- 1123/08/12(土) 14:46:25
ぴちゃりぴちゃり、ざっざっ。
堰を切ったかのような土砂降り、一歩足を踏み出せば靴が鳴る。
目下、とてもではないが気持ち良く走るなど出来なさそうな天気であった。
「はあ……もう少し走っていたかったのに」
栗毛の少女は憂鬱そうに呟き、己が水に濡れるのすら気に留めない様子。それを見た通行人の幾人は、彼女を奇異の目で暫し見つめては自身の道へ戻ってゆく。とどのつまり不審者扱いである。
栗毛の少女にとって、走ることとは即ち生命活動に等しい行動である。砂も土も舗装路も、道あらばいざ往かんこそ彼女の本懐。それ以外は二の次だ。
それが雨に降られて走れないとなってしまっては項垂れもする。河川敷のウマ娘用レーンの片隅の陰、しょぼくれた栗毛が一人いた。
「雨は嫌いね……。皆、どうしてるかしら」
ぽつりぽつり、とぼとぼと帰路へ向かう栗毛の少女。さほど遠くもないトレセン学園への道が今は途方もなく遠く感じられた。
「きゃーっ、雨だよ早く帰ろ帰ろ!」
「ちょっと待てって!もーっ」
当たりを見れば幾人かのトレセン学園生徒らしき姿も見える。皆めいめいに何かしか動いているが、誰も大して雨に気を落としているようではなく、栗毛の少女は何だかより一層気分が落ち込んでしまうのであった。
――そう、落ち込むと言えば。
「次のレース、フクキタルも来るのよね……」
今年の夏の上がりウマ娘とも称される、直近ではさくらんぼSで仕上がりの良い末脚を見せた栗毛の少女のライバル。
共にダービーにも挑んだ仲、直接に言ったことは無いけれどきっと親友だと信じている、そんな仲。
だけれどその彼女に比べて自分はどうだろうか。
ダービーでは凡走した上――尤も、これはお互い様だが――に自分の走り方を見失う始末。今もこうしてトレーナーの元を抜け出して一人河川敷を走っていて。 - 2123/08/12(土) 14:49:31
次のレースは必ず彼女と当たる、少女には不思議と確信があった。
GIIの神戸新聞杯、自分の得意距離、普段なら口が滑っても負けるなど言いっこない。
けれど今の自分はどうだ。戦う前からライバルを恐れて、負けるか負けないかで悩んでいる。
これではレースウマ娘失格だ。走るべきでない。
良くない考えばかりが頭を渦巻き、左へ逸れては進路を持ち直し、また左へ逸れては。これでは羅針盤を失った航海士のようなものだ。誰が道標もなしに正しい道を歩めよう。
だが、ぼんやりと歩くだけでは目的を達成することは出来ずとも、ウマ娘にぶつかる事はある。
「いててっ。ってあれ、スズカさん?」
知らず知らずにトレセン学園の校門付近まで辿り着いていた栗毛の少女が、不意に飛び出してきた黒鹿毛の少女と鮮やかに正面衝突した。
「っ、びっくりした……。どうしたの?スペちゃん」
片や前方不注意の余所見運転、片や法定速度超過、もしこれが法の場であれば裁判は困難を極めるだろうが、それ以前に正面衝突をものともしない少女達の身体の頑強さこそ目を見張るものがあるだろう。
それはさておき、件の黒鹿毛の少女は栗毛に問われると首を数度捻ったあと、得心がいったという顔で答えた。
「そう、私スズカさんを探していたんです!」
先程周りが見えず他人に激突した娘とは思えない発言である。
だがしかし、彼女が人を探していたというのならそうなのであろう。彼女が嘘をつくウマ娘ではないことくらい栗毛の少女はよく分かっている。
であらば何故探していたのか聞くのが筋だろう、そう思い栗毛は疑問を返した。
「私?私ならここにいるけれど……」
しかし、どう答えれば良いか分からず語尾が自然と尻すぼみになってしまう。
だが、その返答は彼女の望むものではなかったようで、栗毛――スズカの顔の元へぐいと近寄ると黒鹿毛の少女――スペシャルウィークは大きな声で言った。 - 3123/08/12(土) 14:50:24
あ、あの!私、最近スズカさんが元気なさそうで……何か悩んでるんじゃないかって思って!」
自分の思いを真正面からぶつけるような言葉の圧に、それが些か大き過ぎるので少々みじろぐスズカであったが、同室の後輩に心配をかけたという事実、そして実際に今悩みを抱えているという事実が逃げそうになる足を抑えた。
「……別に、スペちゃんに関係あることじゃないのよ?気にしないで」
けれど、口は隠せど尻尾と耳までは隠せまい。耳は若干しなだれて、尻尾は萎びてだらんと垂れ下がっていて。
これを見て誰が"心配ないウマ娘"と思うだろうか。少なくともスペシャルウィークは思わなかった。
「……本当ですか?でもスズカさん、トレーニングは抜け出すし食堂でも上の空だし……」
