一曲お願い出来ますか? トレーナーさん

  • 1◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:45:50

    【比翼の燕】

    「っとと!?」
    「トレーナーさん? 大丈夫ですか?」
    「あ、ああ、ごめんよアルダン」
    「ふふっ、焦らずとも大丈夫ですよ」

     クラシック級の年に参加したリーニュ・ドロワット、通称ドロワ。数年前に参加した際、私はその時の熱をしばらく忘れられないでいた。
     ならばその余韻を冷ます手伝いを、という事で一度トレーナーさんからダンスに誘われたことがあったのだけれど……。
     私がリードする形になったのがどうにも心残りだったようで。リードされたままでは終われない、とたまにこうしてダンスの手解きをするようになった。

    「はぁ……はぁ……」
    「ふぅ……トレーナーさん。中々様になってきたのではないでしょうか?」
    「そ、そうかな? 君からそうして褒めてもらえるのは嬉しいな」
    「はい。着実に成長されていると思います。息も以前と比べると、格段に乱れないようになってきておりますから」
    「確かに。前は踊り終わった後は肩で息をしていたけど、今はそこまでじゃないかもしれない」

     片やレースへ向けてのトレーニング。片やその為のトレーニングメニューの作成や、出走ウマ娘のデータ集め。
     その他書類の作成など、ダンスの練習に当てられる時間はとてもじゃないけど多いとは言えない。
     本格的に練習を始めたのはお互いに余裕が出来始めた、最初の3年間を終えた後だけれど、それでもトレーナーさんはその短い時間で着実に上達されていった。

    「ただアルダンをしっかりとリードするまではまだまだ遠いかな?」
    「そんなことは……と言いたいところなのですが。確かにもう少し時間が必要かもしれませんね。今トレーナーさんにしていただいているのはフォローですので」
    「え? あ、ああ〜……道理で。あんまり男性がやってるイメージがない動きだと」
    「まずはダンスに慣れていただくのが早いかと思いまして。それにリードされる側を意識出来ていた方が、リードする側に回った時により理解しやいすかと」
    「なるほど。幼い頃から習ってるアルダンの言うことだし、疑う余地はないね」
    「ふふっ、そう言っていただけると、お教えしている甲斐がありますね」

  • 2◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:46:01

     確かにマックイーンにダンスの手解きをした事もあるし、誰かに教えたという経験はある。
     けれどそれ以上に、少ない練習時間で効率的に成長できているのはトレーナーさんの筋がいいという部分が大きいでしょう。
     ダンスの経験はほとんどないと言っていたけれど、もしも幼い頃から練習していたら。その才能が花開いていたとしても不思議ではない。

    「なので、今覚えていただいているものを身に着けられたら、今度はトレーナーさんにリードをしていただこうかと」
    「そうだね。なるべく早くそうなれるように頑張るよ」
    「では、その時を楽しみにしておりますね」
    「ただ今日はこれ以上は踊れないかな……君の脚への負担もあるけど、それ以上に俺がへとへとだ……」
    「ふふっ♪ ええ、そうしましょうか」

     トゥインクルシリーズへの挑戦で私の脚は随分と頑丈になったけれど、依然として他のウマ娘より脆い事に変わりはなく。
     ただダンスを踊る事ですら長時間持たなかった頃の面影はそこにはなく、過度に心配する必要はなくなりつつある。
     その為成人男性とウマ娘、どちらが身体能力が高いかと言えば当然ウマ娘であり。
     練習に関しても私の脚への負担というよりも、トレーナーさんの体力的な問題でお開きになる、というのがいつもの流れだった。

    「じゃあまた余裕がある時に、よろしくね?」
    「ええ、お任せください」

     そうしていつも通り次の約束をして、今日という一日が過ぎていった。

  • 3◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:46:17

     トレーナーさんに本格的にダンスの手解きを始めて、数か月が経ったある日。

    「ふぅー……ど、どうだった?」
    「随分と上達されましたね、トレーナーさん♪」
    「ということは」
    「ええ。フォローに関しては、私からお教えできることはほとんどありません」
    「いやぁ、ここまで長かったなぁ……」

     練習の度目覚ましい速度で上達していき、気付けば完璧なまでにフォローが出来るようになっていた。

    「今日のところはこれでお開きにしたいと思うのですが。そうですね……もう一度通しでの練習は挟んでおきたいかも……」

     次練習する日を考えると恐らく来週にはなるはず。トレーナーさん、書類の作成で忙しそうにされておりましたし。
     少しだけ間隔が空く事を考えるとふと、好奇心が閃きを起こした。

