労が溜まったのか、南関東ではさしたる成績も収められず引退した。
引退後は小柄な馬体の影響か国内では種牡馬になれず、ビルマ(現ミャンマー)に寄贈され同国で種牡馬に。しかしその後同国で発生した内戦に巻き込まれ、消息不明となった。
中央46戦27勝・地方18戦4勝。中央時代の出走数とレース間隔が完全に異次元であり、皐月賞までの17戦14勝とか現在では到底考えられず、4歳時の出走数27戦に至っては何やってんだとしか言いようがない。後に“鉄の女”として有名なイクノディクタスが7歳11月で51戦だったのに対しタカオーは5歳6月で46戦だということを顧みればその異次元さがよく分かる。もうこんなローテで走る馬は2度と出ないであろう。 - 18二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:32:01
その11 ナスノコトブキ(66年世代・20戦6勝・菊花賞)
悲惨な最期ゆえ語られることが少ない名馬。
政治家河野一郎が創設した那須野牧場で生まれたナスノコトブキは優れた素質に恵まれ、河野はこの馬にクラシック制覇の夢をかけていた。しかし河野はコトブキのデビュー前に急逝したためその勇姿を見ることはなかった。デビュー戦は勝利を挙げたがその後は冴えず3歳時は4戦2勝で終わった。年明け後も凡走が続き、スプリングSでは3着に入ったものの賞金が足りずに皐月賞出走はならず。それでもNHK杯では皐月賞馬ニホンピロエースライデンを下して優勝し重賞初制覇と共にダービーへの出走権を掴むと、ダービー本番ではテイトオーの3着に健闘。世代の実力者として頭角を現す。秋に入ると朝日チャレンジCを勝利し最後の一冠菊花賞へ。極限の状態で仕上げ出走したコトブキは、第3コーナーからスパートをかける戦法に出る。ニホンピロエースやテイトオーが沈む中そのまま押し切りを図るがゴール前に当時伏兵のスピードシンボリが猛襲。ほぼ同時にゴール板を駆け抜ける。長い写真判定の末ハナ差でコトブキが優勝、亡き河野の悲願であったクラシック制覇を果たす。タイムも稍重でありながらハククラマのレコードに次ぐ好タイムであった。その後有馬記念は5着に終わったが、この年の最優秀4歳牡馬に輝く。翌年は勝ち星こそつかないが内容ある走りを続け、春の天皇賞へ。だがレース当日は非常に調子が悪く、その状態を危惧したまま本番を迎えた。そしてその危惧は的中し、コトブキはレース中に故障を発症し競走中止した。故障の内容は左脚の中足骨骨折と複雑骨折で即安楽死もやむを得ない程のものだったが、周囲は延命を願った為治療生活が始まる。だがそれは完全に誤った選択で、故障10日後には患部に入った細菌が内部で毒素を撒き散らした為敗血症を発症。その苦痛によりコトブキは発狂状態となり、そしてそのまま死亡した。あまりにも悲惨な最期であり、彼の看護にあたっていた厩務員も心身を病んで競馬界を去った。
レース中の故障でこの世を去った名馬の中でも代表的な馬。その悲惨な最期ゆえあまり表で語られることがない。しかし彼が残した栄光は語り継がれて欲しいものである。スピードシンボリの主戦騎手であった野平祐二は、ナスノコトブキが無事ならばスピードシンボリのライバルになっていたと回想している。 - 19二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:34:12
その12 ダイシンボルガード(69年世代・24戦7勝・ダービー)
珍事だらけだった69年ダービーの優勝馬として有名。
デビューから皐月賞までは7戦4勝2着3回と優れた成績を挙げるが、4番人気に推された皐月賞では14着に大敗。NHK杯でも4着に敗れ、やや評価を落とした形でダービーへ。このダービーは皐月賞馬ワイルドモアが不在で、更に泥んこ不良馬場でもあり混戦が予想された。するとレースでは1コーナーで1番人気のタカツバキが馬群に揉まれた際に鞍上が落馬、競走中止するというアクシデントが発生する。そんな波乱の中レースは大外枠の7番人気ハクエイホウが質の高い逃げに出て、泥んこの直線でも失速せずに逃げ込みを図る。その外から3番人気ミノルと6番人気ダイシンボルガードが迫り、ゴール前は3頭の叩き合いとなるが、この時事件が発生。激闘に興奮したのかダイシンボルガードの厩務員である石田健一氏がなんとコースに乱入して応援を初めてしまったのだ。その応援に力を得たのか、ボルガードは他2頭との叩き合いを制し先頭でゴール。ダービー優勝を果たした。(なお当然だが石田氏は競馬会から厳重注意の処分を受けた。ただ事件時は観衆から拍手が送られていたらしい)鞍上の大崎昭一騎手も初のダービー制覇(それも当時最年少)であり、レース後はファンによって史上初の胴上げが行われた。なお2着のミノル鞍上の保田隆芳騎手は勝っていれば前人未到の3度目のダービー制覇だったがそれはならなかった。
