私と、お付き合いしていただけないでしょうか?

  • 1◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:20:41

    【旅のはじまりに香る茉莉花】

     まだ少し肌寒い春の季節。暖房の効いたトレーナー室に、ジャスミンティーの匂いが香る。

    「ジャスミンティー、ですか?」
    「そう。……俺にとっては、君を見送る前に飲むものだからね」

     レース前の控室、ルーティンとして必ずジャスミンティーをいただいていた。勝負の前に不安や昂りで落ち着かない心を静める為に。
     けれど私のルーティンは、共にいたトレーナーさんにとっては違う意味になっていたようで。

    「君が卒業してしまうから、少しでも思い出に浸りたかったのかな……」

     もの寂しげな表情を浮かべながらジャスミンティーをひと口含んだ後、ソーサーに置かれたティーカップの音が響く。

    「……この部屋も寂しくなるね」
    「……私が卒業しても、新たにウマ娘を担当するようになれば自ずと賑やかになりますよ」

     トレーナーさんと共に駆け抜けたトゥインクルシリーズ。URAファイナルズでは惜しくも敗退してしまったけれど、歴史に一筋、生きた証を残す事は出来たと思う。

    「そうだね。……そっか、次担当する子か」

     最初の3年間を終えた後はチームを持つという選択肢もあったはずなのに、私を担当している間は新たにウマ娘と契約をすることもなく、専属トレーナーとしてあり続けてくれた。
     ただでさえ他のウマ娘よりも怪我をするリスクのある私を担当するということは、それだけ負担になっていたはず。ずっと専属トレーナーだったのは、きっと、私の為。

    「……決めておられないのですか?」
    「君が卒業するまでは、どうにもね。トレーナーとしてはダメなのかもしれないけど、次に担当する子にも輝かしい成績を、とはイマイチ気が向いていないかな……」

  • 2◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:20:51

     トレーナーさんから選抜レースを見に行くなどの話を聞いたことはなかったけれど。
     まさか今の今まで次に担当するウマ娘の事を考えていなかっただなんて思いもしなかった。

    「トレーナーさんなら、引く手数多だと思いますが」

     私のように、体質的に怪我をしやすいウマ娘からしてみれば是非とも担当して欲しいはず。
     トレーナーさんからスカウトせずとも、そういったウマ娘からトレーナー契約の打診が来ても不思議ではない。

    「ははっ、そうだと嬉しいね」

     謙遜されているけど、私の考えは間違いではないと思う。
     私の競走生活は終わってしまったけれど、トレーナーさんなら次に担当するウマ娘とも輝けるはずだから。

    「……顔色が優れないけど、大丈夫?」
    「いえ、体調が優れないという訳ではないのです。ただ……少々、寂しさを感じておりまして」

     トレーナーさんにとって初めての担当ウマ娘は確かに私ではある。
     けれどこれから何十年とトレーナーとしてウマ娘を導いていくのだから、私だけのトレーナーさんじゃない、って。
     分かっていたはずなのに、貴方の中の私が薄れてしまうんじゃないか、と。どうしようもない寂寥という霧が心を満たす。

    「……あまり暗い話をしていても仕方ないね。アルダンは卒業したら本格的に絵を描いてみるんだっけ」
    「画家というほど大したものではありませんが。父が勧めてくれて。経済的な心配はいらないからやってみなさい、と」

     体の弱い私にあまり無理をさせたくない両親は、卒業後の進路に関してそれとなく、就職という道を選ばなくてもいいと促してきた。
     私自身も無事に競争生活を終えることが出来て。これ以上心配を掛けたくないとも思ったから。父に勧められたとおり、卒業後は本格的に絵を描いてみようと思った。

  • 3◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:21:02

    「それとボランティア団体に所属、か」
    「はい。以前学園主催のボランティアで病院を訪問した際の経験を忘れられなくて。私でも、病床に伏せる子どもたちに希望を届けられたら、と」
    「ああ。出来るよ、君になら」

     私のように、病床に伏せ、白い世界で過ごす子どもたちに少しでも彩りを与えられたら。踏み出す勇気と、踏み出せる希望を届けられたら。
     ……今まさに、踏み出す勇気がない私がそれを届けたいだなんて、なんて皮肉なのかしら。

    (本当に、出来るでしょうか?)