    「そうです! トレーナーさんもドレスを着てみませんか? そうすればより本格的なものが出来るのではないかと」
    「お、俺が、ドレスを?」

     今私が纏っている燕尾服。それに合わせる形でドレスを纏っていただければ。よりダンスに身も入るのでは、と。

    「はい! トレーナーさんにならスーツだけではなく、ドレスでも似合うと思いまして。ばあやに連絡すれば持ってきてもらえるかしら……」
    「いや、それはちょっと……」

     トレーナーさんはお顔の整われた方ですし、メイクもすればより一層綺麗になるはず。
     背も高く細身で、スーツ姿とはまた違う雰囲気で様になるのではないかと。そんな好奇心が、トレーナーさんの見せた戸惑いを覆い隠してしまった。

    「お願い、出来ますか?」

     懇願するように、両の手でトレーナーさんの手を包むと。

  • 4◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:46:28

    「やめてくれっ!」

     瞬間、弾くように私の手は振り払われてしまった。

    「と、トレーナー、さん?」

     今まで見たこともないトレーナーさんからの拒絶。何かに怯えているような表情から、次第に後悔の色が滲み始める。

    「……ごめん。少し、離れてくれないか?」
    「は、はい」

     震えた声音から感じられるのは怒りではなく、悲しみ。懇願するように絞り出されたそれに、反射的に数歩後ろへ下がる。

    「俺はまだ少し仕事が残ってるから……」
    「あ、あの、トレーナーさん……」

     今にも泣き出してしまいそうな表情から、絶対にひとりにさせてはいけないと、支えなければいけないと駆り立てられる。

    「申し訳ございません。私、トレーナーさんの気に触るような真似を」
    「ちょっとだけ、時間が欲しい」

     それなのに、支えられる距離に近づくことは叶わない。一線を踏み越えてしまったであろう私に、これ以上入って来るなと線を引かれてしまったようで。

    「……っごめん」

     それでもなお、私のせいではないと。ただただ悲痛に歪む横顔に、それ以上声を掛けることは出来なかった。

  • 5◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:47:05

     拒絶された時に見せた恐怖と、そして、悲哀。
     理由は分からないけれど、間違いなく私が踏み込んで欲しくない部分にまで踏み込んでしまった。
     我ながら何故あのように強引な迫り方をしたのでしょう。一度拒否する態度は見せられたというのに。

    (浅はかでした……)

     舞い上がっていた。好奇心に駆られ、悪意はなくとも、土足で踏み荒らしてしまった。
     そして、そんな不躾な真似をしたにも関わらず、怒りを向けずにいてくださるのに。私は一向に出来てしまった溝を埋められないでいる。
     今日は次走に向けて、トレーナーさんが集めた資料に目を通すのが主で、身体への負担がかかる練習は行っていない。
     数日前までなら、こういう時はこの後の時間をダンスの練習に当てていた。

    「あ、あの、トレーナーさん。この後お時間はいただけますか?」
    「ごめん、仕事が残ってるから……」

     私の声に一瞬だけこちらの方を向いたかと思えば、視線が交わる前に瞳を逸らされる。
     ……この数日間はいつもこの調子で。その度に辛そうな顔をされるのが、私の胸にガラス片のように突き刺さる。

    「そう、ですよね。すみません」

     決して、会話をしていないわけじゃない。けれどそのどれもが事務的なもので。
     詩を紡ぐように、言葉を交わすことは出来なくなっていた。

  • 6◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:47:17

    「それでは、私は今日はこれで失礼します」
    「ああ、お疲れさま」
    「では、また明日」

     寂しい、のでしょう。トレーナーさんと語らう時間が、なくなってしまって。
     取り戻さなければいけないのに、今日もまた、無情にも時だけが過ぎ去ってしまう。
     一週間にも満たない時間なのに、閉塞した日々は永遠にも感じられた。

    (いいえ、このままではいけない。辛いのは私だけではないのだから)

     思うに、トレーナーさんはあの日のことを怒ってはおられない。これに関しては間違いないと思う。
     態度に関しても突き放しているのではなく、傷つけたくなくて必要以上に近づけなくなっているような。自分から踏み込むことが出来なくなっているような印象を受ける。

    (なら、私が為すべきことは……)

