【SS】さくやこのはな

  • 1二次元好きの匿名さん23/03/11(土) 23:11:46

     梅が見頃を迎えている。

     エアグルーヴは静かに自室を出た。ルームメイトのファインモーションは、まだすやすやと夢の中にいる。それもそのはず、この日は休日だった。外出可能時間の始まりを、ちょうど跨いだところだろうか。外はまだほのかな明かりが差す程度に留まっている。

     昼間はずいぶんと暖かくなったが、早朝の空気はまだまだひんやりとしていた。部屋着に羽織を一枚、エアグルーヴは無人の廊下を歩く。寮はいつもの賑やかさが嘘のように、静けさに包まれている。自主的なトレーニングに励むならともかく、休日の朝に私事で早
    起きをしてくる物好きはそう多くない。前者にしても、今日は見当たらなかった。

     トレセン学園の敷地にはさまざまな花樹が植えられているが、寮の小さな庭もそれは同じだ。エアグルーヴは一本の木の下に足を運ぶ。薄紅梅だ。これがなかなか見事な咲きぶりであり、かねてから好ましく思っている。

     雲のように群がる桜は遠巻きに眺めるものだが、梅は手が届きそうなくらいにまで近づいて、一輪をじっくり愛でるのがよい。幹に寄り添うよう佇んでいると、ふと風が吹いたときなどに、茉莉花や梔子を思わせる香りが鼻先をやさしく撫でる。寒さに負けず咲く白梅も凛と美しいが、文字通りの薄紅色は見ていて目にあたたかい。春告草の異名のままに、春そのものではなく、春の訪れを強く感じさせる。

  • 2二次元好きの匿名さん23/03/11(土) 23:12:29

     まるで庭木の一本と化したかのように、身じろぎもせずエアグルーヴは観賞を続けた。やがて少しずつ空が明るくなり、せっかくだからほかの角度からも賞じようと一歩移動する。

    (ふむ)

     すると、視界の隅でひらりと揺らめくものがある。花びらが舞ったにしては色が淡い。そちらに鋭く視線を送り、また一歩と移動してみれば、意外な正体が足もとで頼りなく揺れている。

    (……メモか?)

     それは一枚の紙片だった。短冊のような形をしている。しゃがんで拾い上げてみると、手触りはことのほか滑らかで、上質の便箋か何かを切り取ったものであるらしい。

    たちわかれ
    いなばのやまの
    みねにおふる
    まつとしきかば
    いまかへりこむ

     紙片に記された文字をエアグルーヴは読み上げる。そして、それが和歌であり、ウマ娘の方ではない百人一首の16番であることに気づく。

    (イタズラにしては手が込んでいる)

     立ち上がり、顔を上げる。梅枝のすき間から覗く寮の壁には窓が整然と並んでいる。あのどこかから飛んできたのか。あるいは、寮生の落としたものが風に吹かれてやって来たのか。

    (まじないの類いだろうが、さて──)

     模範たるべく勤勉、文武両道を地で行くエアグルーヴは、この歌と結びつきの強い知識をさまざまに記憶から引き出していく。──歌人の名、用いられている技法、詠まれた背景、その訳。そして、わざわざ短冊にしたためることの意味。

  • 3二次元好きの匿名さん23/03/11(土) 23:13:52

    「おはよう、エアグルーヴ」

     不意に背後から声がして、エアグルーヴはびくりと肩を震わせた。緊張の走った尻尾が瞬時に逆立ち、また脱力する。続けて、きりきりと耳が絞られたかと思えば振り返り、短冊くらいなら切り裂いてしまいそうなほどの視線を声の主に向ける。

    「……後ろから急に声をかけるな、スズカ」

     声には聞き覚えがありすぎるほどあり、そこには親しい友人の姿がある。果たしてサイレンススズカはもろ手を挙げていた。焦った様子で、エアグルーヴの剣幕に圧されたのか、少しのけぞっている。降参、ということなのかもしれない。

    「ご、ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったの」

     その言葉は明らかに事実であり、悪意などこの友人が持ちようはずもない。茶目っ気はあるが、根本的に天然だ。エアグルーヴはため息をついた。耳がまっすぐ自然に立つ。説教を試みようかとも思ったが、この場は不問とした。

     よく見ればスズカはジャージ姿だった。休日の早朝ランニング、ということらしい。春夏秋冬、季節を問わず年がら年中走り回っているのがサイレンススズカであり、なるほど明らかな物好きに属する。

  • 4二次元好きの匿名さん23/03/11(土) 23:14:42

    「それ、俳句?」とスズカがエアグルーヴの手もとを覗きこんだ。

    「短歌だ」とエアグルーヴは簡潔に答えた。

    「へえ。エアグルーヴは短歌もできるの?」

    「いや、これは私が詠んだものではない。古くから親しまれている歌だ。百人一首にも撰ばれている」

    「ウマ娘の方の?」

    「ウマ娘じゃない方だ」

    「えーっと……たちわかれ、いなばのやまの……」

    「お前も聞いたことがあるだろう?」

    「あるような……ないような?」

    「たわけ。トレセン生としてこのくらいは知っておけ」

    「1番目の歌はしっかり覚えてるのよ」

    「先頭だからか?」

     スズカは目を泳がせた。

    「でも、どうしてこの歌が?」

     話題を反らしたな、とエアグルーヴは眉間にしわを寄せる。

  • 5二次元好きの匿名さん23/03/11(土) 23:16:41

     しかしながら、元をただせばエアグルーヴもまた同じことを考えていたのだから、話題が一周して正しい位置に戻ってきた感がある。おそらくは左回りに。不思議なめぐり合わせだが、そもそも梅花を賞じるエアグルーヴのもとへ短冊が運ばれたこと自体がそうであり──何か運命的なものが働いている、ということになるのかもしれない。