     踏み出したい、貴方の側に。貴方の隣に。けれどそれが過ぎた願いだなんて、私が一番良く知っているから。

    「大丈夫。君はもっと、自分の事を信じてあげてもいいんだよ」

     不安に揺れる私の瞳を、真っ直ぐ見据えて。紡がれる言葉はとても優しくて。
     今だけではなく、この先も側に居たい。そんな思いばかりが白雪のように積もっていく。
     けれど積もる想いが解け、零れることは許されない。だってこの願いは。
     貴方の自由を、未来を。奪ってしまうのかもしれないのだから。

    「はい。……きっと、届けてみせます」

     貴方の幸せを願うなら、これでいい。
     気づけば手元のジャスミンティーは空になっていて。無性に、部屋を出なければいけない思いに駆られる。

    「トレーナーさん。改めて、トゥインクルシリーズを駆け抜けた数年間、お世話になりました」

     立ち上がり一礼すると、遅れて立ち上がったトレーナーさんから右手を差し出された。

    「いや、俺の方こそ。ありがとう、俺と共に歩んでくれて」

  • 4◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:21:13

     その手を両の手で包み込むように握手を交わす。ウマ娘と、そのトレーナーとして。
     “今”がずっと続けばいいのに。そう思っていても時は容赦なく流れていく。
     交わした手が解かれる間際。緩めなければいけない手を、強く。引き留めるように握ってしまった。
     理性では手を離さなければいけないと分かっているのに。感情が、それを許してくれない。
     きっと心配をかけてしまうから。涙だけは流すまいと、口を真一文字に結び。顔を見たら辛くなるから瞳を下に逸らす。

    「……そんなに、我慢しなくてもいいんだよ」

     そう呟かれたと思った瞬間、握る手に再び力が篭り、空いている方の手で胸元へと抱き寄せられた。

    「っ!」

     泣かないつもりだったのに、きつく目を閉じているにも関わらず瞳から雫が零れ落ちていく。
     気づけばトレーナーさんの手を強く握っていた両の手も、胸元に縋るようにしがみつき。嗚咽すら漏れてしまいそう。
     あやすように背中を擦られているせいで、それも時間の問題かもしれない。

    「……またいつでも会えるよ」
    「……はい」
    「会いたくなったら、会いにおいで」
    「……はいっ」

     いつでも会える。本来なら安堵が漏れ出ても不思議じゃない。
     それなのに涙が零れ続けるのは、伝えなければいけない想いがそこにあったのに。臆病な心が、ひび割れてしまいそうだったのでしょうか。

  • 5◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:21:25

     トレセン学園を卒業してからというもの。トレーナーさんには会いに行けてない。
     『いつでも会える』とは言ってくれたけど、きっとトレーナーさんにも、新しい担当ウマ娘の子にも迷惑になってしまうだろうから。
     そう思っているうちに、連絡を取る事すら出来なくなっていた。
     時間が出来ればしてみたかった史跡や勝景を巡る旅でも、埋める事の出来ない寂寞。
     むしろ、隣に居て欲しい人が居ない事実を突きつけられているようで。どんなに素晴らしい景色も、色褪せて見えてしまっていて。
     そうして1年以上が経ってしまった1月。今日は今度行われる病院訪問のボランティアがトレセン学園と共同な為、その打ち合わせで久方ぶりにトレセン学園へと訪れていた。
     少し前までここに通ってターフを駆け抜けていた事を思うと、当時の練習風景をなんとなく思い出して。

    「トレーナーさんもいらっしゃるかしら……」

     コースの外でウマ娘を見守るトレーナーさん達を眺めてみるも、目的の人物は見当たらない。

    「……そう都合良くはいかないものね」

     もしかしたら。会えるんじゃないかという淡い期待は泡のように溶けていく。
     生来から、運が良いとはあまり言えない自覚はあるから。
     期待するだけ辛くなると分かっていたのに、そうせずにはいられなかった。

    (……ダメね。大体理由なんてなくても素直に会いに行けばいいのに)

     別に今日会えなかったからと言って一生会えない訳じゃない。私が、会えない理由を探しているだけなのかもしれない。
     なんとなく今ここにいることに後ろめたさを感じてしまった。学園をそそくさと立ち去り、帰路に着こうと思ったもののふと思いつく。

