【SS】時を越えて、時が実る

  • 1◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:25:40

     深夜のトレセン学園を歩く者は限られている。日中のように多くの生徒が出歩くことはなく、仮にそのような者がいれば門限破りの違反者として捕まえられる。
     その捕縛者としてまず名が上がる女性が廊下を歩いている。それ自体は見回りの一環だろうと警備員も挨拶をして通り過ぎる。
     その彼女のどこか張り詰めたような表情と雰囲気には気付かないまま。

     女性はある施設に繋がる扉前にたどり着いた。体育館として使われるそこは、しかし今は別の目的の空間となっていた。
     彼女が中に入って目に映るのは、一定間隔で置かれた筐体群。人を収納し、意識を別に飛ばす代物。
     それは、VRウマレーターと呼ばれていた。

  • 2◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:26:17

     女性は筐体の合間を縫って奥へと進んでいく。そして、入口から見え難い一角の箱の前に立つ。
     この空間にいるのは彼女ただ一人。故に、普段よりも震える吐息もはっきりと聞こえる。聞こえ辛い筈の彼女の耳にもそれは届いていた。
     震えているのは体もであり、そのぶれる指先が透明なガラスに張り付いて止まる。

     荒れ始める呼吸を整えるようにもう一方の手で胸を押さえて、女性は蹲りかける。
     暗がりの中、彼女がどんな表情をしているのかは誰にも分からない。しばらくそうしていた後に、彼女は顔を上げる。
     そこに迷いはなく、震えが止まった指で操作をして筐体の中に横たわった。

  • 3◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:27:00

    "Welcome to the Mega Dream Supporter...Get Ready!"

     VRウマレーターに内蔵されているソフトのひとつ、『メガドリームサポーター』が起動するメッセージが女性に聞こえてくる。
     現実での意識を手放して"Virtual Reality"仮想空間に飛び込んだ彼女は、次の瞬間にはトレセン学園の門の前に立っていた。

     先程まで肉体は月を感じていたが、今の精神は太陽を感じていた。女性はその明暗の落差を受け止めつつ、学園の敷地内へと歩を進めようとした。
     しかし、それは彼女とは別の存在によって遮られることになる。

    「待て」

     誰もいなかった石畳に、一人のウマ娘が立っていた。彼女は、ウマ娘でありながらウマ娘に留まらない存在。
     奥の方に小さく見える噴水に模されている三女神、その一柱に数えられるバイアリータークだった。

  • 4◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:27:32

     この仮想空間においてウマ娘のサポートAIとして活動する三女神は、相応の権限も与えられている。
     当然、侵入者の排除も。それに該当するか否か、バイアリーは女性に対して口を開いた。

    「何者だ……と、言うまでもないな。登録されていない部外者はそもそもアクセス出来ない。そういう意味では、お前は資格がある」

     長年積み重ねられた知識を背景としたAIの、規律を重んじる女神は門の外の彼女を厳しく見据えた。

    「だが、何のつもりだ? こんな夜更けにここに来る理由などない筈だ。その必要性が有るならば、私に示せ」
    「それが出来なければ、ここから去れ。ここはウマ娘が強さを求めて鍛錬をする場だ。己を律して励む者の邪魔はさせない」

     バイアリーの視線を受けて、女性は一歩下がりかけた。確かに、彼女には役職相応の資格はあっても必要性はなかった。
     利用する生徒に対しての注意喚起、ハード、ソフトのメンテナンス時の立ち会い、あるいは緊急事態の対応。どれも彼女の目的にはそぐわなかった。
     生徒の言い分を聞いてきた彼女にとっても弁えている道理。今は彼女が言い分を聞かせる番だった。

  • 5◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:28:03

     本来であれば釈明すべきこの場面で、彼女はバイアリーと目を合わせずに顔を伏せている。そして、口を動かさずに体の前で両手を握り締めていた。バイアリーはただ待っている。
     女性は現実での震えよりは小さいものを纏わせながらも、ゆっくりと両手を頭の上にやり、下ろした。

