- 1二次元好きの匿名さん23/05/18(木) 00:33:04
昔々、曾祖母に言われた言葉だ。
当時子供だったが故にこの言葉の意味がよく分からず暫くしないうちに忘れてしまった。
学生の頃に不意に思い出したのをきっかけに好きになる女性の条件に「桜の花が似合うか」が加わった。
そして、社会一般的に大人と呼ばる年齢になった今でもそれは変わらない。ただ、その言葉の意味が分かり始めたというのは学生の頃との大きな違いだった。
「桜の花が似合う」というのはその言葉通りに組み合わせとして美しいかという事ではない。桜の花は1年のうちのほんの少しの間だけ全力で咲き誇り、そして瞬く間に散っていく。あまりにも儚い、決して豪華絢爛にはなれない花だ。
そしてその儚さは添えられた人をより引き立てる。
外見ではなく、心を引き立てる。
桜の花の下で語らう言葉はその人の心に秘める優しさや心根を露わにする。桜とはそういう花だと、短くない人生を生きて考えるようになった。
しかし、短くない人生を生きてわかったことがもう一つある。桜の花が似合う子というのはそれほど多くはないのだ。
考えてみれば当たり前の話である。
人の心は優しさだけで出来ているのではない。人の心には思いやりや慈しみといった善い側面があり、嫌悪やといった悪い側面がある。
桜の花が人の心を露わにし、善い側面が現れるなら、悪い側面もまた露わになるのは当然のことで、ここを理解していなかった自分は自身の持つ理想に裏切られたような気分になってしまったのだ。
なんとも自分勝手な事だが、それでも数少ない自分の中の確固たる基準に打ちのめされ、小さくないトラウマとして今でも心に残り続けている。
大人になれればいいのだが、生憎、歳だけ重ねて大人という枠組みに無理矢理飛び乗ったがために、「大人」ではあるが「大人になる」事ができずにいた。
桜の似合う子以外を好きになるのが怖いのか、好きになった子が桜の似合わない子なのが怖いのか、今ではそれすら分からないのだ。 - 2二次元好きの匿名さん23/05/18(木) 00:33:28
トレーナーという職業がこなすべきタスクは実に多岐に渡る。
担当させてもらっている娘のトレーニングメニューを考えることに始まり、日々の食事管理、レース出場に関する各種事務手続き、トレーニング機器の発注、時には論文を読み込み、担当の進路相談を受けることもある。
好きでやっていることであるから、辛いや辞めたい等の後ろ向きの感情が顔を出すことはない。
しかし、春先に埃っぽいトレーナー室から見える桜の木を見るたびに今年も桜は見に行けそうにないなと、ため息をこぼすのはトレーナーになって数年、毎年の事だった。
別に花見と称して酒を嗜み、料理をつまんでどんちゃん騒ぎがしたい訳ではない。
ただ、命のサイクルとして咲いては散る桜の花を見るたびに、自分は桜の花が似合う娘にで会えるのかと知り得もしない将来への一抹の不安を抱いてしまうのだ。 - 3二次元好きの匿名さん23/05/18(木) 00:33:54
大人になる事の意味を考える事がある。
トレーナーとして担当に頼られる度に、彼女達が「大人」としての自分を求めてくる度に、その瞳から目を逸らしたくなる度に、「大人になる」という事の意味問いかけられているようで、正直心苦しい時がある。
『大人になるということは、曖昧さを受け入れる能力を持つこと』だと心理学者のジークムント・フロイトは語った。
曖昧さ。
1つの物事が2つ以上の意味で解釈される多義性。
大人になるというのはとどのつまり、潔癖であることをやめる事なのだと思う。
好きになりたい子の知りたくないことを知る事を拒絶する事、それが潔癖。
これが正しいんだと、それ以外認めたくないのだと相手のことなど考えず自分勝手な通りを突き通す、それが潔癖。
我儘でどこまでも独善的な子供の癇癪のような価値観、それ自体は悪ではないが、それに固執する事は悪になり得るのかも知れない。
しかし、潔癖である事を捨てるのが必ずしも正義ではないとも思うのだ。
大人になって大切な事を忘れてしまった気がする、以前酒の席で友人が不意にそんな事を言ったのを覚えている。"大切な事"とはこれではなかったのだろうか?歳を重ね、打算に塗れた日々を送る中で"理想"さえ捨ててしまったのではないだろうか。
潔癖と理想は表裏一体だ。
理想があるから見たくない部分に蓋をするし見なかったふりをする、認めたく無いと拒絶する。それはそのまま潔癖となる。
潔癖を捨てる事はある意味では理想を捨てる事と同じで、飾り気のない銀の指輪を左の薬指で輝かせていた友人もいつの間にか理想を捨ててしまっていたのではないだろうか。
幸せになる事が理想にさよならを告げる事なら、これほど残酷なものはこの世に2つとないだろう。
大人になる事が理想を思い出にする事なら、これほど知りたくないものはこの世に2つとないだろう。
自分は幸せになるために、自分の理想を捨てる事ができるだろうか?