  • 6◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:21:37

    「……少しだけ寄り道して帰ろうかしら」

     迎えを呼べばすぐにでもお屋敷に帰ることは出来るけれど、そうはせず。
     学生時代のように、商店街へと寄り道をしてみることにした。
     特に目的があったわけじゃないけど、なんとなく何も買わないのは寂しい気がして。
     少しだけ買い物をすると福引きの補助券が2枚ほど付いてきた。

    「あの時は確かにんじん一本だったわよね……」

     学生時代、シニア級に入った年にもトレーナーさんと福引きに挑戦した。
     結果は三等のにんじん一本と振るわなかったけれど。それでも一緒に回せて楽しかったことはよく覚えている。

    「……帰りましょうか」

     私が持っている券だけでは一回分にも満たない。かと言って回す為だけに新たに買い物をする気にもなれなくて。
     そのまま帰ろうとした時、背中から──。

    「……アルダン?」

     今日は会えないと思っていた、望外の響き。

    「トレーナー、さん?」

     1年以上聞いていなかった声に驚き振り向くと、買い物帰りだったであろう荷物を片手にトレーナーさんが佇んでいた。

  • 7◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:21:50

    「偶然だね」
    「はい……本当に」

     会って話したいことは、会えなかった時間でたくさん増えていたはず。
     それなのに言葉一つ出てこない。何を、話せばいいのでしょう。

    「今はこっちに戻って来てるの?」
    「はい。今度のボランティアで病院へ訪問する際、トレセン学園の生徒の方々にもお手伝いしていただきますので。本日はその打ち合わせで」
    「そっか。そういえば最近ボランティアに参加する生徒を募集してたもんな……」

     私から話すべきことは何も思いつかないけど。幸いにも受け答えくらいなら口は動いてくれる。

    「そうだ、アルダン。アルダンも買い物帰りみたいだけど福引きの補助券は貰った?」
    「はい。私が貰ったものだけでは足りないですけど」
    「ちなみに後何枚補助券があったら回せる?」
    「私が貰ったのは2枚ですので後3枚あれば、一回分にはなるかと」

     私の言葉にトレーナーさんが目を見開く。そして唐突にお財布を取り出したかと思うと、中から買い物で貰ったであろう福引きの補助券を取り出した。
     私のものと合わせればちょうど一回回せる、3枚分。

    「……凄い偶然だね。これで一回分だ。じゃあこれはアルダンにあげるから──」
    「一緒に、回しませんか?」

     このまま受け取ってしまうと、そのまま貴方が立ち去ってしまうような気がして。
     引き留めるかのように、咄嗟に言葉が口をついて出た。

  • 8◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:22:02

    「……そうだね、そうしようか。2年前のリベンジだな」
    「にんじん一本でも、当たりは当たりでしたよ?」

     話しながら福引きの待機列にふたりで並ぶ。

    「まあ君と半分に分け合ったのもいい思い出だけどね。でも回すからにはもっと上を目指したくないか?」
    「そうですね。では、一等や二等が当たればこの後一緒に夕食など。如何でしょう?」
    「いいのかい?」
    「はい。補助券も、私のものよりトレーナーさんの枚数の方が多いですから」


     少しだけ待って、私たちの番がやってきた。幸いと言うべきか、1等や2等の本数は残っているみたい。
     それと……特賞も。流石にそちらは出ないと思うけれど。

    「私が回してよろしいのですか? 運にはあまり自信がないのですけれど……」
    「2年前は三等だったことを気にしてる? 大丈夫だよ。自信を持って」
    「……はい」

     会えないと思っていたトレーナーさんにも会えて。福引き券だって、合わせて一回分だった。
     普段は運の良さに自信はないけれど、今日だけは、何か良いことがあるような気がして。
     そんな、不思議な自信とともにレバーに手を掛け抽選器を回すと。金色の珠が、ころんと受け皿に転がった。

    「なんとっ! おめでとうございまぁぁぁす! 特賞『温泉旅行券』、出ましたぁ〜!」

     カランカランと鳴らされる鐘の音とともに、大きな声で告げられた福引きの結果。

    「……うそ」

     なんとなく、運が良い日。そうは思っていたけど、まさか本当に特賞が引けるだなんて思いもしなかった。
     どうすればいいか分からずトレーナーさんの方を見るも、私と同じように今起きている事に思考が追いついていない様子。