     女神は軽く目を見張った。現実を数値に置き換えるこの空間では、全てが詳らかになる。隠そうとしても、暴こうとしなくてもこの場に立つ者は0と1の集合体になって、明らかになってしまう。
     だから、女神は目の前の女性を知っていた。彼女の外見は、全てデータとして。

     だからこそ、女神は驚いた。彼女は全て承知の筈だ。ここに出入りする者は全て管理され、把握される。隠しておきたいのならば、業務以外では極力避けるべきだ。
     それでも、彼女はここに来た。知られていることをあえて明かしてみせた。そうまでしてみせる、その目的は何なのか。

  • 6◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:28:34

     彼女が取った行動は、それだけだ。相変わらず言葉はなく、ただ女神を見つめている。
     バイアリーは、その目に彼女の意志を見た。単なる考えでは収まらないやるべきことを。
     言葉を紡ぐ余裕もなく、女性は必死に何事かを訴えていた。規律を重んじる女神はその意志を受け止めて、考えた。そして、答えを出した。

    「……いいだろう。私とて、秩序が全てに優先されるというような考えを持っているわけではない」

     バイアリーは踵を返して歩き始める。その後ろ姿を女性は呆然と見つめた。
     背後が動く音が聞こえないことに気付き、規律を重んじる女神は頭を半ば後ろに向けた。

    「ついて来るといい。お前の未来を切り拓く強さを、手に入れる覚悟があるのならば」

     女性は少しして我に返ると、慌ててバイアリーを追いかけようと学園に足を踏み入れた。
     その瞬間、彼女は光に包まれた。

  • 7◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:29:05

     突然の眩しさに女性が足を止めて腕で目を隠した。光が収まるにつれて覆いを下げれば、そこは門から続く石畳ではなかった。
     真っ赤なカーテンを背景に、緑のカーペットが敷かれた舞台。レース前にウマ娘が立つパドックに、彼女はいつの間にかいた。

     先程まで前を歩いていたバイアリーは何処にもおらず、仮想空間である以上観客もいない。
     しかし、女性以外の声が後ろから聞こえてきた。カーテンが開かれてその姿が明らかになる。

    「見ていたわ。バイアリーちゃんのぶっきらぼうなところも、あなたの不器用なところも」

     女性が振り向いた先には、愛情を重んじる三女神が一柱、ゴドルフィンバルブがいた。
     カーテンから伸びる舞台を進み、女性の隣に並ぶ。

    「わたしにも、あなたの答えを教えてもらうわね?」

     ちらりと女性の耳を確認して、女神は歌うように言葉を続けた。

  • 8◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:29:36

    「みんな最初は、緊張して門を叩いてくる。初めて一人だけで、たくさんの人たちに囲まれて。不安になってもしょうがないわ」

     ゴドルフィンは安心させるように女性に微笑む。そしてパドック全体を見渡す。

    「走る前に、ここに立つ子に誰かが愛情を向けてくれる。そうでなくては、レースには出られないから」
    「ここには現実のお客さんはいない。でも、あなたのファンは、あなたを好きでいてくれる存在はちゃんといるわ。誰のことか、分かる?」

     女神の問いかけに女性はまた顔を伏せた。かつての仲間も、自分を支えてくれた恩師もこの空間にはいない。
     その答えを、彼女は自分の中に探した。ゴドルフィンは静かに待っている。

     時間をかけてこれはというものを見つけた女性は、恐る恐るといった様子で自らの胸に手を当てて示した。
     女神は嬉しそうに言葉を掛ける。

  • 9◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:30:10

    「そう、それはあなた自身。たくさんの人たちに好かれるのだとしても、まずは自分が大切にしてあげなくちゃね?」
    「愛情は、欠け過ぎても満ち過ぎても駄目。過不足なく愛することが必要なの」