波乱だらけのダービー馬となったボルガードだが秋は冴えず、菊花賞は15着と大敗。それでも有馬記念では3着に入り力を見せた。翌年以降も現役を続行しダイヤモンドSを勝つなどしたが故障もあり徐々に成績が低下。これまでと思われた。しかし6歳の秋の天皇賞で3着と復調し、続く有馬記念でも再び3着と好走。その実力を証明した。この有馬記念最後に引退した。
引退後はぼちぼち種牡馬生活を送り、20歳でこの世を去った。
波乱だらけのダービーの優勝馬として有名だが、その後の大レースで何度も好走していることから決して一発屋ではなく、世代を代表する強豪であったことは確かだろう。ウマ娘にしたらあのダービーはどんな描写になるのか気になるところ。 - 20二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:36:03
その13 オンワードゼア(57年世代・中央31戦11勝・海外3戦0勝・地方5戦2勝・天皇賞春・有馬記念)
三つの名を持つ競走馬で、3つの競馬会で走った馬。ネタ馬みたいだが競走馬としても種牡馬としても実績を挙げた名馬ある。
デビュー時はニツポンイチという馬名でデビューしたが、後にオンワードゼアに改名(改名の時期は定かでない)。デビューから春のクラシックまでは特に目立った成績でもなかったが、秋になると連続して好走し頭角を現し、菊花賞ではラプソデーの2着に入る活躍を見せた。年末の有馬記念でもハクチカラの2着に入り、世代を代表する一頭へ。翌年は年明けから好走を続け、春の天皇賞ではラプソデーや同期の名牝ミスオンワードらを下し優勝。その後日本経済賞でも再びラプソデーを下し優勝。その後は斤量もありやや不振に陥るが、有馬記念ではミスオンワード以下の強豪を下し優勝。この年の年度代表馬に選ばれた。翌年は前年のハクチカラに続き海外遠征を敢行。しかし調教中の故障もありしばらくレースにすら出れず、7歳でようやく出れたものの3戦全て惨敗という結果に終わった。この年を最後に引退。
引退後は種牡馬入りしたが、内国産種牡馬冷遇の時代もあり配合相手に恵まれず、引退3年後に北海道の公営競馬にオンワードゲイという名で出走。5戦して2勝した。その後引退し再び種牡馬となるとオンワードガイやジーガーといった重賞馬を輩出し注目を浴びる。その後は徐々に配合相手にも恵まれ、当時の内国産種牡馬としては健闘といえる成績を収めた。75年19歳で歿。
色々と波瀾万丈な経歴を辿った馬であり、今ならかなりのネタになりそうな馬である。当時はハクチカラの存在が大き過ぎた為あまり目立たない存在だが、挙げた実績は間違いなく超一流である。 - 21二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:37:36
その14 ミスオンワード(57年世代・通算28戦14勝・桜花賞・オークス)
史上初の無敗二冠牝馬。
同期の名馬オンワードゼアと馬主が同じで、デビュー前は彼以上に期待を集めていた。その期待に応えオンワードはデビューから連戦連勝。3歳を4戦4勝で終え最優秀3歳牝馬に。4歳になっても勢いは止まらず、6連勝で桜花賞優勝。更に8連勝でオークスまで優勝し、無敗の二冠牝馬となった。この強さを受け、連闘でダービーにも出走。流石に無理で17着に大敗したがその挑戦には大きな称賛が送られた。
当時は秋の牝馬クラシック路線が整備されていなかった為、牡馬と同じく菊花賞へ向け調整。前哨戦の神戸杯は勝ったが本番の菊花賞では10着に敗れた。しかし牝馬としては圧倒的な成績を収め続けた結果最優秀4歳牝馬に選出。古馬になって以降も牡馬に混じって活躍を続け、5歳秋の目黒記念ではオンワードゼアを下し優勝。続く天皇賞秋でも2着に健闘した。この年を最後に引退。
引退後は繁殖牝馬となったがここでも活躍。オンワードセカンド、アポオンワード、ハードオンワードといった重賞馬を輩出した。後継牝馬からもスダホークやクリオンワードを輩出した。繁殖牝馬後も健やかな余生を送り、33歳という長寿を全うした。
通算28戦14勝。競走成績、繁殖実績、長寿全て揃った歴史的名牝といえる。彼女の後の無敗の二冠牝馬は63年後のデアリングタクトまで現れなかった。似たタイプで少し後の世代のカネケヤキがいる為少々目立たないが、実績と繁殖成績では優に彼女を上回る成績を上げている。なおカネケヤキとシンザンが激突した菊花賞では産駒のオンワードセカンドが出走(3着)している。個人的に顕彰馬になってもおかしくなかった昭和の名牝だと思っている。 - 22二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:45:21
