- 1二次元好きの匿名さん23/07/06(木) 22:04:28
4月。雪化粧を落とした街に、少し色濃い梅の本紅と、桜色の薄化粧がよく映える。朝の陽射しはぽかぽかと暖かくて、けれど頬を撫でる空気はまだ少しひんやりとしていて、火照った身体を心地よく包む。
風を切ってスピードを上げれば、テンポアップする呼吸に合わせて、胸が高鳴る。今ではコーチとして勤めるトレセン学園で、ただひたすらに、真っ直ぐ、全力でターフを駆けていた頃を思い出す。脳裏に浮かぶのは、賑やかなクラスメイト達、競い合ったライバル。そして、ルームメイトの笑顔。
クールダウンで息を整え、二人で借りた部屋の前までやってくると、ふわりとご飯の香りが漂ってきた。日課のランニングを終えた私の身体は待ってましたとばかりに、くぅとお腹を鳴らすので、思わず苦笑い。
この音を聞かれたら、きっと笑われてしまうわね。
心の中でそう呟くと、美味しそうな香りが漂う玄関の扉を開ける。
「おはよう、スペちゃん」
「おはようございます、スズカさんっ!」
目覚まし時計が鳴る前に目を覚まし、スペちゃんを起こさないよう家を出て、朝陽を浴びながら走る。帰ってきたら、”お帰り”の代わりに朝の挨拶。台所に立っていたスペちゃんが、すかさずエプロンと三角巾を纏った姿で私を出迎える。
これが、お休みの朝のルーティーンになりつつあった。 - 2二次元好きの匿名さん23/07/06(木) 22:06:42
シャワーを浴びたら、リビングに戻ってスペちゃんと一緒に朝ご飯。今朝の献立は、炊きたてのご飯と、豆腐と油揚げのお味噌汁。キュウリのお漬物に……隣の小さな土鍋は何かしら。
「スペちゃん、これは?」
「ふふ、開けてみて下さい」
何やら意味ありげな顔のスペちゃんに促されるまま土鍋の蓋を開けてみると、ふわふわに膨らんだ黄金色が目に飛び込んできた。
私が驚くと同時に、スペちゃんは得意げな笑みを浮かべる。
「蒸し焼き卵を作ってみました! お出汁を入れたので、とっても美味しいですよ!」
「まるで茶碗蒸しみたいね……本当に美味しそう」
「はいっ! 是非食べてみて下さい!」
「ええ、それじゃあ、早速」
いただきます。
スペちゃんと一緒に両の手を合わせたら、特製の蒸し焼き卵をスプーンで掬ってみる。ふわふわに膨らんだ卵から漂う出汁の香りが、今か今かと食欲を掻き立てるので、堪らずひと口。
「……うん!」
美味しい、と言う前に、閉じた口から声が漏れた。ふわふわの卵、お出汁の香り、刻んだネギの風味、それらが一つになって、口いっぱいに幸せを届ける。
ふた口目は、掬った卵を炊きたてのご飯に乗せて、湯気と一緒に頬張ってみる。思った通り、相性は抜群。またも堪らず言葉にならない声が漏れてしまった。
「蒸し焼き卵、とってもふわふわで美味しいわ。また作ってくれる?」
ご飯を頬張る手が進んでしまい、そう思い出したように感想を言った時には、スペちゃんは二杯目のご飯をよそった所だった。
私の感想に、こちらを振り向いて朝陽のような笑顔で応えるスペちゃんが愛おしくて、笑みがこぼれる。
私の笑顔を見て、昔と変わらず朝から沢山食べる姿をからかわれたと思ったらしく、スペちゃんはなんだか恥ずかしそうに頬を桜色に染めていた。 - 3二次元好きの匿名さん23/07/06(木) 22:09:02
「スズカさん、今日の晩御飯は、何にしましょうか」
台所からひょいと顔を出したスペちゃんの声に、学園へ向かう支度を止めて逡巡。とは言え、朝ご飯の特製蒸し焼き卵のふわふわをまだ口の中がしっかり覚えている。
晩御飯の事を考えるとなると少しだけ大変なのが、スペちゃんの美味しい朝ご飯の欠点かもしれないわね。
思えば、学園を卒業して、元ルームメイトと今度は一つ屋根の下での生活を初めて早幾年。初めは不慣れだったお料理にもすっかり慣れて、今では出掛ける前にこんな一言がお互い自然に出てくるようになった。
ふと、今朝走った時の事を思い出す。河川敷の桜並木は、今年も変わらず美しい。暖かい朝陽と、それを纏って薫る春風が、新しい季節の始まりを告げて街を駆け回っていた。
考えが纏まった私は、うんと頷くと、にっこり笑みを浮かべて顔を覗かせるスペちゃんに、口角を上げて応える。
「すっかり暖かくなったから、春を感じたいわ」
私のリクエストに、嬉しそうに任せて下さいと答えた彼女の笑顔は、初めて会った時と変わらず純粋で、可愛らしい。彼女────スぺちゃんのお料理は、今の私にとって最早欠かせないものになっていた。