     トレーナーさんは個人的な感情で担当ウマ娘を傷つけるような人じゃない。
     上手く距離感を掴めなくなって、苦しんでいるのは私よりもきっとトレーナーさんの方。
     そう思うと、自然とやるべきことは見つかった。

    (貴方が、私を傷つけない距離が分からなくなったと言うのなら)

     私が、その距離を示してみせるまで。

  • 7◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:47:28

     今日はトレーニング自体はお休みだけれど、トレーナー室へと足を運ぶ。
     すれ違った日々をこれ以上続けるだなんて、私には耐えられないから。

    「失礼します、トレーナーさん」
    「あ、アルダン? 今日はトレーニングはお休みにしてるはずなんだけど」
    「ええ、分かっております。ですので、トレーナーさんのお仕事の手伝いが出来れば、と」
    「いや、君にそこまでしてもらうには……」

     今日も視線は合わせてくれない。でも、きっと。それも今日で終わるはず。私を遠ざけるような言葉に、少しだけ胸が締め付けられるも引き下がる。

    「トレーナーさん、目にクマが出来ていますよね? 無理をなされているのではないですか?」
    「っ、あ~、いやこれは仕事だけでこうなってる訳じゃ……」
    「お仕事が原因のひとつ、ではあるのですよね?」

     お仕事以外の原因も、おおよその検討はついている。けれど今はその話をするべきではないでしょう。その話は、お仕事を手伝った後でいいのだから。

    「まあ……そうなるね」
    「でしたら、遠慮なさらず。私だって、貴方の力になりたいのですから」
    「……分かった。じゃあ少しお願いできる?」
    「はい、お任せください♪」

     やはり私から近づく分には問題ない様子。これなら、きっと上手く行くはず。ひとまずは書類整理など、私でも出来る範囲の仕事を手伝う。

    「ありがとう、アルダン。一段落ついたからもう大丈夫だよ」
    「お役に立てて良かったです」

  • 8◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:47:39

     お仕事が一段落ついたという事は。私からの誘いを断る術は、今のトレーナーさんには存在していない。
     少しだけ意地が悪いと思いつつも、そこはお仕事を理由に私を避けてきたトレーナーさんのせいという事にしておきましょう。

    「では、トレーナーさん。この後、私と踊っていただけますか?」
    「えっ、いや……今はちょっと……」
    「お仕事の心配でしたら、先ほど私が手伝わせていただいたもので目処がついたのではないですか?」

     今日私がトレーナーさんのお仕事を手伝ったのはこの為でもある。
     勿論最近忙しそうにしていたから、という純粋な善意もあるけれど。

    「そう、だね。……分かった。それじゃあレッスンルームの方に行こうか」
    「はい。では、私は服を着替えてから参りますね」

     制服のままでは踊りづらい。ドロワの時に着ていた燕尾服を身に纏い、レッスンルームへと向かう。
     今日は他には誰も部屋を使っておらず貸し切り状態。トレーナーさんと話がしたい私にとっては都合がいい。

    「それではトレーナーさん、お手を」

     いつものように、私がリードするべく手を差し出す。以前まではそのままトレーナーさんが手を取り踊り出していた。
     けれど今日は私の手を取ろうとした瞬間、触れてしまってもいいのかと。
     そんな躊躇いが見て取れた。あの日は見逃してしまったけど、今度は見逃さない。不安に彷徨う手を取り、強引に踊り出してしまう。

    「ふふふっ♪」
    「あっ、ちょっと!?」

     いつも通りリードを貰い、ゆったりと、話が出来るようにステップを踏む。

  • 9◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:47:50

    「あ、アルダン? 心の準備が……」
    「あら? トレーナーさんは、私と踊るのに心の準備が必要なのですか?」

     互いに身体をホールドしている為、否が応でも顔は近くなる。その為意識しなくとも視線は交わるはず。
     それなのに今、トレーナーさんの視線は下に逸らされている。ならば、その瞳の中に私を映していただくまで。

    「トレーナーさん。私、この数日トレーナーさんとお話することが出来なくて寂しかったです」
    「…………」

     帰ってきたのは、沈黙。けれど今は構わない。トレーナーさんが心の内を吐き出せるようになるまで、私がリードすればいいのだから。

    「トレーナーさん。あの時は不躾な真似をしてしまい、申し訳ございませんでした」
    「っ、いや、君が謝る必要なんて……」
    「いいえ。確かにあの時、トレーナーさんは私の手を振り払われました。その理由が、私が詰め寄った事であり、それに少し怯えておられたのも」

