- 1二次元好きの匿名さん23/07/01(土) 20:11:35
- 2二次元好きの匿名さん23/07/01(土) 20:12:14
ウメの見ごろなどとうに終わり、サクラが散ってあまりに久しく、ツツジは萎れて見る影もない。いずれアヤメかカキツバタ、ハナショウブのしとどに濡れる六月も終わった。
スズカは雨の多いこの時期が得意ではない。なぜかといって、雨が降っては思うままに外を走ることができないからだ。必然、ため息が増える。表情も空模様と同じく曇りがちとなり、エブリデイをスマイルで過ごすわけにもいかず、恥をしのんで獅子舞い片手にうろんな呪文を唱えようにも、地球はザットで距離感覚的にはあなたにある。苦難の日々は続き、トケイソウは花期を終えている。
よって曇り空とはいえ雨が上がればすかさず走るスズカだったが、この日は運命的な気まぐれを起こし歩いており、繰り返すが行き先は本人にもわからない。最終的にはグラウンドに着くだろうが、その過程はまだあやふやだった。さしずめ、花に誘われる虫の気分だったともいえる。雨期は苦手だが、このときにしか咲かない花がある。このときにしか見れない景色がある。
ネムの花がまだ涼しい早朝の微風に揺れ、さやさやと踊るようだった。その風に乗って漂うやさしい香りを追ってみれば、クチナシが白い花弁を開いている。青々としげる梢とたけだけしく育った夏草が、風が吹くに合わせてこすれ、これは歌うようでもある。いかにも青空に映えそうな暖色の花を咲かせるハイビスカスと、涼しげに紫の花をくゆらせるラベンダーは、スズカに紅茶のフレーバーなどを思わせた。歩く度にゆるやかに時間が過ぎていく。そしてその度に気温が上がる。じっとりと汗がにじむ。分厚い雲の向こうの日差しを、肌を刺す太陽の輝きをスズカは想像する。景色とは何も視覚のみではなく、五感をもって心身すべてが浴びた世界の切り抜きなのかもしれない。 - 3二次元好きの匿名さん23/07/01(土) 20:14:25
「あら」
華やぐ五感の導くままにふらふらと歩き続けたスズカは、校門から続く中庭へとたどり着いていた。そこにある花壇の一角、昨夜の雨に濡れながらも、力強く繁茂する草花の影には、よく見知った親しい友人の姿がある。
「おはよう、エアグルーヴ」
スズカがそう声をかけると、如雨露を片手にエアグルーヴは振り向き、やわらかに微笑んだ。
「おはよう、スズカ」
「早いのね。花壇のお世話かしら?」
「ああ。お前こそ、今からグラウンドか?」
「そのつもりだったんだけど……」
「ほう」
「……夏の花が、咲きはじめていたから」
豊かな緑の庭からは、ユリの花がいくつも顔を出していた。大輪の白いテッポウユリがすくすくと育ち、やや小ぶりなカノコユリが鮮やかながらも粛々と咲いている。花壇は厚みのある甘い香りに満ちていた。生き物のはたらきが活発になる夏の季節のきざしにおいて、この芳香に先んじるものはない。
「もう七月だからな」
そう呟くエアグルーヴは、慈しみの眼差しで爛漫と咲くユリたちを見た。その横顔はややうつむき気味で、凛とした背筋の佇まいはヤマユリの趣に重なるところがある。 - 4二次元好きの匿名さん23/07/01(土) 20:15:15
「これから夏の花が次々と咲いていく」エアグルーヴはそっと目を閉じた。灼熱の太陽に照らされた花たちを想像しているのだろう、そのおもては穏やかだ。「サルスベリにマツバボタン、オシロイバナにケイトウ、ヒナゲシ……名前を挙げればきりがない。夏空にはやはり暖色の花が印象強いが、ムクゲの白やアサガオの青も涼しげで、暑さを和らげてくれるな」
「夏といえばほら、ヒマワリも」とスズカは友人の横顔に声をかける。
「ああ、忘れてはならない」ふたたびスズカに目を向けたエアグルーヴは、いかにも青い空と白い雲に映えるだろう、赤いアイラインを横に細く引きのばした。「実りの秋に向けて、さまざまな植物がいきいきと準備を始める。……私たちと同じだ」
というのは、もちろん夏合宿を指している。芝をもっぱらとするウマ娘にとっての花盛り、春のGⅠ戦線は宝塚記念で一段落を迎えた。ダート戦線はむしろ烈しさを増していく様子だが、ふたりの主戦場はそちらではない。舞台は秋を待ち、力を蓄えていく必要がある。
不敵に咲むエアグルーヴに対し、スズカはうなずくことで応えた。やや強い風が吹き、スズカの長い髪が背中を離れ、宙を流れる。そのさまは一面に実る麦穂や稲穂を思わせた。野分などものともせず、揺られながらも大地にしっかりと根ざしている。 - 5二次元好きの匿名さん23/07/01(土) 20:16:06
