【SS/トレウマ】シャツのボタンをつける話

  • 1二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:12:46

    トレーナー(性別不問)のシャツのボタンをつけてあげるだけのナカヤマの話です。

  • 2二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:12:58

    トラブル、アクシデント、ハプニング──当然のことではあるが、予測不可能な出来事というものは、なんの前触れなく発生してしまうものである。
     世の中には虫の知らせというものもあり、科学的に説明のし難い予感のたぐいを覚えることもあるだろう。
     しかし、ほとんどの場合において、事件というものは突然に、唐突に、思いがけず訪れるものだ。

     午前中の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、待ちに待ったランチタイムに学内がにわかにわき立つお昼どき。
     購買を舞台に、ツキイチ販売の特製サンドイッチ購入戦線から命からがら逃げ帰ってきたトレーナーは、みずからの根城に戻るやいなや深い疲労をたたえたため息をつく。

     チャイムの音色を合図に絶好のスタートを決め、トレーナー室を飛び出したのはつい十数分ほど前のこと。
     廊下の直線は速歩で、曲がり角は小回りを効かせ購買へとたどり着いたはいいものの──一度は手にしたはずの戦利品のローストビーフサンドが入ったビニール袋は、その手に提げられてはいない。ほうほうのていとばかりにくたびれたその様子は『逃げ帰る』という表現がけして大げさではないことを強く物語っている。

     空腹ウマ娘の食欲から繰り出されるパワーのおそろしさについて、トレーナーは充分理解しているつもりだった。

     トゥインクルシリーズを走るウマ娘たちのトレーナーとしてこの学園に在籍してから、それなりに時間も経っていた。彼女たちの性質についても、専門校で学んだ知識の活用に加え、実地にて認識を深めることを怠ることはない。
     トレーナーはウマ娘ではなかった。しかし、バ群を苦手とするウマ娘の切なる気持ちがよくわかる。わかってしまった。
     たとえスピードに乗っていなくても、我先にと特設ブースに殺到しお目当てのサンドイッチを手に、もみくちゃになりながらも会計を済ませ、ギラギラとしたプレッシャーに圧しつぶされそうになるのは、とてもキツイものだった。
     ……幸いにもこのトレーナーの担当ウマ娘はバ群を極端に嫌うタイプではなかったが。

  • 3二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:14:08

     それはさておき。
     根城たるみずからのトレーナー室に帰ってくれば安堵のひとつやふたつするものだ。
     つい急くようにしてその場から立ち去ってしまったから、サンドイッチどころかほかのテイクアウトメニューすら買いそこねてしまった。思い出したかのように腹の虫が騒ぐ。ゆるく握っていた右の拳を開きため息をひとつ。開け放ったままだった扉を後ろ手で閉めようとしたところで──

    「おいトレーナー、何してんだ?」

     グルギュギュギュウ。
     トレーナーが担当ウマ娘の声に振り返ったのと同時に、その腹が高らかに鳴り響いた。

    ***

     担当ウマ娘──ナカヤマフェスタは、粗暴と言われることのある雰囲気に反し、その実、細かなことによく気づく、とても目聡い少女である。

     この時もまた、出会い頭に空腹の意思表示をしてしまった担当トレーナーに対し、普段から跳ねがちな眉をあきれたようにひそめたものの、ほぼ視界の真ん中にあっただろう違和感に気づいたらしい。あきれとはまた違うニュアンス──言うなれば訝しさに眉根を寄せた。

    「ボタン、取れてんじゃねぇか」

     言うやいなや、彼女のしなやかな腕が伸びてきた。トレーナーがそう認識したときにはもう遅い。担当ウマ娘がカッターシャツの襟元から数えて二番目と四番目のボタンの間、昼前までには存在していた三番目のボタンのあたりに生まれた隙間をくい、と、その細い指先で躊躇なくひっかけたものだから──トレーナーは生まれそうになった呻きを既のところで呑み込むはめになった。

     レースでもトレーニングでも彼女の好む勝負事でも、彼女のためらいのなさは今に始まったことではない。
     気を許されているゆえの容赦ない距離感だって、同様に。

    「失くしたのか?」

     失くしてはいない。担当ウマ娘の問いかけに、彼女の『相棒』たるトレーナーは首を振る。それから、ふたたび握りこんでしまっていた右の掌をその眼下で開いてみせた。
     そこに鎮座するのはホール部分に糸くずが残る半透明の四つ穴ボタン。

