- 1◆zrJQn9eU.SDR23/02/06(月) 19:53:41
夏。順当に考えれば春の次に位置する季節。太陽が殊更に照り付ける日々であろうとも、ウマ娘がやることは変わらない。
トレセン学園所属の生徒達は夏合宿に来ていた。目指すレースによってはこの場にいない生徒もいるが、大半は更に能力を高めようと参加している。
暑さに負けない熱さで以てトレーニングに励む彼女達は、太陽が沈み切った今は合宿所で身体を休めている。
しかし、その例外である一生徒が浜辺に佇んでいた。紅白に襷掛けが特徴の勝負服でレースを駆ける彼女は、今はやはり同系色のジャージに身を包んでいる。
彼女、アストンマーチャンは海を見ていた。その表情は一言では形容しがたい。無表情ともぼうっとしているともいえるかもしれないが、のめり込んでいるとも取れてみえる。
その日中であれば明るい瞳に、暗く深い藍色を宿している。彼女は決して動いていないというのに、今にも海に入っていきそうな、呑み込まれそうな雰囲気を漂わせている。
錯覚めいた光景は、彼女が海から目を外すことで現実から霧消した。ぽつりと呟きが彼女の口から零れる。
「駄目ですね……トレーナーさんがいないと、やっぱりマーちゃんはマーちゃんですね」
マーチャンは小さく笑みを漏らす。その笑みは何処か自嘲めいていた。
「分かっているのです。あの人がいるからわたしはここにいるというだけで、海は何処までも海なのだと。何も変わっていません。あなたも、わたしも」 - 2◆zrJQn9eU.SDR23/02/06(月) 19:54:38
「そう、今だって……」
彼女は一歩、海に向かって踏み出していた。しかし、次の瞬間には驚いたように後ずさりする。無意識のうちだったのか、彼女は勝手に動いた自身の身体に少しぞっと寒気が感じた。
日は沈んでいるとはいえ夏の夜。熱気は至るところに残っているというのに、マーチャンは自らを抱きしめていた。
「まだ。いずれ流されて辿り着くのだとしても、壊れてしまって船が沈んでしまうのだとしても、まだ……」
彼女はじっと何かに耐えていた。それは待っていれば過ぎ去っていくものではなく、徐々に震えまで生み出していった。
それは、虚無というものだった。生きる者からすれば死が分かりやすい。それは生きていれば逃れることは出来ない。しかし、それだけではない。
死を受け入れたとしても友人が、家族がいれば憶えていてくれる。確かに生きていたのだと、ここにいたのだと。ただ、それも時が過ぎていけばその誰かもまた死んでいく。憶えていてくれなくなる。
その誰かをまた近しい人達が憶えていても、もう彼らが憶えていた者までは辿り着けない。そう、生きていたどころか死んでいることさえ憶えてもらえない。憶えてくれない。
その暗さを、寒さを、辛さを、悲しさを。最早感じることはなく、流れ着いた場所でただ深く深く沈み切って………………
その時、さぁっと一陣の風が吹き抜けていった。穏やかだが確かな存在を示す、そよ風。 - 3◆zrJQn9eU.SDR23/02/06(月) 19:55:19
はっとマーチャンは顔を上げる。もう寒さも震えも彼女の身体には残っていなかった。微風が何処から吹いてきたのか視線を向けた先には、同じく身体を休めていない例外のウマ娘。
レースでは肩口を出した勝負服で全身で風を感じようかとする彼女は、同じジャージ姿のヤマニンゼファーだった。
「あら……私以外にも出歩く方が。あなたも夜風に当たりに?」
「あ、マーちゃんは、その……」
未だに先程の体験から抜け出ていないのか、戸惑うマーチャンに対してゼファーは微笑む。
「此度の凪の夜、少しお話はいかがでしょう?」
不思議なウマ娘と不思議なウマ娘。奇妙な出会いがここに生まれていた。 - 4◆zrJQn9eU.SDR23/02/06(月) 19:56:06
「まあ……そのような悲風をお考えに?」
「そうなのです。あの人が、トレーナーさんが傍にいてくれるとマーちゃんはマーちゃんでいられます。でも、わたしだけだと……」
アストンマーチャンとヤマニンゼファー。二人は共に海を眺めながら語らっていた。その中でマーチャンはゼファーに色々なことを打ち明けていた。海の深さを。流れ着いた終わりを。
今まで彼女がここまで深く話したことは彼女のトレーナー以外にはいなかった。いや、彼にさえ一部、深い海の底までは明かしていない。
それがどうして、今初めて話しているといってもいいウマ娘には言えているのだろう。時折、レースで一緒に走っただけだというのに。
それは、先程の風のせいなのかもしれない。こわさも、さむさも吹き消してしまったそよ風。あれは、ゼファーが起こしたのだろうか。
そんなことはないですね、と心の内で否定しながら、マーチャンは話す。
「海は……終わりなのです。上流から下流へ流れ着く、終わり。そうなってしまえば、もう何も出来ません」
