【SS】やねまでとんで、やねよりたかく

  • 1◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:41:05

    「やねよーりーたーかーい、こいのーぼーりー」
    「おおきーいーまごいーは、おとうーさーんー」

     ゴールデンウィークという長期休暇は、学び舎も例外ではない。トレセン学園は休みであり、授業は行われていない。
     トレーニングに勤しむ者は僅かにいるが、グラウンドから聞こえる彼女達が駆ける音はいつもより少ない。

     それもグラウンドから校舎を隔ててしまえば、反対側にはその音も届かない。外部からの来客もない。
     あるのは、敷地内の代わり映えしない景色。本当に静かな学園で、本当に珍しい光景。
     しかし、その光景の中に今日は例外が3つあった。

     1つ目は、鯉のぼり。長い長い竿から鯉を模したのぼりが風に吹かれている。
     2つ目は、しゃぼん玉。間隔を置いて空に昇っていく球体が上から順に割れていく。
     3つ目は、鯉のぼりの下の花壇に腰かけてしゃぼん玉を膨らませているウマ娘、アストンマーチャンだった。

  • 2◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:41:36

    「ちいさーいーひごいーは、こどもーたーちー」
    「おもしーろーそーうーに、およいーでーるー」

     授業はないというのに制服姿でいる彼女は、空を泳いでいる鯉を眩しそうに見上げている。
     口から漏れているのは、マーチャンが歌っている童謡だ。子供が歌い聞いて過ごす、身近なもの。

     誰かに聞かせるというわけでもなく、彼女の歌声は囁くように広がっている。
     何か考え事をしていたり、何かに夢中になっていたり。そんな人々には気付かれない、ささやかな声。

     歌い終わったマーチャンは、暫し動きを止めた。相変わらず鯉のぼりを見上げながら、何か思案しているようだ。

    「鯉のぼりさんたちは高いところにいますね。本当に屋根より高いですね」

  • 3◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:42:21

     彼女の呟きを聞く者は誰もおらず、それは空に消えていった。目に見えないそれは、鯉のぼりの高さにも届いたのか分からない。
     一番上の黒い真鯉は校舎の屋根よりも高い位置にいる。そこまで高い竿はそうそうないものだが、理事長の鶴の一声は大概の不可能を可能にさせる。

    「屋根より高い……屋根……」

     目を上に向けていたマーチャンは俯いた。下に向けた目は手元のしゃぼん液を満たした容器とストローを捉える。
     市販のセットではなく、彼女お手製だろうか。生活感あふれる道具はどこか彼女に似合っている。
     ぱあっと顔を輝かせると、いそいそと液体にストローをつける。思いついたものが口を衝いて出る。

  • 4◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:43:08

    「しゃーぼんだーまーとーんーだー」

     先端部分に残った液体を落とさないようにして、彼女は反対側を口に当てる。ふーっ、と吹き込まれた吐息が液体を球体に変えていく。
     その動作の合間に彼女は歌う。目の前にある球を題材とした童謡を。

    「やーねーまーでーとーんーだー」

     ふわり、ふわりと浮かんでいくしゃぼん玉をマーチャンは歌いながら見ている。喧騒から離れたここを、訪れる者はいなかった。
     しかし、4つ目の例外が来た。校舎から出てきたウマ娘、アドマイヤベガ。鞄を片手に寮に戻ろうとしていた彼女は、足を止めた。

  • 5◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:43:39

    『やーねーまーでーとーんーで』

     アヤベにも聞き覚えがある童謡。中等部以上が通う学園にはふさわしくないかもしれないが、物議を醸すような問題ある歌ではない。
     誰かが歌っているだけ。せいぜい記憶の片隅にでも留めておいて、忘れていくだけ。それだけの筈なのに、彼女には出来なかった。

    『こーわーれーて、きーえーた』

     それまでアヤベは目を閉じて体を震わせていた。ただ、その一節を聞いた途端目を見開いて、声の聞こえる方へと歩を進めていた。
     ただの歌詞といってしまえばそれまでだが、それが彼女にとっては我慢ならないものだった。

     自らの激情に従って声の源に近付いていく。点が人の形に大きくなっていき、声の正体に辿り着いた。
     走ってきたわけではないのに彼女の息は荒くなっており、全身に震えが戻りつつある。その理由を、目の前のウマ娘は知らない。

  • 6◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:44:16

     自分以外に誰もいないと思っていた空間への来訪者に気付き、マーチャンはアヤベに顔を向けた。
     座っている彼女は相手を見上げる形になる。鯉のぼり程の高さではないけれど、その代わりに近しい距離。
     とん、と腰かけていた花壇から立ち上がり、

    「こんにちは」

     マーチャンは挨拶した。ほわり、という形容が似合うような声は、歌と同様の響きを持っている。
     それを聞いてアヤベは、彼女こそが歌声の持ち主だと確信しつつ口を開けないでいた。あまりにも感情が高ぶっていてどうしようも出来ないでいる。
     そんな相手の様子を不思議そうに見つつ、マーチャンは会話を試み続けた。

    「初めて会いますね。先輩さん、でしょうか?」

     それを聞いて、アヤベは少し冷静さを取り戻した。言われてみれば、彼女の方もこの歌っていた生徒に見覚えはない。

  • 7◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:45:01

    「……あなた、新入生?」
    「はい。アストンマーチャンです。よろしくお願いします」

     お辞儀をするマーチャンを見て、アヤベの心身も落ち着いていく。そう、この子は何も知らない。私が誰であるかも、私がどう生きているかも。
     完全に冷静になる為に、彼女は深呼吸をした。長い溜息にも似たものを吐き出して、ようやくマーチャンに言葉を返した。

    「アドマイヤベガ。中等部、3年」

     あまりにも端的な内容だった。挨拶というよりも情報の羅列といっていい。アヤベはトレセン学園に入学してから、クラスメイト相手でも最低限の交流しかしていなかった。
     その結果であるこの返答に、マーチャンは怒ることなく微笑んだ。

    「アドマイヤベガさんですね。ええと、お勉強ですか?」

     アヤベが持つ鞄を見て尋ねてきた。彼女もまた制服姿であり、トレーニングの帰りという風には見えなかったのだ。

  • 8◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:45:44

    「アヤベでいいわ。長いでしょう? 図書室で課題を解いていたのよ」
    「アヤベ、さん。わたしはですね、しゃぼん玉を飛ばしていました」

     しゃぼん玉、という言葉にまたアヤベは反応を見せる。

    「……何故? せっかくの休みなのだし、帰省するなりすればいいじゃない」
    「そうしていたのですが、宿題の忘れ物に気付きまして。あれま、ということで早めに戻ってきたのです」
    「……それで、終わったの?」
    「机に向かってがんばるぞ! と気合を入れますと。窓から鯉のぼりさんが見えまして」

     アヤベはそこで呆れたように見やる。その視線を受けてもマーチャンはのほほんとしていた。
     
    「……それで、外へ? わざわざそれも自分で用意して?」
    「そうなのです。マーちゃんお手製で、あれよあれよと言う間に完成です」
    「……帰ったら、さっさとやりなさい」
    「はぁい」

  • 9◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:46:30

     この春に同室だった上級生が卒業してから、アヤベは一人だった。もし年下のルームメイトがいたら、こんなやり取りをしたのだろうか。
     まるで姉妹のようなやり取りに、アヤベの心は一瞬安らいだ。そして即座に自らを戒めた。

    (何をしているの。この子はあの子じゃない。私の妹は、あの子だけ)

     首を振って先程の安らぎを振り払うアヤベを、マーチャンはまたしても不思議そうに見る。誤魔化すように彼女は空を見上げた。
     また理事長の思い付きか。説明はなくとも、こんな代物がここにある理由など限られている。 

     長い竿の先の方に、鯉は4匹空を泳いでいた。黒、赤、青、緑の順は否応なく4を意識させる。両親、私、弟。
     疑問はまた感情に塗りつぶされる。

    (違う!)

     思わず叫び出しそうになるのを抑えるアヤベの横で、マーチャンは呟く。

  • 10◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:47:26

    「お父さん、お母さん、わたしに、あばれ妹。マーちゃんのおうちみたいです」

     アヤベは隣に視線が移っていた。その目にどんな色が宿っているかは、彼女は気付くことがない。

    「鯉のぼりさんたちみたいに高いところに昇れば、みなさん見てくれますかね? 覚えてくれますかね?」
    「……バカなことはやめなさい。私たちはウマ娘よ。高く昇る、よりも速く走る、べきでしょう」

     半ば吐き捨てるような語調になってしまうのを止められない。結果を出し、捧げること以外に価値はない。

    「そうですね、昇るのはしゃぼん玉さんの方だったのです」

     マーチャンは気付かないのか、手に持っていたものをゆっくりと動かした。彼女が何度も膨らませていたもの。
     アヤベが感情を抑えられずに動いてしまったもの。彼女にとっては逆鱗に触れてしまうようなもの。

  • 11◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:47:57

     しゃぼん玉がストローを通して作られる。そこから離れた球は飛んでいき、鯉のぼりを超える前に消えてしまった。

    「あう、割れちゃいましたね。なかなか鯉のぼりさんたちよりも高く飛びませんね」

     残念そうにつぶやいたマーチャンは、アヤベの視線に気付いた。最初に会った時と同じくらいに強い視線。
     逸らされることなく凝視しているアヤベに、彼女は困ってしまっていた。
     
    (エスパーマーチャンだったら、良かったですね。心が分かってしまえば分かってあげられるのに。でも、それはそれで寂しいかもしれませんね)

     マーチャンは再びアヤベの顔を見る。何か顔に書いていないだろうか。そんなことはないのに、相手を観察する。
     すると、アヤベの視線に違和感を覚えた。確かにマーチャンの方向を見ているのだが、正確には彼女の顔を見ていない。

     アヤベが見ていたのは、マーチャンの手元。しゃぼん玉を作り出している元凶を睨んでいたのだ。
     とはいえ、マーチャンには相手の奥底の感情までは見通せない。故に、彼女はある提案をした。

  • 12◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:48:47

    「アヤベさんも飛ばしますか?」
    「え?」

     半ば呆けたような声をアヤベは出した。顔をきちんと見直した彼女の目の前には、容器とストローがもう1セット。

    「おかわりもあるのです。たくさん飛ばせば、屋根までではないかもしれません」
    「……そんなこと、出来ると思う? 歌にもあるじゃない」

     屋根まで飛んで、壊れて消えた。先程マーチャンが歌っていたのは聞こえていた。
     それが、生まれては消えていくものの運命。しかし、彼女は頭を振った。

    「でも、鯉のぼりさんたちは屋根より高いのです。だったら、夢ではないかもしれません」
    「何を……バカな、ことを」

  • 13◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:49:18

     あの鯉たちが高い位置にいるのはそう設置されているからに過ぎない。ただの現実。

    「仮にそんな可能性があるのだとしても、いずれ割れて消えてしまうわ。だったら……」

     無駄。そのたった二文字がアヤベには言えなかった。喉に何かがつかえて止まってしまう。

    「そうですね。終わりはきっと同じなのです。届かないしゃぼん玉も、届くしゃぼん玉も。でも……」

     見てあげたいですね。覚えていたいですね。しゃぼん玉が飛んでいく姿を。

     マーチャンの小さな呟きが消えていく。終わってしまうことは変わらない。終わってしまったことは、変えようがない。
     それでも、憶え続けていれば。振り返ることが出来るなら。

  • 14◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:49:49

     
     
     
     確かに存在していたことを、忘れないでいられる。
     
     

  • 15◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:50:28

     気付けば、アヤベは彼女に声を掛けていた。

    「……ねえ」

     空を見上げていたマーチャンは向き直った。

    「あんなことを言った後だけれど……私も、その、いいかしら?」

     おずおずと差し出された手を瞬く目で何度か捉えると、マーチャンは微笑んでアヤベに渡した。
     マーチャンに示されて、二人揃って花壇の縁に座る。立っている時よりも空は遠くなるが、何故か少し近くに感じられる。

  • 16◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:50:59

    「屋根より高く飛んだら、夢、叶いませんかね? 残っている宿題がもう終わっていたり」
    「それは無理よ。大した量じゃないんでしょう?」
    「ふふん。それが1つではないのです」
    「胸を張ることじゃないわ………………はぁ、後で部屋に来なさい。見てあげるわ」

     嬉しそうに笑うマーチャンと、呆れながらも小さく笑みを浮かべるアヤベ。
     座っている花壇は他よりも一段高く、学年こそ離れているもののそれ程身長に差がない二人の両足は地面から浮かんでいた。
     花も植わっていない土だけのその一角から、透明な雫が空へ上向く。