     不自然にならないよう半歩だけ後ずさり、トレーナーは担当ウマ娘を空調を稼働させた心地の良い室内へ入るようにうながした。
     この時間帯、ミーティングの予定もないのにナカヤマがトレーナー室へやってくる理由はたったひとつだ。
     迷うことなく窓際へ向かうその背を見送りながら、トレーナーは後ろ手に扉を閉める。

  • 4二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:15:16

    「購買で生徒とぶつかったんだよ。そのとき、その子の髪をこのボタンがひっかけてしまって」
    「で、ボタンをもぎ取ったって?」
    「うん。火事場のバ鹿力ってああいうことを言うんだと思ったな」
    「……で、せっかく買った昼食をそいつに押しつけて逃げてきた、と」

     ツキイチのサンドイッチはとにかく競争率が高い。生徒たちに混ざり奪い合うのは大人としてどうなのかとも思うものの、カフェテリアも購買も学園関係者には平等だ。生徒のウマ娘たちもそれは百も承知で、トレーナーを始めとした学校関係者たちとの戦いに挑む。

     しかし。勝てる勝てないはさておいて、大人は大人なりの良心を抱くもの。

    「ひと悶着のせいで、あの子がお目当てのサンドイッチを買えてなかったら、申し訳ないし……」

     トレーナーが続けると、「ふぅん……?」と咀嚼だけはしたとばかりの間のあと、「なんでそうなるんだよ」トレーナーの元に、まるで刃こぼれのない刀身でばっさりと切り落とすかのようなナカヤマのあきれ声が届いた。

    「勝負しに行って、勝てたんだろうが。お人好しだな、アンタも」

     ごもっともである。
     ナカヤマフェスタは自身の担当トレーナーに対し基本的には遠慮がなかった。
     それは、この昼時において、一番陽当り良好となるトレーナー室窓際側のソファに腰を掛け、遠くまで届く大きなあくびをこぼした後でも、変わることはない。

    「まぁ、大人ですから」

     トレーナーがしゃがみこむのは窓際の担当ウマ娘から死角となる執務机の陰だった。彼女から姿が見えないようにして、ジャケットを脱ぐ。ボタンが取れてしまったシャツも手早く腕から引き抜いて立ち上がれば、オフィスカジュアルなボトムスに無地のグレーTシャツというちぐはぐな格好をしたトレーナーが爆誕する。

     ボタンを失くしてしまわなかったのは幸いだった。取れてしまったのなら、つけ直せばいい。

     部屋の隅に設置されているフードストッカーにはカップ麺が残っているはず。空腹はいまやピーク。しかし──トレーナーは『大人』であり、担当ウマ娘からもあきれられ気味に『献身』のできるトレーナーであった。

     これから午後の授業がはじまる予鈴ぎりぎりまで昼寝に勤しもうとソファに陣取る担当ウマ娘を見遣れば、学生とは違い時間に融通の利く身であるトレーナーが昼食を後回しにするのは、もはや当然のことであるとも言えた。

  • 5二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:15:28

    ***

     一人のトレーナーにつき一つ与えられるトレーナー室には、さまざまなものを設置、保管することができる。

     たとえば軽食やらプロテインやらお菓子やらがしまわれるフードストッカー。

     たとえば飲料水やらごほうびのアイスクリームやら冷却材やらがしまわれる冷蔵庫。

     冬に大活躍するこたつ。正月飾り。クリスマスツリー。その他もろもろ。

     経費でソファを増設するトレーナーもいれば、カーテンを買い換えるトレーナーもいる。トレーナーとその担当ウマ娘が過ごしやすいよう、学園側も多少の模様替えなら許可しているのだ。

     この時間帯になるといっとう日当たりが良くなる窓際は、昼寝には絶好のスポットだ。気温に左右されがちな室外と違い、トレーナー室は適温に保たれやすい。なによりいつかの重賞制覇時に新調されたソファベッドは、眠気に満ちる身体を心地よく受け止めてくれる。

     美化委員会の使う温室に忍び込んだりふらりと屋上へ足を運んだりすることもあるが、誰にも邪魔されることなく眠るのなら、ここ以外ありえない──それが、この時間帯のトレーナー室の窓際ソファに対するナカヤマフェスタの評価だった。

