【SS】こくり、こくりと飲み干される

  • 1◆zrJQn9eU.SDR23/08/02(水) 21:31:40

     基本的にトレセン学園に通うウマ娘は、寮生活をする。家が離れている生徒も少なくなく、学園と道を挟んで向かい側にあるという利便性に皆が惹かれていた。
     その時間をトレーニングに充て、レースに勝つ可能性を少しでも上げたい。学園側としても求めるところではあったから、需要と供給が一致していた。

     もちろんこれは強制ではなく、数こそ少ないものの一人暮らしをしている者もいる。少ないというか、ほぼひとりしか該当しないようなものだが。
     その唯一で並ぶ者がいない該当者は、マルゼンスキー。今日も自分だけが寝起きする部屋で休日を過ごしていた。

     彼女は一日だらけて過ごすつもりのようなパジャマ姿ではなく、花柄のワンピースに身を包んでいる。
     彼女一番のお気に入りで、レースでは見せつけるかのように露わにしている脚も今はロングに近いスカートに隠れている。
     まだ外に出ないというのに、『トレンディーの証』だというカーディガンを羽織って袖を結ぶことも忘れていない。

  • 2◆zrJQn9eU.SDR23/08/02(水) 21:32:38

     そんな余所行きの格好をしている彼女は、朝からぱたぱたと部屋の中を行き交い掃除をしている。その忙しなさは気が急いているようにも思われた。
     理由は単純明快で、今日はマルゼンのトレーナーと出かける約束をしていたのだ。

     どちらが誘ったのかという疑問の答えは、彼女が歌のように口ずさむ『デート♪ デート♪』という言葉が物語っていた。
     スカートの下から僅かに覗き見えている脚の弾むようなスキップからも、彼女の内心が見て取れる。

     マルゼンが右に左に動けば、豊かな髪は波打ち背中に羽織ったカーディガンも合わせてはためく。
     今日は外で過ごすのだから部屋に誰も招かないというのに、彼女は掃除にメイクにドレスアップと彼に会うための準備に余念がない。

     トレーナーが迎えに来てくれるというので、一瞬でもカッコ悪いお姉さんだと言う姿を見せたくなかったのだ。
     既に見られているという記憶は段ボールと一緒に部屋の隅に押しやっていた。

  • 3◆zrJQn9eU.SDR23/08/02(水) 21:33:14

     そうして、約束の時間前には彼女は事を片付け終えてしまった。いつもの彼女であれば畳まずにそのままの段ボール箱で部屋を埋め尽くし、何かの弾みで転んで押しつぶしているところにチャイムが鳴ることだろう。
     『今日は片付けたわ!』と自信の表れのように彼女は頬を赤く染める。トレーナーを初めて部屋に招いた時の出来事が蘇りかけるが、『デキる女は振り返らないものよ』とやはり追いやった。

     見慣れた床を取り戻した部屋の主は、溢れる気力をそのまま鼻から抜けさせていく。熱気はそれだけでは抜けきらず、マルゼンの額に首に汗という形で浮き出ていく。
     それらを軽くハンカチで拭き取りつつ、彼女はふと喉の渇きを覚えた。それがもたらす欲求に従って、彼女の脚はキッチンへと。

     いつもの習慣としてマルゼンはウイスキーグラスを取り出した。といっても彼女は飲酒をするわけではなく、冷蔵庫にしまってある容器も併せて取り出す。
     中身は茶色い液体で満たされており、結局は酒ではないのかと思えばグラスに注がれる間ティーバッグが浮き沈みしていた。何のことはない、一般家庭でよく作られる麦茶だった。

  • 4◆zrJQn9eU.SDR23/08/02(水) 21:33:45

     マルゼンは実家での暮らしやあの愛車を駆る様子から確かにご令嬢なのだが、今の彼女は庶民的な一面を作っていた。
     彼女は紅茶なども好んではいるが、夏場は必ずといっていい程こうして麦茶を愛飲している。好きなドラマの中で、夏を舞台に皆が飲んでいて美味しそうだったから、というのだから単純な理由だ。

     では何故ウイスキーグラスで? という疑問も生まれるのだが、そっちは彼女の父親がそれで飲んでいる姿をかっこいいと思い、所持していたひとつをねだった結果である。
     お古とはいえ高級車を譲る行為といい、彼女の父は娘に甘かった。そんなマルゼンは結露対策にコースターも用意する。