「ところで、今日はまだ上機嫌だな」
「えっ?」と話題が変わるのに不意を討たれ、スズカは頓狂な声をあげた。「そ、そうかしら……?」
「ああ。お前は梅雨になると元気がなくなるから、実にわかりやすい」エアグルーヴは愉しげに笑う。「しかし今日はまだ明るい顔をしている。……梅雨にしか見れない景色を目にしたのだろう?」
エアグルーヴの言の葉が、季節の花に結びつけられるのをスズカは感じた。ああ、と声にならないため息が漏れる。このため息は決して失望によるものではない。
「……そうね、私は今朝の曇り空を──楽しんでいたのかもしれないわ」
ふたりの友人の気遣いをスズカは思い出す。彼女たちの思いやりは騒がしく、情熱に満ちていて、その勢いに押されたのか雲は開けて太陽が顔を出した。ぬくもりと呼ぶにはあまりに勇ましい日差しは心地よく、スズカはその下を思う存分走ったのだが、なるほど雨露にさらされた花もまた魅力的だった。立ち止まり、歩いてみなければ見えてこない景色もある。何よりもまず開かなければならなかったのは自分の心の方で、その心の太陽で照らしてやれば、鬱々とした空の下にも道は続いていく。 - 6二次元好きの匿名さん23/07/01(土) 20:17:00
「でも、やっぱり私は走りたい」
以上のことを踏まえた上で、サイレンススズカというウマ娘はそう主張する。
「花より団子とよくいうが」エアグルーヴはきわめて愉快だといわんばかりに笑った。「お前もそうだな。……今日は晴れ間が差すそうだ。せっかくの機会だろう。走ってくるといい」
「ええ。エアグルーヴも一緒にどう?」
「私はまだ花壇の手入れがある」
「そう。……残念だけど、仕方ないわね」
「ああ」
「いってきます」
「いってらっしゃい」
エアグルーヴに背中を押され、スズカは駆け出した。グラウンドへ向けて。朝食の時間までは、まだまだたっぷり余裕がある。それでもスズカには足りないくらいだったが、今はそれで充分だ。惜しむらくは親しい友人と肩を並べて走ることができないことだが、秋が来れば嫌でも競うことになるだろう。誕生日に贈られたランニングウェアはそろそろ時期を外れそうだが、季節はめぐり、ふたたびやって来る。だからそのときが訪れれば、また袖を通せばいい。 - 7二次元好きの匿名さん23/07/01(土) 20:17:34
遠ざかっていくスズカの背中を見送るエアグルーヴは、ぎらりと降りそそぐ強い日差しを肌に感じた。見上げれば、分厚い雲のすき間から、太陽が顔を覗かせている。
「……雨上がりにしか見られない景色はいくつかあるが」とは、とっくに見えなくなったスズカの背中と、けむる大気を切り裂くように流れる、彼女の栗毛に向けた言葉だ。「これはお前も好きだろう?」
如雨露を置き、水道管につながれたホースへと手を伸ばす。給水のための蛇口をひねり、ホースの出口を指でつまんで、何もない宙へ向けて、放水を開始する。
太陽に照らされた水が、きらきらと光を反射しながら散布された。圧力をかけられた水流は霧状に舞い、ややあって七色の筋を宙空へと刻む。
小さな虹が、季節と季節を架けている。その景色を前にすればスズカも感じただろう──夏はもうすぐだった。 - 8二次元好きの匿名さん23/07/01(土) 20:18:00
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- 9二次元好きの匿名さん23/07/01(土) 20:18:07
以上です
こう、梅雨明けの虹っていいですよね
七色の景色ですね
そんな具合です。エブリデイサニースマイル - 10二次元好きの匿名さん23/07/01(土) 20:18:26
このレスは削除されています
- 11二次元好きの匿名さん23/07/01(土) 20:46:33
こう綺麗だとなんとコメントすればいいのかわからん!
1はもともとお花に詳しかったりするの? - 12二次元好きの匿名さん23/07/01(土) 20:49:58
すごい文章力と知識量だぜ…感服いたした
- 13二次元好きの匿名さん23/07/01(土) 20:54:43
梅雨と夏の狭間の爽やかな空気感の描写がとてもお上手で実際にその景色を見ているかのようでした、素敵な文章をありがとうございます!
- 14二次元好きの匿名さん23/07/02(日) 07:30:57