     何がトレーナーさんにそうさせたのかは分からない。けれどあの時の行動がトレーナーさんに不快感を与えてしまったのは、確かな事実として存在している。

    「あの時何に怯えておられたのかは、私には察することは出来ません。ですが好奇心に駆られ、トレーナーさんの触れて欲しくない部分にまで踏み込んでしまった。それは確かに、私の落ち度なのです。だからこそ、謝罪を」

     罪悪感に、心にヒビが入りそうになる。傷つける気はなかったのに、そうしてしまった。
     大切な人の心に影を落としてしまった。私からトレーナーさんの笑顔を奪ったのは、私自身だ。
     そうして互いに無言のままステップを踏む。もしかしたら、今も私が振り回しているだけなのかもしれない。リードにはなっていないのかもしれない。

  • 10◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:48:05

    「以前路地裏に迷い込んだ時のこと、覚えておられますか?」
    「え? あ、ああ、覚えてるけど」
    「あの時トレーナーさんは慣れない道で不安な私を守ってくださいました。その後は……少し可愛らしかったですが」
    「あの時はっ……! いや、雰囲気に当てられてね?」
    「それと同時に、私も貴方のことを守りたいのだと。そうお伝えしたと思います」

     それでも貴方と、手を、言葉を、心を重ねたくて。無意識に繋いだ手に力が籠る。

    「貴方が私にとっての止まり木であるように、私だって、貴方の止まり木でありたいのです。トレーナーさんにとっては、私の姿はそんなに儚げに映っているのでしょうか? 寄り掛かれば折れてしまいそうなほど、私は頼りないですか?」

     私の問いに、息を呑むのが伝わる。そして私の想いに応えるように、重ねた手に力が籠ったのが伝わった。

    「参ったな……こんな事までリードされっぱなしだなんて……」

     少しだけ困ったような、けれど嬉しさを隠しきれない表情を浮かべて、この数日重なる事のなかった視線が、交わる。

    「アルダン、俺の方こそごめん。冷たい態度を取って、君のことを傷つけてしまった」
    「はい、寂しかったです」

     今日まで私を避けていたのはやはり本意ではなかったのでしょう。心の内を吐き出せて、憑き物が落ちたように表情が少しだけ晴れる。

    「本当にごめん……」
    「でも、いいのです。今こうして、お話しすることが出来ているのですから」

     嬉しい、嬉しい! すれ違った心が重なるだけで、こんなにも気分を高揚させてくれる人。今すぐにでもこの身を委ねて、溢れる気持ちを全身で伝えたい。でもそれは踊り終わるまで我慢して、今はトレーナーさんの言葉を待つ。

  • 11◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:48:16

    「……なんてことのない話なんだよ。俺が学生の時の学園祭での催しがメイドと執事喫茶でね」

     あの日の拒絶の理由を、悲しみの訳を。少しずつ、少しずつ零し始める。

    「まあ、そんなことが。トレーナーさんの学生の頃のお話はあまりお伺いしたことがありませんので、興味があります」
    「そうだね。俺も話す機会はあまりなかったし、君への態度と関係もあるしちゃんと話すよ」
    「はい。それで、喫茶店だったとのことですが。トレーナーさんは執事服を着られたのですか?」
    「男女逆転だったんだよ、着るのが」
    「男女逆転、ですか?」
    「そう。まあでも、珍しいという程の話でもないと思うよ。……ただ俺はどうしてもメイド服を着るのに抵抗があってね。恥ずかしかったのが大きいとは思うんだけど」

     学園祭という楽し気な言葉の響きとは裏腹に、トレーナーさんの表情は苦々しいもの。
     この数日間私を避けた原因でもあるということは、あまりいい思い出ではないのでしょう。

    「それでまぁ、ほぼ無理やり気味に着させられて。イジメって訳ではなかったんだけどね。クラスの出し物になんで協力しないんだ、って感じだったから」

     無意識ではあるのでしょうけれど、そう喋るトレーナーさんの眉根は顰められ、過去の出来事が不快だったことは表情だけでも伝わってくる。

    「ただちょっと……やっぱりその時無理やり着させられたのが嫌だったから。どうしてもそれを思い出して。あの時のアルダンが詰め寄ってきた子のシルエットと少し似てたのもあってね。試着した後も可愛いとか、似合ってるだとか言われたけど。当時の俺はそれが凄く苦痛だった」