     まるでパブロフの犬か何かのように、トレーナー室に脚を踏み入れた瞬間からじわじわ重くなる身体を、ナカヤマはターコイズブルーのソファに横たえる。
     今日も日当たりは最高。せっかくの戦利品を譲り渡してきたなんていう、トレーナーのお人好しエピソードには、あきれた調子で言葉を返した。コイツがお人好しなのは今に始まったことじゃないが、と、ナカヤマは嘆息する。
     ぼやぼやしていそうで『トレーナーとして』だとか『大人として』だとかの責任感が強いのも、出会った頃から変わらない。

     今だってそうだ。瞼が重力に負けつつあるナカヤマの視界、パソコンが置かれ資料が積み重ねられている執務机の向こう側面のあたりから、担当トレーナーがひょこりと姿を現した。
     裸になるわけでもないのにわざわざ隠れてサマージャケットやシャツを脱ぐあたり、気遣いの他にもちょっとした含みを感じさせるのには充分だ──蝶よ花よの女子高生とは言い難い自分に対して、突然脱衣をはじめることによりおびえないように……だなんて心を砕くのだから、宝の持ち腐れのような気もしなくもないナカヤマなのだ。

  • 6二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:15:41

     大人ですから、なんて格好つけた言い草をまどろみの向こうで聞きながら、とうとうナカヤマの瞳は陽射しすらシャットアウトした。
     薄いまぶたの内側で光は感じるものの、もはやそれは午睡を阻むことはできないだろう。

     だから──ラーメンを啜る音にごときに邪魔されるわけがないのに。

     しかし。

    「痛っ」

     かすかに聞こえてきた声に、力を失っていたナカヤマの耳はぴんと跳ねた。眠りに誘われて意識が途切れてどのくらい経っただろう。秒での寝落ちは気絶とも聞くが──少なくとも予鈴はなっていない。この担当トレーナーは大層お人好しで、ナカヤマが完全に眠りに身を任せて意識を手放していても、予鈴が鳴り響く前にきっちりと揺り起こしてくれるのだ。

     それはさておき。
     痛い。いまこのトレーナーは『痛い』と言っただろうか。書類で手指でも切り裂いたか? それとも獲物は出版社から提供されたレース雑誌だろうか。
     ぴんしゃんとした紙というのは武器になることもままある。いつまでもひりついて集中力を乱してくるのを思い出せば、反射的にナカヤマの眉間は深く皺が寄った。

    「──ッ……!!」

     少しばかり散った眠気に、二度寝するかを相談しようとした矢先、ナカヤマの耳を打ったのは声なき悲鳴だった。
     なんとかこらえたとばかりの静寂のあと、かすかな嘆息。

     そこでナカヤマはようやく得心する。まだもう少し、とばかりに気怠い身体に鞭一つ。腕を突っ張り起き上がり、頭にまとわりつく眠気を散らすために首を振った。
     視界の端の時計を見遣る。心地の良い昼寝に意識だけではなく時間感覚まで溶け切っていた。昼イチの授業科目を思いめぐらせて、そこで彼女は悲鳴の出処に目を向けた。

     おおよそ想定通り。執務机の上、ノートパソコンを脇に追いやって鎮座するのは木製の裁縫箱。開かれた蓋からにょきりと姿を覗かせてかすかに光を弾くのは、丸玉が頭についた洋裁用のまち針だ。
     この部屋では普段はあまりお目にかかることはないものの、裁縫箱なんてあって困るものではない。
     丸い形を作ったようなあくびを手のひらで覆い隠したところで、ナカヤマの耳は「あ」という間の抜けた担当トレーナーの声を拾い上げる。

  • 7二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:15:52

    「……、まだ昼休憩、時間あるよ?」
    「そうだな」

     天井に向けて両腕をひと伸びさせて、ナカヤマは首を鳴らす。『勝負』となればいっちょ前にポーカーフェイスも操る担当トレーナーだったが、そうじゃなければブラフも下手糞。あからさまに何かを誤魔化したいとばかりに視線が泳いだのを担当ウマ娘が見逃すはずがなかった。
     ソファに寝転がった際に適当に脱ぎ捨てていたローファーを履き直して、まだまだ役目は果たせるとばかりに温もりに満ちる窓際からナカヤマは背を向ける。