     ゴドルフィンはまるで杖を持っているかのように腕を掲げ、振った。それに合わせて、女性の衣服が置き換わる。
     今着こなしている服が、昔着こなしていた服へ。レースにまつわる舞台で彼女を輝かせてきた、勝負服だった。
     驚いて体のあちこちを見回す彼女に、女神はさらに問いかける。見開いた目が彼女を射抜いた。

    「あなたは、自分を愛することが出来る? 愛に飢えずに、愛に溺れずに生きる覚悟はある?」

     女性の心にその問いかけは突き刺さった。自分を憐れんで自暴自棄になることも、現実を見ずにここだけに囚われようとすることも。何度よぎったか、分からない。
     その揺れてきた振り子を彼女は止めて、頷いた。
     愛情を重んじる女神はその意志を受け止めて、考えた。そして、答えを出した。

    「いいでしょう。あなたがあなたであることを忘れないように、わたしは見守っているわ。さあ、次で最後よ」

     もう一度ゴドルフィンは腕を振った。そしてまた、女性は光に包まれた。

  • 10◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:30:45

     二度目に目を開けた女性は、パドックからターフに立っていた。彼女が久しく立っていなかったレースの為の場へ。
     観客席はがらんどうで、その人々が生み出すざわめきや歓声はここにはない。

     存在するのは、勝負服をまとった彼女だけ。それと、もう一人。
     芝を踏みしめる音が聞こえてきて、その正体を予想しながら彼女が目を向ければ。
     勇敢を重んじる三女神の最後の一柱、ダーレーアラビアンがやって来る。

    「やあ! バイアリー、ゴドルフィンと来たら、もう俺しかいないよね」

     そのまま女性を上から下まで眺めると、うんうんと首肯する。少しばかり頭に視線を残しつつ。

    「うん、やっぱりこの場にふさわしい出で立ちだ。こんなに広い場所を走るんだから、動きやすい服装が一番、ってね」
    「さて、ここまで来たからには俺からも問題が出されるってことは分かっていると思う。そうだな……」

  • 11◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:31:15

     空を見上げて思案した女神は、その動きが不要だったかのようにすぐさま女性に目を合わせた。

    「この空間を構成しているのは、メガドリームサポーター。君はもう知っているけどさ」
    「ここにはウマ娘についての知識が全て詰まっていると言っていい。今に至るまで駆け抜けてきた多くのウマ娘たちのデータも」

     そこでダーレーは不敵に笑ってみせる。

    「強さを求めて、君らしくいようとする君は、誰と走りたい? 本人ではないけれど、限りなく本人に近い幻。でも、その実力は本物だ」
    「俺たち三女神? 君のかつてのライバルたち? それとも今の若人たちから? 何ならフルゲートだって構わない」
    「君が描く夢を、俺たちは手伝うよ」

     女性はじっと考え込んだ。体を震わせることも、顔を俯かせることもなく、レース場を見渡しながら。
     そして、ただ一人浮かんだ名前を女神に告げた。

  • 12◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:31:46

    「……ははっ、その子か! まさか君が挙げるなんて思わなかった!」

     ダーレーは一瞬、その名前を受け取り損ねた。いくらでも実力あるウマ娘はいるというのに、よりにもよってその子とは。
     いや、その子だからこそなのかもしれない。存在をデータと化すこの場でも、心の中までは見通せない。
     たった一言に込められたその想いに無意識にぞくぞくとしながら、ダーレーは指を鳴らした。

    「君、呼ばれたよ! 走りたかったらここにおいで!」

     女性と女神を挟んだ空間に光が満ちて、三人目がターフに現れた。
     女性よりも少し背が小さくて、彼女と瓜二つの顔立ちに、サイズこそ違えど同じ勝負服。この空間で一番年若い少女だった。

     女性は少女の姿を捉えて、じんわりと汗をかき始めた。本物の肉体はここにはないのに、それが生み出す緊張だけは何処までも本物に感じられる。
     幻のウマ娘。本物ではない筈なのに、完璧なまでにかつての本人そのものの立ち居振る舞い。