    「この歌は別れを惜しむ心を詠んでいる」

     エアグルーヴは言った。

    「そして現代では、一種のまじないとして扱われることがある」

    「おまじない?」

    「別れた者が戻ってきますように、と」

     いまエアグルーヴの脳裏には、ある想像上の物語が思い浮かんでいる。

    「まあ、かわいがっていたノラ猫の帰りを待つ、くらいの意図を持つことが多いようだが──」

     それは理想を追い求め、後輩への指導にも尽力する女帝であるからこそ、想いをめぐらせないわけにはいかない話だった。

    「──これに限っては、寮生の誰かが別れた友人に向けたものなのかもしれんな」

     トレセン学園の門をくぐるすべての者が、重賞で勝利をおさめるわけではない。志半ばで夢破れ、挫折の末に郷里へ帰る者がいることは確かだった。理由はそれこそ、去った者の数だけある。才能が欠けていたか、努力が足りなかったか、故障に泣かされたか──理解あるトレーナーに出会えなかったか。

    「……もう一度会えますように、って?」

    「ああ」

     自らの理想の追求を、女帝が諦めることはない。掲げられた目標に向け、いついかなる時も研鑽を重ねていけば、必ず夢の種は芽吹く。エアグルーヴはそう信じているし、これまでも、そしてこれからも、その姿勢が変わることはない。

     しかしながら、現実にレースの世界を去る者がいることも確かで、すべてをすくい上げるには、エアグルーヴの手はあまりに小さい。夢の種は指のすき間からこぼれ落ちていき、ついに芽吹きを見届けられなかったこともある。それでもなお、信念を曲げることはないのだが──無念の別れを経験した者たちを、かえりみないわけではない。

  • 6二次元好きの匿名さん23/03/11(土) 23:17:29

     静かな時間が流れていった。ほんの数分のことではあるが、ふたりは無言で観賞を続けた。梅が見頃を迎えている。春は出会いの季節だが、同時に別れの季節でもある。

    「そうだ、エアグルーヴも一緒に走りましょう?」

     レースよろしく、先に切り出したのはスズカだった。

    「お前はいつもそれだな」

     エアグルーヴは苦笑する。その目はいつもより柔らかに細められていた。

     再会を願うまじないは、おそらく叶うことがない。エアグルーヴはこれ以上の想像を控えることにした。根拠はなく、仮に事実であったとして、勝ち残った者が敗れ去った者にかける言葉など、いったいどのくらいあるだろうか。

     梅花とともに佇む友人というこの景色も、何かをひとつかけ違えてしまえば、存在しなかったかもしれない。もしスズカが理解あるトレーナーとの出会いを経験しなければ、別れの歌をしたためていたのは、ほかならぬエアグルーヴ自身だったかもしれないのだから。そして、逆もまた同じことが言える。

    「まあ、たまには付き合ってやろう。着替えてくるから、少し待っていろ」

     つぼみが綻ぶようにスズカは笑う。

     別れの歌をめぐる物語は、あくまで想像でしかない。しかし、この短冊に何かしらの願いが込められていることは事実であって、エアグルーヴはこれを自室で保管することに決める。捨ててしまうにはあまりに偲びない。

  • 7二次元好きの匿名さん23/03/11(土) 23:17:56

     一段落の区切り、物語の結びとしてエアグルーヴが思い浮かべるのは、最も有名なやまとうただ。梅と先頭。スズカは1番目の歌は記憶していると言ったが、かるた遊びにおいて、それは必ずしも最初に読まれるわけではない。決まって先頭を走るのは、始まりを告げるための一首の序歌だ。その歌は長く険しい冬を乗り越え、いままさに訪れようとする春の到来を祝った。この場合の春とは、具体的な季節のみを意味するのではなく──苦難の末に掴みとった、ある種の栄光を示している。

    なにはづに
    さくやこのはな
    ふゆごもり
    いまをはるべと
    さくやこのはな

     エアグルーヴがつぶやくと、スズカは振り返って首をかしげた。

    「何か言ったかしら?」

    「なんでもない。すぐに戻る」

     勝ち残った者が敗れ去った者にかける言葉がないとしても、歌を通じて願うことくらいは許されるだろう──競走の世界へ挑むウマ娘たちが、それぞれのたどる道の先で花開くことを、女帝は信じている。今こうして咲き誇り、春を告げるこの花のように。

  • 8二次元好きの匿名さん23/03/11(土) 23:19:54

    梅を愛でるエアグルーヴが書きたかったんです
    寮の庭云々はともかくとして
    栗東のトレセンには可憐な薄紅梅が咲くようですね

  • 9二次元好きの匿名さん23/03/11(土) 23:34:40

    季節に沿ったSSが大変に素晴らしい…
    ぽつぽつと紡がれるエアグルーヴとスズカの穏やかなやり取りがとても好きです
    スレ主さんのSSを読んでいると草花の香りやそこに流れる空気まで伝わってくるようでとても安らぎますわ
    間違いでなければ、「いもくりなんきん」も楽しく読ませて頂いておりました

  • 10二次元好きの匿名さん23/03/11(土) 23:42:11

    花や歌に詳しいエアグルーヴ 単に女の子っぽいと言うより、文化的に熟れた感じで素敵です

  • 11二次元好きの匿名さん23/03/11(土) 23:51:29

    読ませていただきました
    優しい時間が流れる素敵なSSでした
    スズカとエアグルーヴの組み合わせが好きなのでこうして見られたことも本当に嬉しかったです

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