つまりはお見通しである。直接何が怖いだの言わずとも、それが態度に出て周知されてしまえば意味が無い。
スズカは暫し逡巡する。それはスペシャルウィークに全てを打ち明けるべきか、曖昧に誤魔化すべきか。 - 4123/08/12(土) 14:51:06
しかし答えはすぐに決まった。要するに、スペシャルウィークという少女は困っている人を見つけたら放っておかないお人好しで、それは傍でずっと見てきた自分だからこそよく知っている。つまり、一度捕まったら逃げられないのだ。
だから。
「あのね、スペちゃん……最近、レースが楽しくなくて」
それからは溢れ出るように次から次へと言葉が出た。本当は先頭を走りたいのに思うように走れないこと、ダービーで凡走して大負けしたこと、何が自分のやりたいことなのか分からなくなってしまったこと。
途中からは自分でも何を言っていたか分からない、半ば心のままに口を動かし続けて、そしてスズカは口をひとたび噤んで息を整える。
「だから、走るってなんだろうって、今日もトレーニングをサボって走りに来てたの。一人で走ってる間は心地好いから……」
じっと、彼女にしては珍しく真剣に話を聞いていたスペシャルウィークは、頃合を見計らって一言スズカに問い掛ける。
「スズカさんは、走るの好きですよね?」
「それは……ええ、勿論」
聞くまでもない質問。であれば何故問うたのか。
それを証明する答えをスペシャルウィークは質問した。すなわち。
――皆の周りで走るのは、好きですか?
スズカは少しドキリとした。確かに幼少から一人で野原を駆け回ったり、競走をしても常に先頭を独り占めしていたり、他人と走った記憶は全くない、それどころか。
「……いいえ、あまり好きじゃないわ」
スズカの胸中に小さな期待が芽生えた。きっと彼女なら、スペシャルウィークなら私の悩みを解きほぐしてくれるのではないかと。 - 5123/08/12(土) 14:53:06
そして、彼女――スペシャルウィークは言い放った。
「じゃあ逃げちゃいましょうよ!逃げも逃げ、大逃げです!」
それは一度、もしくは何度も考えて、けれどその度に現実的でないからと諦めたもの。自分が本心でやりたかったこと。今まで言い出せなかったこと。
「きっとスズカさん、皆と走るの苦手なんですよ。じゃあ逃げちゃいましょう!きっと、その方が楽しいですっ」
ぱきりぱきりと音を立てて不安だったものが瓦解していく。
なんだ、そんな単純な事だったのかと心の中で納得がいって、視野が急速に晴れ渡っていく。
「逃げ、逃げ……。スペちゃん、私、逃げても良いの?」
「はいっ、勿論!やりたいと思った事をやりましょう!」
ああ、やっぱり私は走りたい、レースで"逃げ"がしたい。
そう思えば思うほど、今までが嘘のように心に火が入り、炉心の熱が際限なく上がってゆく。
「ええ、私、逃げで走りたい。逃げで走って、先頭の景色を見たい」
もはやその気持ちは止められず、いつもそうであったように、今走り出したくてたまらない、抑えきれない衝動に駆られる。
「えへっ。スズカさん、さっきよりいい顔になりました」 - 6123/08/12(土) 14:53:38
そしてそれはこの少女、スペシャルウィークがいてくれたから。
彼女の一言がスズカの本心を顕にしなければ、きっとスズカは気付けなかった。
――ああ、やっぱりスペちゃんには助けられてばかりね。
ふっと息を吐いてとんとん、両足の靴の据わりを確かめて靴紐を固く締める。
「ねえ、スペちゃん。良ければだけど、予定は空いてるかしら?」
「ランニングですか?はいっ、私も行きます!」
気付けば空はとっくのとうに晴れていて。もしくは、最初から晴れていたのかも分からない。
ばたばた、ざっざっ。
今までの悩みを全て吹き飛ばすかの如く、堰を切ったような足音がトレセン学園の校門前に響き渡った。
fin - 7123/08/12(土) 14:56:20
ここまでお読み頂きありがとうございました
もしスペがスズカのダービー前から同室だったらというIFをテーマに下記スレッドのお題で一作拵えてみました
(ようやく分かったSSを書ける人は凄いのだ)25|あにまん掲示板「初めてSSを書いてみたら難しすぎて一作品完成させる事ことすらできなかったのだ。スレでハートを50近く貰う人…pixivでランキングに乗る人は雲の上の存在なのだ」 という初代の嘆きに応えて文字書き達が…bbs.animanch.com - 8123/08/12(土) 15:09:37
この後のスレは他作SS感想や野良SS書き様のノートに使ってくださいまし
感想、アドバイスなどありましたら是非お願いします!