その15 ヒカルポーラ(62世代・40戦16勝・天皇賞春・宝塚記念)
史上初めて同一年で天皇賞春と宝塚記念を制したが、同期&後輩が強過ぎた為あまり目立たない不遇な名馬。
デビュー後しばらくはぼちぼちの成績を挙げていたものの目立った活躍はなく、その為春のクラシック出走は叶わず。しかし秋に入ると成績は上昇し、神戸杯ではリユウフオーレルの2着、朝日チャレンジCでも2着と健闘した。菊花賞でもヒロキミ、フオーレルに次ぐ3着。その後故障の為長期休養に入る。復帰したのは翌年の秋で、復帰後3戦を2勝2着1回と上々の成績で天皇賞秋へ。2番人気に支持されたが、1番人気リユウフオーレルと激闘の末クビ差及ばず惜敗。この年3大レースを制した同期の天敵に3度目の苦杯を舐めさせられた。しかし年末の阪神大賞典を制し初の重賞制覇を果たす。
翌年は勝ち抜き制の為天皇賞にフオーレルがおらず優勝候補に挙げられる。しかし前哨戦で後輩二冠馬メイズイに完敗。その為天皇賞春本番では1番人気をメイズイに奪われる。だがレースでは最内を走って逃げ切りを図るメイズイを直線で大外から交わし優勝。悲願の大レース制覇を果たす。一戦挟んで迎えた宝塚記念では海外遠征を控えた天敵リユウフオーレルと最後の対決。彼を置いて1番人気に支持されたヒカルポーラは直線で伸びを欠いた天敵を突き放し、最後は牝馬パスポートをハナで差し切って優勝。リユウフオーレルに初勝利すると共に史上初の天皇賞春・宝塚記念の同一年制覇を成し遂げた。秋に入っても連勝を続け、有馬記念では断然の人気を得た。ところが同年の天皇賞秋をレコードで制したヤマトキヨウダイの5着とまさかの惨敗。この為年度代表馬どころか最優秀5歳以上牡馬まで逃した。
翌年も現役を続行。連覇をかけて宝塚記念に出走し、前年の3冠馬シンザンと激突。2強対決と思われたが不良馬場にやられ勝負ならず5着に大敗。秋、引退レースの有馬記念でシンザンに再び挑んだが不運にも馬場が稍重。シンザンの6着に敗れた。
通算40戦16勝。実績的にも超一流といって差し支えない馬だが、同時代に化け物が多過ぎた為やや印象が薄い。だがこの馬の特筆すべき点は7歳まで走ったことであり、当時としては珍しく3年に渡って第一線で活躍を続けた。この時代のレースを盛り上げた功績という点では彼が1番に評価されるべきでであろう。 - 23二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:46:31
その16 トースト(62年世代・39戦17勝)
当時としては珍しい晩成型の牝馬。
デビュー2戦目で初勝利挙げて以後は6戦5勝2着1回という成績でクラシックへ。しかし1番人気を背負った桜花賞では2着に惜敗。オークスも2番人気を背負ったが18着と大敗しタイトルは取れず。その後は主に短距離のオープン戦を中心に走り好走を続けるが重賞とは縁がないまま5歳まで終える。
6歳となって初戦の金杯で、この年宿敵となるヤマトキヨウダイらを下して重賞初勝利。3戦後の中山記念では再びヤマトキヨウダイを下し重賞2勝目。その後三戦惜敗が続いたがアルゼンチンJCCではレコードで勝利し重賞3勝目。秋に入ると毎日王冠でウメノチカラ、ヤマトキヨウダイらといった強豪を下し重賞4勝目。牝馬でありながら秋の天皇賞の有力候補に推される。迎えた天皇賞秋では相手にメイズイ・ヤマトキヨウダイなどの強豪を相手に奮闘。ヤマトキヨウダイのレコード勝ちに屈したものの1馬身差の2着に入る。なお後続は8馬身以上離されており、ほぼ両頭のマッチレースであった。引退レースとして迎えた有馬記念は前記の2頭に加えヒカルポーラとウメノチカラも出走。流石に厳しいと思われたが再び奮闘。またしてもヤマトキヨウダイに敗れたが他の強豪には先着しての2着に食い込んだ。この年の大活躍によって文句なしに最優秀5歳以上牝馬に選ばれた。
引退後は繁殖牝馬としてダービー馬ラッキールーラーを輩出するなど活躍し、30歳の長寿を全うした。
通算39戦17勝。大レースとは縁がなかったが6歳時の大活躍は牝馬の歴史においても特筆すべきものといえる。特にこの年天皇賞と有馬を制したヤマトキヨウダイとは3勝3敗の五分、メイズイにも2勝1敗、ウメノチカラに2戦2勝、ヒカルポーラにも1勝と当時の第一線牡馬相手に全く引けをとらなかった。しかもこの年の出走数は17戦と最も多く、その中でのこの結果は凄いの一言。また17勝中14勝が1800m以下の勝利であることを示すように本質は短距離馬であり、最良スプリンターにも選出されている。 - 24二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:47:52