自分は大人になるために、自分の理想にさよならを告げられるだろうか?
それなら理想なんて抱かない方がいいじゃないかと零してしまう自分は一体いつ大人になれて、いつ幸せになれるのだろうか - 4二次元好きの匿名さん23/05/18(木) 00:35:00
理想を捨てる事のない人間をたった1人だけ、僕は知っている。
声高らかに夢を叫ぶ人間をたった1人だけ、僕は知っている。
周りから嘲笑されても決して信念を曲げない人間をたった1人だけ、僕は知っている。
誰かの為に己の全てを捧げられる人間をたった1人だけ僕は知っている。
そのどれにも自分はなれない事を、誰よりも僕が知っている。
眩しかった。彼らと自分は"違う"のだと、魂に刻み込まれるような、見たくない光だった。
たぶん、同じ気持ちをこの学園にいる多くのウマ娘達は持っているのだと思う。
魂が勝てないと屈服する眩く輝く光たち。その輝けに気圧され魂が負けを認めてしまう、そんな存在としての"格"が違う者たち。
その輝きに負けるウマ娘の方が圧倒的に多い。
強い輝きは周囲を明るく照らし、照らされない影を大きく、濃くしていく。誰でもわかる常識的な事だ。
恒星の輝きの前では星屑は脇役にすらなれない。
そうやって自分の中にある理想や夢といった大切なものを失くしていき、この学園を去って行くのだ。
そして自分たちトレーナーはそれを間近で見続ける。
彼女たちが折れ、涙し、"大人になるしかない"工程を見せつけられていく。
ふざけるな。と、叫びたい気持ちがある。
だが、トレーナーにそれを叫ぶ権利は無い。それを叫ぶ事を許されるのは当事者である彼女たちだけで、トレーナーはただの傍観者でしかない。
何よりトレーナーは前提として"大人になっている"人間なのだ。もう既にそうである者の言葉は、そうなろうとしている者には正しく届かない。
時折、自分が異常者なのではないかと疑心暗鬼に陥る事がある。
少女の夢が破れ、誰かの栄光よりもその裏にある誰かの絶望の方が大部分を占めるこの場所で、自分は正気であると心のどこかで思えてしまう自分は、心のどこかが壊れてしまっているのではないか。
校舎の陰で、教室の隅で、ライブステージの舞台袖で、理想に裏切られ、夢に裏切られ、涙を流す少女たちを見て「いつものことだ」と気にも留めない人間が正常なんだろうか。 - 5二次元好きの匿名さん23/05/18(木) 00:35:28
理想と夢が散る場面を何度も見て、それなのに自分の中の理想を捨てられない自分は頭がおかしくなってしまっているんじゃないか。
誰も答えてはくれない。
この場所には、まともな人間などどこにも居ないのだ。みなどこか狂っていて、そして夢と理想に酔っている。
少女たちは自身の夢や理想に、大人たちは少女たちが魅せる理想や夢に。酔いの回っていない人間などいない。
破滅へ向かう事への忌避感さえ感じない、心地よい酩酊感。それがこの学園には根付いていた。
その中に自分もいて、そして幸運な事にそれを自覚できる人間であった。
「桜の花の似合う娘」ただ、縋るように心に残置した理想が自分を正気の淵で止まらせてくれる。その理想が僅かな未来への期待を作り、そして追いついた現実が理想などないと嘲笑ってくる。
誰も彼もがそうなのだ。 - 6二次元好きの匿名さん23/05/18(木) 00:35:47
その娘はとても良い子だった。
この学園にいる時点である程度のモラルと人格は保証されている。それを加味してもその娘は良い子だと断言できた。
良い子とはつまり、良い人間のことだ。
良い人間には2つある。
1つは誰かを傷つけない人間。
他者を害すことのない人間。社会集団であり、他人がいなければ生きてはいけない人間にとって、大事な事の一つだ。
そして、他人を思いやれる人間。
有体に言えば「優しい人」である。誰かの幸せを喜び、誰かの幸福を祈り、誰かの悲しみを悲しむ。寄り添う人間を人は嫌わない。
彼女はどちらかと言えば後者に当たる人物であった。
この学園に所属するウマ娘は、悪く言うと本質的には自分本位な子が多い。
そもそも、勝つ為にここに来ているのだ。勝者は常に1人であり、自分本位な側面がある方が好ましいに決まっている。誰かの為に遠慮するようではここにはいられない。
しかし、彼女は違った。彼女は自分の勝利よりも誰かの幸福を願っていた。
だが、レースへの情熱も彼女は誰よりも強いものを持っていた。
誰かの幸せが自分の幸せであり、されとて自身の為すべき事を躊躇わない。
彼女の理想は言ってしまえば潔癖なき理想、拒絶のない理想なのだろう。
それは、心が強くなければ持ち得ないものだ。誰かの幸福を願う優しさと、心に従う情熱。全ての人が持ち得るものではない、彼女だけのオンリーワンな「勇気」。だから人々は彼女を「勇者」と呼ぶのだろう。
その勇気を、隣で見続けてきた自分はほんの少しだけ羨ましく思う。
僕も彼女のようであれたらと、彼女の理想に魅せられてしまう。同時に、その強さは彼女だけのものであってほしいとも思ってしまうのだ。 - 7二次元好きの匿名さん23/05/18(木) 00:36:11
ガラス窓越し以外の桜をこうしてまじまじと見たのは何年ぶりだろうか。
春先の陽気な風に包まれた午後の河川敷には、前も後ろも桜の続く並木道が往来する人々に、花弁を散らし世界を薄桃色に染め上げていた。
僕の隣にはいつもとは違って、特徴的なツインテールをほどき、ストレートの長髪を揺らす彼女の姿があった。
今日、こうして桜を見にこれたのも彼女の気遣いという優しさ故である。もっと言えば、自分は彼女の優しさ未満の行動意欲しか持っていなかったとも言える。
ともあれ、数年ぶりの桜は思い出のそれと変わらず綺麗である。だが、僕の視線は桜よりも隣にいる彼女を映してしまう。
この感情には、覚えがある。ずっと前に裏切られたっきり閉まっていたはずのものだ。だけど、それとは少し違う気もする。
──きっと自分は彼女のことが好きなのだろう。それは恋人に抱くような焼け付くような甘い感情ではなく、どちらかと言えば隣の親切な人に向けるような隣人愛の類だ。
そうでなければ、きっと桜並木の美しさにやられてセンチメンタルになっているだけに違いない。
ずっと前に裏切られた理想が今でも生きているから、桜の呪力が足を引っ張って離そうとしないのだ。
桜の花の似合う娘、それは心のあり方だ。
桜は一瞬の輝き、儚く、豪華絢爛ではないがゆえに合わせる人の心を鮮明に映し出す。
他人を思い、誰かの幸せを喜び、誰かの幸福を祈り、誰かの悲しみを悲しむ優しい心、優しさを支える燃えるような情熱。
そういう心の持ち主こそが桜の花が似合うのだろう。
例えば、隣の───
ここに至って、ようやく気付いた。
隣で桜に見惚れている彼女を見て初めて気づいた。
自分の理想はもう叶っていたのだ。
「好きになるなら桜の花の似合う娘にしなさい」曽祖母の残した言葉、理想として自分を"大人未満"に縛り付けていた言葉は目の前で結実していた。
桜色の髪が春風に吹かれ、桜の花と共にたなびく。はにかむ彼女の笑顔が木漏れ日に照らされ、白い肌がキラキラと輝く。
僕の好きになった娘は「桜の花が似合う娘」だった。 - 8二次元好きの匿名さん23/05/18(木) 00:38:49
寝る前にめっちゃくちゃにいいもの読んだよ。ありがとうスレ主