     手を振り払われた理由を知ると同時に、今の話を鑑みればあの日の反応は当然のものだったと言える。
     嫌な思い出と重なる燕尾服を纏って、あろうことかドレスを着ることを懇願した。知らなかったとはいえ、なんて酷なことをしてしまったのでしょう。

    「それでその……当日は着られたのですか?」
    「ううん、休んだ。というか、お腹を壊したんだよ、ストレスで」
    「そう、なんですね……」
    「学園祭が終わった後は少し気まずかったよ。皆もサボりじゃないとは知ってたから。無理強いした事に少し責任を感じてしまったんだろうね。俺も俺で和を乱したとは思ってたから」

  • 12◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:48:30

     努めて明るく振る舞おうとはされているのでしょうけれど、表情はどこか陰りを帯びたもので。
     私に理由を話してくださっている今この時も、本当は無理をなされているのではないかと不安になる。

    「でも情けない話だろう? メイド服着たくなさにストレスでお腹を壊すなんてさ」
    「いえ、そのようなことは……。この数日間も、実は体調が優れなかったのでしょうか?」
    「悪くないと言えば嘘だろうけど、それに関しては君のせいではないから……」

     先程までの、思い出に対する苦々しげな表情から、今に向き合うべく、真剣なものへとトレーナーさんの顔つきが変わる。

    「君の手を払い除けた時、反射的とはいえなんてことをしてしまったんだ、って思った。許せなかったんだよ、君に対してあんな真似をした自分が」

     怯えは、過去の思い出から。けれどその後に見せた悲しみは、それとは違う理由。

    「嫌な記憶を思い出してそれで反射的にやってしまったって。理屈では分かってる。それでも君には関係のない話で。トレーナーとしても、一人の大人としても有り得ない態度だっただろうから」
    「ですがそれは私が無理強いをしたからで」
    「いいや、違うよ。確かに君の手を払い除けた事は、過去の出来事のせいだけど。その後すぐに君と向き合えなかったのは、間違いなく今の俺のせいだから。……そうやって自己嫌悪に陥ってるうちに、どんどん動けなくなってた。分からなくなってた、君に掛ける言葉が。君に触れたら、また払い除けてしまうんじゃないかって。不安だった」

     あの日から避けられ、言葉を交わす事が出来なくて悲しかった。貴方の瞳の中に、私は今いないのだと。
     けれど心の中には、片時足りとも私は離れていなかった。そう思うと、不思議と喜びが込み上げてくる。

    「だから……本当にごめん」
    「トレーナーさん。私は今、とても嬉しいのです」
    「う、嬉しい? 悲しいとか怒ってるじゃなくて?」
    「はい。だって、私の手を払い除けた事をずっと気に病まれていたのでしょう? 私からしてみれば、それ自体は些事に過ぎません。ですがトレーナーさんはそうではなかった。避けられていたと思っていたのに、実際は貴方の中にはずっと私がいたのですから。これを喜ばずしてなんとすればよいのでしょう?」

  • 13◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:48:41

     私の言葉に呆気にとられたように、開いた口が塞がらないといった様子。
     避けるような態度をずっと気にされていたのに、それを嬉しいと受け取られて。トレーナーさんからしてみれば無理もない反応でしょう。

    「あは、あはははは……君には敵わないね、本当に……」
    「だから、トレーナーさんはこれ以上気に病まれる必要はないのですよ。それに……また数日間トレーナーさんとお話が出来なくなると思うと、そちらの方が悲しいですから」
    「ああ、分かった。そうするよ」

     今日までのすれ違いは、これで解決された。それでももうひとつだけ、懸念すべき事が残っている。

    「ですが……この服はもう、トレーナーさんの前では着ないほうが良いのかもしれませんね」
    「それはっ!」

     根本的に、私の手を払われる原因となったのは、この燕尾服を着ていたこと。
     嫌な記憶とシルエットが重なるこの衣装は、トレーナーさんからしてみればあまり良い印象は与えていないのでしょう。

    「トレーナーさんは、この服を着た私を見ると嫌な記憶を思い出してしまうのでしょう? 私にはそのような、無理強いをするような真似はできません」
    「違う、違うよアルダン。確かにあの時は嫌な記憶を思い出してしまったけど」