  • 17◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:51:32

     それぞれぷらぷらと揺らしながら、二人はしゃぼん玉を飛ばす。細い道に胸の奥から温かく確かなものを吹き込んでいく。
     ふわり、ふわりとしゃぼん玉は昇っていく。マーチャンを、アヤベを、鯉のぼりを、そして空を自分の体に映しながら。

     どちらが先だったのだろうか。囁くような歌声が聞こえてくる。
     小さくとも優しげな音色が、空へと昇っていく。

  • 18◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:52:18

    しゃぼん玉 消えた 
    飛ばずに消えた


     校舎の屋根に届くことはなく、しゃぼん玉は割れてしまう。彼女達は次を膨らませようとストローに口をつける。
     何度も、何度も。息を吹き過ぎて小さくなってしまったり、吹く力が強過ぎて球にならなかったり。

  • 19◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:52:49

    生まれてすぐに 
    こわれて消えた


     残りのしゃぼん液が心許なくなっていっても、二人はやめなかった。そして、細い先にかき集めた最後。
     慎重に、ゆっくりと浮かばせた彼女達のしゃぼん玉が昇っていく。緑、青、赤、黒の鯉達よりも、高く、遠く。
     何回も浮かんでは消えていった球たちが届かなかった、校舎の屋根。その屋根より、高く飛んでいった。

  • 20◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:53:31

    風 風 吹くな


     アストンマーチャンは、アドマイヤベガは空を見上げる。空を泳ぐ鯉のぼりを、空に浮かぶしゃぼん玉を。
     どんどん視界から遠ざかっていく球を、祈りながら見ていた。太陽のせいだろうか、滲む景色をそれでも見逃さないと。
     いつまでも、いつまでも、見守っていた。

  • 21◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:54:05

     
     
     
    しゃぼん玉 とばそ
     
     

  • 22◆zrJQn9eU.SDR23/05/05(金) 19:54:45

    以上です。
    子どもの日ということで何か書きたい→鯉のぼり→童謡の歌詞に屋根→しゃぼん玉
    という連想で出来ました。
    作中の二つの童謡は著作権切れということなので使わせていただきました。

  • 23二次元好きの匿名さん23/05/05(金) 19:57:03

    マーちゃんは果たして鯉のぼりに何と名前を付けるのだろうか

  • 24二次元好きの匿名さん23/05/05(金) 20:06:18

    しゃぼん玉の童謡が大好きなので、こうしてテーマにして頂けたこと其の物が個人的に嬉しかったです
    お話の通り少し悲しい歌詞ですが、しゃぼん玉を一緒に飛ばそうとしたことも、しゃぼん玉が飛んでいったことも確かに記憶として残るんですよね
    素敵なお話をありがとうございました 

  • 25二次元好きの匿名さん23/05/05(金) 20:35:33

    このレスは削除されています

  • 26二次元好きの匿名さん23/05/05(金) 20:36:55

    作詞家が娘を偲んで作ったと言われてますね
    そう知ってから聞くたびに少し悲しくなるんですが、美しいSSで少し救われた気がします
    ↑途中送信ごめんなさい

  • 27二次元好きの匿名さん23/05/05(金) 23:46:38

    昼間なのに静かというイレギュラーな状況とマーチャンの不思議な雰囲気が合わさって別世界感がありますね

  • 28◆zrJQn9eU.SDR23/05/06(土) 11:34:45

    読んでいただきありがとうございます。確かに童謡のしゃぼん玉のメッセージは物悲しく感じられますね。

    相手は違ってもアヤベさんに通ずるものがあると思います。

    【SS】乾くことなく濡れそぼつ|あにまん掲示板 最初に会ったのは、あの人が中等部の時。私が途中で編入ということで一人部屋だったところに入れてもらった。 それが、私ことカレンチャンとアドマイヤベガの出会いだった。 あの人の第一印象は、素っ気ない人だ…bbs.animanch.com

    あ、こちら前作です。載せるのを忘れていました。もしよろしければ。

  • 29二次元好きの匿名さん23/05/06(土) 12:05:26

    思わぬ組み合わせだったが良かった…乙

オススメ

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