- 1123/02/28(火) 22:45:05
#1
トレセン学園名物、夏合宿の夜は実は長い。あるウマ娘たちにとっては。
まだトゥインクルシリーズにデビューもしていないような、まだ幼さを残す生徒たちにとっては、夜は文字通り寝る時間である。普段に輪をかけてハードなトレーニングをこなした彼女たちが、消灯時間を待たずに寝てしまう。ませた子は恋バナなんかに花を咲かすことだろうが、眠りに落ちる時間に大差はない。
デビューから約1年が経過した多くのウマ娘たちは、身体はある程度できあがっているものの、それ以上にハードなトレーニングをしているので、やはり消灯間もなく寝てしまう。短距離路線のウマ娘にはスプリンターズSが、中距離路線のウマ娘には秋の天皇賞が、クラシックレースに挑むウマ娘には菊花賞が、それぞれ待ち構えている。まだ未勝利戦を戦っているウマ娘たちはなおさら、悲壮感さえまといながらトレーニングに励んでいる。9月までに勝てなければ、彼女たちはトゥインクルシリーズで走り続けることは基本的にできないからだ
真夏の合宿、そして日常とは違って多くの同世代のウマ娘が枕を並べて大部屋といった女子中高生がいかにいも好みそうなシチュエーションは、実に模範的なことに、過去の人類がそうしてきたように「寝る時間」として理解されている。 - 2123/02/28(火) 22:47:08
#2
まずマルゼンスキーが登場する。彼女は美しかった。
深夜25時を回ったころ、SMSにメッセージが入った。きょうび、SMSで連絡を入れてくるのは二段階認証か詐欺業者か、マルゼンくらいのものだ。
内容を確認すると、”暑くて寝付けないから、星を見ながら一緒に酒を飲まないか”という内容だった(本当はもっとずっとマブい文章だったけれど、重要なことではないので今回は省略する)。
同僚のトレーナーたちも担当ウマ娘のトレーニングに付き合って疲れているし、かといって省エネ運転のベテランたちと飲むのは気を使う(それに、彼ら彼女らはもとより早寝だ)。そのような理由で、夏合宿中はトレーナーたちにとっても生活習慣が規則正しくなる禁欲のシーズンなのだ。
それはそれで結構なことなのだが、やはり何となく物足りなさを感じる夜もある。俺にとって、それは今日だった。何となく気分が浮ついて、一杯ひっかけながら誰かと話したい夜が。だから、マルゼンからのお誘いは、まさに渡りに船だった。
「トレーナーくん!とつぜん誘っちゃってめんごめんご~!」
各トレーナーに割り当てられた部屋がある棟から人目につかないように抜けだした俺は、合宿所の建物が集中しているエリアからは少し離れたところにある駐車場でマルゼンスキーと落ち合った。
夏の匂いがする。”タッちゃん”のボンネットに目をやると、なるほど渦巻きの蚊取り線香が煙っていた。”バンピー”にはなかなか手が出ない高級外車と、蚊取り線香というミスマッチさが何となく面白い。いや、本当にミスマッチなのは俺のように風体のあがらない男とマルゼンスキーという今夜の取り合わせか。
ウマ娘の嗅覚は人よりもずっと鋭い。個人差はあるが、嗅覚の感度は人の約1000倍くらいだとトレーナーの学科で習った。だからかは分からないが、学園でも合宿所でも蚊取り線香は見かけない。たぶん、ウマ娘にとっては蚊取り線香の匂いはキツすぎるのだと思う。何となく気になったので彼女に匂いが気にならないのかと尋ねたら、「この方が効き目バッチグー!って感じがするでしょ」と笑っていた。彼女のこういうところが大好きだった。
キンキンに冷えたバドワイザーを受け取りながら、「役得だなあ」としみじみと思った。今日が月のない夜でよかった。にやけた面をまじまじと見られたら、どうからかわれるか分かったものじゃあない。 - 3123/02/28(火) 22:47:34
#3
特記するほどの中身のない、他愛ない雑談は、必然的にトレセン学園のトレーナーと、いまだ現役を退いていないウマ娘との会話の定例にならって、いつの間にかレースに関連する話題へと流れていった。 マルゼンスキーのするレースに関する話は、こう言っては悪いが、だいたい同じような内容だ。あのウマ娘はさいきん活躍している、だからあの娘なら私より速いかもしれない、同じレースを走ったら結果は分からない、云々。でも、今日は違った。彼女の言葉を借りれば、”ちょっぴりおセンチな気分”だったのだと思う。
「ねえ、トレーナー君。私がダービーに出られたら、勝てたと思う?――チヨちゃんみたいに。」
数秒、答えに詰まる。レースに”もしも”はない。この問いの模範解答は「三女神様のみぞ知る」だろう。でも、俺にとっての答えは彼女の走りを一目見てからとっくに決まっている。
「正直なところ、分からない。でも――。」
「でも?」
「きみの走りは世界で一番美しい。」
「トレーナーくん……。」
マルゼンスキーの瞳がまっすぐに見つめてくる。
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マルゼンスキーの圧倒的な走りを称して、彼女をスーパーカーと言う人がいる。でも、それは彼女の本性とは異なると思う。だって、車というのは乗るものであって、乗ってくるものではないから。
「ダメだよ、マルゼン。こんなこと……。」
「ヘタな駆け引きはやめて。」
「だって、俺はトレーナーで、君はまだ学生じゃな」
発しかけた言葉は、彼女の指で制止されてしまった。
「バカね、本当は大好きなくせに。3つ数えるから抱きしめて。いち。に――。」
観念して、手元を照らすために点けていたスマホのライトを消す。目に入った時計は午前2時を示していた。 - 4123/02/28(火) 22:47:55
#4
どうも、サクラチヨノオーです!といっても私のことを覚えている人は少ないかもしれません……。「にんじんはいつまでも喉元にとどまらない」ですからね。去年のダービーウマ娘だと言ったら、誰だか伝わるでしょうか?
約1年ぶりの復帰レースで惨敗、その後の宝塚記念でもブービーに終わった私は、またまた怪我をしてしまいました。気分がふさがっている私を見かねて、ほとんどバカンスとしてトレーナーさんが夏合宿に連れてきてくれたのです。私が休養している間に、世間は私たちがクラシック戦線を戦ったウマ娘たちを忘れかけていることも、私のウマ娘としての能力のピークが過ぎてしまったことも、全て分かっています。でも、もう一度魂が震えるようなレースがしたい――。「桜は散っても、また咲く」のですから。 - 5123/02/28(火) 22:48:22
#5
その日の夜は蒸し暑くて――夏合宿所の大部屋にはクーラーがないのです――、どうにも寝付けない夜でした。くたくたになるまでハードなトレーニングをしている大多数の生徒たちは熱帯夜なんて感じる暇もなく夢の世界に出走できますが、私のように簡単な基礎トレのほかは、他のウマ娘のトレーニングの補助をしたり、宿泊所の雑用を手伝ったり、浜辺で水遊びをしているウマ娘にとってはそうはいかないのです。
「にんじんを育てるなら日向、にんじんを保管するなら冷暗所」。汗で湿ったチヨノートにどうにか格言――というより怨嗟の声を書き込んだ私は、規則を破ってちょっと夜風にあたりにいくことにしたのでした。 - 6123/02/28(火) 22:48:44
#6
寮長に見つかったら一発アウトな時間――大部屋の壁掛け時計は午前2時を少し回った時間を示していたと思います――に浴びる夜風は、爽快感と清涼感、そして背徳の味がしました。
100人を優に越える優駿たちが背後の古びた建物で寝息を立てている。そう思うと不思議なおかしみがこみあげてきました。爆弾か何かでこの建物を吹き飛ばしたら、この気詰まりな夜もいくらか気分爽快になるかもしれません。いつかアルダンさんやヤエノさんと観た映画FIGHT CLUBのラストシーンみたいに?
意味もなくぴょんぴょんと軽くジャンプすると、ビーチサンダル越しに砂利の感触がしました。トレーナーさんのサポートもあって、怪我は快方に向かっています。日常生活に問題はありません。もう少しすれば、走ることもできるようになると思います。全力で。では、日本ダービーでしたような、魂が震えるような走りは?もし仮にそんな走りができたとして、ターフに私が帰ってくることを望んでいる人がどれだけいる?私の空費された時間は?
そんなことを考えながら、宿泊所の玄関脇に設置されているベンチに座っていると、いつの間にか寝てしまいました。 - 7123/02/28(火) 22:49:14
#7
”いい汗をかいた”俺とマルゼンスキーは、念には念をいれて別々に宿泊所に戻ることにした。火照った身体に浴びる夜風は気持ちが良かった。
ウマ娘が寝泊まりしている側の建物脇のベンチに「何か」が横たわっていることは、暗がりかつ遠目でも分かった。酔っているとはいえそれなりに周囲に気を配っていたし、目が慣れていたからだ。
「何か」の正体についてすぐに思い当たったのは、野生動物の類いだった。このあたりにはタヌキの巣がある。それから、不審者の類いを思った。この施設がトレセン学園の夏合宿所であることはマスコミの報道で周知されている。警備は万全のはずだが、招かざる客が来ても不思議なことじゃない。
目をこらすと、そのどちらでもないことが分かった。――薄ぼんやりとだが、あの特徴的な髪型は、間違いない。「何か」の正体はサクラチヨノオーだ。
どういう事の経緯でチヨが屋外のベンチで寝息を立てているのかは分からない。だが、まさかこのまま放置していくわけにもいかない。彼女を起こすことにした。 - 8123/02/28(火) 22:49:39
#8
熱い闘いをただ観客席で眺めている悪夢は、肩を揺さぶられる感触で断ち切られました。
硬いベンチの上で寝ていたことによる背中の鈍い痛みと、寝汗をかいていたことによる不快感は、すぐに安堵感に変わりました。目の前にトレーナーさんが居たからです。
「チヨ、大丈夫か?」
トレーナーさんは心配そうに私に尋ねました。一も二もなく、恥も外聞もなく、私はトレーナーさんの胸に飛びつきました。どうしてこんな大胆なことをしたのか分かりません。きっと本能的なものだったのだと思います。トレーナーさんは少し戸惑ったあと、私の頭をポンポンと二、三度撫でてくれました。 - 9123/02/28(火) 22:50:12
#9
何となく事情が飲み込めた。再起を期したレースに2連敗し、再び故障したチヨノオーは目に見えて落ち込んでいた。気丈に振る舞ってはいるのだが、それがより一層痛ましかった。眠れない夜に耐えかねて、気分転換のつもりで外に出てそのまま寝てしまったのだろう。俺が思っているよりも、彼女は追い詰められているのかもしれない。身体のリハビリだけじゃなくて、メンタルのケアにも万全の気を配らなければならない。
だって、俺はサクラチヨノオーのトレーナーなのだから。
「――あっ。」
チヨが唐突に声をあげる。何かに気がついたように。
「どうかした?」
そして無邪気に問いかけてくる。
「どうしてマルゼンさんの匂いがするんですか?」 - 10123/02/28(火) 22:51:58
終わりです。
チヨトレとマルゼンスキーがトレンディでマブい関係になってたらすごくすごいなって思ったので書きました。 - 11123/03/01(水) 00:34:26
こんな怪文書を書いておいて怒られると思いますがサクラチヨノオー推しです。
桜は散ってるときが一番美しいし、散ったあとに道路にへばりついて汚れてる花弁も好きなんですよね。
そんな気持ちで書きました。 - 12二次元好きの匿名さん23/03/01(水) 00:52:37
学生の内から呑むなんて悪い娘だなぁ(他の事から目を逸らしながら)