【SS】マーちゃんは、ここにいるよ。

  • 1◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:28:14

     わたしは、真っ白な世界にいます。ここはどこでしょう?
     いつからここにいるのか、ここに来る前に何をしていたのか。ううん、あやふやです。

     おや? 少しずつ何かが見えてきますね。真っ白から何かが形になっていきます。
     これは……公園、でしょうか。家の近くにあって、わたしが遊んだことがある場所です。

     そう、あんな風に小さかった時に……なんと。
     わたしはマーちゃんですが、あの子もマーちゃんですね。とことこと歩いて、可愛らしいですね。
     マーちゃんは小さい時からラブリーマーチャンですから。どやや。

  • 2◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:28:51

     我が事のように胸を張っていますと――まあ、わたしではありますから――もうひとり、誰かがいることに気付きます。
     あれは、お母さんです。わたしが小さい時の姿で、若いですね。もちろん、わたしはどっちのお母さんも好きですよ?

     小さいわたしがとことこ、とことこと歩き回っています。まだふらふらしていて、少しはらはらしますね。
     お母さんの顔を見ると、同じことを思っているようです。でも、それ以上に嬉しそうな気持ちがたくさんみたいです。

  • 3◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:29:23

    『マーちゃん』

     お母さんがわたしを呼びます。わたしではなく、あのわたしがそれに振り返ると、にこにこ笑って駆け寄ります。
     ああ、そんなに急がなくてもお母さんは逃げないのです。転びませんか? ふう、転びませんでしたね。

     小さなわたしはお母さんの足にしがみついて、頭をぐりぐりと押し付けます。
     その動きにくすぐったそうにお母さんは笑いますが、しゃがみ込んでわたしを抱っこしてくれます。

     足から今度はほっぺたに。わたしはけらけらと笑っていて、お母さんも微笑んで受け入れてくれて。
     二人は本当に楽しそうです。いいなあ。


     そうでしたね。わたしが小さな頃、こんな思い出がありましたね。

  • 4◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:29:54

     次の瞬間、周りの景色がぱあっと変わっていました。公園ではなく、ここは……学校のグラウンド、ですね。
     たくさんお客さんがいて、みんながトラックを見ています。正確には、そこを走るウマ娘たちを。

     その子たちの中に、わたしがいました。さっきのよちよち歩きの頃よりも成長した姿です。
     小学生の頃ですかね。ウマ娘のレースによく出ていました。これもその内のひとつでしょうか。

     今と同じで先頭の方にいる走り方です。後ろからは他の子たちが迫ってきます。
     追いつかれますかね? 負けちゃいますかね? でも、マーちゃんは負けません。

     それは、勝ちたいからという理由はあります。その気持ちがあるからこそ、トレセン学園にも入ったのですから。
     わたしが走るうえでとても大切な理由もあります。わたしを憶えていてほしいという気持ちも?ではありません。

     ただ、この時のわたしは別の気持ちでいっぱいでした。それは、この声で分かります。

  • 5◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:30:28

    『マーちゃーん、がんばってー!』

     観客席でお母さんが応援してくれています。お仕事で忙しいはずなのに、見に来てくれています。
     お母さんがいるのですから、がんばらなければいけませんよ? わたし。

     お母さんの方を見たくなりますが、我慢してゴールだけを見据えます。
     たんたんたんたん、たんたんたんたん。脚をたくさん動かして、速く走ります。もっと、もっと。

     白いテープが目の高さから、どんどん下がっていきます。後ろの子たちは目に入らなくて、真っ白が視界いっぱいになって。
     大きな声が上がりました。はらりとお腹から落ちていくテープの感触で、一着になったことが分かりました。

  • 6◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:30:59

     わたしはお母さんのところに駆け寄ります。小学生になっていましたから、さっきよりはうまく走れますね。
     でも全速力で走っていましたから、足がもつれて転びかけています。ウルトラスーパーマスコットとしてはまだまだですね。

     お母さんはやっぱり嬉しそうに笑っています。まるで自分のことのように喜んでいて、そんなお母さんを見るとわたしも嬉しくなります。
     走り終えたばかりで頭がうまく回っていないのでしょうか。わたしは歯を見せて笑うだけです。

     お母さんはそんなわたしのほっぺたをむにむにします。あう、マーちゃんのほっぺたが落ちちゃうのです。
     二人は本当に嬉しそうです。うらやましいなあ。


     これも、思い出です。お母さんとの、大切な記憶なのです。

  • 7◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:31:30

     また景色が変わりました。最初の真っ白なだけになって、何も見えません。
     いえ、お母さんが見えますね。遠くにいます。わたしはいません。どこにいるのでしょう?

     お母さんは両手で顔を覆っています。くぐもった声も聞こえてきます。これは、泣いているのでしょうか?

    『マーちゃん……マーちゃん……』

     わたしの名前がかろうじて聞き取れます。これは、わたしが泣かせましたね? まったく。お母さんを泣かせるなんて、わたしはなんてひどい子なのでしょう。
     お説教をしなければと思いますが、周りを見渡しても誰もいません。

     これは、どの思い出なのでしょうか。こんな風にお母さんを泣かせた記憶は、わたしにはありません。
     わたしではないわたしが、そうさせてしまったのでしょうか? そうだとしたら、ここにいないのは何故でしょう?

  • 8◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:32:01

     一生懸命考えてみますが、答えは出てきません。見つからないのなら、仕方がありません。
     そんなことよりもお母さんが大事です。お母さん、泣き止んで。

     わたしはお母さんに向かって走ります。これは、遠いですね。ウマ娘の短距離走よりも長い距離です。
     マイル? 中距離? 長距離? 数字は分かりませんが、分かるのはわたしでは走り切れない距離だということ。

     これがレースだとしたら、みんなに追い越されてしまいますね。ウオッカやスカーレットだったら、大丈夫なのでしょうか。
     みんな先に行ってしまいます。わたしは置いていかれて、ひとりだけになるでしょうね。

     でも、今はそんなことは関係ありません。お母さんの元にたどり着く。それだけがわたしのゴールなのですから。
     ぜえぜえと息が切れます。汗はだらだらと流れていって、脚はよちよち歩きよりもふらふらです。

  • 9◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:32:32

     お腹が、胸の奥がきりきり痛みます。痛くて痛くて、立ち止まってしまいそうです。
     それでも、止まりません。諦めません。わたしは、アストンマーチャンですから。お母さんの子ですから。

     長い長い時間をかけて、わたしはお母さんの前に立ちました。お母さんの目は相変わらず手で真っ暗のままです。

    『おかあ、さん』

     呼吸を整えながらわたしは呼び掛けます。泣いているせいで震えていたお母さんの体が止まりました。
     そして、恐る恐るといった様子で顔から手をどけます。

    『マー、ちゃん?』

     お母さんの目の中にわたしがいます。涙できらきらしているレンズに、ぼやけたわたしが映っています。

  • 10◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:33:03

    『はぁい』

     お母さんが呼んでくれたので、わたしは返事をします。呼ばれましたからね。ここにいるよって教えなくてはいけません。
     泣き止んでほしかったのに、みるみるうちにお母さんはもっと泣いてしまいます。どうしてでしょう?

     ふと、お母さんが何故泣いているのか考えました。わたしのせいだとは思うのですが、ここまでお母さんが泣いてしまう理由です。
     お母さんは、あまり泣いたことがありません。本を読んだり映画を見たりして泣くことはあったのですが、こんなに苦しそうに泣くことはありませんでした。

     ただ、泣いている姿ではないのですが、似た光景を見たことがあります。苦しそうに、という意味でです。
     夜遅くにお仕事から帰って来た日。誰もいないリビングで、あまり飲まないお酒を飲んでいました。

     たまたま起きてそれを見てしまったわたしは、少し後にお母さんに理由を尋ねてしまいました。
     困らせたいわけではなかったのです。子供心に何でだろう? と思ってしまったのです。
     お母さんは、一瞬言葉に詰まりながらも教えてくれました。

  • 11◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:33:34

     色々考えていたわたしを、泣きじゃくるお母さんが抱きしめます。わたしもお返しするのですが、いっぱいいっぱい抱きしめてくれます。
     濡れた声が、わたしの耳に届きます。


     あの日のお母さんの答え。あれは、患者さんが。


    『マーちゃん……■■■■■……』


     おかあさん。わたしは……

  • 12◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:34:05

     じんわりと体を包む嫌な感じで目が覚めます。目の先の天井は、わたしの部屋のものですね。
     ばさりと布団を押しのけて起きてみれば。パジャマがじっとりしていて、体全体が汗をかいていました。梅雨の時期とはいえ、じめじめマーちゃんはご遠慮しているのですが。

    「ゆめ、ですか」

     嫌な夢でしたね。途中までは素敵な夢だったのですが。
     夏が近いとはいえ、まだクーラーは必要ないとかけなかったせいでしょうか。

     それとも、夏合宿の前におうちにお帰りというのがいけなかったのでしょうか。これからレースだってたくさん出ますから、それに向けてのトレーニング前にと思ったのですが。
     案外、プレッシャーやストレスに弱いのかもしれませんね。トレーナーさんにも相談して、気を付けなくては。

     そんなことを考えていても、パジャマは張り付いたままです。
     着替えましょうか、どうしましょうか。悩んでいるわたしは、別の気持ちに気付きました。

  • 13◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:34:36

    「……のどが、かわきました」

     汗をかいたせいでしょうか。口から出てくる言葉もぱさぱさです。
     お水を飲もうと着替えをさておいて、台所に向かいます。

     もう夜中ですから、静かに静かに歩きます。あばれ妹は寝起きは良くありませんから。触らぬあばれ妹に祟りなし、です。
     リビングの奥のキッチンにたどり着いて、ようやく一息つきます。
     自分の部屋に戻ろうとします。ここまで明かりをつけるのも面倒だったので、壁伝いにそろりそろりと歩いていると。

    「ううん……」

     びくり。思わずしっぽが逆立ちます。
     わたしの声ではありません。キッチンの方の小さなライトを点けてみます。そうしたら、リビングのソファにお母さんが寝ていました。
     パジャマ姿ではないことから、どうやらお仕事から帰ってきてそのままのようでした。

  • 14◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:35:07

     こうしたお母さんの姿は、あまり珍しくはありません。お母さんはお医者さんですから、遅くまでお仕事をしていることが多いのです。
     だから、疲れてここで眠ってしまうこともしょうがないのです。あまり、驚かさないでほしくはあるのですが。

     とはいえ、ソファでは疲れは完全には取れません。本当なら起こして二階の部屋で寝てもらうのですが。

    「……やっ」

     わたしはお母さんの体を抱っこして、一階の寝室に運びます。お母さんがこうなるので、一階にも寝る部屋はあるのです。
     こうしてお母さんをベッドまで運ぶのは、わたしの仕事です。あばれ妹ですか? あれは駄目なのです。本格化もしていませんから。

     お母さんの体は小さくなりました。いえ、大きく縮んでいるわけではないのです。わたしが成長して大きくなっているのはあります。
     でも、さっきまで見ていた夢のせいでしょうか。昔に比べて、本当にそう思えます。
     お仕事が忙しいのでしょうか。たくさんご飯を食べて、たくさん寝て。元気でいてもらいたいですね。

  • 15◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:35:38

     部屋に着いてお母さんをベッドに横たえます。本当はパジャマに着替えさせたいのですが、明日はお休みですから。無理に起こしてしまうのも悪いですし。
     気付けばお母さんが腕を握っていました。そのまま布団をかけたりしていたのですが、いざ離れようとしても離してくれません。

     ウマ娘として力を込めれば簡単ですが、それではお母さんが怪我をしてしまいます。さて、どうしましょうか。
     わたしが悩んでいると、何か光るものが目に入りました。廊下からの薄明かりできらりとしたものは、お母さんの顔に張り付いていました。涙でした。

     いつの間に泣いていたのでしょう。運ぶ時にどこか痛くさせてしまったのでしょうか。慌てて怪我をさせていないか確認しようとすると、

    「マーちゃん……」

     お母さんがわたしを呼んでいました。

  • 16◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:36:09

    「お母さん?」

     呼び掛けてみますが、返ってくる声はありません。寝言のようでした。痛みで苦しんでいる様子はなかったのですが、安心はできませんでした。
     お母さんはうなされていました。さっきよりも強めに起こしてみますが、それでも起きてくれません。握られている腕が少し痛くなります。

     あの夢が思い出されます。わたしがいなくなって、お母さんが泣いている夢。
     あれは、本当に夢だったのでしょうか。もしかしたら、本当にどこかで。

     ぶんぶんと頭を振って、嫌な想像を追い出します。それよりも、お母さんです。袖で涙を拭っても、また零れていきます。
     その姿を見て、別の想像が思い浮かびました。

     もしかして……そう、有り得ないことですが。お母さんも、わたしと同じ夢を見ているのでしょうか。わたしがいなくなった後も、ひとりで。
     続くお母さんの言葉を聞いて、それが間違いないのではないかとも。

  • 17◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:36:40

    「マーちゃん……いかないで……」

     最後に聞き取れなかったお母さんの言葉、なのでしょうか。いかないで。行かないで。■かないで。
     どんな意味なのかは、お母さんしか分かりません。そのお母さんは、今も夢の中です。

     お母さんの夢の中に、わたしはいません。わたしは今、お母さんをひとりぼっちにさせているのです。
     わたしのせいかもしれません。わたしのせいではないかもしれません。
     どちらにしても、わたしはこのままお母さんをひとりにはできませんでした。

     わたしはベッドの中に潜り込みます。握られている腕から、お母さんの手を握るようにわたしの手に移動させて。お母さんの背中をとん、とんと叩きます。
     小さい頃は、こうやってお母さんはあやしてくれました。大人の人があやされるというのは、変なのかもしれません。

     でも、大人の人だって悲しくなることはありますから。わたしが、マーちゃんがしてもらってきたことを恩返ししてもいいと思うのです。
     お母さん、泣かないで。お母さん、悲しまないで。

  • 18◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:37:11

     あの夢の中でお母さんがしてくれたのと同じくらい、いっぱいいっぱい抱きしめます。
     わたしは、嬉しかったのです。楽しかったのです。それは、今も続いています。
     だから、まだ終わりではないのです。いずれ終わりが来てしまうのだとしても、それはまだなのです。

     そうして、長い間ぎゅっとしていると。お母さんの表情が少し和らいできたように見えます。
     あの夢は、終わったのでしょうか。別の夢を、見てほしいですね。

     わたしの手を握る力も抜けていきました。もう、お母さんは大丈夫そうです。
     でも、わたしは離れません。今日は、お母さんのところにいるのです。

     聞こえることはないとは思うのですが、それでもわたしはお母さんに呟きます。

  • 19◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:37:43

     
     
     
    「おかあさん。わたしは……マーちゃんは、ここにいるよ」
     
     

  • 20◆zrJQn9eU.SDR23/06/08(木) 02:41:08
  • 21二次元好きの匿名さん23/06/08(木) 10:14:00

    とてもよかったです

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