  • 13◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:32:17

     一番は、その目。負けることを少しも考えず、勝つことだけを目指す。走ること以外何も考えられなくて、すぐにでも両脚に全てを委ねたい。
     それらをみなぎらせている目を、女性は初めて受けていた。鏡も通さずに直接目にする彼女は、衝撃を受けていた。こんな目を、していたのかと。

    「君のご希望通り、この子を呼んだよ。でも、まだ今なら引き返してもいい」

     ここまで来てのまさかの提案に、女性はすぐさまダーレーに目を移した。そう見られながらも女神は飄々と言葉を続ける。

    「レースというのはウマ娘の走りと走りが競い合う場。時には怪我だってしてしまうし、そうやってぼろぼろになっても勝てないことだってよくある」
    「ましてやこの子の実力は俺も知っている。どれだけ勝利を重ねられたか分からない、皆を圧倒するような強さを持ったウマ娘」

     そこでダーレーは言葉を切って、女性を改めて見る。その目は確かに彼女を捉えていた。

    「完璧に負かされてしまうことを恐れる心を、俺たちは責めない。それでも、君は勇気をもって進む覚悟はあるかな?」

  • 14◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:32:47

     女性はもう、迷うことはなかった。彼女と女神の間で交わされる視線を、少女が横から観察している。
     少女の心は分からなくても、自分の心は分かる。迷いながらも考え抜き、ここまで来たのだから。
     だから、彼女はしっかりとダーレーに向き直り、力強く頷いた。

     勇敢を重んじる女神はその意志を受け止めて、考えた。そして、答えを出した。

    「いい目だ。走りたいレースは?」

     言葉少なに女神は問いかけた。それに合わせるかのように、女性もレースの名前だけを告げた。

    「よし。さあ、大舞台を用意しよう!」

     もう一度ダーレーは指を鳴らして、女性は三度光に包まれた。

  • 15◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:33:24

     最早慣れに近い景色が輪郭を取り戻していく様を、女性はただ見つめていた。気付けばスタンド前から奥の向こう側へと位置を移していた。
     目の前には仮想現実ならではの二人分だけのゲート。そして、自分であって自分ではない少女。

     お互いの間に今まで言葉はなかった。相手が何か言うことが出来るのか分からないし、話したいことも咄嗟には思いつかなかった。
     ひとりでにゲートが開かれて、走者を待ち構えている。それに合わせて、少女はゲートに入ろうとする。

     その後ろ姿を、女性は呼び止めた。少女は振り返って、不思議そうに見つめる。
     相手の言葉は求めていない。自ら話すことも求めていない。

     ただ女性は、少女に告げるだけだ。彼女の意志を、彼女の覚悟を。

  • 16◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:33:56

    「……勝負よ」

     その一言をすぐに耳に入れた少女は嬉しそうに耳を揺らし、やはり目で答えた。
     負けるつもりはない、勝つのは自分だと。

     それは同じだと、彼女も込めた。

  • 17◆zrJQn9eU.SDR23/06/18(日) 20:35:12

    とりあえず前半部分まで。
    全部で1万字を超えたので後半部分は明日の深夜投稿します。

  • 18二次元好きの匿名さん23/06/18(日) 20:38:04

    うお期待

  • 19二次元好きの匿名さん23/06/19(月) 00:11:17

    大作の予感……保守します

  • 20二次元好きの匿名さん23/06/19(月) 11:05:33

    保守

  • 21◆zrJQn9eU.SDR23/06/19(月) 19:32:19

    レスしてくださった方々ありがとうございます。
    日付変わったら投稿します。

  • 22◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:00:40

     スタンド側では観客はなく、代わりに三女神が最前列にいた。
     バイアリー、ゴドルフィン、ダーレーは口々にお互いの対応について話している。

    「……だから、バイアリーはつっけんどん過ぎるんだよ。何だよ、あの子を怖がらせちゃってさ」
    「何を言うか。厳しいものを課すことで己の成長の糧となるのだ」
    「まあまあ、ダーレーちゃん。そこまで言わなくてもいいんじゃないかしら?」
    「ゴドルフィン。ぶっきらぼうだと言ったこと、聞こえていたからな」
    「あら~。ごめんなさいね、バイアリーちゃん」
    「ええい、頭を撫でるな!」