     二度寝をすると決め打ちしていたトレーナーは、担当ウマ娘が昼寝をやめたどころか己の座る執務机に歩み向けたことにぎょっとした。
     慌てて手許にあった──白い糸を通した細い針だとか、ぴっちり隙間なくシャツに縫い止められたボタンやらを隠そうとするものの……時すでに遅しであった。

    ***

    「……なぁ知ってるかトレーナー。衣類についちまった血ってのは、きれいに落とすのに難儀するんだぜ? ……知ってるよな?」
    「はい……」

     トレーナーは極端に不器用なタイプではなかった。かといって指先が器用かと言われるとそうでもなく、言うなれば一般的、普通、特筆することもない程度であった。

     では、平平凡凡の手先が、慣れない繕い物をするとなれば、何が起こるのか──執務机の側面に立つ担当ウマ娘がため息をついている。
     そこにはからかいの響きすらなく、トレーナーはあまりのいたたまれなさにうつむき身を縮めた。

     でもまだついてないから! そう言い訳することも出来たが、つきつきと痛む指先が赤くにじみ始めれば時間の問題であることは明白だ。

     しゅん……と怒られた犬のような悲壮感を醸し出す担当トレーナーを見下ろし、ナカヤマは眼下に広がる状況を視線の一往復だけでさらう。「トレーナー」弾かれるように顔を上げるトレーナーに対し、裁縫箱がしまってあったはずの戸棚に顔を向けた。

    「救急箱。あと爪楊枝、持ってきな」
    「……つまようじ?」
    「手は洗ってこいよ」

  • 8二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:16:05

     さっさと行け、とばかりにナカヤマが手を払えば担当トレーナーは焦ったように立ち上がる。主を失った回転椅子に腰掛け脚を組めば、執務机の上の惨状に何からどう始めるか思案する。

     とりあえずは糸。それから針。糸切りハサミ。その場にあるものは脇に避けて、ナカヤマは開きっぱなしの裁縫箱に手を伸ばす。
     カード巻きされたものうち赤い糸を選び、次いで、手のひらにも満たないプラスチックケースを取り出した。
     その中身をあらためたところで、救急箱と爪楊枝を手にした担当トレーナーがいそいそ戻ってくる。

    「持ってきた」
    「お使いご苦労さん。指に絆創膏貼っとけ」
    「え、大丈夫だよ」
    「へぇ? トレーナーは私の手ずから絆創膏を貼って欲しいのか?」
    「……返答に困ることを言わないで」

     絆創膏を貼って来いじゃ貼らずに帰ってくるのが目に見えている。ついでに普段のナカヤマの柄ではない言葉が重なれば目に見えて担当トレーナーは困惑するが、救急箱が目の前にある以上は抗っても意味はない。
     差し障りない程度のクオリティで巻かれた絆創膏を確認すれば──ナカヤマは、糸切りハサミを手に取った。

    「ボタン、一度取るぞ」
    「え?! も、もう少しで付けられるところだと思ってるんだけど」
    「そりゃ付くさ、そこそこがっちり強固にな? だが……飾りボタンじゃねぇんだぞ。アンタ、これをボタンホールにくぐらせる必要があるの、忘れてるだろ」
    「あっ」

     ぱつん、と、四つ穴に渡る白い糸を断ち切る。糸を針から引き抜いて、ナカヤマは糸くずとまとめて端へ避けた。

    「一本取りじゃなくて二本取りにしとけ。あと糸もな、これじゃ弱すぎる」
    「……よわい?」
    「アンタの使ってた糸はしつけ糸。本来は仮縫いに使う糸だ」
    「……」
    「真っ直ぐ線を引きたい時は定規を使うだろ。それと同じ。本縫いの目印代わりとかに使う糸だから、耐久性がない」
    「……ハイ……」

  • 9二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:16:29

     椅子持ってきて座れ、と顎で指示されれば、職員室の教師のデスク側で説教される生徒のような心境だったトレーナーは、すぐさまミーティングテーブルのパイプ椅子を引っ掛けてきた。

     背筋をぴんと伸ばし、おそるおそる担当ウマ娘に視線を送る。

    「二本取りとは……」
    「糸を二重でやれってことだよ。一本より二本の方が頑丈になる。ボタンの糸なんて付けて外してで負荷がかかるからな。あと、針も別のものの方がいい。短くて細い方が取り回しがいいと思ったんだろうが……」

