【SS】ウェザーリポート

  • 1二次元好きの匿名さん23/04/04(火) 23:00:49

     雨の日は嫌いだった。走ることが出来ないから。じめじめして、体が冷たくなる。どれだけ走ることが好きでも降り注ぐ雨の不快感は拭えなかったし、エアグルーヴやスペちゃんに怒られるから走らなくなった。
     トレーナーさんと契約を結んで少し経った頃、そんな話をした。他愛も無い世間話だった。曇り空を見た私がため息を吐いて、トレーナーさんが問いかけた。私の話を聞いた後何も言わず、少しだけ困ったような顔で笑っていたのを覚えている。

     雨の日に二人で散歩するようになったのは、それから何週間か過ぎてからだった。梅雨時の合間、珍しく晴れた日に走りに行った帰り道。通り雨に降られた私をトレーナーさんが傘を持って迎えに来てくれた。ビニール傘を2本抱えて、片方を私にくれた。開いた傘の分離れた距離。近いけれど、触れることはない。私とトレーナーさんとの距離。

    「雨は好きなんだ」

     トレーナーさんがぽつりとこぼした言葉。

    「ぱしゃぱしゃ水が跳ねて、傘を叩いて、音楽みたいで」
    「音楽ですか?」

     音楽という表現はしっくり来なかった。私には雑音にしか思えなくて、雨がなければもっと気ままに走れただろうという気分が先行してしまう。考え込んでしまう私にトレーナーさんはゆっくりと微笑みかける。

    「少し、ゆっくり歩いてみる? もしかしたら先頭の景色に繋がる何かがあるかもしれないよ」

     ゆっくり。歩幅を少しだけ狭くしてみる。学園まではもう少しだけ距離がある。車屋のショーウィンドウは水滴で濡れて、歪んだ鏡みたいに私達を映し出していた。
     その日から、トレーナーさんは雨の日になると、私を散歩に誘うようになった。走れないならすることもないから、私もそれに付き合った。トレーナーさんの言う”音楽”は何も分からなかったけど、嫌いな時間では無かったと思う。
     雨の日、傘は二つ。雨が上がると傘は一つ。トレーナーさんは止んでからも、しばらくは傘をさしていた。夕暮れに照らされた顔が、初めて出会った人のように思えた。そんな日常は、あの日まで躓くこともなく続いた。

  • 2二次元好きの匿名さん23/04/04(火) 23:28:48

     11月1日。その日のことはもはや思い出そうとしても思い出せない。不思議なくらい体が軽くなって、それから雷に撃たれたような痛みが走ったことは分かった。気がついたら病院のベッドに横たわっていた。三日は目を覚まさなかったらしい。左足首の粉砕骨折。前と同じように走れる可能性は絶望的だった。

     目が覚めた時にトレーナーさんは居なかった。関係各所への対応に追われていたとかなんとか。報告を受けて戻ってきた時は、眠ってないと分かるクマだらけの目で、無精髭が生えていた。いつもの微笑みはなく、まっすぐに頭を下げた。

    「俺が早く気がつけていれば、本当にすまない。だけど、生きていてくれて良かった」

     トレーナーさんは悪くない。どうして、こうなったのと言われれば、練習以外にもずっと私が走り続けていたからだ。その時に後悔していたかは定かではないけれど、トレーナーさんのせいじゃないってことは伝えようとして。うまく言葉が出てこなくて。「大丈夫だから」と私は、作り物みたいな笑みを浮かべることしか出来なかった。トレーナーさんはお医者さんと何事か話した後、私に「もう一度走らせてみせる」と言って、病室を出ていった。

     入院している間、ずっと雨が降り続けていた。私にとってはありがたい雨だ。雲ひとつ無い快晴だったなら、走りたいという気持ちに押し潰されていたかもしれないから。
     窓の外、冬に入りかかった暗い空を眺める。窓を叩く雨音は、やっぱり雑音にしか思えなくて。だけどその雑音が、私の思考を乱して、長い一日を誤魔化してくれる。ちょうど入り口側だったから、お見舞いに来てくれるトレーナーさんにはすぐに気がつくことができた。

    「調子はどう?」と聞いてくるトレーナーさんは前と変わらない微笑みで、だけど目の下のクマは日に日に濃くなっていた。分かっていても、私は何も言わなかった。ううん、言えなかったという方が近いのかもしれない。普段通りだというように、トレーナーさんが何も言わないから。とりとめのない話をしていてもお互いに沈黙のままだった。雑音だけが耳元で騒いでいた。

     気付かないふりは思いやりだったのだろうか。私にとってはただの卑怯な言い訳だ。私が怪我をしないように、トレーナーさんがどれだけ気を遣ってくれていたのか。私が怪我をした時に、この人がどれだけ苦しんだのか、分かっていたはずなのだから。

  • 3二次元好きの匿名さん23/04/04(火) 23:55:33

     リハビリは、拍子抜けする程順調に進んでいった。退院する頃には、自分で立って歩くことができるようになっていて、お医者さんも回復が早いと感心していたように思う。復帰が絶望的なことには変わらないが、まだ可能性はゼロにはなっていないと。
     トレーナーさんの目の下のクマも少しずつ薄らいでいって、退院日には以前の日常と殆ど変わらないような様子だった。

     退院後、走るのは厳禁だと念を押されて、トレーナーさんが運転する自動車で学園の寮まで送られる。雨が降るかもしれないからと、ビニール傘を渡された。
     寮に戻るとスペちゃんが涙で顔をぐちゃぐちゃにして出迎えてくれた。フクキタルも心配して顔を見せてくれたし、あっちの寮からタイキとエアグルーヴも様子を見に来てくれた。いろんな人を心配させてしまったと謝ると、エアグルーヴに怒られてしまった。「レース中の事故を責める奴なんて居ない」と言われて、他の皆も先ず無事で良かったと笑ってくれた。その優しさに暖かい気持ちになるのと同時に、どうしてかトレーナーさんの顔が思い出された。

     夕方、雨が降り出した。大人しくしていろと言われたけれど落ち着かない。ベッドに腰掛けたままだと、考え事も要領を得なくてむずがゆい気分になる。そんな時、雨の音はちょうどいいのかもしれない。雑音が思考をかき乱して、うまい具合にぼんやりとさせてくれる。トレーナーさんも、そんな気分だったのだろうか。

     立ち上がる。雨の音は小さくなっていた。

    「ごめんねスペちゃん。ちょっと外の空気を吸ってくるわ」
    「えっ? スズカさん、走っちゃだめですよ!?」
    「大丈夫よ、走るつもりは無いの」

     そう言っても信用が無いのか、スペちゃんは頭をグリグリして悩んでいた。でも、本当に走るつもりは無くて。ただ、確かめに行きたいだけで。

    「絶対、絶対走っちゃだめですからね!」
    「うん。ありがとう、スペちゃん」

     お礼を言って、外靴に履き替える。また雨が降っても傘は要らない。

     車屋の前のショーウインドウ。トレーナーさんは雨上がりに傘をさして、そこに佇んでいた。

  • 4二次元好きの匿名さん23/04/05(水) 00:17:29

    トレーナーさんの表情は見えない。ショーウインドウは水滴で、反射した顔をぼやかしてしまう。掛ける言葉が思いつかなくて、だけど何か言いたくて、考えている間にすぐ近くまで来てしまって。

     思わず私は、トレーナーさんの背中に抱きついた。びっくりしたトレーナーさんの肩が飛び上がる。私が来ていることに気がついていなかったみたいだ。

    「スズカ?」
    「トレーナーさん、その、あの」

     何を言えば良いのかわからない。ここにトレーナーさんが居ることだって賭けみたいなものだった。雨音が止んでも思考はぼんやりしたままだ。

    「私、トレーナーさんが居てくれて、本当に良かったと思ってます」

     浮かぶのはいつも、トレーナーさんの微笑み。その笑顔が、トレーナーさんの心を隠していたかもしれない。今になってようやく気がついた、トレーナーさんが雨を好きな理由。

     辛い時も、泣きたい時も笑ってた。私が怪我をして、どれだけ後悔と自己嫌悪に襲われたのだろう。私には分からない。だけど、とても抱えきれない量だということは分かる。それを、雨音と傘で隠して、私の前ではずっと微笑んで見せてくれた。私がもう一度立ち上がれたのは、私のワガママをトレーナーさんが許してくれたから。

    「だから、だから……」

     自分を傷つけるような笑みだけじゃなくて、苦しい時には苦しいと言ってほしかった。笑う前に、ちゃんと泣いてほしかった。自分を労ってあげてほしかった。でも、きっとトレーナーさんは、私と同じくらいワガママだから。

    「だから、顔を見せてください」

     
     私が言えた精一杯の言葉。それ以上は何も言えなくて、ただ強く抱きしめることしか出来なかった。

    「……ありがとう。ごめんな」

     トレーナーさんの声が震えていた、泣いているのだとすぐに分かった。
     雨上がりに傘が一つ。一つあれば、それで十分だった。

  • 5二次元好きの匿名さん23/04/05(水) 00:20:21

     晴れの日には走りに行く。一人で、どこまでも遠く、きれいな景色を見るために。


     雨の日には二人で散歩に出る。雨音を聞きながら、一つの傘でゆっくりと歩く。その中に二つ、笑顔があった。


    『ウェザーリポート』おしまい


    Weather Report


  • 6二次元好きの匿名さん23/04/05(水) 00:25:26
  • 7二次元好きの匿名さん23/04/05(水) 01:09:50

    意外と大胆なスズカさん良いね

  • 8二次元好きの匿名さん23/04/05(水) 01:26:25

    爽やかではない。でも心地良い読後感でした。

  • 9二次元好きの匿名さん23/04/05(水) 06:51:13

    こう……良い

  • 10二次元好きの匿名さん23/04/05(水) 07:50:47

    スズカさんはこういうシットリしたSSが似合う本当に似合う

  • 11二次元好きの匿名さん23/04/05(水) 08:59:24

    こういう雰囲気の作品貴重なのでたすかる
    お気に入りにぶち込んでやったからな

  • 12二次元好きの匿名さん23/04/05(水) 19:46:59

    スズカさんが抱き着いても壁では?
    スペちゃんは訝しんだ

  • 13二次元好きの匿名さん23/04/05(水) 21:53:35

    重い題材と空模様を連動させるの大好きです

    いいssでした



    (スレタイだけ見て最初ジャズグループの方かと思いました)

    Weather Report - Birdland


  • 14二次元好きの匿名さん23/04/05(水) 21:55:03

    めっちゃいいという小並感な感想しか言えませんがめっちゃいい…ありがとうございます…

オススメ

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