  • 9◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:22:13

    「……はっ!? やったなアルダン!」
    「は、はいっ。ありがとうございますっ」

     一足先に我に返ったトレーナーさんが喜びを露わにする。
     私の方は未だにどう喜べばいいのか分からなくて。返事も浮ついたものになってしまった。
     夢見心地のまま温泉旅行券を受け取り、実物が目の前にあるというのに未だに信じられない。


    「どこの温泉なのかな?」
    「す、すみません。まさか特賞を当てられるとは思っておらず、少し、思考が止まっていました。こちらみたいです」

     口頭で説明するよりも景品を直接見せた方が早いと思い手渡す。

    「へぇ~。結構有名なところだね。俺でも知ってるよ」
    「そうですね。私も実際に行ったことはありませんので、いい機会になりそうです」

     メジロ家の皆と旅行する機会もあるけれど、その場合は海外な事が多く、国内で行った事のない場所もたくさんある。
     先程までは行き先が何処なのかも気にする余裕がなかったけれど、ようやく思考も取り戻せてきた。

    「ペアの温泉旅行券……2泊3日か……アルダン、誰か一緒に行きたい人はいたりする?」

     何故、そのような疑問を口にされたのかは考えなくても分かる。
     ペアチケットなのだから、今この場にいる私とトレーナーさんで行けばいい、なんて話になるわけがない。
     交際していない女性を男性から温泉旅行に誘うだなんて、下心があると捉えられてしまう。
     そう考えるとトレーナーさんからは誘いづらいに決まっている。
     だから、私から。“今”繋ぎ止めないと、手が届かない程に離れてしまいそうな気がして。その先を、手渡す。

  • 10◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:22:23

    「トレーナーさん、その。近く、都合のいい日はあるでしょうか?」
    「……えっと。それはつまり?」
    「はい。トレーナーさんと一緒に。行きたいです、温泉旅行」

     例え私から誘った事だとしても。交際もしていない男女で温泉旅行に行くというのは、褒められたものじゃないという事は分かってる。
     それでも、この縁を繋ぎ止めたくて。
     はしたない行動だとしても、形振り構っていられる程私の心に余裕はなかった。

    「……うん。分かった。都合の良さそうな日がわかったらまた連絡するよ」

     しばしの沈黙の後、再び口が開かれると了承が返ってきた。特賞を当てた瞬間よりも胸が高鳴る。
     けれど私から誘っておきながら、無理に私の都合に合わせてくれているのでは? と少し不安に駆られた。

    「……その、本当によろしいのですか? 今担当されている子だっているでしょう?」
    「いや、今担当してる子はいないよ?」

     私の担当ではなくなってからもう2年が経とうかという時期。
     それなのに未だ新しく担当ウマ娘を持っていない、というのは少し気になる。トレーナーさんなら引く手数多でしょうに。

    「だから、心配しなくても時間の都合はつけられるよ」

  • 11◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:22:35

     しかしながら私にとっては好都合だったというのも事実。
     きっとトレーナーさんが担当ウマ娘を新しく持つようになっていたら、断られていただろうから。

    「じゃあその券は君に預けておくよ」
    「はい。確かに」
    「……どうしようか? 流石に俺も特賞までは考えてなかったんだけど。この流れでそのまま解散、というのも味気ないよね?」

     並んでいる時に話していたのは一等や二等が当たった時の事。
     景品が食べ物だから、一緒に食べましょうというのは自然な流れだから。
     けれどどうせなら。理由などなくても一緒に食事がしたい。
     会わなかった時間、話したいことは積もるほどに増えているから。

    「景品ではないけど、この後食事でもどうかな? 久し振りに会えたんだ。君の話が聞きたい」

     きっと、トレーナーさんも同じ気持ちだったのだと思う。刹那すら感じさせない勢いで食事の提案を受け入れる。

    「では、是非♪」

     止まっていた時が、動き始めたような1日だった。

  • 12◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:22:45

     お互いの都合を擦り合わせた結果、温泉旅行は3月の頭に行くことになった。
     それまでの日々は今まで会わなかったことが嘘のように、LANEでメッセージのやり取りを毎日するようになっていた。
     日によっては、トレーナーさんから通話もしてくれて。
     どうして、今まで遠ざけていたのだろう。
     もっと素直に、自分に正直になっていれば、想い、苦しむことなどなかったのかもしれないのに。
     そしてあっという間に旅行当日となり。
     新幹線や船での移動を重ねて、長旅の末旅館まで辿り着いた。ロビーで受付を済ませて、客室まで案内される。