その17 イシノヒカル(72年世代・15戦7勝・菊花賞・有馬記念)
史上初の4歳有馬記念優勝牡馬。
400万円で購入されるなどあまり期待はされてなかったが、デビュー後は8戦して4勝2着2回という優秀な成績を出してクラシックへ。この年のクラシックはタイテエム・ロングエース・ランドプリンスの関西3強が中心と見られており、イシノヒカルはそれに次ぐ関東の代表馬とされていた。皐月賞本番ではロングエースがハイペースで逃げてしまう展開の中最後方で追走。直線で失速したロングエースとタイテエムを交わすがランドプリンスを捉えきれず2着に終わる。続くダービーでは大外枠を引いた不利もあり、3強がレコード決着の激闘を繰り広げる中で6着の惨敗に敗れる。その後日本短波賞を2着とした後休養へ。夏を越え秋の菊花賞へ調整を進めていたがなかなか上手くいかず、ようやく西下したのは菊花賞の2週間前だった。急ピッチの仕上げなった為回避も考えられたが、菊9日前のオープン戦に出るとこれを勝利。陣営は自信を持ってほぼ連闘となる菊花賞へ出走を決断した。
菊当日は相変わらず3強が人気を集め、イシノヒカルは連闘を嫌われて5番人気と評価を落とした。レース前に暴れたり蹄鉄を打ち直したりというトラブルがあったが、レースでは好スタートを切ると3強を見る形で後方に控え、直線に入ると最後方から末脚を爆発。3強の争いを制したタイテエムが前に出たところを並ぶ間もなく交わし、先頭でゴールを駆け抜け優勝した。その後年末の有馬記念にも出走。メジロアサマ・メジロムサシ・ベルワイドなど3頭の天皇賞馬に加え同期3強の一角ロングエースなどの強豪が集まった中1番人気に支持される。そしてレースではメジロアサマに1馬身半の差をつけ優勝、史上初めて4歳牡馬としての有馬記念制覇を果たした。この年の年度代表馬と最優秀4歳牡馬を受賞。しかし古馬になって以降は激闘の疲労もあり殆どレースにも出れず引退した。
種牡馬になったものの特に産駒は残せず、病気により18歳で歿。
昭和最強世代と呼ばれる72年世代の一頭であり、その中でも最強とされた馬である。菊花賞でイシノヒカルに騎乗した増沢末夫は自身が騎乗した最強馬として彼を挙げている。最近タイテエムがウマ娘化の話題に出ることが多いが、もしそうなったら最強の敵としてイシノヒカルも出現するだろう。 - 25二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:52:47
その18 スターロツチ(60年世代・25戦9勝・オークス・有馬記念)
史上初めて4歳で有馬記念を制した牝馬。しかも抽せん馬であった。
競走年齢を迎えるまでに生産者と馬主間で取引が成立しなかった馬を競馬会が買い取り、独自に育成調教を施して改めて馬主に再頒布する、これが抽せん馬制度と呼ばれる。優秀と見られた馬は早期に取引が成立することが常であるため、抽せん馬は質が劣るとされていた。スターロツチは幼少期は体格が優れなかった為か買い取り手がなく、抽せん馬となった。
その後馬主に頒布されデビューしたスターロツチは、抽せん馬限定戦が多かったものの桜花賞まで6戦3勝とそれなりの成績を挙げた。桜花賞ではトキノキロクの半馬身差の3着と健闘した。次戦では大敗したため評価を落としたが、9番人気で迎えたオークス本番ではクインオンワードをクビ差で下し優勝。抽せん馬として史上初の八大競走制覇を果たした。また鞍上の高松三太にとっても23年目にして初の八大競走制覇だった。
この後は重賞戦線で精彩を欠くレースが続いたものの秋後半になると調子を上げ、有馬記念に出走。コダマ・コマツヒカル・オーテモン・ヘリオスなど錚々たる強豪が集まった中で再び9番人気となったスターロツチは、スタートからヘリオスと逃げを敢行。ハイペースと勘違いした後続が牽制しあい控えるでペースを保ったまま逃げ、直線に入るとヘリオスを競り落とし独走。追い込んできたオーテモンに2馬身差をつけて優勝した。4歳牝馬で初の有馬記念制覇の偉業を成し遂げ、この年の最優秀4歳牝馬に選出。
翌年は不振が続き、秋のレースで故障した後そのまま引退した。
引退後は繁殖牝馬に。自身の産駒は目立った活躍はなかったものの後継牝馬達が大きな活躍を見せ、その血を広く繁栄させた。その後30歳に老衰でこの世を去るまで長寿を全うした。
現在でも史上唯一の4歳(現3歳)牝馬での有馬記念覇者としてその名を残している。しかしその実績よりも繁殖牝馬としての功績の方が有名であり、そちらも永遠となりそうなことから名牝中の名牝といっても過言ではないかもしれない。 - 26二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:54:06