「だからこそ、そうなる前に何かを……残したいのです」
マーチャンは笑んで決意を示す。その笑みに哀しさが含まれていることに彼女自身は気付かない。
ゼファーは彼女の言葉を理解したかのように頷く。そして、口を開いた。 - 5◆zrJQn9eU.SDR23/02/06(月) 19:57:03
「マーチャンさんの考えはよく分かりました。でも、それは少し矯風が必要かと」
「悪いところ……ですか?」
マーチャンが多く話していながら、彼女もまたゼファーのことを理解していた。風が好きなのか、それにまつわる言葉を多く使うウマ娘。
全ての意味をマーチャンは分かっているわけではない。しかし、ゼファーの相槌や反応は話し相手を慮る雰囲気が感じられる。だから彼女の言いたいことも解せるのだ。
「はい。マーチャンさん、私たちは今、何を見ていますか?」
「海なのです」
明白な答えだった。眼前いっぱいに広がるのはそれだけ。
「では、私たちは今、何を感じていますか?」
「? 風……なのです」
つい先程までは凪いでいた海。それが風に揺られて少しばかり波が生まれていた。
「そうですね。陸風が流れています。冷たいこちらから、暖かいあちらへ」
言われてみれば、背中から特に感じるようにも思える。同時に、消えた筈の寒さを心が感じてしまう。
「やっぱり、海は終わりなのですね……」 - 6◆zrJQn9eU.SDR23/02/06(月) 19:58:02
「でも、それだけではありません」
え? と思いつつマーチャンは隣のゼファーを見やる。その視線を返すことなく、彼女は続ける。
「太陽が昇ると、今度は冷たいあちらから、暖かいこちらへ風が吹きます。海風、といいます」
「風が、海から……」
マーチャンにとっては思ってもみないことだった。終わりである場所から何かが生まれるなんて。
「夜の今、私たちは陸風が流れていく海を、終わりを見ています。でも、夜が明ければ、海風が吹いてくる海を、始まりを見ることになります」
「始まりから終わりへ。それは正風です。でも、風色はそれだけではありません。終わりから始まりへ。それもまた、正風なのです」
ゼファーはよどみなく言葉を聞かせる。彼女にとっては当たり前でも、隣の彼女にとっては当たり前ではないことを。見つけられなかった、感じられなかった風を。
「風は、至るところに在ります。浦風、上風……絶えず流れ巡る風路を、いつでも、どこでも」
「それを受ける私たちもまた、始まりから終わりへ……そして、終わりから始まりへ走っていく。そうではありませんか?」 - 7◆zrJQn9eU.SDR23/02/06(月) 19:59:03
ゼファーはようやくマーチャンに顔を向け、微笑む。彼女は衝撃を受けていた。今まで囚われていたといってもいい海に、取り巻くものがあったなんて。そしてそれが、始まりでもあったなんて。
「ゼファーさん!」
ゼファーの両手を握り、彼女は目を輝かせた。握られている方は突然のことに目を瞬かせている。
「すごいのです! マーちゃん、大発見をしました。ゼファーさんに風さんを教えてもらって、海さんも知ることができたのです!」
「いっぱい風さんを教えてもらいました。ほかにどんな子がいるのでしょう? 海さんにもいますよね? お話しできますかね? きっと、できますよね!」
にこにこと嬉しそうに笑うマーチャンを見て、驚いていたゼファーは微笑みを取り戻して、ゆっくりと頷く。それを受けてますます彼女の笑みは花開く。
そこへ、遠くからマーチャンを呼ぶ声が聞こえてきた。彼女のトレーナーが探しているようだった。マーチャンは駆けて、たった今体験した出来事を知らせる。
「トレーナーさん! すごいのです! マーちゃん、オールドマーちゃんからニューマーちゃんへと大変身なのです!」
興奮冷めやらぬ彼女に困惑しつつも話を聞くトレーナー。そんな二人を眺めて、ゼファーは呟く。
「冷風から温風へ。マーチャンさん、良風になりましたね」
相も変わらず海は藍色を湛えている。しかし、確かな清風がここには吹いていた。 - 8◆zrJQn9eU.SDR23/02/06(月) 19:59:57
以上です。二人が話しているところが見たくて書きました。
- 9二次元好きの匿名さん23/02/06(月) 20:02:11
ツイスターゲームの風使いさんかな?
- 10◆zrJQn9eU.SDR23/02/06(月) 20:06:53
その方ではないですね。辻書き? で少し書いていましたが、今回初めてスレを立ててみました。
- 11二次元好きの匿名さん23/02/07(火) 06:08:58
保守
- 12二次元好きの匿名さん23/02/07(火) 17:41:24
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