     私の言葉に間髪を入れず否定が挟まれる。そうして穏やかに微笑まれて。

    「俺は、君のことが好きだから。だったらその服を着ている君も、好きになりたい」

     あまりにも唐突に、告げられた。

    「あ、あの、トレーナーさん? その言葉は……」

     言葉にせずとも、互いに想い合っている事は感じていた。
     けれど実際に言葉で伝えられるとなると話は別で。今度は私が瞳を逸らす番だった。

  • 14◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:48:52

    「……アルダン。聞かなかったことにしてくれない?」
    「で、出来ません。そのような情熱的な告白、忘れることなどっ……」
    「っ、アルダン、危ない」

     動揺でステップが乱れ、態勢を崩す。幸いにも互いに体をホールドしたまま。そのまま倒れそうなところを抱き留められた。
     まるでピクチャーポーズのように、唇すら、触れてしまいそうな距離で。

    「……大丈夫?」
    「は、はい」

     崩れた態勢から起こされたものの、思わぬアクシデントに拍動が高鳴る。それはもう、踊っているときよりも激しく。
     流石にこの流れでダンスを再開することは出来ない。お互いに照れたまま姿勢を正す。

    「えーと……。この言葉はいずれまた伝えるから。それじゃあ、ダメかな?」
    「はい。必ずその時には、お受けいたします」

     怪我の功名、とでも言えばいいのでしょうか。離れていたかと思えば、今度は些か近づき過ぎな気もするけれど。

    「あー、えっと。何の話をしてたんだっけ?」
    「この服についてだったかと」
    「そう、それだ。その燕尾服自体はとても素敵だと思うし、君にもよく似合ってる。だからきっと、嫌な記憶も乗り越えられると思うから」
    「では、引き続きダンスの手解きをする際にはこの服を着てもよろしい、ということでしょうか?」
    「うん、お願い出来るかな?」
    「ええ、喜んで!」

     元はと言えばチヨノオーさんのドレスに合わせたものだけれど、それも含めて想い入れのある服だから。
     トレーナーさんから否定されず受け入れられて、安堵と共に、喜びが込み上げてくる。

  • 15◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:49:07

    「それとトレーナーさん。あの時はドレスを勧めてしまいましたが、それとは違う別のお願いを、今してもよろしいでしょうか?」
    「何かな?」
    「ドレスではなく、燕尾服を。こちらでご用意させていただけませんか?」 

     抱き留められた瞬間、考えてしまった。もしもトレーナーさんがスーツではなく、燕尾服だったら。燕尾服を纏った貴方に、リードを委ねたら。どんなに胸がときめくのでしょう、と。

    「俺には断る理由がないけど……いいのかい? 下世話かもしれないけどお金だって掛かるだろうし」
    「はい。だって私が、燕尾服を纏った貴方と踊りたいのですから」
    「そういうことなら、喜んで」

     そんな少女のような願いは、穏やかな笑みと共に受け入れられた。
     つい先程、私も止まり木でありたいと言ったのに、貴方に心を委ねるのは心地良くて、つい甘えてしまいたくなる。

    「この後どうしようか……。時間はまだあるけど……もう一曲踊る?」

     それも素敵かもしれない。けれど、今はそちらではなく。

    「でしたら、ダンスではなく、寄り道に。付き合っていただいてもよろしいでしょうか?」

     永く、永く感じた閉塞した日々から抜け出すように、いつも通りの日常へと誘い出す。

    「もちろん。罪滅ぼしという訳じゃないけど、どこへでも」
    「では、遠慮なく。先日駅前に新しいクレープ屋さんが出来たのです。ヘリオスさんに教えていただいて。是非トレーナーさんとご一緒出来れば、と」

     だって私が望むのは、貴方と紡ぐ永遠の明日なのだから。

  • 16◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:49:17

    ~Epilogue~

     後日。この日は仕立てた燕尾服を試着しに、トレーナーさんがお屋敷に訪れていた。

    「よくお似合いですよ、トレーナーさん♪」
    「そうかな? そう言って貰えるのは嬉しいね」
    「ええ♪」

     仕立てられた燕尾服を身に纏われたトレーナーさんは普段より一層凛々しく、輝いて見えた。

    「しかし、こんなものを貰ってしまって良かったのかな……。俺がこの服を着る機会なんてそんなにないと思うんだけど」
    「いえ。この先もきっと、着ていただく日は来ると思いますよ」