その19 イツセイ(51年世代・32戦21勝・安田賞)画像なし
元祖短距離馬ともいうべき名馬で、初代安田賞(安田記念)優勝馬。
3歳秋にデビューするとスプリント戦を3連勝。無敗で朝日杯に挑むが、これまた無敗の同期で後の天敵となるトキノミノルの2着に完敗し3歳王者は逃す。年明け後はクラシックまで5戦3勝2着2回(負けた2戦の1着はいずれもトキノミノル)の優秀な成績でクラシックへ。しかし皐月賞・ダービーともトキノミノルの2着に敗れ優勝を逃す。ダービー後間もなくトキノミノルが急逝した為、彼には一度も勝てず終いだった。トキノミノル亡き後は彼以外に先着を許してなかったこともあり世代最強と目される。その期待に応えダービー後4連勝。その中には安田賞も含まれていた。だが毎日王冠で後の天皇賞馬ミツハタの2着に敗れると、菊花賞ではこれまた後の天皇賞馬トラツクオーに完敗。3着と連対も逃してしまう。その後年末の特別戦では着外に敗れ大きく評価を落としてしまう。
それでも古馬になって以降は初戦から5連勝と復調。その後も天皇賞は走らずオープン戦で勝利を重ね、ミツハタとも3戦し1勝2敗。この年の夏に引退した。
引退後は種牡馬となり、皐月賞馬タイセイホープや重賞馬イリユウなどを輩出。同期の中では最も実績を残した。
通算32戦21勝。勝ちレースは全て2000m以下のレースであり、その距離に限ればトキノミノル以外には負けなかった。それ故明確に短距離馬であり、当時の重賞や大レースは殆どが長距離であったことがイツセイにとって厳しかったといえる。それでも連対を外したのは僅か3戦と驚異的な強さと安定感をみせており、トキノミノルの存在に隠れているが彼もまた歴史的名馬であったと言えるだろう。 - 27二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:55:43
その20 ガーネツト(58年世代・38戦14勝・天皇賞秋・有馬記念)画像なし
牝馬史上初の有馬記念優勝馬。
父は顕彰馬にして大種牡馬トサミドリ。馬主は戦前から馬産に力を入れていたが戦中は召集されシベリアに抑留されるなど苦難の日々を過ごした畑江五郎。農地解放政策などで多くの牧場を手離した畑江が再起の目指す中で誕生したのがガーネツトだった。
しかし初勝利はデビュー4戦目、その後勝利を重ねて牝馬クラシックに出たものの桜花賞、オークス共惨敗。気性難が激しかったらしく、オープン戦では勝ち星を重ねるものの重賞では善戦が精一杯で未勝利のまま5歳秋までを迎えてしまう。この限りで引退を決めていたガーネツトは、引退土産も兼ねて天皇賞秋へ出走。メンバーはオーテモン(翌年の天皇賞馬)が目立つ程度で手薄であり、重賞未勝利ながら近走は好走が多く状態も良かったガーネツトは3番人気で出走。すると断然1番人気で逃げ込みを図るオーテモンと激しい競り合いとなり、結果ハナで勝利。重賞初勝利を天皇賞で飾った。この勝利が評価され、年末の有馬記念に推薦で出走。先のオーテモンに加えハククラマ・コマツヒカリなど当年のクラシック馬など強豪が揃い、ガーネツトは天皇賞馬ながら9番人気の低評価。しかしレースではハイペースでレースを引っ張るハククラマを好位で追走。直線で馬場状態の良い大外に持ち出すと失速したハククラマやコマツヒカリを諸共差し切り、後続に4馬身差をつけ優勝。牝馬史上初の有馬記念馬となった。予定通りこのレースを最後に引退した。この年の最優秀5歳以上牝馬に選ばれている。
引退後は繁殖牝馬として活躍。多くの牝馬を産み、今でもその血は受け継がれている。最近の馬ではメイショウサムソンがガーネットの血を継いでいる。
通算38戦14勝。牝馬初の有馬記念馬という記録は無論、天皇賞と有馬記念を制したのもこの馬とあのトウメイだけである。トウメイに比べると知名度は低いが、その十年以上前にいたこの女傑の名も記憶され続けて欲しいものである。 - 28二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:56:00
多分あにまんにいる奴こんだけ長い文章読めないと思うよ
あとせめてその馬の写真くれ - 29二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:57:07
その21 タカマガハラ(60年世代・地方15戦3勝・中央35戦7勝・天皇賞秋)
地方から中央に挑戦し、海外にも参戦した名馬。
南関東公営競馬でデビュー。それなりの好走を続けていたが同期にオンスロートという怪物がおり、地方のタイトルには恵まれず。4歳春に中央に移籍しダービーにも出るがコダマの10着に惨敗。その後1勝を挙げたものの重賞とは全く無縁のまま4歳までを終える。5歳になると一気に本格化。春には同期の強豪ホマレボシを連続して下し重賞を連勝、他のレースでも3着以内という安定した成績を残し秋へ。春の勢いは止まらず目黒記念で再びホマレボシを下し優勝。天皇賞秋に挑む。レースにはホマレボシの他にハローモア・シーザーという強豪の他に、遅れて中央入りしたオンスロートがいた。レースではそのオンスロートとの一騎打ちになったが半馬身差でタカマガハラが勝利。地方時代4戦全敗だった天敵を初めて下し天皇賞を制した。年末の有馬記念にも出走したが、ここではホマレボシに惜しくも敗れ2着。この年の最優秀5歳以上牡馬に選ばれた。
翌年も現役を続行。ライバル達と激闘を繰り返し、秋には海外のワシントン国際DCに招待され出走し10着。帰国後は年末の有馬記念に出てオンスロートの2着に奮闘した。翌年1戦し引退。
通算地方15戦3勝・中央35戦7勝。60年世代は顕彰馬コダマが有名だが、彼に続きホマレボシ、オンスロートと3年連続で年度代表馬を出すなどその他の強豪も多く、昭和最強世代の一つとされている。最優秀5歳牡馬になったタカマガハラもその一頭。天皇賞制覇などの実績は勿論、彼の凄いところは海外遠征帰りの有馬記念2着だろう。当時の海外遠征の困難さと劣悪さを考えれば、帰国僅か1ヶ月後の有馬2着はかなりの化け物ぶりである。 - 30二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:58:19
あにまん民はSSを除いて3行以上の文章が読めないと言われている
- 31二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 18:58:54
その22 カツラシユウホウ(58年世代・通算25戦13勝)
史上唯一の牡馬クラシック3冠2着馬。
デビュー戦で勝った後、勝利と惜敗を繰り返しながら朝日杯へ。これを優勝し最優秀3歳牡馬に選出。 クラシックの最有力候補と目されその後も勝ち星を重ねていったが、皐月賞とダービーでは共に1番人気を背負いながらタイセイホープとダイゴホマレの2着に敗れる。次戦中山4歳Sでは初の惨敗を喫するが、その後レコード勝ちを含む4戦3勝と調子を上げ菊花賞へ。だがコマヒカリの2着に敗れ、クラシック戴冠は叶わなかった。 翌年は初戦の中京記念で勝ち、1番人気で天皇賞春に挑む。しかし同期のトサオーの前にまたまたまた2着。その後は故障もあり、八大競走制覇の夢が叶わないまま翌年秋に引退した。
引退後は種牡馬となったがさしたる成績も収められず、やがて用途変更となり行方不明となった。
通算25戦13勝。史上唯一の牡馬クラシック全2着、更には天皇賞も2着という成績で大レースに恵まれなかった悲運の馬。負けた大レースの着差もクビ、ハナ、半馬身、ハナと僅差であり、運がなかったとしか言いようがない。また5着に敗れた中山4歳S以外では全て連対の成績を収めており、もし同レースが連対だったらばあのシンザンを超える連対記録だった。その点も運がない。一つ運が違っていたら歴史的名馬になれたかもしれないので、そこは惜しい所である。 - 32二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 19:00:18
その23 ヤマトキヨウダイ(63年世代・38戦12勝・天皇賞秋・有馬記念)
60年代前半の名馬の一頭。
父は大種牡馬ヒンドスタン、母の父はクモハタという良血馬でデビュー前から大きく期待されていた。しかしデビュー後は凡庸な成績が続きクラシック出走は叶わず、オープン勝ちが精一杯で重賞も未勝利のまま4歳までを18戦5勝の成績で終える。 5歳になっても春の重賞2戦では共に名牝トーストの後塵を喫していた。
だが夏に入ると本格化。連勝を重ね日本経済賞で重賞初制覇。秋諸戦の毎日王冠では再びトーストに敗れたが目黒記念ではアサホコ(後の天皇賞馬)やコウライオーなどの強豪を退け優勝。迎えた秋本番の天皇賞秋では2番人気に支持されると、1番人気の二冠馬メイズイや宿敵トーストを下しレコードタイムで優勝。八大競走制覇を果たす。更に年末の有馬記念に出走。前述2頭に加え6連勝中の天皇賞馬ヒカルポーラとの激突となったが再び優勝。年度代表馬は3冠馬のシンザンに譲ったがこの年の最優秀5歳以上牡馬を受賞した。
翌年も現役を続行。やや燃え尽きたのか勝ち星は挙げられなかったが年末の有馬記念まで9戦を走り切り、この年をもって引退した。
引退後は種牡馬となったが目立った産駒は残せないまま11歳で急逝した。