     ゴドルフィンの手を振り払って、バイアリーがごほんと咳払いをした。

  • 23◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:01:10

    「大体、ダーレーがあれこれと世話をし過ぎだ。我々の中で一番時間をかけていたではないか」
    「仕方がないだろ? 相手の用意からコースの変更まで、ちゃんとやることはやっていたんだから」
    「そうね。ありがとう、ダーレーちゃん」
    「どうも……って、そういえばゴドルフィンはあっさりとしてたけど?」
    「そうだな。正直お前があの娘に色々と吹き込むものだと思っていた」

     二人から言われたゴドルフィンはゆったりと返す。

    「大丈夫よ。あの子はそこまで弱くはないもの」
    「だが……」
    「でもさ……」
    「二人とも心配性ね。何も、わたしひとりだけであの子を支え切れるなんて思っていないわ」
    「バイアリーちゃんにダーレーちゃん。ここに集められた子たちの知識。そして、何より」
    「一緒に走るあの子ではないあの子も、助けになってくれるわ」

  • 24◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:01:40

     そう言って遠くを見るゴドルフィンにをよそに、バイアリーが呟いた。

    「しかし、何故あの娘は今日ここに来た? 今までだって機会はあっただろうに」
    「そうね……ちょっと調べてみるわ」

     ゴドルフィンが眼前に手をかざして目を閉じる。少しして目を開いた。その表情は悲しげだった。

    「ああ……あの子にとっては、今日だったのよ」
    『今日?』

  • 25◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:02:11

     疑問を抱いたままの二人に彼女は得た情報を伝える。女性がアクセスしたのは日付が変わってしばらく経った時刻。
     昨日から過ぎた今日は、6月20日。彼女にとっては……

    「そうか。そういう、ことか」
    「じゃあ、あの子は……もう一度生まれようとしているんだな」
    「もう一度?」

     ダーレーは目を細めながら言う。

    「そう。昔々の今日、絶たれてしまったあの子が再び生きようとする為に。だから俺たちを訪ねてきたんだよ」
    「夢、幻。そういった表現をされる現実では掴みようがない何かを、ここで掴み取る為に」

  • 26◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:02:41

     二人の為のゲートが満たされて、スタートの合図を待つばかりとなった。
     女性が希望したのは、二人にとっては馴染みがなく、二人にとっては初めてのレース。

     二人のどちらにしてもそれを走ること自体に興奮を抑えられなかった。経験したことがない距離を走る為の時間が、あと少しで始まるのだから。
     少女はただそれだけで満たされていた。レースを走り、勝つ。それ以外の考えなど入る余地がないというように。

     しかし、女性の方は違っていた。ゲートに入ってからしきりに右脚を気にして、目にも手を当てている。
     傍目からでは傷など負っていないというのに、彼女は集中しきれていないようだった。

  • 27◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:03:11

     それでもスタートの準備に姿勢を正すと、彼女は隣の少女を盗み見た。
     ただ前だけを見つめている少女に、女性は目を奪われた。少女はかつての少女のままであり、手放すことになった未来を過ごしていない。
     とても、羨ましかった。

     ガコンとゲートが開かれたのは、その時だった。
     少女は待ち遠しくてたまらなかったというように飛び出した。女性は直前まで気が逸れていたというのもあったが、躊躇いながら飛び出した。

     たった二人だけが走るレースが、今始まった。

  • 28◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:03:41

    「出遅れたな」
    「やっぱり考えてしまうのね。隣のあの子ではないあの子は、あの時のままだから」
    「まあ、始まったばかりだからね。まだまだこれからさ」

     女神たちは物理的な距離を無視して二人を見守っていた。二人の細かい差異まではっきりと理解しながら言い合っている。

    「あの娘は何か気にしているようだ」
    「無理もないんじゃないかしら。負ってしまった傷の記憶の有無は大きいわ」
    「問題ないよ。ここは仮想現実、肉体は然程枷にはならない。じきに、ほら……」

  • 29◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:04:11

     少女が何も気にすることなく走り始めるのに対して、女性は絶えず右脚に目を向けていた。手も何度か目にあてがわれている。
     過剰なまでに右脚を庇い、何度も目を瞬かせて。彼女の意識は走ること以外に逸らされている。

     不安げな表情は暫しの間晴れなかったが、最初のコーナーまで来るとやがて何かを確信したようだった。
     そして、女性は顔を上げて前を見る。すぐに過ぎていく芝の道を、既に過ぎ去っている少女の姿を。

    「ここは現実であって、現実ではないから。相手も……自分も。ベストコンディションっていうわけだ」

     最初に出来た差の距離そのままに、二人はスタンド前を駆けていく。歓声はないがそれを二人が気にする様子はない。
     直線を走り抜けていく二人を三女神は右から左へと見送る。

  • 30◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:04:42

    「飛ばし過ぎては、いないようだね」
    「当然だ。3000mの長距離を最初から全力では身が持たないだろう」
    「でも、不安はあるでしょうね」

     ゴドルフィンが眉を下げる様子に二人が気付く。

    「昔のあの子と、今のあの子。どちらにとっても初めての距離よ。走り……切れるかしら?」
    「それは分からないな。特に今の彼女にとっては、あまりにもブランクの期間が長過ぎた。ろくに心も体もも慣らせていないようだし」
    「だが、そんな言い訳をする性根ではないだろう。あの娘の気概は……」

     諦めることなどしない。言葉にこそしなかったものの、三人が共通して抱いた認識だった。
     三女神の反応を知ることなく、二人は第1コーナーから第2コーナーへと差し掛かる。

  • 31◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:05:13

     女性は既に肩で息をし始めていた。データで再現した場である以上、現実以上に体力を消耗したりはしない。
     そうであるからこそ、彼女も現実では有り得ない距離を走れているのだ。ほんの少しならまだしも、今の時点でもう倒れていることだろう。

     女性が息切れし始めているのは、肉体面よりも精神面が原因だった。彼女にとって、競争人生から離れていた時間は長過ぎた。
     仮初の走れる状態に慣れることなく、文字通りのぶっつけ本番。容易にこなせという方が無茶だった。

     だからといって、女性は自分が慣れる時間を欲しなかった。それを求めてしまえば、いつまでもその時間に縋りついてしまいそうだったから。
     毎夜、毎夜訪れての甘美な時間。それに浸ることを、彼女は良しとしなかった。

     この抑えきれない感情そのままに先を行く少女に挑むこと。それこそが自分が勝利を得る唯一の可能性だということを悟っていた。
     今まで眠っていた内側に、彼女は熱い呼気をくべた。

  • 32◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:05:47

     向こう正面に入って少しすると、女性が少女との差を徐々に縮める。前者のスピードが上がったのか、後者のスピードが下がったのか。
     そのまま差がなくなるかと思いきや、二人の前には一度通り過ぎた坂がまた待ち構えていた。

     彼女たちが生まれる前から健在のコースは変わらずに二人を受け入れる。
     女性はすぐに表情を険しくする。平坦な道ならともかく、高低差はそのまま彼女の体力を奪ってくる。

     それは少女の方も同じ条件。彼女のように苦しむ様子を、しかし少女は見せなかった。
     少女は笑っていた。嬉しくて、楽しくて、たまらない。そう言わんばかりの笑顔を溢れさせていた。

     女性はまた衝撃を受け、それでもこういう性格だったとすんなりと理解していた。こうやって、走っていたのだと。
     まさしく、女性にとって少女は完璧なまでに出来過ぎたドッペルゲンガー。それに加えて、影の筈なのにあまりにも眩し過ぎた。
     太陽のように彼女を焼き、月のように彼女を照らす。そのある意味では道しるべの少女は、かと思えば容赦なく自分の実力を余すことなく見せつけてくる。

  • 33◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:06:40

     ふと、女性の脳裏によぎった。このまま、負けてしまうの?
     それもまた、ひとつの結果だ。勝負である以上、決まってしまうことは避けられない。
     この場を用意してくれた三女神だって、健闘を称えてくれるだろう。もしかしたら、先を行くあの子だって。

     そこで、女性の右脚が地面を踏み込んだ感覚を伝えてくる。全身を貫く痛みは、少しもない。
     彼女の目が眼前の全てを捉える。今も走っている坂を、一度も後ろに下がらない少女を。

     そうだ、あの子は後ろにはいない。振り向くことだってしない。いつだって、どんな時だって、前を目指して。
     女性はもう少女のようには生きられない。少女よりも長く生き、多くを考えてしまう程には時が経っていた。

     それならば、彼女は彼女の走りをするだけだ。絶対に勝てるとは言えない。それでも、勝つことを諦めずに。
     ばらばらだった彼女の欠片を、ひとつに集めて。


     彼女は、ようやく彼女の速さを手にした。

  • 34◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:07:13

    「そう、生きている限り成長は可能だ」
    「だって、あなたはここにいるから」
    「君の人生の叡智は、君の力になってくれる」

     三女神はあくまで支えるだけ。それは、何者にも? それは、諦めない者だけに。
     諦めきれずに執着し、諦めずに走るウマ娘に、彼女たちは一声だけ発した。

  • 35◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:07:44

     
     
     
    『いけ!』
     
     

  • 36◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:08:25

     第3コーナー、第4コーナーを二人は抜けていく。坂やここまでの距離による疲労は無視出来ない筈なのに、二人の脚は止まらない。
     むしろ、女性の脚はより速さを生み出している。少女との差は広がることなく、狭まっていく。

     一周に加えて、最後の直線。後は遠くに見えているゴール板を通り過ぎるだけ。
     女性も少女も、肩で息をしている。フォームも整ったものとはいえず、それで速さを保てているのが不思議でならない。

     そんなぼろぼろの状態でも、二人の目は輝いていた。そこに走ることを止める考えは見当たらない。
     とうとう二人の差がなくなり、並び走る。それでもお互いにお互いを見ることなく、二人は前だけを見ている。
     彼女がかつての彼女に完璧に重なり、三女神からはただひとりが走っているように見えた。

  • 37◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:08:55

     しかし、その像はすぐに崩れる。一致していた二つの実像が少しずつはみ出して、それぞれ動き出すような。
     一歩抜きんでた実体が、もう一方と差を生み出す。もう一方が追い付こうと一歩を踏み出せば、さらにもう一歩。

     縮まった筈の差が、新たな差として生まれていく。先を行く彼女は振り返ることはない。

     ゴール板がどんどん迫ってくる。それだけに囚われることなく、二人は視界いっぱいにターフを捉える。
     二人が走ってきた道、二人が走り抜ける道。それを何度も繰り返してきた彼女たちは、それぞれの身体を最高の速さに乗せる。
     どちらが先だったのか、二人が叫ぶ。走りに合わせるかのような荒々しい音が、喉から流れ出ていく。

  • 38◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:09:26

     ゴールまであと5秒。

     4秒。

     3秒。

     2秒。

     1秒。

     そして。

  • 39◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:09:57

     
     
     
     彼女は、駆け抜けた。
     
     

  • 40◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:10:41

     女性は、すぐに止まってしまっていた。体中の熱で頭がぼうっとし、膝をついてしまう。自分が勝ったのか負けたのか、確認することも出来ない。
     彼女に、影が射した。ゆっくりと顔を上げて見れば、肩を上下させている彼女に似た少女の姿があった。

     少女の表情は、陰っていた。悲しい、悔しい、そんな色の感情が浮かんでいた。
     しかし、それはすぐに掻き消え、次いでにっこりと笑顔になっていた。

     今までの勝気なものとは違う。にいっと歯を見せて笑う、幼い子供じみたものだった。
     女性が呆然としていると、少女は相手が何も理解していないことに気付いてきょとんとする。

     また笑みを作って軽く女性の腕を叩いた。さらに、唇の形をいくつか変えた。
     
     
     おめでとう。

  • 41◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:11:14

     声なき言葉を贈った少女は、相手の返答も待たずに現れた時と同じように光の中に消えていった。ターフに残されたのは、女性だけ。
     残された彼女は、たった今消えた少女の言葉を少しの時間をかけて理解した。

     彼女は恐る恐るといった様子で、自分が走り切ったコースを見渡す。ほんの数分前にスタートしたレース。その軌跡も、熱気も、未だ消えていない。
     彼女は彼女自身を懸けて、駆けたのだ。

     そのことをようやく彼女は実感した。そして、脚から力が抜けてへたり込んだ。
     彼女の体は徐々に震え始める。立ち上がろうとしても、生まれたばかりの動物のように何度も地面に座ってしまう。

  • 42◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:11:45

     何処かへ行くことも出来ずに、彼女の目からは涙が流れていた。
     その意味を、彼女は理解出来なかった。あれ程焦がれていたレース、あれ程望んでいた勝利。
     それは喜ばしいことなのに、笑うことが難しい。消えてしまったあの子は、笑っていたというのに。

     彼女は身体の内から溢れるものを、止められずにいた。何年分もの溜められた感情が、この空間に散らばっていく。
     かつて大切なものを零してしまったターフに、新たに彼女は零していく。

     口を押さえても意味がなく、とうとう彼女は自分を抱きしめる他なかった。子供よりも幼い、赤子の産声のような泣き方。
     それこそが、今の彼女が自分の想いを訴える唯一の手段だった。
     空に向かって、彼女は泣きじゃくる。

     三女神はその場を動かず、ただ彼女を見守っていた。
     魔法にも似た手段で泣き止ませることは容易ではあるし、そんなことをしなくても傍にいるだけで落ち着かせることが可能だろう。
     ただ、女神たちはそうしなかった。彼女たちは見守るだけだ。

  • 43◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:12:15

     彼女はついに、夢を叶えた。絶たれてしまった過去を、今多くに支えられて、再び繋いだ。
     だからといって、彼女は取り戻せたわけではない。過去は過去のままで、現実に戻ればやはり彼女の体は彼女のままだろう。

     それなら、この出来事は無駄だった? 彼女の人生において、何の意味もなかった?
     いいえ。たとえ昔のようになれなくても、彼女なりの生き方は可能よ。少なくとも、彼女は幻のままでは終わらなかったもの。

     今日は、彼女が終わった日だったさ。でも、今日からは彼女が始まる日だ。
     幻から、現へ。世界が変わっても、今日得たものは彼女の中から消えることはない。
     彼女の時間は、また進み始める。

  • 44◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:12:47

     
     
     
     時を越えて、ようやく彼女の時は実ったのだから。
     
     

  • 45◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 00:15:10

    以上です。たづなさんに関係があると思われる競走馬を調べた時に、6月20日に投稿したいと考えていました。
    ただ予想以上の分量になったので、どうしても20日に投稿したかった後半部分以外を事前に投稿しました。
    ハートやレスをくださった方々をお待たせしてすみませんでした。

  • 46二次元好きの匿名さん23/06/20(火) 01:14:09

    >>17

    読み終わったが感想がまとまらない…

    面白かった ありがとう

  • 47◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 12:00:14

    >>46

    読んでいただきありがとうございます。感想があると書いてよかったなと思います。

  • 48◆zrJQn9eU.SDR23/06/20(火) 20:15:13

オススメ

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