     私の我儘で仕立てた燕尾服だけど、着る機会に恵まれなければ勿体ないと思うトレーナーさんの気持ちはよく分かる。けれど、その心配は杞憂に終わるはず。

    「だって私は、トレーナーさんにとっての永遠の輝きなのでしょう? でしたら、その服を着ていただく機会は、何度だって訪れるはずです」

     この先の未来、貴方にその服を纏っていただく機会は、必ず訪れる。そんな確信めいた予感が、私の中には確かに存在していた。

    「……そうだね。君の隣に相応しくあれるよう、頑張らないとね」

     ……その言葉は、私の言葉だと思うのですが。

    「…………これ以上頑張られなくとも、トレーナーさんは既に」
    「それにしても本当に大丈夫かな? 豚に真珠になってない?」

     私の呟きは、幸いにもトレーナーさんには聞こえていない様子。
     私の隣に相応しいのは貴方しかいないというのに、聞こえない程度の声量になったのは、そんな姿も見ていたいという卑怯な心の現れかもしれない。

  • 17◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:49:29

    「はい。それどころかマ子にも衣装と言ったほうが正しいと思いますよ?」
    「それは俺を買い被りな気がするんだけど」
    「もう……私がそのようなことをするとお思いですか?」
    「そう言われると何も返せないね……」

     自分自身では信じられない割に、私の言葉は簡単に信じてくださるあたり、買い被っているのはトレーナーさんの方な気もする。

    「ところでアルダン。俺だけじゃなくて君も燕尾服を着ているけれど……」
    「ふふっ♪ トレーナーさんなら、言葉にせずとも伝わっているのでしょう?」

     今日はあくまでトレーナーさんは仕立てた服を試着しに来ただけ。だけど折角試着していただくなら、それだけでは勿体ないと。そう思って燕尾服に着替えていたけれど、どうやら意図は伝わったよう。

    「もちろん。では」

     その言葉を合図に、互いに手を差し出す。

    「一曲お願い出来ますか? トレーナーさん」
    「一曲お願い出来ますか? 白雪の君」

     そうしてふたりで踊り出す。指を絡め、寄り添いながら燕尾を靡かせ。軽やかに、ふたりで一対の翼を羽ばたかるその姿は。
     まるで、比翼の燕のようで。

  • 18◆y6O8WzjYAE23/04/07(金) 22:49:40

    みたいな話が読みたいので誰か書いてください。

  • 19二次元好きの匿名さん23/04/07(金) 22:55:34

    ……主よ、もう既に出力済みではないかね?

  • 20二次元好きの匿名さん23/04/07(金) 22:59:46

    素晴らしいと思う。結構長めだったけどすらすら読めたわ
    三人視点じゃなくアルダンよりの2.5人視点なの面白いしその割に読みやすいと思う
    俺もなんか書きたいけど、やっぱリアクションないと辛いよね。
    いいもん見れてよかった。ありがと

  • 21二次元好きの匿名さん23/04/07(金) 23:23:37

    良いものを見たよ、ありがとう ちょっとうるっときた

  • 22◆y6O8WzjYAE23/04/08(土) 00:20:34

    あとがき?です。

    正直私はアルダン新衣装が出た時に真っ先に思ったのが「可愛い別衣装を見れるのは数年先になるのかぁ……」という落胆でした。一番好きな子がアルダンなので……。
    発表されてから数日は可愛い衣装が欲しかったという思いが心のどこかにずっと引っ掛かっていたのが本音です。
    ただ折角貰った新衣装に対して「この衣装貰わなかったら別の衣装貰えたのかな」という思いを引きずったままアルダンやウマ娘と向き合いたくなさ過ぎて。
    SSが書けるなら今の心情全て文章にして流し込んでやれ、という事で出来上がったのが本作です。
    正真正銘、100%自分の為に書いた作品でもあります。そして自分自身の禊の為でも。

    ただまあ「可愛い衣装が欲しかった」のまま話は書けないので、そこは上手い事感情の流れを利用しつつ話として成立するように調整して。
    思えば通常勝負服の固有演出でも燕と思しき鳥が、今回の別衣装も燕尾服という事で。
    アルダンは何かと燕に縁があるね、という事でアルダンとアルトレの話として、連理の枝と比翼の鳥をベースに。
    この辺考えつつ書いていたら書き終わる頃には新衣装に対してのイメージもマイナス方向からプラスに転じ始めていたので、最初に書いていた内容からは割と路線変更してたりします。

    アルトレに言わせた事と同じく「アルダンの事は好きだから、新衣装を着ているアルダンも好きになりたい」がこの話の全てです。
    まあ新衣装なんて数年待ったらまた貰えるかもしれませんし。待て、しかして希望せよという言葉を胸に実装される日を楽しみにしようと思います。

    ここまで読んでいただきありがとうございました。

  • 23◆y6O8WzjYAE23/04/08(土) 00:23:36
  • 24二次元好きの匿名さん23/04/08(土) 00:45:04

    分かる、すっげー分かる。
    自分もドレスとか綺麗な衣装が欲しかったからその気持ちは物凄く分かる。
    似合ってない訳では無いし、別衣装イベントやイベストも良かったけどそれはそれとして引っかかるものはどうしてもあったから。
    大好きだからこそ、全部好きでいたいよな…

    というかアルダンが1番好きだったのか、いつもドーベル書いてるからてっきりドーベルが1番なのかと。

  • 25◆y6O8WzjYAE23/04/08(土) 00:58:54

    >>24

    正直私はがっかりした側の人間なのでこの衣装を好きじゃない奴はアルダン推しじゃない、なんて口が裂けても言えませんし

    だからと言ってこの衣装を呪ったまま過ごすことになっちゃうのは、凄い寂しい事だなとも思ったので……

    自分の為に書いた話ではありますけど、今回の新衣装で落胆した人が少しでも救われたら嬉しいですね



    絶対誤解されてるんだろうな~、と思いつつ書き続けていたんですけども本人だけの好みならアルダンが抜きんでて好きです

    ただドーベルはカプ厨的な目線でぶっちぎっている部分が大きすぎますね

    少女漫画好き特効入り過ぎです

  • 26二次元好きの匿名さん23/04/08(土) 01:37:53

    いつものアルダンは美しいし、可愛いけど、男装アルダンもいっとう可憐だよ

    でもしんどかったよな
    アルダンはシングレでも出番があるし取り上げられてる方だからきっとそのうち素敵な衣装を貰えるよ
    しんどい中お疲れ様

  • 27二次元好きの匿名さん23/04/08(土) 11:57:41

    あげ

  • 28二次元好きの匿名さん23/04/08(土) 13:09:49

    IP規制刑務所から脱獄できたから漸く感想が書けるぜ…
    タダじゃ折れないアルダンは強いな…
    女装は人を選ぶもんな…致し方無し
    新衣装はね、カッコいいアルダンも見たいけど可愛いアルダンも見たい派だから分からんでもないのよね…
    だからって荒らして叩くのは論外なのだが
    スペやマックみたいに誰でも3着目貰える訳でもないしってなるとね

  • 29◆y6O8WzjYAE23/04/08(土) 22:29:38

    上げるついでに豚に真珠よりも鬼瓦にも化粧の方が適当だったり、迫真の脱字してたり、ちょっとリズム悪いところがありますね……
    支部に投げる時には手直ししておきます

  • 30◆y6O8WzjYAE23/04/08(土) 22:33:43

    >>20

    ありがとうございます。

    ありがたい事に長いのに読みやすい、と言っていただけた機会は他にもあるのですけども、自分の文章が読みやすいのなんて当たり前なのでどういう部分が読みやすい事に繋がっているのかは未だに謎ですが……

    一応文章のリズムや地の文の強弱、起承転結それぞれに起承転結を仕込んだりなどはしてますけど、感覚的な部分が大きいですしそれが上手く行っているのなら嬉しいですね。

  • 31二次元好きの匿名さん23/04/08(土) 23:15:11

    ちょいと気になったんだけど、イベントシナリオ自体はどうだった?
    その辺りも割と色々踏み込んだ内容だったから。

  • 32◆y6O8WzjYAE23/04/08(土) 23:23:10

    >>31

    秘され封ざされたものを暴く倶楽部にお熱だった時期があるので、私の百合に対する耐性って多分一般的な人より激高なんですよね……

    よっぽど百合百合してない限り親愛で片づけられちゃうので。


    という目線もありつつの感想ですとめっちゃ良かったです。

    メジロラモーヌの妹として見られてきたアルダンが、マルゼンさんの影ばっかり追いかけてるチヨちゃんに対して私の方を見ろ!するのは。

    と、当時にウマ娘としては“メジロアルダン”という個人としてあまり見て来られなかった事実がより鮮明に見えちゃって若干苦しくもありましたけど。

    なので今回書いたものにも若干その辺の解釈が反映されている気がします。

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