     戻すぞ、というナカヤマの宣言のあと、トレーナーが使っていた針が開かれていたプラスチックケース──針の収納ケースに嵌め込まれる。
     その代わりに取り出されたのは、三本隣、しまわれたものよりも若干太く長い針。

    「ボタン付けくらいならこのくらいの方がやりやすい。……糸はボタン付け用のがありゃ良かったが、まあ、シャツくらいならどうとでもなる」
    「詳しいんだね……」
    「目の前にあったパソコンで調べりゃこのくらいはどうにかなったと思わないか?」
    「返す言葉もない」
     
     ナカヤマの少女らしい指先が厚紙に巻かれた赤い糸を引き出していく。程よいところで斜めに切って、ハサミを置いたその手はプラスチックケースに延びる。蓋側にはめ込まれていた何者の肖像が型押しされた小さな用具を手に取れば、あれよあれよという間に針穴を赤い糸が通り抜けた。

    「スレイダー三世って言ってな。古代ギリシャの医術王だ。縫合の名手だったって話だぜ」
    「だから糸通しに象られてるんだね」
    「まあ冗談なんだが」
    「えっ?!」

     片側の糸の先だけに結び目をつけていたトレーナーと違い、ナカヤマは量側の糸先を同じ長さまで伸ばす。
     なるほどこれが二本取り。結び目をつけるだけでも難儀したことに思いを馳せていたその一瞬で、くるんと結び目が誕生したことにトレーナーは目を白黒させる。

    「手品?!」
    「玉結び。……小学生のとき家庭科の授業でやらなったか?」
    「……やったような、やらなかったような」

  • 10二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:16:43

     ナカヤマの指先は淀みない。裁縫箱に糸を戻すついでに、ブラシのついた色鉛筆を取り出した。

     これは何だっただろう、たしか「チャコペン」「それだ」思考でも読まれたのかというタイミングだったものの、トレーナーの視線は担当ウマ娘の指先にもはや釘付けだった。

     一度丁寧に前開きのシャツを閉じボタンホールの位置を確認する。すかさずチャコペンでボタン位置に印をつけて、ボタンに、布地に、するすると針と糸が通っていった。
     何がどうなっているのか半分ほどしか理解していない担当トレーナーはもはや置き去り。しかし──先ほどついクエスチョンマークを飛ばしてしまった爪楊枝が出てくると、はっと息を呑む。

    「糸足、っつうのを作るんだよ」
    「いとあし」
    「ボタンホールに嵌めるなら、前立てとボタンの間に隙間が必要になる。2〜3ミリ。まぁ爪楊枝一本分くらいのもんだ。布とボタンの間に爪楊枝を挟んで、糸をかけていって──」

     するりと爪楊枝を引き抜けば、ナカヤマの解説通りボタンと布の間に余裕が生まれた。けれどこれはこれでボタンホールに嵌めるのは大変なのでは? そんなトレーナーの一瞬の疑問は、すぐにでも吹き飛ぶこととなる。

     ボタンに向かって垂直に、ふぞろいに生える何本もの糸を、一周、二周、三周、四周と、一本の束としてまとめるように糸を巻きつけていく。

     それは、ボタンから生えた糸の足といっても過言ではないかもしれない。

     トレーナーが、じわじわと沸き立ちはじめた興奮に瞳を輝かせているのを知ってか知らずか、ナカヤマの指先はひとつのためらいもなく針先を操り──

    ***

    「こんなもんか」

     ぱつ、と、糸切りハサミの音が、真昼のトレーナー室に響く。
     結び目のなくなった赤い糸が針から引き抜かれたところで、ぱちぱちと控えめな拍手が生まれた。

     拍手の主は部屋のあるじ、ナカヤマフェスタのトレーナー。賞賛されているナカヤマはというと、針をプラスチックケースに戻しながらあからさまに顔をしかめてみせる。
     しかしそんな威嚇に対してそう簡単に怯えるようでは、この担当ウマ娘のトレーナーを何年もやってはいられない。

