- 1二次元好きの匿名さん21/12/13(月) 22:24:37
- 2二次元好きの匿名さん21/12/13(月) 22:26:39
Красная Армия всех сильней!
- 3二次元好きの匿名さん21/12/13(月) 22:45:48
「白軍に黒き男爵」または「赤軍に勝るものなし」は内戦期の歌なんだ。
当時、ロシア領の殆どを勢力下においた赤軍だったが唯一残ってたクリミア半島の黒き男爵ことヴラーンゲリ将軍率いる南ロシア軍が攻勢に出て戦いは最終局面に入ったんだ。
最終決戦ということもあってヴラーンゲリ打倒を謳ったこの歌は赤軍兵士たちの間で大流行したんだ。
作曲家はサムイル・ポクラスであの「ブジョンヌイ行進曲」を作ったディミトリー・ポクラスの兄弟だったんだ
だがサムイルはソ連に嫌気が差したのか、1924年に渡米し生涯作曲活動を続けながら暮らしたんだ。
当然、時の政権はこれを面白く思わず彼の功績はソ連崩壊まで闇に葬られ、「赤軍に勝るものなし」は誰が作曲したかわからずじまいだったんだ。 - 4二次元好きの匿名さん21/12/13(月) 22:53:37
- 5二次元好きの匿名さん21/12/13(月) 23:04:32
左なのに右御用達とかこれもう分かんねえな
それはそれとして勉強になったわ - 6二次元好きの匿名さん21/12/13(月) 23:05:06
- 7二次元好きの匿名さん21/12/13(月) 23:20:26
- 8二次元好きの匿名さん21/12/13(月) 23:29:46
- 9二次元好きの匿名さん21/12/13(月) 23:41:14
このオグリは赤軍だけでなく、白軍にも詳しいのか…
- 10二次元好きの匿名さん21/12/13(月) 23:42:56
hoiの世界線だとはっちゃけるやべー人じゃないか・・・
- 11二次元好きの匿名さん21/12/13(月) 23:47:20
- 12二次元好きの匿名さん21/12/13(月) 23:50:59
- 13二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 00:04:09
- 14二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 00:17:50
- 15二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 00:20:57
- 16二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 00:24:56
おう!!昼間に保守しとくからよろしく頼むぞ!!
- 17二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 09:37:50
保守!!
- 18二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 09:54:50
- 19二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 12:05:56
かつては伝統を壊す側だったソ連も歴史となって、守るべき伝統の側となったからね。同様の例は東欧の旧共産圏の国でもあるね。
- 20二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 17:43:38
- 21二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 18:03:57
ツァリツィン占領後ヴラーンゲリはコルチャーク提督との合流を提案したんだが、デニーキンはコルチャークに指図されるのを嫌い単独でモスクワ攻撃を決断。
ヴラーンゲリはこの判断を「南ロシア軍の死刑執行にサインした」と批判した。
やがてヴラーンゲリとデニーキンの間に溝が生じ、デニーキンはヴラーンゲリを指揮官から解任したんだ。
だが正直に言ってデニーキンは軍人としての能力はあれど指導者としては褒められない体たらくで南ロシア軍内部でもデニーキンへの不満とヴラーンゲリへの期待が募っていったんだ。
その不満が爆発したのが、後方で起きた「オルロフの反乱」でオルロフはヴラーンゲリの再任を強く望んだがヴラーンゲリは「内輪もめは自軍にとってマイナスでしかない」と拒否したんだ。 - 22二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 18:21:14
- 23二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 18:28:41
- 24二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 19:00:00
