【SS】春は待っている

  • 1◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:36:29

     私は夢を見ていた。私が兄さんと呼び慕う、自分の兄との思い出を呼び起こしていた。

     兄さんは私とそんなに歳は離れていなかった。それなのに、私の知らないことをたくさん知っていた。
     それが特に感じられたのは、歌だった。最近の流行りの歌から昔の歌まで、春が関わるものであれば何だって彼は歌っていた。

     それは、兄さんは春の歌が好きだったから。彼の名前が春にまつわるものだったからかもしれない。
     言葉でも、旋律でも。兄さんは口ずさむのが癖になっていた。

     兄さんは小さい私にも歌を聞かせてくれた。お互いに幼い頃だったから兄さんはまだ声変わりをしていなくて、キレイなソプラノが私の耳に届いていた。
     あの声は、今の私でも真似出来そうにない。音の高さのせいじゃない。"カワイイ"私でも届かない、兄さんだけの声。

     どの曲も良かったけれど、それは兄さんが歌ってくれたからかもしれない。私の好きな人が歌ってくれれば、何だって。

  • 2◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:37:03

    『きょうはなにをうたってくれるの?』
    『きょうはね、これだよ』

     歌をせがむ幼い私に兄さんは優しく私に微笑んでくれて、いつものように聞かせてくれた。

    春よ来い 早く来い
    あるきはじめた みいちゃんが
    赤い鼻緒の じょじょはいて
    おんもへ出たいと 待っている

     それは随分と古い歌だった。当時流行っていた歌ではなくて、童謡と呼ばれる類のものだった。
     古くさいと感じてしまうものはあると思う。でも、私はやっぱり兄さんが歌ってくれるから好きだった。
     私の記憶力が良いだけじゃなくて、今でも憶えているのがその証拠。

  • 3◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:37:46

    『ねえねえ、つづきは?』
    『あわてないで』

     早く早くともっとせがむ私に、兄さんはいじわるなんかしないで続きを歌ってくれる。
     あれは、どんな歌詞だっただろう。


     ねえ、兄さん。兄さんは私のところに来てくれないの? 私は、外に出ちゃったよ。出たくて出たくてたまらなくて。
     私はひとりで頑張れるから。ひとりで立って、どこへでも行ける。でも。
     ここには、兄さんはいない。兄さんがいないの。ねえ、いじわるなんかしないで。


     また、うたを、きかせて――――――

  • 4◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:38:20

     そのウマ娘は学園の敷地内を歩いていた。目的地に向かう為ではなく、目的の為にそうしていた。
     彼女が誇りに感じている役職の職務を果たそうと日頃行っている、ルーティンワークだった。

     いつもであれば彼女の名前の通りまっしぐらに突き進む勢いで駆けているのだが、今日は彼女は何故かそんな気分ではなかった。
     ゴールデンウィークも終わって数日、五月病と呼ばれるものが自分に降りかかっているのか。

     その理由について考えてみても、彼女が思い至るものはない。怪我や病気はない。しかし、駆け回る気分ではない。
     誰かや何かが、そうさせているのだろうか。
     
     数瞬という時間をかけて彼女にとっては長考した結果、とりあえず日課を優先していた。
     考えて解決しないのであれば行動するのみ。長所にも短所にもなる、彼女らしい結論だった。

  • 5◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:38:51

    「ちょわぁ……すっかり桜も散ってしまいましたね」

     普段は駆け回る中ですぐに次へと目を向けてしまう彼女は、ゆっくりと辺りを見て回っていた。
     そうなれば、当然敷地内のあらゆるものが目に入る。景観を構成する桜の木もそのひとつだ。
     5月ともなれば春といっても花見の季節ではなく、散った花の代わりに葉桜としての姿を見せていた。

     校内のあちこちに植わっている木々を見上げていると、ふと視界の下に映るものに気付いた。いつもであれば気付かなかったかもしれない。
     休憩用にあちこちに設置されているベンチ、そのひとつにウマ娘が座って、というより横になっていた。

  • 6◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:39:22

    「……ややっ、カレンさーん、おやすみですかー? 風邪をひきますよー?」

     先程から続いている奇妙な気分に引っ張られているのか、彼女は声量を上げずに声を掛けていた。
     彼女の言葉通り春の暖かさというより寒さが肌を撫でているこの時期、うたた寝とはいえ外でというのはよろしくない。
     ただそのウマ娘、カレンチャンは寝息を立てて微睡みの中にいた。

    「珍しいですね、カレンさんがこうしてお昼寝とは」

     昼というより放課後なので夕方に近いのだが、彼女はそんな細かいことは気にしない。
     ウマスタグラマーであるカレンは、誰かといることが多い。カレンの方からではなく、周りがカレンを放っておかないのだ。
     彼女のファンは多く、ファンたちが話しかけたり撮影姿を見守ったりと誰かがいるのがカレンにとっての日常だった。

  • 7◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:39:53

     ひとりでいることも稀なのだが、ましてや眠っている姿など。日々巡回する中でカレンを度々見ていた彼女でも見たことがなかった。
     話す機会もあり、睡眠についても話題になったことがある。教室などで眠ったりはしないのかと尋ねてみれば、

    『ダメダメ! そんなの"カワイイ"カレンじゃないですもん』

     という話だった。彼女にはカレンの言う"カワイイ"は分からなかったが、要は隙を見せたくないということらしかった。
     だからこそ、このようなカレンにとっての隙のある姿を見せるというのは本当に珍しい。
     疲れているのなら、自室やトレーナー室で休めばいい。歩き回っていた彼女でさえも感じられる肌寒さを、カレンは気にしないのだろうか? それとも。

  • 8◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:40:24

    「そんなに外に出たかったのでしょうか? 何か理由が?」

     呟きが彼女の口から漏れるが、カレンはそれに答えそうもなかった。もっとも、彼女の方も答えは期待していなかったが。
     彼女は起こしてしまおうかとも考えたが、笑みさえ作って気持ちよさそうにしているカレンの顔を見るとその行動を取ることはしなかった。

     代わりに、彼女は周囲を確認した。そこはトレーナー室で構成されている棟の一角で、グラウンドにすぐ出れるように通用口も備え付けられている。
     そして偶然にも、彼女が契約しているトレーナーの部屋のすぐ近くだった。通用口に向かって数分、戻ってきた彼女の手にはタオルケットがあった。

     彼女はカレンの体に持ってきたタオルケットを掛ける。薄地とはいえこれくらいの寒さであれば十分に役目を果たしてくれるだろう。
     ひとつ頷いて、彼女はスマートフォンを取り出した。このタオルケットが役目を果たしてくれるなら、今度は自分の役目を果たさなければ。

  • 9◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:41:16

     カレンのトレーナーに連絡して、自分は見回りを続けようか。そんなことを考えていると、ふとカレンの顔に変化があることに気付いた。
     先程まで浮かべていた笑みは消え、涙が一筋頬を伝っていた。とはいえ、それだけだったら眠っている時の反応だと流してしまったかもしれない。

     しかし、彼女の耳にはカレンの呟きが届いていた。

    「にいさん……」

     悲しげな響きだった。求めて止まないものがあるのに、得られず届かない哀れさが感じられた。彼女はカレンの事情を何一つ知らないのに、何故かそう理解した。

     彼女はカレンとそこまで親しいわけではない。歳の差はあるし、ウマスタグラムとウマッターでは交流もほとんどない。
     ただ、彼女はその声を聞いてこの場から去ることが出来る性格ではなかった。

  • 10◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:41:48

     彼女が自分の為だけに生きているのであれば、皆の模範となるべく行動などしていない。
     誰かの為に行動することを厭わない、それが彼女の生き方だった。

     スマートフォンをしまった彼女はカレンの頭をそっと持ち上げると、自分の腿にあてがうようにベンチに座った。
     硬いベンチの板よりも膝枕の方が寝心地は良いだろう。彼女はそう考えた。

     ただ、まだカレンの顔色は優れなかった。彼女は数瞬考え、今度は答えが出た。
     最初は起こさないように表面だけを、それでも表情は変わらなかったので髪も解すように頭を撫でた。
     しばらく続ければ、段々とカレンは和らいだ顔になっていった。彼女もまた安心したように息を吐いた。

    「貴女のお兄さんではありませんが、ここには私がいますよ」

     彼女の声は眠っているカレンには届く筈がない。しかし、今度は彼女は答えを受け取っていた。

  • 11◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:42:24

     兄さんは続きを歌ってくれる。私がせがんだあの歌の続きを。

    春よ来い 早く来い
    おうちのまえの 桃の木の
    つぼみもみんな ふくらんで
    はよ咲きたいと 待っている

     兄さんの歌を聞き終わると、私は彼の周りを駆け回った。小さい頃は、とにかく動きたくてしょうがなかった。
     子供にとっては広く感じられた家の庭を走って、名前も知らない草花を端から端まで見たり。

  • 12◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:42:57

     兄さんの周りをぐるぐると駆けて、目を回しかけながら彼の胸に飛び込んで。
     何がおかしいのかけらけらと笑い転げる私を、兄さんは優しく見つめてくれる。

     くしゃくしゃと髪の毛ごと撫でてもらうのが嬉しかった。そう、こうやって撫でてくれていた。
     少しだけ頭が引っ張られるけれど、優しさが感じられる撫で方だった。 


     もう、あの歌を久しく聞いていない。私はここにいるのだから、しょうがないことだよね。

  • 13◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:43:32

     兄さんは、ここには来ることが出来ない。それはとてもとても難しいこと。
     だったら私が、カレンが行ってあげる。ここに来てから、たくさんの思い出が出来たんだから。

     これからもいっぱい思い出を作って、兄さんに聞かせてあげる。かつてカレンに歌ってくれたように。
     兄さんはたくさんカレンに聞かせてくれたから。だから、恩返ししなきゃね。カレンばっかり聞いてちゃ悪いもん。

     兄さん以外にも大切な人たちが出来たんだよ。みんな兄さんとは違うけれど、でもみんな優しいの。
     クラスの友達に、同室のアヤベさんに、カレンと同じ短距離を盛り上げてくれる人たちだっている。
     何よりお兄ちゃん。あのね、カレンを助けてくれた人にまた会えたんだよ。すごいよね? これってすごいことだよね?

  • 14◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:44:03

     カレン、ひとりじゃなかったんだね。カレン、ひとりじゃなかったんだよ。
     でもね、兄さんは兄さんしかいないから。忘れていないから、怒らないでね?
     今度帰ったら、真っ先にお話しするね。だから……



     まっていてね、にいさん。

  • 15◆zrJQn9eU.SDR23/05/12(金) 23:44:50

    以上です。本当は8日に投稿する予定でした。何故この二人で書いたかというと、競走馬のスプリングソングで思い浮かびました。
    作中の童謡は著作権切れということなので使わせていただきました。

  • 16二次元好きの匿名さん23/05/13(土) 00:58:05

    泣いた 

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