  • 11二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:16:56

     さっさと着てみろとばかりにナカヤマからシャツを放られれば、トレーナーはいそいそと袖を通しはじめた。

    「ったく、アンタはガキか何かか? 弟妹たちでもそんな喜ばねぇぞ……?」

     すごいな、すごい。魔法みたいだった! そんな拙い感想を片耳で拾いつつ、ナカヤマは針の本数を数える。ふと思い立って最初にトレーナーが使っていた短針を摘んで、その針先をポケットから取り出したハンカチで拭ってから、ケースを裁縫箱にしまい直した。
     糸巻きも糸切りハサミも収納して、裁縫箱の蓋を閉じる。

     そこでようやく一息つく頃には、ちょうど心臓のあたり──しかるべき場所にボタンがつけ直されたシャツを纏ったトレーナーが、鼻歌でも唄わんばかりに笑顔を浮かべていた。

     満面満開。花でも咲きそうな勢いで。

     訂正。ガキかもしれない。まるでおろしたての洋服でも着たかのような上機嫌。己の技術を褒め称えられることは悪い気もしないが、こうもストレートに喜ばれてしまえば居た堪れなくなるのはナカヤマの番だった。
     時計を見遣ればあと数分で予鈴と行ったところ。多少遅れたところでどうにでもなる授業だったが、さっさと逃げてしまおうか。

     そう、彼女が脳裏で秤をかけようとしたところで。

    「赤い糸なんだ」

     通気性のある薄手のシャツに留められた半透明のボタンは、どれもこれも存在を主張しない白い糸が渡されている。

     ただひとつ、ついたばかりのボタンを除いて。

     ぽつりと落ちた一言。
     ナカヤマはそれを、小さな笑いとともに息を解すことで応えた。
     いつもならトレーナーが座っている回転椅子から立ち上がり、首を回して、肩を回す。

  • 12二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:17:10

     糸の色違い気づかないほど担当トレーナーがバカだと、ナカヤマは思っていない。トレーナーが最初に選んだ白い糸はしつけ糸だったけれど、──黒、青、黄、緑、そして白も用意されていた手縫い糸の中であえて赤を選んだその意図に、このトレーナーは気づくだろうか。

    「どこの誰かも知らない奴に、アンタの心臓奪われちゃ、たまったもんじゃねぇからな」

     律儀にパイプ椅子に腰掛けたままのトレーナーが、言葉の意味を探ろうとひとつ、ふたつと瞳をまたたかせる。

     ナカヤマフェスタというウマ娘は──運命の赤い糸だとか、心臓の位置に近いボタン、だとか、そんな愛らしさとは無縁の生き方をしていたアウトローだ。
     先程まで滑らかに針や糸を操っていた指先を軽く握りこみ、ためらうことなく、迷うことなく、トレーナーのシャツの胸元に、その拳を近づける。

     そして、とん、と軽く、戯れのように、心臓のあたりをノックした。

    「……私以外でヒリついてくれるなよ? トレーナー」

     救急箱も裁縫箱もしまっとけよ、あと飯も食うの忘れんなよ──などと言い残して、担当ウマ娘が去っていく。

     トレーナー室の扉が閉まり、スピーカーから予鈴が響く。

     暑すぎることも寒すぎることもない、──たったひとり、この時間帯にやってくる教え子のため、心地よく保たれた室内に、トレーナーは取り残される。

     耳を打つチャイムの音色に紛れるように、慌てて空調の設定温度を下げたのは、──トレーナーしか預かり知らぬことだった。

  • 13123/06/11(日) 20:19:26

    おしまい


    書いてるうちに

    【SS/トレウマ】猫の作法|あにまん掲示板猫ってこっちが寝てるとちょっかい出してきたりおもむろに添い寝してきたりしませんか?そんなナカヤマさんとトレーナー(性別不問お好きなように)の話です。bbs.animanch.com

    これの後日談みたいな気がしてきたんですが読んでなくても問題ありません。


    ヒトミミ用のニット帽にウマ耳用の穴をあけて処理できる女が繕い物を不得意とするわけがないと信じています。



    最近文字数カウントと仲良くなれないので10字とかくらいオーバーしてしまう。

  • 14二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:27:17

    お疲れ様でした。
    ごめんなさい…。前作知らなかったので前作も読みました…。
    前作のお話もよかったです。

    今作はナカヤマの器用さが書かれててよかったです。
    糸のところが好きです。

  • 15二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:27:36

    良い物を読ませて頂きました
    無頼な風に見せかけて育ちの良さを隠せないナカヤマフェスタさんだから、裁縫得意なのは解釈一致です
    そんな家庭的な一面とともに急に普段見せないオンナの顔を出してくる辺りこの子強い
    ”どこの誰かも知らない奴にも、どこの誰かも知ってる奴にもコイツを渡してなるもんか”
    そんな二重音声を聞いたのはきっと偶然ではないでしょう
    何が言いたいかと言うと最高でした!
    毎回毎回ナカヤマフェスタの違った魅力を見せて頂いて、ありがとうございます!

  • 16二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 20:50:37

    すこです

  • 17二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 21:27:25

    ナカヤマがシャツの隙間に指ひっかけるところ読んでてなんかソワソワした
    視点のキャラクターと同じ感覚になれる文章ですごいと思う
    あと私以外でヒリつかないで欲しいと思ってるナカヤマは居るって考えてたので同じこと考えてそれをSSで表現してくれるひとがいるの嬉しかった
    とても良いSSだった……

  • 18二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 22:00:03

    良かった

  • 19二次元好きの匿名さん23/06/11(日) 22:00:44

    まるでオカンだ…

  • 20123/06/11(日) 22:57:38

    >>14

    お読みいただきありがとうございます!

    しかも前作まで~やったーとってもとってもうれしいです!

    ナカヤマは料理も出来るし基本的には器用だしダンスも好きだし赤点の噂も聞かないので、ああ見えてかなりスペック高いんですよね。

    好きも教えてくださってありがとうございました♪


    >>15

    お読みいただきありがとうございます!

    父親の給料の安さにオカンが嘆くくらいの一般家庭っぽいんですが、ところどころ育ちの良さを感じますよね……特に弟妹に対する接し方とかを見ると、ただ不良をやていた子ではないんだよなと強く思うところです。

    ギャンブルにおける駆け引きとか大好きだと思うので、いつでもトレーナーのことを翻弄していてほしいものです……!

    こちらこそ、目にとめてくださりありがとうございます!


    >>16

    ありです! 長めのお話なのに読んでくださりありがとうございました!


    >>17

    お読みいただきありがとうございます!

    あそこは書いてた人も「ヒューッ!!!!!」って思っていたので、それが伝わっていたのなら何よりです……!

    「私以外にヒリつかせやしない」ナカヤマもいいんですが、「ヒリつかないでくれ」って願うナカヤマもね、いいですよね……。

    お褒めのお言葉たくさん感謝です! ありがとうございました♪


    >>18

    ありがとうです! お言葉も残していただき感謝です!


    >>19

    ナカヤマ、ああ見えてだいぶ世話焼きタイプだと思うんですよね……。

    なんでもかんでも世話を焼くタイプではなく、

    助けに入るタイミングはしっかり見極めているみたいですが……このナカヤマはたぶんぞうきんも縫ってくれるし体操服のゼッケンもつけてくれる……。

  • 21二次元好きの匿名さん23/06/12(月) 01:05:01

    いい…

  • 22二次元好きの匿名さん23/06/12(月) 01:25:15

    ナカヤマの母ちゃん的なかっこよさとトレーナーの子供っぽい頑張りと可愛さみたいな感じめっちゃいい。
    この2人にしかない距離感

  • 23二次元好きの匿名さん23/06/12(月) 07:34:29

    また夕方以降お返事させてください〜!

  • 24二次元好きの匿名さん23/06/12(月) 07:34:53

    このレスは削除されています

  • 25二次元好きの匿名さん23/06/12(月) 17:30:04

    一度あげさせてください!

  • 26二次元好きの匿名さん23/06/12(月) 20:12:19

    >>21

    ありがとう! お読み頂き光栄です!



    >>22

    ナカヤマは肝っ玉母ちゃんの素養があると個人的には思ってますね……!

    トレ性別不問に書いてるのでどうしても可愛い生き物になりがちです……!

    お読み頂きありがとうございました!

  • 27二次元好きの匿名さん23/06/12(月) 23:09:37
  • 28二次元好きの匿名さん23/06/13(火) 01:43:34

    すき

  • 29二次元好きの匿名さん23/06/13(火) 07:31:51

    ウワーッ?!?!?!
    おはようございます、最高の朝が迎えられました……ひいん、いつもありがとうございます……!!!

オススメ

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています