- 1二次元好きの匿名さん23/01/29(日) 19:05:59
- 21/523/01/29(日) 19:06:12
人の気配のないトレーナー室は、しんしんとした静けさに満ちている。
窓辺から見上げた雲間は未だ明るかったが、冷気を通しっぱなしなのがバ鹿らしくて優しい色味のカーテンを引いた。断熱カーテンだから、寒がりのナカヤマにぴったりだね。だなんてさ、部屋の主が無邪気な表情で買ったばかりのカーテンをお披露目してきた時のことをふっと思い出せば、知らず漏れた吐息は室内であるにも関わらず、かすかに白く染まる。
気温という現実から目を逸らしたくて気温に関するものことすべてを目にしないようにしていたが、午後四時の府中は相当冷え込んでいるらしい。
昼からの授業を終えてここに来るまでにすっかり冷えきった両手指を擦り合わせ、水を満たしたケトルのスイッチをオンにした。ある意味冬のルーティーン。珈琲にするか紅茶にするかはたまた焙じ茶にするか、フードストッカーを見遣りながらそれぞれの残量を脳裏に巡らせたところで、私の耳は遠く聞き覚えのある足音を拾い上げる。
もぬけの殻のトレーナー室、その薄ら寒くうら寂しい空気感を日常に戻す、急き込んだ調子の革靴の響き。理事長秘書にでも見つかればお冠もいいところだろうな。生徒ですら基本的には廊下を走ってはならない規則を守っているんですよ? なんておっとり言われたところで、私のトレーナーは心底反省した風に頭を下げて、こう言うんだろう。
──担当ウマ娘を待たせているので、つい! なんてさ。 - 32/523/01/29(日) 19:06:26
「ナカヤマごめん、遅くなった!」
「おつかれさん。ったく、待ちくたびれて帰ってやろうかと思ったぜ」
ふたり分の湯の準備ができたとケトルが報せたほぼ同タイミングで、トレーナー室の扉が躊躇のひとつもなく開かれる。
姿を見せたのは息急き切ったこの部屋のあるじ。私のトレーナー。
あらかじめ遅れると連絡はしてたくせに、面と向かうと途端に腰が低くなるのはどうにかした方がいいぜ? 用意した焙じ茶パックをそれぞれの湯呑みに落としケトルを傾ける私を見ていながらその発言を真に受けて「ごめん」なんて言いやがる。……帰ってやろうかと思ってりゃ、この寒い中コートを着込んで外出してたアンタのぶんの茶も用意するはずねぇだろうが。……なんて、言ってはやらんがね。
空調をつけて間もない部屋は、リノリウムの床からいまだ寒さが這い上がる。それでも、ケトルの吹き出し口から膨らむ湯気が頬に触れればほんのりと暖かい。
本当にごめんね、とケジメか何かのようにもう一謝りして、トレーナーはため息ひとつ。着ていたコートを脱ぎにかかる。
「トレーナーってのは大変だな。ウマ娘のトレーニングだけ見てりゃいいってわけじゃない」
「なんだってそうだけど学問というのは滞留することはないからね。スポーツ学だってそう。トレーナー学校を卒業はしたけど、君たちに関わる限りは日々勉強だよ。……まぁ……今日みたいな接待もあるわけだけど」
「お偉いさんに媚びへつらうのは骨が折れそうだ」
「君を生かすためならなんてことないよ」 - 43/523/01/29(日) 19:06:38
二つの湯呑みと適当に見繕った茶菓子を盆に置いてミーティングテーブルに向かおうとしたところで、手元でコートを二つ折りにしたトレーナーが眉を下げて瞳をやわらげる。淡い春の木漏れ日みたいなそれに虚をつかれたのは一瞬で、私の口はへーへーだの雑さを押し出した反応を作り出した。
まったく無邪気ってのは厄介なもんだ。自分がどんな表情をしてんのか自覚できてんのかね? もっとも、以前よりずっと反応速度も受け取り方も変化して、妙な間を作り出しそうな私もいるから、まったく、ひとのことは言えたもんじゃなかったが。
ま、一息くらいついとけよ、なんてあたりさわりのない言葉を作って、湯呑みをテーブルに置こうとしたその時だ。耳馴染みのある電子音に、トレーナーが飛び上がる。慌てたように手を突っ込んだジャケットのポケットから出したスマートフォンの通知ランプは電話の着信を告げていた。
ディスプレイに表示されていただろう着信元を見るなりごめんとばかりに首を竦めて、トレーナーは慌ただしくトレーナー室を後にする。
接待ってのは大変だ。状況はわからないが、いくつかわかることがあるとすれば──遠のいていく駆け足の響きに、ふたたび部屋は静まり返り、片方の湯呑みが飲み頃を逃し、私は寒い部屋に置いてけぼり。
……置いてけぼりってのも……ま、語弊はあるんだけどな。 - 54/523/01/29(日) 19:06:51
「しかたねぇヤツ」
頭を巡りそうになったいわゆる女々しいあれこれを封殺するつもりで息をついて、湯気の立つ湯呑みが並ぶ盆をテーブルに据える。
焙じ茶の抽出温度は100℃。極端に猫舌なわけじゃなかったが、自棄かなにかのように煽るにはまだ早すぎる。
眼下、まるで崩折れたかのように折り重なるのはトレーナーが先程まで着ていたコートだ。接待主のお偉いさんに呼びつけられたのは察したが、慌てたついでにコートを手放したのが何やら子どもかなにかみたいで、つい思いを馳せて小さく肩を揺らしてしまう。
室内ですら寒いのに、コートを手放して寒さに凍えりゃしないかね? 膝を折って大判のコートを拾い上げ、汚れがあればとはたいたところで、──ふっと鼻先を微香がかすめた。
それは触れなければ気づかないくらいの、かすかで細やかなもの。ファブリックミストの類だろう。冷えた床に膝をついたまま、両腕で抱えたコートにそっと顔を近づける。
広い襟の下、ちょうど、心臓のあたり。私のトレーナーは強い香水を使わない。私の鼻がバ鹿になってコンディションに影響が出ることを恐れるからだ。私のトレーナーは煙草を吹かさない。私の心肺機能に影響が出ることを恐れるからだ。
──それなりの場所で遊戯を楽しめば噎せ返るような香りにも燻されるような煙にも包まれるってのによ。
感じるのはどこか懐かしさを覚える、石鹸の香り。食のたぐいならともかくとして、フレグランスという意味での香りには明るくない。同室が使うアレコレの匂いもざっくりとしかわからないしな。花、とか、柑橘、とか、ミント、とか。悪い匂いだとは思わねぇが、心地がいいとは違う、どっかしらそわつく香り。
けれど、これは。
まるで妹弟たちを抱きとめたときのような温もりと心地よさを掻き込んでしまおうとして──
次の瞬間、私は、トレーナーのコートを勢い良くぶん投げていた。 - 65/523/01/29(日) 19:07:01
「……、いやいやいや、ねぇだろ」
ウマ娘ってのはヒトよりも脚力に優れている。個体差は多少あるが腕力も例に漏れない。芯らしき芯を持たないコートのかたまりは、先程トレーナーが出ていった出入り口扉までかろうじて届いて、かすかな音だけを立ててぶつかったあと床に落ちる。
取り戻した正気そのままに剛腕を奮った勢い余って、床についていた膝は崩れ尻餅をついた。冷たさが触れる面積が増えたものの、……それどころじゃない。
いま、私は、何をしようとしていた? 否──何をしていた?? 花の香りに誘われた羽虫のようじゃなかったか? ひとり凍えるこの部屋で、湯呑みの熱には目もくれず、コートに残った温もりと心落ち着く残り香を、いとおしさを持って胸に抱こうとしちゃいなかったか? ……嘘だろ? 勘弁してくれよ。いくら何でも酷すぎる。
恋した相手の居ぬ隙に、盗みを働くこそ泥か?
「どうかしてやがる」
どうせあるじの消えた部屋だ。スカートの捲れも気にせずに膝を立てる。のそりと立ち上がってしまえば私にひやりとした空気を伝えるのは冷え切ってしまっているはずの指先だけだ。
指先を擦り合わせて、熱を生む。
擦らずとも手のひらは熱いのは、あまりに『らしくない』所業に身悶えするかのようで。スカートの裾を払い、詰めていた息をつく。
眼下、テーブルの上に放置されたままの湯呑みの焙じ茶はおそらく飲み頃のことだろう。
けれど私はそれに手をつける気になれないまま。
瞼が熱い。頬が熱い。顔の熱さを誤魔化すように、私は小さく首を振る。
薄い胸の奥、熱をまとう心の蔵。それは勝負のし時を待つように、凍えすら振り切って、強く、強く強く、胸を打ち鳴らし続けている。
ふらりとパイプ椅子を引っ掛けて、身に沁みた恥じらいに、その時の私が出来ることといえば、自分の可愛げのなさに、天を仰ぐだけだった。
終 - 7二次元好きの匿名さん23/01/29(日) 19:08:12
ナカヤマの可愛げはどこに行けばありますか。ロンシャンですかね。
どういうシチュだとナカヤマは可愛げ爆発してくれるんでしょうか……。 - 8二次元好きの匿名さん23/01/29(日) 20:55:13
- 9二次元好きの匿名さん23/01/29(日) 22:09:37
ワーッ、ありがとうございます?!
可愛げありましたか……?!
なら良かったです、良かった……
ナカヤマ、素直になったらバッチバチに強い女だと思うのですが、書きたいのは素直になる前なんですよね……
素直になったら可愛げが増えると思うんですがこればかりは書いてる人のヘキなので仕方がないのかもしれません……!
読んで下さりありがとうございました!
- 10二次元好きの匿名さん23/01/29(日) 23:10:02
いい…
- 11二次元好きの匿名さん23/01/29(日) 23:24:53
可愛げがあるかは置いといて、可愛いのは間違いない
- 12二次元好きの匿名さん23/01/30(月) 07:32:25
- 13二次元好きの匿名さん23/01/30(月) 17:21:52
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