- 1◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:07:23
トレセン学園から遠く離れた駅に、私は降り立った。久しく帰っていない場所だというのに、所々お店の立ち並びは変わっているというのに。
私のぼんやりとした記憶に当てはまる光景。アドマイヤベガの、生まれ故郷だった。
「変わったけれど、変わってない。そういうものなのかしらね」
自然と漏れる呟きと共に、私は歩き始めた。帰ってきた理由は何のことはない、帰省のためだった。ただ、普通の人にとっては当たり前でも、私にとっては当たり前ではなかった。
トレセン学園に入学してから、私は殆ど家に帰っていなかった。帰ったとしても、必要なものを取りに帰るだけ。実家でゆっくりと過ごすということはしたことがなかった。
それは、学園所属のウマ娘としては仕方がない面はある。トゥインクル・シリーズに出走するために日々努力する私たちは、そのために時間を費やす。
学業の傍らトレーニングに取り組むのは当然として、夏休みは合宿、冬休みは自主練と自らを鍛えるのに余念がない。
これに加えて、本格化を迎えた身ならレースへの出走も予定に入ってくる。時間的な余裕を作ることは、難しいといえば難しい。
ただ、これは私の言い訳に過ぎない。実際は、殆どの生徒はそこまで予定を詰めることはない。トレーニングのし過ぎや、毎週のレースの出走は脚を壊すことに繋がるから。
休みの日だって、合宿はまだしも年末年始は実家に帰る子の方が多い。それ以外だって友達と遊ぶ時間を作る子だっている。みんな、遊びたい盛りの年頃だから。
私がそうではなかったのは、みんなと違っていたから。みんなのように、生きてはいなかったから。 - 2◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:08:15
駅前を抜けて私の足は住宅街に差し掛かっていた。随分と新しい家も建つようになっていた。それでも、曖昧に憶えている街並みと差異は感じない。
今日の朝に、帰ります、と一言だけのメールを母に送った。機械には弱い母に合わせてのやり取りだけど、母はいつも私を気遣う文面を送ってくる。
風邪をひいてない? 怪我はしてない? アヤベちゃん、と娘を心配する母に、そっけなく大丈夫、と私は返していた。
私は、あの子のために生きていた。私と双子として生まれる筈だった、妹。生まれてくることはなく、私だけが生まれてきてしまった。
でも、あの子は私の中に生きていた。星を見上げる時、レースで走る時。あの子が息づいていることが感じられた。
家族も、他人も、私のようにあの子を感じることはなかった。かわいそうだと思った。ちゃんとここにいるのに。だから、私があの子を見てあげよう。あの子が喜ぶことをしてあげよう。そう思った。
その気持ち自体は、大事なことだと思いたい。ただ、それは時間が経てば経つ程に歪んでいき、私は私の全てを捧げていき、あの子以外の生きている人たちを蔑ろにした。
幼い頃の私は、あまり意思表示をすることがない子供だった。そんな私がレースに出たいと言い出し、走り始めた。
優しい母は、そんな私を支えてくれた。子供用のレースがどこで行われているのかも、家の近くに練習できるトラックがあるのかも、母が全部探してくれた。
その頃から既に、アヤベちゃん、無理はしないでね、と心配する母の言葉を聞いていた。やはり大丈夫だと、私はあまり聞く耳を持たなかった。 - 3◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:09:05
気付けば、思考の中にあったトラックが目に入っていた。公園に隣接されている小さめのものは、今となっては記憶の中のものより手狭に見える。
トラック脇に備え付けられているベンチに近付き、座る。走る私を、母はいつもここで座って見守っていた。どんな思いで、見ていたのだろう。
帰らなければならないというのに、縛り付けられたように私の足は動かない。レースで使う脚と同じ部位なのに、どうにもままならない。
それは、後ろめたさがあるからだろう。あの頃から歳を重ねたというのに、私は、どこまでも成長していないアドマイヤベガだから。何も変わっていない。
もっとレースで走りたいとトレセン学園に入学してから、本格化を迎えて。私は、トレーナーさんと契約した。自分から進んでしたわけじゃない。勝手について行って、勝手に支えると言うから、仕方なく。
新人とはいえ、ウマ娘の育成のスペシャリスト。一介の生徒では及ばない知識。でも、私はあの人に反発し、従わなかった。ひどいことも、言ったと思う。
それでも、トレーナーさんは私を支えてくれた。こだわりを持つどころか意固地になっていた私に合う方法を見つけてきて、してくれる。まるで、母のようだった。
対する態度を同じようにとっていたのに、同じように私を気遣ってくれる。別人なのに、あの人を通して母を見ていたのだろうか。 - 4◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:09:58
それを実感したのは、あの日。あの子のためにと走り続けて、足が限界を迎えかけた、あの日。私の中から、あの子がいなくなってしまった。
悲しかった。辛かった。この先、どう生きればいいのと、心の中で渦巻いていた。意識を失っていた私の傍には、トレーナーさんが付いていてくれて。感情をそのまま、あの人にぶつけた。
ウマ娘とヒトの差なんて考えもせずに、あの人に縋りついた。腕、痛かったでしょうに。トレーナーさんは、静かに私を受け止めてくれた。
その時、私は悟ったのだ。ああ、母も同じように支えてくれていたのだと。本当に今更な話だった。
それからも、トレーナーさんとの契約は続いている。プライベートなことには決して踏み込ませなかったのに、いつしか相談するようになっていた。
新年を迎えた時もそうだった。自分としてちゃんと生きるために、何を誓えばいいのか。分からないでいた私に、あの人は教えてくれた。
ちゃんと生きていきたい、それが君の願いだと。
それは、私が求めていた答えだった。同時に、私が新たに悩む理由にもなった。
今に至るまで、私はこの願いを胸に生きてきたと思う。トレーナーさんと日々を過ごして。笑うことも、増えて。 - 5◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:10:48
でも、それは学園の周りの話。アドマイヤベガという生徒としてちゃんと生きるようになっても、アドマイヤベガとして家族への接し方は殆ど変わっていなかった。
レースに勝つようになって、お金がもらえるようになった。それを弟へのお年玉としてあげるようにはなった。
ただ、それを使って母に何かを買ってあげることをしていなかった。お金が全てだとは言わない。家族として、娘として、顔を見せに帰るだけでも良かった。
頭では分かっていた。分かっていたのに、現実の私は何も行動しなかった。今更、迷惑をかけてきたことを許してもらおうとでもいうの?
ちゃんと生きると誓った筈なのに、どうすればいいのか分からなくて。結局、またトレーナーさんに相談していた。
あの人は、全てを話した私を怒ることも、責めることもせずに、よく話してくれたね、と言ってくれた。どうしてそんなに、優しくしてくれるの?
トレーナーさんは、一度顔を見せに帰ってごらん、と提案してくれた。私の心の底まで見透かしているかのような言葉だった。
私はすぐには頷かなかった。怒られるのが嫌で顔を合わせたくない、というような子供じみた態度だった。
そんな私に、あの人はこう言ってくれた。
大丈夫。君のお母さんは、アヤベの妹さんの、何よりアヤベの、お母さんだから。 - 6◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:11:38
トレーナーさんは私の母に会ったことはない。もちろん、妹にだって。
それでも、きっと分かってくれているんだろうなって思った。だから、あの人の言葉に後押しされてここまで来た。結局、足を止めてしまったけれど。
トレーナーさんはこれ見よがしにトレーニングの休息日を設けてくれて、私は母へのプレゼントを買いに行った。誕生日でも、母の日でもない、季節外れのプレゼント。
何か良さそうなものはないかと品物を眺めていると、ふと気付いてしまった。私は、母が好きなものを何も知らないと。
ずっとそっけない態度を取り続けて、会話を広げようとしたこともない。相手がそうしてくれていたことは、分かっていた筈なのに。
あんまりな自分に嫌気が差して、帰ることも出来なくて。どっちつかずの気持ちのまま選んだのは、自分の趣味の延長線上のもの。
柔らかい素材で出来た、疲れが取れるというクッション。母のためにと考えた時、疲れ切った顔が思い出された。
弟が生まれて手のかかる時期であっても、私はレースや練習に行く頻度を抑えることはしなかった。そんな私に、母はいつもついてきてくれた。
もうあの頃の時間は過ぎてしまったというのに、最近の母の顔だって憶えているというのに。母に安らいでほしいという気持ちが私の心を離れなかった。
後悔と不安を抱えて買ったそれに触れて、ぽつりと呟きが零れた。 - 7◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:12:27
「喜んで、くれる……?」
自分への問いかけか、母への問いかけか。前者は答えが出ず、後者は相手がこの場にいない。そう、いない筈だった。
「アヤベ、ちゃん……?」
今の今まで思い描いていた相手が、そこにいた。驚いたように、こちらを見つめている。
「おかあ、さん」
私の口から母を呼ぶ声が聞こえる。何度も繰り返した言葉が、妙にぎこちない。そのまま、どうして、と尋ねる。
朝のメールからもう夕方だというのに、帰ってこないから駅まで行こうとしていたという。確かに、もう日は沈みかけていた。
本人に連絡を入れないというのが、母の気遣いと私への距離が感じられた。母の中では、私は私のままだった。
そのまま家への道を二人で辿る。最後に二人で並んで歩いたのは、いつだったか。思い出せないまま、会話がなくなる。
何かを話さなければ。そう思うのに、口は思うように動かせない。そんな私をよそに、母が話しかけてきた。 - 8◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:13:17
「アヤベちゃん、その……体調は大丈夫? 具合は悪くない?」
言葉は違っても、朝と同じようなこちらを気遣う内容。母も私と何を話せばいいのか分からないでいるのだ。実際、私を見る目に戸惑いの色が混ざっている。
今まで季節の節目節目で帰ってくることすらなかった娘が、突然帰ると伝えてきた。何の用かと疑問に思うのが当然。
「……大丈夫」
私の口から出てきた言葉は、それだけだった。いつも通りの、そっけない返事。母も、そう、と詳しく聞いてくることはない。
これではだめだ。このままではだめだ。ちゃんと生きるって、決めたんだから。無理矢理喉を震わせ、声を絞り出す。
「ト、トレーナーさんが」
母が驚いたように私を見てくる。私も何を言おうとしているのだろうと驚いている。まとまらない頭のまま、声は勝手に出ていくばかり。
「トレーナーさんが、お母さんに、顔を見せてきてごらん、って。休み、調整してくれて。それで、帰ってきた」
途切れ途切れに喋る内容は、とても滑らかではない。学校に通う歳ではない子供だって、もっとましでしょうに。
それでも、母は嬉しそうに何度も頷き、私の言葉を噛み締めているようだ。 - 9◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:14:06
「そう、あなたのトレーナーさんが……」
その響きは、まるであの人を以前から知っているかのようだった。面識はない筈なのに、どうしてなのか問いたくなる。でも、その勇気は出ずに家に辿り着いていた。
ずっと住んでいた自分の家。見知った外観に、見知った間取り。リビングのソファに二人して座っても、どうにも自分の過去を疑ってしまう。本当に住んでいたの、私は?
母は私とは別の意味で落ち着かない様子だった。普通の親子なら、くだらないことをああでもない、こうでもないと話すのだろうか。普通ではない子の私には、分からない。
そわそわとして、膝の上で手を組んだり解いたりして。そうしていたと思ったら、突然立ち上がった。
「そ、そうだ。お茶、入れるね」
母の気遣いのもてなしを、私はさせなかった。とっさに袖を掴んで、引き留めていた。アヤベちゃん? と、母は不思議そうに目を向けてくる。
自分でも何故そうしたのか理解出来ないまま、目を伏せて私は小さな声で呟いていた。
「今は、いいから。その、いらないとかじゃなくて、あの、私……」
言いたいことがまとまらずに声が窄んでいく。振り解かれるだろうか。そんな予想が脳裏をかすめるが、母は私の隣に座り直して袖を掴んだままの手を撫でてこう言った。 - 10◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:14:56
「大丈夫。お母さん、アヤベちゃんが落ち着くまで待ってるからね?」
母は、お母さんは、優しいままだった。目が潤みかけ、思わずぎゅっと目を閉じてしまう。色々なものが、零れてしまいそうだった。お母さんは、待っていてくれた。
少し落ち着いて、それでも言葉は見つからなかった。その代わり、しなければいけないことを思い出した。荷物の中から、包装されたものを取り出す。
それは? と尋ねてくる声に答える余裕はなくて、手元と、お母さんの顔とに、視線をさまよわせる。そのままでいることも出来ないので、これ、とお母さんに突きつけるように渡す。
「お母さんに……?」
頷くことしか出来ない私から受け取ると、お母さんは包みを剥がした。その中身に、目を丸くしていた。
「疲れが取れる、クッション。小さい頃、レースや練習についてきてくれたお母さんの、疲れた顔を思い出して、その」
言うつもりがなかった内容に口を閉ざしてしまう。今更過去のことを掘り返してどうしようというの。遅れに遅れてしまった、贈り物となってしまった。
それなのに、お母さんは嬉しそうにクッションを抱きしめ、ほころんだ顔を私に見せた。
「アヤベちゃん、ありがとう。アヤベちゃんからプレゼントなんて、初めて」 - 11◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:15:46
お母さんの言葉は、本心なのだろう。嘘は含まれていない。だから、それは私に突き刺さっていた。カーネーションひとつ贈らなかった、私の今までに。
私の表情が変わったことで何が起こったのか気付いたのだろう、お母さんも表情を一変させ、慌てたように言い始める。
「あ、違うの! アヤベちゃんを責めてるわけじゃなくて、お母さん、本当に嬉しくて!」
「ううん、いいの」
先程とは反対に、私はお母さんを落ち着かせるように宥めた。お母さんは悪くない。悪いのは、全部私。
そう思うと、何故か心が静かになっていった。今なら、私が帰ってきた理由も、お母さんに伝えたいことも、言えるかもしれない。お母さん、聞いてくれる?
私ね、今まであの子のために生きてきたの。生まれてくる筈だった、私の妹。信じてもらえないかもしれないけれど、あの子は、私の中に生きていたの。
でも、もういなくなってしまった。私が脚を壊しかけた時、不幸な星回りを持って、いってしまった。それで、どう生きればいいか、分からなくなってしまって。
そんな時、トレーナーさんがいてくれた。生きる意味を教えてくれて、見守ってくれて。あの人を見て、お母さんも見てくれていたことに、ようやく気付いたの。
お母さんがいてくれたから、私を産んでくれたから、今、私はここにいるんだって。今更遅いかもしれない。でも、ごめんなさいって……ありがとうって、言いたかったの。
私はもう涙を止められなかった。泣きじゃくってうまく話せない。滲む視界の中、お母さんも泣いているのが分かる。感情が、言葉が、色々なものが零れていく。 - 12◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:16:37
お母さんが辛かった時も、疲れていた時も、私は自分のことしか考えなかった。今日だって、お母さんが好きなものをあげたかったのに、何が好きなのか分からなかった。
お母さんの気持ち、分かってあげられない。嫌な気持ちにさせているのかもしれない。こんな………………こんな、むすめで。
ごめんなさい どうか、ゆるして
最後の言葉は、言わせてもらえなかった。お母さんが私を、抱きしめてくれているのが分かる。温かい。やわらかくて、ふわふわして。これが、おかあさんだったんだ。
お母さんは、しばらく何も言えないでいるようだった。私はそれを急かすことなく、ただ抱きしめられるままだった。やがて、嗚咽混じりのお母さんの声が聞こえてきた。
「お母、さんはね? アヤベちゃんが、生きていてくれるだけで、嬉しいの。それがね? おかあさんの………………ほんとうの、きもちよ」
ほんとうの、きもち? それがお母さんの本当なら、私は、わたしは……!
「ごめんなさい……おかあさん、ごめんなさい……! わたし、わたし、ほんとうは、ありがとう、って………………おかあさんに、いっぱい、ありがとう、って……!」 - 13◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:17:28
小さな頃から、星を見るのが好きだった。星の中に妹を見つけるのが好きだった。そんな私を、母はずっと見てくれていた。私自身が見ていないのに、アドマイヤベガを見つけてくれていた。
お母さんは自分ではかなわないくらい、大きな存在だ。母が一等星ならば、私なんて六等星ですらおこがましい。でも、そんな小さな、暗い中に隠れてしまいそうなものでも、必ずお母さんは見つけてくれる。
私はお母さんを抱きしめ返した。この温かさは、いつでも傍にあった。ただ、私が触れようと、見つけようとしなかっただけ。
お母さん、私は不器用です。どう生きればいいのかも、まだよく分かっていません。でも、トレーナーさんがいてくれて、お母さんがいてくれて。
少しずつだけど、頑張ってみます。これが、私のほんとうの、きもちです。
おかあさん、ごめんなさい。おかあさん、ありがとう。 - 14◆zrJQn9eU.SDR23/03/12(日) 19:19:46
以上です。アヤベさんの誕生日ですが、マーちゃんより少し重めになってしまいました。
- 15二次元好きの匿名さん23/03/12(日) 20:52:23
重いけど こういうの好き
お母さんとの距離を きっとこれから縮めていけるよね - 16二次元好きの匿名さん23/03/13(月) 07:48:54
カーチャン…
- 17二次元好きの匿名さん23/03/13(月) 19:24:16
保守