通算38戦12勝。同時代の怪物リユウフオーレル・ヒカルポーラ・トースト・メイズイ・シンザンらと比べると少々印象は薄いが、この時代を彩った名馬の一頭であった。 - 33二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 19:01:13
その24 レダ(52年世代・29戦17勝・天皇賞春)
史上唯一、天皇賞春を制した牝馬。また悲劇の馬としても知られる。
3歳夏にデビューすると、そこからレコード勝ち3度を含む怒涛の7連勝。阪神3歳Sこそ敗れたがクラシックまでは9戦8勝の圧倒的な成績を収める。しかし桜花賞本番では、この年史上初の牝馬2冠となるスウヰイスーの2着に敗れる。続いて果敢にダービーに挑む(当時のオークスは秋開催)が10着に大敗。秋はオークスに向かわず菊花賞に挑戦するが4着と敗れ、やや不本意な成績で4歳を終える。
5歳になると年明け4戦を3勝と復調し、天皇賞春へ。牝馬ながら1番人気に支持されると、同じく牝馬のクインナルビー(同年天皇賞秋優勝馬)を2馬身半差抑えて優勝。八大競走初制覇を史上初の牝馬天皇賞春制覇で飾った。
その後も重賞で2勝挙げるなど活躍し、引退レースとして秋の毎日王冠に出走。しかし不運なことにレース中に故障を発生し競走中止。重度の骨折で予後不良の診断がされ、コース上で薬殺処分となった。享年5歳。
通算29戦17勝。同期の52年世代はレダだけでなく前述のスウヰイスー・クインナルビー、タカハタなど歴史的にも強豪牝馬が揃っていた世代として知られている。その中でもレダは現在もなお史上唯一の天皇賞春を制した牝馬として歴史にその名を大きく留めている。最期が本当に残念である。 - 34二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 19:02:03
その25 ハクチカラ(56年世代・中央32戦20勝・海外17戦1勝・ダービー・天皇賞秋・有馬記念・ワシントンバースデイH)
日本馬として史上初めて海外重賞を制し、顕彰馬にも選ばれた歴史的名馬。
デビューから無敗の5連勝をするが、朝日杯では中央での宿敵となるキタノオーに敗れ2着。その後クラシック初戦の皐月賞は調整中のトラブルもあり12着と大敗したが、ダービーではキタノオーを3馬身差で下し優勝。しかし秋の菊花賞ではキタノオーに完敗。年末の中山グランプリ(後の有馬記念)もメイヂヒカリに完敗。やや不安定な成績で4歳を終える。
5歳になると本格化。夏までに重賞3勝を挙げると、秋は目黒記念でキタノオーを、天皇賞秋では同期の皐月賞馬ヘキラクを下し優勝。年末の有馬記念ではオンワードゼアやラプソデーら後輩の強豪に完勝し優勝。この年の年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に選出される。
6歳になった翌年以降は海外遠征を敢行。現地に長期滞在するという本格的な挑戦であった。しばらくは惨敗が続いたが徐々に成績を上げていき、7歳2月のワシントンバースデイHで当時の世界賞金王ラウンドテーブル以下を下し優勝。日本馬初の海外重賞制覇という偉業を達成した。その後7月のラストランまで6戦を走り切り、引退。
引退後は帰国し種牡馬となり、晩年は功労馬として静養され、27歳まで天寿を全うした。
中央・海外含め通算49戦21勝。中央での八大競走3勝を挙げた実績は無論、何よりも日本馬初の海外重賞優勝馬としてその名を永遠としている名馬。その功績により第1回顕彰馬選考会で即選出された。現在は海外での大レースに遠征し優勝する馬も数多くなったが、その歴史において最初の1ページを刻んだのは遥か60年以上前、この栗毛の馬であった。 - 35二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 19:03:16
その26 キタノオー(56年世代・通算29戦16勝・菊花賞・天皇賞春)
ハクチカラの宿敵にして悲運の名馬。
デビュー前から稀代の素質馬として期待されていた。3歳夏デビュー後はその期待に違わぬ活躍を見せ、朝日杯ではハクチカラを下し優勝。最優秀3歳牡馬に選ばれる。その後も連勝を重ねクラシックの最有力候補と目されるが、皐月賞では伏兵ヘキラクのレコード勝ちの前に2着。ダービーもハクチカラの雪辱を許し2着と惜敗する。それでも秋まで安定した走りと成績を残し続けると、最後の1冠である菊花賞では前述の2頭を退け優勝。年末の中山グランプリではファン投票第一位で出走し、メイヂヒカリには敗れたものの2着と奮闘し世代最強を証明。この年の最優秀4最優秀牡馬に選出。
翌年春の古馬緒戦はハクチカラに敗れたものの次戦は勝ち天皇賞春へ。ハクチカラ不在など強敵がいない為圧倒的1番人気に推されると、その期待に応えレコードタイムで優勝。2度目の八大競走制覇を果たす。秋の重賞でもハクチカラと激闘を繰り返し有馬記念に向かうが、直前になって故障。翌年海外遠征に向かうハクチカラとの決戦は実現しなかった。
翌年も現役続行したキタノオーは、夏のオープン戦では後輩の菊花賞馬ラプソデーと激戦を演じるなど衰えを見せずにいたが、その後秋へ向けての休養中に急性肝炎を発症。関係者の懸命な手当も実らず、現役のまま10月にこの世を去った。享年6歳。
通算29戦16勝。2度の八大競走制覇に加え全レースでの掲示板確保、連対を外したのも僅か5戦と抜群の安定感をみせていた。宿敵ハクチカラとは通算10戦して6勝と勝ち越しており、キタノオーをハクチカラと同等以上の実力があったと評価する声も多い。日本馬初の海外重賞制覇を果たし顕彰馬になったハクチカラと対照的に、かつて彼を凌駕する強さを誇っていたこの馬を知る者は少なくなってしまった。出来ればハクチカラと一緒に顕彰馬にして欲しかった。トウショウボーイとテンポイントが同時選出されたんだからそれは可能だったのでは今更ながら惜しい。
ちなみに最後の相手になったラプソデーも同年秋に悲劇に見舞われた為、これが同馬にとって最後の勝利となっている。 - 36二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 19:04:48
その27 キタノカチドキ(74年世代・通算15戦11勝・皐月賞・菊花賞)
名種牡馬テスコボーイの代表産駒の一頭。雄大な馬体と狂気とも言われるスピードで競馬界を席巻した。
デビュー戦は持ったまま4馬身圧勝。デイリー杯では9馬身差で圧勝。オープン勝ちを挟んで阪神3歳Sでは同期の名牝イットーを3馬身差で退け優勝。4戦4勝で最優秀3歳馬に選出された。4歳になって以後もきさらぎ賞・スプリングSを連勝し無敗のままクラシックへ。この年の皐月賞はストライキの影響で当初の予定から約3週間遅れ東京競馬場で行われた。また、人気もキタノカチドキ一本になることが予想された為、この年から始まったシード制が適用されたキタノカチドキは史上初の単枠指定馬になった。レースではハイペースの中を3番手で追走すると、直線では追走してきたコーネルランサーを1馬身半差で振り切り優勝。無敗の皐月賞馬となった。だがストライキの影響からその後の調整でも不安定な状況が続き、ダービーは万全な状態で迎えられなかった。そしてレースでは中段から追走し直線では先頭に迫ったが伸び切ることが出来ず、優勝したコーネルランサーの3着と初敗北を喫する。その後秋まで休養すると調子を取り戻し、前哨戦を連勝。距離の不安があった菊花賞本場では鞍上武邦彦の好騎乗もあり1馬身差で優勝。二冠馬となりこの年の年度代表馬に輝いた。
古馬初戦のオープン戦は斤量の影響で敗れたが、続くマイラーズCでは現役最強馬タニノチカラ・名牝イットーと激闘の末両馬を下し優勝。更に明らかに距離の長い春天にも果敢に挑み、イチフジイサミの2着と健闘した。しかしその後は脚部不安の為休養。陣営は年内休むつもりだったが、年末の有馬記念が関西馬が一頭も出ない状況になりそうだった為出走を決意。しかしレース中に重度の骨折を負い初の惨敗。結局このレースを最後に引退した。
通算15戦11勝。トウショウボーイと並んでテスコボーイの代表産駒と評価されている。類い稀なスピードと先行力の持ち主で本質的にはマイラーであり、当時に短距離路線があれば紛れもなく王者であったことは確かだろう。引退後も高い人気を誇っており、20世紀の名馬100選にも選ばれている。 - 37二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 19:05:11
以上
また書くかも - 38二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 19:18:19
- 39二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 19:38:44
- 40二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 21:20:23
すごい量だった 乙
この辺になると権利の所在やら馬主サイドの事情が
難しそう - 41二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 21:22:34
知ってる馬一頭もおらんかった
- 42二次元好きの匿名さん22/12/07(水) 21:33:26
ヒシマサル(初代)お願いします