トレセン学園で指導する立場になり、目線が変わると気付く事も多い。まだ生徒だった頃を振り返ってみたら、その頃は走ることにしか興味が無いとまでクラスメイトに言われ、困惑した事もあった。だって、走るのは何よりも楽しいじゃない? - 4二次元好きの匿名さん23/07/06(木) 22:10:09
あまりにもそう言われる事が多いものだから、他にも何か趣味を見つけた方が良いのかしら、とぼんやり考えながら商店街の角を左に曲がったら、大きな焼き芋の袋を抱えたスぺちゃんに出くわした。どうやら、お得意様になったので焼き芋屋のおじいさんが特別にサービスしてくれたらしい。
食事にも意識を回してみようかしら、と思ったのはその時だった。スペちゃんに貰った焼き芋を頬張りながら、体重や体調の管理の為に食事について勉強するのも良いかもしれない、等と思いを巡らせた。そして、冷え込む街の空気の中で、一緒に食べた焼き芋はとても暖かくて、なんだかホッとするような気持ちになった。
それから、巡り巡ってこうしてひとつ屋根の下、お互いの料理に舌鼓を打つようになるのだから、不思議なものだ。そして、その勉強と経験は、今の教え子達の身体作りにも活かされている。
春風のスリップストリームに入って先頭の私を追う教え子達が、400m先の桜の木を目指して、一気にスパートを掛ける。仕掛けるタイミングは申し分無し、上々の仕上がりだ。
よし、それなら私も、もうひと頑張り。
教え子達に更なる飛躍を促すように、私も彼女達と同じように、左脚で力強くターフを蹴った。 - 5二次元好きの匿名さん23/07/06(木) 22:11:46
切れ目を入れた筍をお鍋に入れて、それがすっぽり浸かるほどのお水を入れたら、米ぬかと唐辛子を入れて火にかける。茹でるのに結構時間が掛かるので、その間に火加減を見ながらちょっとしたお掃除や、乾いた洗濯物を取り込んで、畳んでしまおう。
茹で上がりは、竹串が太い部分にしっかり刺さればOK。火を止めて、お鍋に入れたまま冷めるまでしばし待機。ここですぐに取り出して水で冷ましたりすると、最後までしっかり筍のアクが抜けなくて美味しくなくなってしまうと、クリークさんが教えてくれた。
網戸の向こうから入ってくる風に、大好きな人の言葉を思い出す。
────春を感じたいわ。
きっと、心地よい風を感じたのだろう。思わず口角が上がる。
「スズカさん、今頃は春風と走ってるのかなぁ」
そう呟いて、筍が入った鍋に目を移す。
岐阜は山菜が採れる山が多くてな、春はまさに恵みの季節なんだ。電話の向こうで嬉しそうにそう言っていたオグリさんの声が今も耳に残っている。丁度今日、オグリさんから届いた段ボールにはとても立派な筍を中心に、蕗の薹、たらの芽、こごみといった山菜が詰めこまれ、開けた瞬間に里山の香りが部屋一杯に広がった。どこか故郷を感じる、懐かしさをも纏った香りだった。
素敵な贈り物を頂いたので、春を感じたいというスズカさんのリクエストにもお応えして、今夜のメインは筍ご飯と、筍のお味噌汁。そして隣には、春の山菜の天ぷらを添えて。 - 6二次元好きの匿名さん23/07/06(木) 22:13:22
「そろそろ良いかな」
しっかり冷ました筍を取り出てし、水で洗ってぬかを落としたら、先に入れた切れ目から皮を剥く。先っぽの細い部分は柔らかくて美味しいので、残すように気を付けて。
ご飯を炊くときにも一工夫。研いだお米に水を張り、お酒とみりん、お醤油に、気持ちのお塩で味付けしたら、お出汁用の昆布を1枚入れて旨みをプラス。食べやすい大きさに切った筍と油揚げを乗せたら、後は炊飯器にお任せ。
「よし、と!」
ご飯が炊けるまで、今度は山菜の下拵え。手を動かしながら、ふっ、と考える。
昔から、美味しいご飯をお腹いっぱい食べるのが大好きで、それは今も変わっていない。けれど、いつからか私は、美味しいご飯を食べるのと同じくらいか、それ以上に、こうして料理をする事も楽しむようになっていた。
それは何故かと聞かれたら、もちろん、私の作ったご飯を美味しそうに食べてくれる人が側に居るから。一緒に生活して初めの頃は色々と大変だったけど、本を買って勉強したり、オグリさんとの縁でクリークさんに料理教室を開いて貰ったりして、今ではすっかりエプロンと三角巾が板に付いたなぁ、と、しみじみ思う。
山菜の下拵えを済ませるのと同時に、部屋に向かってくる脚音が聞こえた。思わず、口元が緩む。
朝ご飯と同じように、ううん、もっと喜んでくれると良いな。
そうして玄関の扉が開いて、二人は同時に声を上げた。
「ただいま、スペちゃん」
「お帰りなさい、スズカさん!」
明るい二人の声が、部屋に響く。ご飯が炊けるまで、あともう少し。 - 7二次元好きの匿名さん23/07/06(木) 22:14:33
「お待たせしました! 春の特製・筍ご飯です!」
「まぁ……とっても美味しそう……!」
筍と油揚げがたっぷり入ったご飯から、お出汁の香りを纏った湯気が立ち上る。その香りを楽しんでいるだけで、今日の疲れもあっという間に消えていくような気がした。
学園を卒業してからもお互いレースはやめなかった。けれど、進学した大学で、その先の社会で、あまりにも目まぐるしく、騒々しく、それこそスプリンターのようなペースで進んでいく日々は、多少なりとも身体に堪える。けれど、そんな疲れも心のしこりも、眩しい笑顔で渡されたお茶碗から立ち上る湯気と一緒に消えていく……なんて言ったら、大げさかしら。
筍ご飯、筍のお味噌汁、山菜の天ぷら。春の香りが、テーブルに並んだ。
「いただきます」
一緒に両の手を合わせて、箸を手に取る。美味しそうな湯気を立てるご飯を一口頬張って、お互い見つめ合って、思わず笑顔。
うん、大げさじゃないわ。走ることのほかにこんなに幸せなことを知ったなら、疲れている暇なんてないもの。
お腹いっぱいに幸せを詰め込んで、きっと明日も私達は朝陽を浴びて、季節を感じる。
そして、美味しいご飯を大好きな人と一緒に食べる。そんな幸せで満たされる日々がこの先も続くようにと願いながら、私達は一口、また一口と、春の幸せを頬張るのだった。 - 8二次元好きの匿名さん23/07/06(木) 22:17:58
以上です。ありがとうございました。
(ようやく分かったSSを書ける人は凄いのだ)|あにまん掲示板「初めてSSを書いてみたら難しすぎて一作品完成させる事とすらできなかったのだ。スレでハートを50近く貰う人…pixivでランキングに乗る人は雲の上の存在なのだ」bbs.animanch.com元々はこちらのスレの192でお題を借りて書かせて頂いたもので、今回改めて書いてみました。
季節感がずれちゃってますが、細かいことはお気になさらず。筍ご飯とお味噌汁の組み合わせって良いよね……。
- 9二次元好きの匿名さん23/07/06(木) 22:21:24
好き…
- 10二次元好きの匿名さん23/07/06(木) 22:28:07
- 11二次元好きの匿名さん23/07/06(木) 23:19:13
これは良い飯テロSS
深夜には効き目が強すぎる - 12二次元好きの匿名さん23/07/07(金) 05:37:52
スペスズ尊い……終始ほっこりしながら読ませて貰ったわ。ありがとう。
- 13二次元好きの匿名さん23/07/07(金) 06:15:19
いい…
- 14二次元好きの匿名さん23/07/07(金) 11:39:57
- 15二次元好きの匿名さん23/07/07(金) 19:38:21
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- 16二次元好きの匿名さん23/07/07(金) 19:40:25
- 17二次元好きの匿名さん23/07/08(土) 06:36:29
お返しが遅くなってすみません、読んで頂いてありがとうございます!
ありがとうございます!その一言が私も嬉しいです!
過分なお褒めの言葉、誠にありがとうございます。
書いている時はあまり意識していなかったのですが、今回は第三者視点の地の文ではなく、スズカさんとスペちゃん視点の地の文をメインにしたので、それぞれの描写が鮮明になったのかなと思います。
台詞量が少なく、その合間を気持ち込みの地の文で補強する構成になったのでバランス感が少し不安でしたが、お褒めの言葉を頂けて光栄です。こちらこそありがとうございます。
自分でも投稿しながら飯テロをくらってました。筍ご飯大好きなので……。
ありがとうございます!スペスズは良いぞ。
嬉しい……!
リメイク前のSSでも思ったのですが、スズカさんの話し方を地の文に入れると上手く言えませんが優しく語りかける感というかお話してる感が出てすごくほっこりするんです。
好きになって頂けましたら幸いです。
スズカさんもスペちゃんと一緒に居る内に食べるのが好きになると良いなぁ、と思う次第です。