    「夕食の後にでも少しだけこの辺りを見て回ろうか? ゆっくり温泉街を見て回れるのは今日と明後日の帰る前くらいだろうし」
    「ええ、そうしましょうか」

     6時間以上移動した後の為、流石にすぐに観光、という気分にはなれそうにないのはトレーナーさんも同じなようで。
     夕食をいただいて、温泉に浸かって。まずは、旅の疲れを癒やしてから。
     荷物を置いて、互いになんとなく、椅子のある広縁で休もうと足を向ける。
     トレーナーさんが先に椅子に掛けると、ふと物足りなさを感じて言葉が出た。

    「……お茶を淹れましょうか」
    「ごめん、気を遣わせてしまって」
    「いいえ。長旅でお疲れでしょうし、トレーナーさんは寛いでいてくださいませ」
    「それは君も……いや、お願い出来るかな?」

     先に座ってしまった状況と、こういった場面で私が引くはずがないという経験からか。
     あっさりと引き下がってくれたのでお湯を湧かせつつ、茶櫃を開けると茉莉花茶と書かれたティーバッグが入っていた。
     ……広く知られている名は、ジャスミンティー。

    (……懐かしい)

  • 13◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:22:56

     普通の緑茶も入っていたのだけれど、無意識にそちらを選んでしまう。
     お茶を淹れ終えて広縁の方に運ぼうとすると、香りで気付いたであろうトレーナーさんと視線が交わる。

    「……ジャスミンティーとは、懐かしいね」

     ルーティンとして飲んでいたジャスミンティーは、私たちにとっては思い出の味と、そして香り。

    「……そうですね。レースの前には、必ずいただいていましたから」

     トレーナーさんにとっては、見送る時に飲むものだったのかもしれない。
     けれど私にとって、この味と、香りは。

    「トレーナーさん。少し、お話したいことが」

     ──勝負に赴くためのものだから。

    「そっか。“今”なんだね」
    「はい。“今”です」

     この後の観光を考えれば、旅の終わりに伝えるべきなのかもしれない。
     楽しい旅を終えて、ふたりの気持ちが近づいてからの方がいいのかもしれない。
     けれど、本来なら卒業式の日に伝えておくべきだった言葉。
     これ以上先延ばしにするだなんて、“今”を大事にしていた私が聞いて呆れる。

    「……っ」

     それなのに、景色が遠のく。色が褪せていく。
     貴方が私を拒絶することなんて有りはしないのに。付き纏うのは私が枷となってしまう未来。
     貴方が隣にいてくれる未来が、霧のように隠されてしまう。

  • 14◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:23:06

    「アルダン」
    「は、はい」
    「俺は、いつだって君のことを信じ続けてきたよ」

     分かっています。貴方が私を信頼してくれているのは。けれど──。

    「だから君も、自分の事を信じてあげて?」

    (私が、私を……?)

     ──ああ、ようやく気付けた。卒業式の日の、言葉の意味。
     払うことの出来ない、霧の正体。こんなにも簡単だったのに、ずっと分からないでいた。

    「私、ずっと後悔していたんです」

     分かってしまったのなら、後は言葉にするだけ。大丈夫。私は、ただ信じればいい。

    「卒業式の日、貴方に想いを伝えなかったことを」

     貴方と、そして私の未来を。

    「卒業してからの貴方のいない日々は彩りがなくて。まるで病室の中にいるみたいに、何をしてもモノクロみたいに感じてしまって」

     体が弱いのだからと言われ続けて。いつの日か、周りからそう思われているのだと。私自身が思い込んでしまっていた。

    「いつかしてみたかった史跡や勝景巡りも。隣に居ない貴方のことばかり考えていて。貴方と巡ることが出来たらもっと心が弾んでいたのに、と」

     きっとそれは、私が私自身にかけてしまった呪い。

  • 15◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:23:17

    「昨年の末、チヨノオーさんにお会いした時にも言われたんです。『昔のアルダンさんに戻ったみたい』って」

     そんな呪いを解いてくれる人と、私は出会っていた。

    「……貴方が、居なかったから」

     だからもう、手放さない。

    「他人と比べれば、余りにも脆い体をしているのだから。いつか、貴方を不幸にしてしまうかもしれない。けれど、それでも。貴方の未来を奪ってしまうかもしれなくても。この気持ちだけは偽れなくて」

