【SS】移り変わる景色

  • 1表紙23/07/13(木) 21:47:59

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  • 2本文23/07/13(木) 21:48:21

    私が最初に思い出したのは、幼稚園の頃の記憶だった。

    あれは確か、秋ごろだっただろうか。
    セピア色のフィルターがかかった、記憶の中の自宅。
    そのリビングで私は、今よりも幾分小さく、それでいて分厚い不格好なテレビに釘付けだった。
    原色の組み合わせでギトついたような液晶の中。
    そこでは、数名のウマ娘たちが自らの身を削り、競い合う様が映されている。
    誰が走っていたかも、どんなレースだったかも、今となっては覚えていない。
    けれど、私の耳には、応援の声が、白熱する実況が。
    そして、聴こえない筈の彼女らの鼓動が。
    記憶の中でぼんやりと、しかしはっきりと鳴り響いている。
    ─私がレースの道を目指したのは、これが最初だったっけ。
    中途半端に俯瞰した視点の中で、呟く。

    景色が移り変わる。

  • 3本文23/07/13(木) 21:48:36

    炎天のグラウンド。
    その日はたしか小学校の運動会で。
    カラッとした暑さの中、マニュアルじみた棒読みのアナウンスが、古めかしいノイズと共に聞こえている。
    ぶれる視界と、荒くなった息。
    ぜえぜえと息を切らした私を置いて、体操服を着た周りの子たちが玩具のような旗を持ち、親の元へ駆け寄っていくのを見ていた。
    つられて私も、疲れた身体を動かして両親の元へと駆け寄る。人でごった返した観客席の一角には、私よりも嬉しそうな笑顔を向けた母と、同じく笑顔でビデオカメラを向ける父がいた。
    それを見た私も嬉しくなって。子供特有の無邪気さで、勢いよく母に抱きつく。
    私の手に握られたチープな旗には、赤い文字で誇らしげに「1」と書かれていた。

    景色が移り変わる。

  • 4本文23/07/13(木) 21:48:46

    静寂に包まれた自分の部屋の、藍色で塗りつぶされ影を生んでいる見慣れた天井。
    カチカチと鳴る時計の針の音をバッグに、負の思考が全身の感覚を塗りつぶす感覚が、幻肢痛のように襲う。
    そういえばあの時は、トレセンの受験の少し前だったか。
    その時の私はというと、受験を目前にしているというのに、コンディションが整っていなかった─今思えば緊張と不安による幻覚のようなものだったのだろうか─事が原因で、日々に焦りを感じていた。
    当時をどうやって過ごしていたのか。それはもう、あまり覚えていない。
    けれど、理由もなく寝付けなかった日の、止まらないマイナス思考と嫌な感覚だけは、何故かはっきりと覚えていた。

    景色が移り変わる。

  • 5本文23/07/13(木) 21:48:57

    私の手元には、一枚の紙が握られている。
    真っ白の背景に大小入り交じる文章という構成の、極めて飾り気の無い一枚の紙。
    それを見つめて、一分、二分。いや、もう十分以上は見つめていたのだろうか。
    どちらにせよ、あの時の私は全てが現実離れしているような感覚で。
    それでも、手元の紙に書かれた「合格」の2文字だけは、どんなに頑張っても忘れることは無いだろうと、思う。

    景色が移り変わる。

  • 6本文23/07/13(木) 21:49:19

    始めてトレセンの門を潜った日。
    あの日は丁度、桜が咲いていた。
    周りには、知らない生徒ばかり。
    大量の荷物と、期待と不安を抱え、一歩、踏み出す。
    …ああ、あの時に戻りたいな、なんて。バカな事を考えてしまう。

    景色が移り変わる。

  • 7本文23/07/13(木) 21:49:34

    その時の私の気持ちは、最悪としか表現できなかった。
    あまりに厚すぎる、実力差という非情な現実の壁に打ちひしがれる日々。
    トレセン学園という超名門校に入学できたとはいえ、問題はその後に待ち受けていた。
    様々なレースで負け、逃げ場など無い劣等感と焦燥感に追い込まれる日々。
    覚悟はできていた。想像はしていた。
    けれどそんな考えは所詮上っ面だけで、心の底ではどこか楽観していたのだろうか。
    いずれにせよ私の心はとっくに限界で、正常な判断をできないほどに精神は衰弱していた。

    夕焼けに照らされた他人の青春を、屋上からただ眺める。
    いつからそこにいたのか、どうやってそこにいたのかも、考えられていなかった。
    何も考えられない頭に、見下げた地面に吸い込まれてしまいそうな感覚が満たされていた、その時。

    彼─トレーナーさんと、目があった。


    景色が移り変わる。

  • 8本文23/07/13(木) 21:49:51

    グラウンドでの練習。

    トレーナー室での何気ない時間。

    気分転換で行ったショッピングモール。

    レース前にいた控室。

    観客席。

    負けて、負けて、負け続けた日々。

    その全ての景色に、トレーナーさんがいた。

    楽しい時も辛い時も、一緒にいてくれた。

    どんな時にも、私を支えてくれた。

    いつしかかけがえの無い存在になっていたトレーナーさんに、大好きなあなたに、今日こそは恩返ししなきゃなって、思ってたんだっけ。
    ─今あなたは、どんな顔をしているのだろうか。

    景色が、移り変わる。

  • 9本文23/07/13(木) 21:50:03

    ゲートに入り、呼吸を整えていた。
    これが多分、私が出れる最後のレースなのだろう。そう思うと、嫌でも緊張感が高まっていった。
    観客席の方を向くと、そこにはトレーナーさんがいて。
    それを見た私は、緊張感と共に気持ちが高まっていた。
    全身全霊をかけて、この最後のレースに臨む。その覚悟で、この舞台に立った。
    今日こそはかっこいい所を見せなきゃって。
    私たちのやってきた事は無駄じゃなかったんだって。
    大切なあなたに、私の出し切れる全てを捧げるんだって。

    そうだった、筈なのに。



    ──景色が、戻ってくる。

  • 10本文23/07/13(木) 21:50:15

    スローモーションの視界と、

    宙に浮いた身体と、

    右脚に感じる激痛。

    あっけに取られた私の、その全てが終わりを告げる、刹那。

    脳裏に浮かんだ走馬灯は、あなたの笑顔で締めくくられていて。

    虚しい衝撃と共に、私の景色は真っ黒になった。

  • 1123/07/13(木) 21:51:26
  • 12二次元好きの匿名さん23/07/13(木) 21:52:43

    oh…まぁこういう子もいるよな…というよりアイネスシナリオでいたな…

  • 13二次元好きの匿名さん23/07/13(木) 21:53:33

    時速60~70Kmで走れるそうだから怪我したらただじゃ済まなさそうなんだよね…

  • 14123/07/13(木) 22:05:10

    >>12

    フォーカスされていないだけで、報われない子もきっと沢山いるだろうなと思って書きました。

    >>13

    そう思うと、彼女らはまさに命がけなんですよね。

    彼女らにもひとりひとりに人生と生活がある事を忘れたくないものですね。

  • 15二次元好きの匿名さん23/07/14(金) 06:55:53

    大きな声では言えないが、こういう話も好き

  • 16二次元好きの匿名さん23/07/14(金) 18:04:53

    (やっと規制解除された)

    >>15

    ありがとうございます。

    自分は暗い話が好きな傾向にあるので、そう言って頂けると嬉しいです。

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