     毎日の食事が並ぶテーブルにちぐはぐな組み合わせを乗せて、彼女は椅子に座る。にこにこと笑っている様子からして、楽しみなひと時であることは明らかだった。
     マルゼンはまず、グラスのふちを手全体で摘まむように持ち上げて一口含んだ。行儀が悪いと言われるとその通りなのだが、オトナっぽいとやる癖は未だ抜けない。

     それは最初だけであり、すぐに両手で持ち直して少しずつ飲んでいく。室内の空調は問題なく行われているものの、喉の渇きまでは潤せない。
     氷も入った瑞々しい液体が喉を通して四肢に広がっていくような感覚。それを余すことなく味わっていたマルゼンは、手の中のグラスを覗き込んだ。

  • 5◆zrJQn9eU.SDR23/08/02(水) 21:34:16

     そのウイスキーグラスは彼女がこの部屋に移って以来の友人だった。彼女の人生程の長さではないものの、決して短くはない間に多くの思い出に連れ添ってきた。
     嬉しさ、悲しさ、悔しさ、とても一言では言い表せない感情が芽生える度に彼女はグラスに注ぎ、飲み干してきた。
     結果的に空っぽになりはするし、グラスであるから蓋はないものの、彼女の大切なものをしまってきたガラスの箱だった。

     その箱は、今は名前が分からない感情を注がれていた。ドラマの視聴者を惹き付けるような出会いではなかったのに、マルゼンを惹いてやまないトレーナー。
     そんな彼を今か今かと待ちわびている彼女。目の前の準備に意識を向けていた時にはちっとも気にならなかったのに、待ち合わせの時間を壁掛けの時計で何度も確認してしまう。

     これは楽しみというだけでは足りないというもの。夏の日差しのように焦がれ、焼き付いてしまうような熱くなる何か。
     結局名付けることは叶わず、マルゼンはまた手元の液体を流し込む。誤魔化すことは出来ないのに、気恥ずかしくて背けてしまう。

  • 6◆zrJQn9eU.SDR23/08/02(水) 21:34:47

     グラスの中身は半分程になり、手のひらはもう滲み出た水滴で濡れている。その手と手の間、上半分が歪んだ向こう側を映し出す箱を彼女はそっと持ち上げる。
     向かい側には椅子がもう一脚置かれている。客人が訪ねてくれば予備を出すことはあるものの、普段使いはこの二脚だけ。

     それも一方は彼女自身が使うものの、もう一方に最近座るのはマルゼンのトレーナーだけ。彼女より高い背に合わせるように、グラスをさらに掲げる。
     最初は飲み口を彼の口元に一致させるように、しかしすぐにそれはずらされる。もう口の中は飲み干したというのに、彼女はこくりと喉を鳴らす。

     ずらされた方向は、少しだけ上。ふちが彼の鼻に位置するようになれば、口は見通せない箱の側面。手の内側と同じように水滴を浮かび上がらせているそこを、マルゼンはじっと見つめる。
     ドキドキ、ドキドキと心臓が高鳴っていくのを感じられる。その音に合わせて巡っていく流れが、彼女を次の動作を行わせるエネルギーも運ぶ。

  • 7◆zrJQn9eU.SDR23/08/02(水) 21:35:26

    「――――――」

     そっと呟かれたのは、ある人の名前だった。彼女が普段君付けとはいえ役職で呼んで、書類や名刺などで把握はしているとはいえ一度も読んだことがない彼の名前。
     日焼け止めも塗らずに太陽の下に躍り出たかのように、彼女の頬がかあっと一瞬にして染まる。その火照りを先程と同じようにグラスの中身を呑み込むことで冷やすのかと思えば、彼女が取ったのは別の行動だった。

    「………………」

     言葉もなしにマルゼンはそっとガラスの箱に口付ける。額も首も、あらゆる皮膚が汗をかいているというのにその粘膜だけは反対に潤いを乗せられていく。
     こくり、こくりと飲み干そうとするように彼女は触れさせていた。冷たくなっていく筈のそれは、熱を保ち続ける。

     時間はどのくらい経っていたのか、ゆっくりと離れていく時には水滴が短い橋を作った。そのまま彼女は残した跡を見つめていた。彼女の瞳は唇と同じように潤んでいる。
     再び彼女は箱に顔を近付ける。また唇か、あるいは鼻か、頬か、額か。どこにマークを付けるのか彼女自身も意識しないまま距離は縮まっていき。

  • 8◆zrJQn9eU.SDR23/08/02(水) 21:35:57

    『ピンポーン』

     突然のチャイムに動きを止めた。正確には止まったのは手元だけで、マルゼンの耳と尻尾は逆立つように天を向いていた。
     彼女は慌ててソーサーに戻して、来訪者を出迎えに行く。少しして弾むような声を彼女が出したことから、彼女の待ち人であるトレーナーが来たようだった。

     ぱたぱたと戻ったマルゼンは用意してあった細々しいものを手に取っていく。忘れ物はないと確認し終えて、玄関へ向かおうとした時。飲み干さないままのグラスを目に入れた。
     彼女は視線を玄関との間で右往左往させたが、ガラスの箱に対して手を合わせて『ゴメンね』と告げた。

     そのまま彼女の姿は消えていき、ドアの鍵が掛かる音が聞こえる。謝罪の言葉をしまい込んだ箱からは、もう彼女は見えない。
     待ち望んだ彼を出迎えた彼女は、これからどんな行動を取るだろう。すぐに愛車に向かって、彼女が言うところの『デート』に繰り出すのだろうか。

  • 9◆zrJQn9eU.SDR23/08/02(水) 21:36:41

     あるいは、彼女は少しだけ立ち止まるのかもしれない。彼は不思議に思って何事かと近付く。そうしたら、彼女は両手で彼の頬を挟むのだ。
     急な冷たさに彼は驚き、彼女はくすくすと笑みを浮かべる。彼は怒ることなく、仕方がないというように手を下ろさせる。

     それで気が済むのかと思えば、彼女は今度は彼の手を握る。誰かに見られやしないかと彼は辺りをきょろきょろ見回すが、彼女の視線もあってまた諦めたようにそのままにする。
     そうして二人は駐車場までの短い道を繋いで歩くのだが、彼女の鼓動は速まり続ける。

  • 10◆zrJQn9eU.SDR23/08/02(水) 21:37:12

     先程まで彼女はグラスを飲み干そうとしていた。結局それは叶わなくて置き去りにすることになってしまったのだが、その残滓はまだ手に残っていた。
     その冷たさを、まず彼女は彼の頬に飲ませ、次に彼の手に飲ませた。今も繋がったままのそこから、彼にこくり、こくりと飲み干されようとしている。

     それはどこまでもイメージでしかないのに、その想像に彼女はくらくらとする。彼女の愛車に乗り込めば、すぐにでも表面の熱は冷ましてくれることだろう。
     しかし、名残惜しくも彼と手を放し、運転中は放せないハンドルを握り込んだとしても。彼女の内の熱だけは一日離れることはなさそうだった。

  • 11◆zrJQn9eU.SDR23/08/02(水) 21:37:44

     部屋に残されたガラスの箱は、そんな彼女の様子を知ることはない。ただ箱にしまわれたものを大切に保つだけだ。
     からん、と溶け残っていた氷が音を立てた。ガラスが響かせるのを手伝うそれを、聞く者は誰もいない。


     誰にも飲み干されない液体が、また小さく音を奏でた。

  • 12◆zrJQn9eU.SDR23/08/02(水) 21:38:55

    以上です。また思いついたので投稿してみます。トレンディかはよく分かりませんでした。

  • 13◆zrJQn9eU.SDR23/08/02(水) 21:42:30
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    過去作です。上二つの下の方のレスからさらに書いたもののリンクがあります。


    こちらもよろしければお読みください。

  • 14二次元好きの匿名さん23/08/02(水) 21:43:50

    トレンディかはわからんが良いものを読ませてもらった

  • 15二次元好きの匿名さん23/08/02(水) 21:53:26

    小切手を置いておくので好きな額を書くといい

  • 16二次元好きの匿名さん23/08/02(水) 22:00:44

    やっぱり砂浜デートの人…!私もトレンディは分からないので「良かった」しか言えない

  • 17二次元好きの匿名さん23/08/03(木) 03:21:01

    乙女で情緒的でよいと思います

  • 18二次元好きの匿名さん23/08/03(木) 13:03:49

    良かったのでトス
    すごい 意識してやられているんだと思うけど なんかちゃんと古いラノベを思わせるの
    なぜそう感じるんだろう 一人称っぽい地の文? 言語化出来ない……

  • 19二次元好きの匿名さん23/08/03(木) 14:28:00

    情景がきちんと浮かんくる上、ストレートに可愛らしいマルゼンで大変良かったです。好き(小並感)

  • 20◆zrJQn9eU.SDR23/08/03(木) 20:13:59

    皆さん感想ありがとうございます。一言でも頂けると嬉しいですし、イラストまであるとは思いませんでした。
    また思いついたら書こうと思います。

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