     誰よりも私の事を信じていなかったのは、私自身。

    「……貴方の枷にはなりたくなくて。ずっと、我慢してきたんです。貴方が幸せなら、それでいいと」

     そして、誰よりも私を信じてくれた人は。

    「……それでは、ダメだったのですね」

     貴方だったから。

    「貴方が、傍に居て欲しい。この先も。今だけでは、足りないのです」

     だから、これでいいんですよね?

    「私と、お付き合いしていただけないでしょうか?」

  • 16◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:23:28

     静寂の間に漂うのは、ジャスミンティーの香り。私の言葉からどれくらいの時間が経ったのか分からない。
     けれど貴方の返事を待つことに不安なんてない。だって貴方なら、この香りを『永すぎた春』になんてしないのだから。

    「本当は……あの日から期待していたのかもしれないね。いつか、君から想いを打ち明けてくれる日を」

     独り言のように呟いた後、ひと口、ジャスミンティーを含むとかつての思い出を懐かしむように目を細める。

    「いつだって、見送った後は無事に帰ってきてくれたから」

     ことり、と。テーブルに湯呑が置かれた後、私と、トレーナーさんの視線が重なる。

    「多分、君を好きになったのは出会った時から」

     貴方だったら、必ず応えてくれると。信じ、疑ってなどいなかったのに。響いた言葉は、心に届いて頬を伝う。

    「一目惚れと言ったら軽率に思われるかもしれないけど。落としたタブレットを拾った時から。この子になら、俺のトレーナーとしての人生、全てを捧げていいと思えた」

     長い、長い回り道だったのかもしれない。寄り道をし過ぎたのかもしれない。

    「君が奪う必要なんて最初からないんだよ。俺が、君に捧げるんだから」

     それでも、道は交わってくれたから。

    「アルダン。君の描く未来に、どうか俺も描き加えてほしい」
    「……はい」

     新雪のような道行きが、確かに色づき始めた。

  • 17◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:23:42

    ~Epilogue~

    「そろそろ温泉街の方に行ってみようか? 身体、冷やさないようにね」
    「ええ、そうですね。からくり時計、見るのが楽しみです♪」

     夕食をいただいて、温泉に浸かった後。予定通り温泉街の方に赴く。
     三月初旬の夜の空気はまだまだ冷たく、浴衣に上着を羽織って並び歩く。

    「そういえばアルダン、君にはまだ伝えてなかったけど良い機会だし伝えておくよ」
    「はい、なんでしょうか?」
    「俺、来年度からリハビリ専門のトレーナーに転向するんだよ」

     からくり時計が動く、長針が12の数字を差すのを待っている間。
     まるでなんでもない事のように、衝撃の事実が告げられる。

    「えっと……」

     呆気に取られ、上手く言葉が出てこない。
     けれどそれなら担当ウマ娘を持っていない事にも納得がいく。

    「君が卒業してからもどうしても君とのトゥインクルシリーズが忘れられなくて。それでまあ、長い間担当を持っていないと逆スカウト、みたいな感じかな。君の担当だった頃の評判を聞いたウマ娘から怪我をしない為のトレーニングとか。軽い怪我をしてしまった後のフォローとかを教えてるうちにこっちの道もいいな、って思うようになって」
    「それで、担当ウマ娘を持っておられなかった、と」
    「そういう事。幸い理事長にも学園で務めて欲しいと声を掛けて貰えたから、トレセン学園所属なのは変わらないけどね。……それでなんだけど。専属のトレーナーとか、チームを運営する訳じゃないから」

  • 18◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:23:54

     少しだけ、歯切れ悪く。恥ずかしさを滲ませて言葉は続けられる。

    「だから、君と一緒に史跡や勝景を見に行く時間もしっかり取れると思う」
    「……ずるい人」

     返す言葉は、見つからなかった。代わりに気持ちだけでも伝わって欲しいと、トレーナーさんの手に指を絡ませる。
     互いに無言のままからくり時計が動くところを見終えて。もう少しだけ温泉街を練り歩く。