1920年4月、疲れ切ったデニーキンは亡命するさいにヴラーンゲリを南ロシア軍最高司令官に任命したんだ。
だがそのときには内戦の趨勢は赤軍側に決していて、白軍はもはや大勢に影響を与える力はなかったんだ。
おまけに南ロシア軍の拠点クリミアでは白色テロが横行し地元民からの協力は得られるような状況ではなかったんだ。
はっきり言って詰んだ状況だったんだ。
だがヴラーンゲリは前任者の尻ぬぐい的な立場でもできるだけのことをしたんだ。
まずヴラーンゲリは「ロシア連邦構想」を提唱し生き残った白軍勢力とコンタクトし協力を仰いだんだ。だがポーランドは拒否し、マノフの黒軍は使者を撃ち殺してしまったんだ。唯一賛成したのは緑軍だけだったんだ。
他に経済学者の指導のもと農業改革、土地の領有権に関する法律を制定、コサック自治区の承認とあらゆることを試みたんだ。
だがそれでもクリミアの資源は困窮しており、さらに最大の支援者のイギリスは協力に消極的になって来ていたんだ
ヴラーンゲリがイギリスから最初に受け取った国際文書には「ソビエトに許しを請いて存続を認めてもらえ」と辛辣な物言いが書かれていたんだ。 - 25二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 19:14:57
- 26二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 19:37:33
ヴラーンゲリは南ロシア軍を「ロシア軍」と呼称にあらため、部隊の再編成を行ったんだ。さらに困窮していた石炭の大量調達に努め、港で動けなくなっていた船に燃料をつぎ込んでいったんだ。そしてソビエト政権の元で生きることを望まない人々をまとめて、クリミアからの脱出に備えたんだ。
そして運命の1920年9月、赤軍の大攻勢が始まったんだ。
フルンゼ将軍の指揮する第1騎兵軍を要する質量ともに圧倒的な攻撃にロシア軍は敗北したんだ。
ヴラーンゲリは脱出を指揮しながら赤軍側の降伏勧告をラジオで受け取ったんだ。だがかれはこれを握りつぶしさらにすべてのラジオ局を封鎖し将校が担当している一箇所のみを残したんだ。
そしてこのクリミア脱出作戦は成功した。
ロシア将兵、民間人合わせて約10万人の人々は地形が複雑なクリミアから組織的にまとまりながらトルコのコンスタノティープル(イスタンブール)へたどり着いたんだ。
ヴラーンゲリは取りこぼしがないよう残り、クリミアを出発する最後の「ロシア軍」軍人として魚雷艇でロシアをあとにしたんだ - 27二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 19:53:26
コンスタノティープルへ亡命後、ヴラーンゲリはルクルスで生活していたんだが、この船はイタリアの客船と衝突し沈没してしまったんだ。不幸中の幸いにもヴラーンゲリ一家はその時不在だったため事なきを得たんだ。
その後セルビア、クロアチア、スロべネスを転々としながら「ロシア」軍の受け入れ先を探し、最終的にブリガリアで武装解除と解散が行われたんだ。
1924年、ヴラーンゲリは亡命白軍たちと連絡をとり協力して、「ロシア将軍連合」を創設。その最高司令官にニコライ・ニコラエヴィッチ大公に就任してもらったんだ。
晩年はブリュッヘルに移り、エンジニアとして働いていたんだ。
1928年4月、ピョートル・ヴラーンゲリは結核により急死
突然の死はソ連の差金という噂もあるんだ……
彼の遺体はブリュッヘルに埋葬された後、セルビアのロシア正教会の教会に埋め直されたんだ。
奥さんは献身的に看病した後に、彼の死後ロシア移民者のために2つの結核療養施設が建てられるよう努力したんだ - 28二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 20:03:09
- 29二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 20:09:06
- 30二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 20:14:48
- 31二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 20:23:04
ウワーッ!カイザーライヒMODのガチモンの狂犬モンゴルの大統領ー!
hoi世界でカイザーライヒMODを入れると、世界大戦ついでに赤軍も白軍も誰も彼も知らない人間ばかりで為になるゾ(十中八九誰だこいつ案件
- 32二次元好きの匿名さん21/12/14(火) 21:17:12
初めて知ったけど亡国の軍人の生き様を知ることができてよかった
久しぶりにhoi4でもやってみるか