    「……明日はどこに行こうか? 見て回りたい場所、たくさんあるんでしょ?」
    「そうですね……ガラス美術館があるみたいですしそちらには行ってみたいですね。それとお城の方にも興味を惹かれます。後はこの土地の領主だった方の洋館も……」
    「一日じゃ回り切れそうにないね……」
    「ええ。ですので、行きたい場所を吟味しなければなりませんね」
    「そうだね。それでも回りたい場所がまだあったら……また、ふたりで来よう」

     ────ああ、そうだった。もう、“今”を焦る必要なんて、どこにもない。

    「明日回り切れなくたって、また、何度でも。だって俺たちには、そう出来るだけの未来がある。そうでしょ?」
    「……はい」

     重なった道行きに、ひとつずつ、足跡を残していく。
     今は少なくても、いつの日か。振り返った時に思い出せるように、大切に。

    「もう少しだけ見て回ったら旅館の方に戻ろうか? お土産とかも買っておく?」
    「慌てて選ぶ事にはなりたくないですし、それもいいかもしれませんね。こちらで作られるタオルは手触りがいいと聞きますので、いくつかメジロの子達に送ろうかと」

     だってここからが、ふたりの旅のはじまりなのだから。

  • 19◆y6O8WzjYAE23/06/18(日) 23:24:11

    みたいな話が読みたいので誰か書いてください。

  • 20二次元好きの匿名さん23/06/18(日) 23:26:05

    >>19

    今私が読んだのは一体何なんですか?

  • 21二次元好きの匿名さん23/06/18(日) 23:26:14

    もうできてる!

  • 22二次元好きの匿名さん23/06/18(日) 23:26:46

    いやもう完成しとるやん……

  • 23二次元好きの匿名さん23/06/18(日) 23:38:54

    アルトレがアルダン以降に担当を持たない概念すこすこ

  • 24二次元好きの匿名さん23/06/18(日) 23:52:45

    あ~良質なトレアルが身に染みて明日の仕事頑張れる~~
    迷って躊躇ってしまうアルダンの心情が精緻に表現されていてとてもよい

  • 25◆y6O8WzjYAE23/06/19(月) 00:00:22

    というわけで追加プロフィールの出走前ルーティンネタでした。
    それにプラスして基本この子自分の事全然信用してないよね?ということで、意外とアルトレから告白されなければ自分からは行きそうにないな、と思い今回の話になりました。
    アルトレは絶対告白しそうだから厄介すぎましたけど。
    なのでグッドエンド後だと成立しそうにない流れなのでノーマルエンド後のふたりを想定しています。
    温泉旅行を絡めたのもグッドエンドじゃないと行けないから、っていう理由です。
    ここまで読んでいただきありがとうございました。

  • 26◆y6O8WzjYAE23/06/19(月) 00:07:33
  • 27◆y6O8WzjYAE23/06/19(月) 00:10:52

    >>23

    多分このお話を書いていてもっとも苦心したのがそこですね

    アルダンは両親が普通に働かせるという選択は取らせたがらないだろうし、アルトレはなんか担当ウマ娘を新しく持つって事がしっくりこないしで何が正解か分からかなったです

  • 28二次元好きの匿名さん23/06/19(月) 00:30:47

    卒業後にトレーナーが似た悩みを抱えたウマ娘を受け持つ概念いいよね

    からくり時計にガラス美術館、タオルとなれば道後温泉かな?

  • 29二次元好きの匿名さん23/06/19(月) 00:36:28

    >>28

    そですそです

    単純に自分が行ったことがあるので温泉街のイメージとかしやすかったので

  • 30二次元好きの匿名さん23/06/19(月) 00:38:03

    ブライトが作るであろう療養目的の旅館も頼れるだろうしリハビリ業は安泰だね

  • 31二次元好きの匿名さん23/06/19(月) 00:49:46

    グッドエンドの永遠状態のアルトレなら間違いなく自分から言って天下無双状態になるからね……
    なんならノーマルでも言いそう……なんだコイツ……

  • 32◆y6O8WzjYAE23/06/19(月) 12:00:41

    >>30

    作者の人そこまで考えてないと思うよ



    >>31

    どうせ両想いなの気づいてるんだしこいつから言わない事なんてあるの?という解釈違いを起こしながら書いていたという事実

    多分もう書けないです

    このお話ですら若干解釈違いが混じってるので

  • 33◆y6O8WzjYAE23/06/19(月) 22:36:08

    一度だけあげさせてくださいまし~

  • 34二次元好きの匿名さん23/06/19(月) 22:40:20

    規制される前に感想書いとこ
    両想いなの察してるけどお互い言い出せずに悶々としてるの良いよね!!!
    そのあとくっついてハッピーエンドが必須だけど!!!

  • 35◆y6O8WzjYAE23/06/19(月) 23:40:15

    >>34

    私が! 結ばれて欲しいと願った子達は!! 大体結ばれずに終わっていったんですよ!!!

    だから自分で書く分にはくっつけるね!!!!

  • 36二次元好きの匿名さん23/06/19(月) 23:49:40

    このふたりが結ばれないなんてチヨっとした子が黙ってませんよ

  • 37二次元好きの匿名さん23/06/19(月) 23:57:07

    この子アルトレが居ないと自分から幸せになろうとすらしないんじゃないか感がある……

  • 38二次元好きの匿名さん23/06/20(火) 00:06:38

    わりと希死念慮が見え隠れしてるというか
    歴史に名を残したいって言った直後に歴史に埋もれ消えていく事もあるでしょう、とか言ったりダービーに出る約束は出来ないとか言うから
    最初から夢を叶える事を諦めてる節はある、ただそれに挑戦しようとする事は諦めたくないだけでそれを自分が達成出来るとは思ってない、みたいな感じ

  • 39二次元好きの匿名さん23/06/20(火) 00:39:50

    在学中から気ぶってたのに卒業後お付き合いどころか一切連絡取ってない(なのにどう見ても未練タラタラ)なのを見せられたチヨちゃんはどうすればいいの

  • 40二次元好きの匿名さん23/06/20(火) 01:16:19

    その流れだとトレアルやトレベルは結ばれないってコトじゃないですかーーー!!!!
    これからも書いてくれ…ですのでしていってくれ…

  • 41二次元好きの匿名さん23/06/20(火) 01:26:19

    走りではなくアルダンという人間に一目惚れしてるアルトレ、いいよね……

  • 42二次元好きの匿名さん23/06/20(火) 06:11:33

    卒業後しばらく経ってから結ばれる概念素晴らしい…

  • 43二次元好きの匿名さん23/06/20(火) 12:19:33

    読了後の多好感がすごい!幸せになってくれ~
    それはそれとしてどうあがいてもアルトレから告白すると思われてるのが共通認識なのちょっと面白い

  • 44◆y6O8WzjYAE23/06/20(火) 22:57:59

    >>38

    割と最低乱数は引くのが大前提、みたいな考えですよね基本的に

    ネガティブなりにポジティブというか



    >>40

    なんですか人を疫病神みたいに……

    好きになるヒロインヒーロー共々大体負けるか離別していきますけど……

  • 45◆y6O8WzjYAE23/06/20(火) 23:04:51

    >>42

    卒業後くっ付くのは恋慕を育む時間が挟まるのがいいですよね

    一時の熱病じゃないという証明にもなりますし



    >>43

    アルダンに関してはメイクデビュー後に一回突き放そうとしてくるので自分からは告白しない、というのが全然考えられるんですよね

    実際脚は本格化に馴染んで大丈夫になってもメイクラとかで病弱なままの一面は見えてますし

    その辺気にしてる節は端々に見えるのでそこを気にして自分からはいけないのかなぁ……とは

    逆にアルトレはアルダンの幸せの為なら世間体とか全然気にしそうにないので絶対卒業時に自分からアプローチしそう

    後恋愛感情云々に関してはアルダンよりもアルトレ側の方が重そうですし……

    アルダンはともかくアルトレはアルダンと結ばれないなら一生結婚しないんじゃないかな……

  • 46二次元好きの匿名さん23/06/20(火) 23:25:59

    うんアルダンとアルトレSSはいいぞぉ

  • 47二次元好きの匿名さん23/06/20(火) 23:48:38

    文章がとても綺麗、大好きです

オススメ

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています