- 1◆bEKUwu.vpc23/10/11(水) 20:43:13
『そういえば、いい香りがする人とは遺伝子から相性がいいって、聞いたことがあるな』
朝日が差し込み、小鳥のさえずりが聞こえる。そんな爽やかな一日の始まりに反して、私の体はじっとりと冷や汗に濡れていた。
「……はぁ」
人差し指の背を鼻の下に当て、思い出すのはほんの数日前の失態。トレーナーさんとのお出かけして、その帰り道のことだ。
彼のスマートフォンを盗んで逃げた猫を追いかける最中、池に飛び込むことになった。そこは良い。彼のために濡れることなど惜しくはなかった。でも、問題はその後。
ずぶ濡れになりながらスマホを届けた私。それをねぎらうかのように渡してくれたタオルを香った瞬間、出た言葉がそれだったのだ。
なぜ彼の前であんなことを? 完全に無意識だった。
放った言葉は取り返せない。直後にハッと気づき、その場はなんとか「いつもの自信満々なフジキセキ」を演じて誤魔化せた。
……そのはずだ。
『私の香りは、いい香りかな?』
……あれは本当に誤魔化せたのだろうか? むしろより恥ずかしい言葉で印象を上塗りしただけなのでは?
「……はぁ」
健やかな朝に相応しくない、ニ回目のため息。自業自得といえばその通り。だけど、こんなモヤモヤとした気持ちのまま、トレーナーさんと顔を合わせられるのだろうか?
ポニーちゃんたちには見せられないような、やや肩を落とした自分を自覚しつつ、身支度を始めるのだった。 - 2◆bEKUwu.vpc23/10/11(水) 20:43:42
「いいよ、フジ! 後一周したら上がろう!」
トレーナーさんの声に押されて、コースを周回しながら考える。今日もまた、彼と禄に話せていない。こんなもの、“フジキセキ”じゃない。……出来損ないの私を演じて、逃げることしかできていない。
どうしたらこの気持ちを落ち着けることができるんだろう? いっそ、時間を巻き戻せたなら。あの時の自分の失言を、喉の下に押し込められたら。
そんな夢想に耽っているうちに、いつしかトレーナーさんのもとまで戻って来てしまっていた。
「お疲れ、フジ」
「うん、おつか……れ……?」
どうしよう。こんな対応を続けていたら、いい加減トレーナーさんだって傷付くはず。でも、だけど。
そんな堂々巡りの思考に囚われかけた自分のもとに、突然華やかな香りが届いた。
「? あれ、トレーナーさん、これ……」
「気づいた? ちょっと香水に挑戦してみたんだ」
トレーナーさんから香るのは、花の香り。最後の1周を走り終えるまでは感じなかったし、私が周回している間に付けたのだろうか? 一体なぜ?
それもかなり強めに付けられたようで、彼自身の香りは完全に覆い隠されている。これまでトレーナーさんが香水を使ったことはなかったし、単純に使い慣れていないからかな。
……いや、違うか。
そっか、そうだよね。これはきっと、遠回しな意思表示。彼の気遣い。
いくら担当だからって、トレーナーさんも気持ち悪いって思うだろう。あの時の言動は私らしくなかったし、何よりセクハラだって言われてもおかしくない内容だった。
今日のトレーニングも終盤で、トレーナーさんも汗をかいたことだろう。それを隠すため、そして私への忠告のため、か。
だとすれば、ああ、なんてことだろう。たった一つの過ちが、こんな簡単に、私たちの関係に罅を入れるだなんて。
……もっと一緒にいたかったけど、私から契約を切る話をするべきだろうか? 俯いた顔を上げることができない私は、
「この香水の元になった花はね、“藤の花”っていうんだよ」
続く言葉で、陽の光に照らされた。 - 3◆bEKUwu.vpc23/10/11(水) 20:44:20
「え?」
思わず顔をあげる。目の前には彼の笑顔が咲いていた。
「ほらこの間、『いい香りがする相手とは相性がいい』って言ってただろ? だから僕自身、もっと君に相応しくなれるように……例えば、エンターテイナーが胸に刺すような……舞台に立つ、そのそばで一緒にいられるような、その……」
ちょっとだけ恥ずかしそうに、彼が頬を掻く。
「君の、“フジの花”になりたかったんだ」
ついに彼は夕日の下でも分かるくらい顔を赤く染め、それでも視線は私から逸らすことなく、そんなセリフを言い切った。
思い出すのはクラシックの夏。あの時の彼は手品にこそ失敗したけど、格好良かった。驚かされた。そして、目の前で「サプライズは成功かな?」なんて笑う彼は、あの時よりずっと――
そうだった。
この人は本当に、ここぞという場面で私の心を打ち、射抜いて来た。私にとって最高の……ああ、そうか。だから、私はこの人が。 - 4◆bEKUwu.vpc23/10/11(水) 20:44:40
「うん、確かにいい香りだね」
真っ直ぐと、目の前の男性を見る。
まだ少し恥ずかしげな表情に隙が見える。丁度いい。このまま負けてなんかやるもんか。
「君の想いは伝わったよ? だけど、ちょっと安直がすぎるんじゃないかな」
「やっぱりかぁ」
「ダジャレみたいだよね」なんて残念がる君が、なんだか可愛らしい。さっきまであんなに格好良かったのにね。でも、そうじゃないんだ。君が送ってくれた香りが嫌いな訳じゃないよ? 私が本当に好きな香りは、香水なんかじゃなくてさ。
無意識なんかで口にしちゃ駄目だ。今度ははっきり、自覚を持って伝えよう。
「せっかくだけど、香水なんて必要ない。私は、君のままがいいな。混じりっ気のない君そのものが、隣にいてくれるだけで良いんだ」
彼の顎に手を伸ばし、私は“フジキセキ”に戻る。触れた指先から、彼自身の熱を感じる。
「私にとっての“人生最大の幸福”とは、君とこの先ずっと、共に歩むことだから」
恥ずかし混じりの笑みが驚きに代わり、彼の瞳が夕日に照らされてキラキラ輝いている。……手応えは十分、だろうか。
ほんの数秒の間を経て、未だ混乱の中にいるトレーナーさんからゆっくりと指を離す。
さて。
「……元気も出たし、もう一周だけ走ってこようかな。それまでに、返事を考えておいてね。トレーナーさん?」
正直もう限界だ。高鳴る胸が、走りたい衝動を体中に唸らせている。立ち止まってなんかいられない。今なら自己ベストも更新できるかもしれない。
攻めるだけは攻めた。演じるだけは演じた。彼を魅せられたかどうかはこの演目の後に分かるはず。
指先に残る熱に勝利を確信しつつ、私は芝の上を駆け出した。 - 5◆bEKUwu.vpc23/10/11(水) 20:45:04
おしまい
ここまで読んでいただき、ありがとうございました! - 6二次元好きの匿名さん23/10/11(水) 20:50:22
いいものを読ませて頂きました…(拝み)
藤の花言葉
「歓迎」「恋に酔う」「忠実な」「優しさ」「決して離れない」 - 7二次元好きの匿名さん23/10/11(水) 20:52:34
良かったよ
ネタにされがちなスレ画とは違う方向でびっくり - 8二次元好きの匿名さん23/10/11(水) 20:55:55
真面目なフジキセキを久々に見た気がする(妄言)
- 9二次元好きの匿名さん23/10/11(水) 20:57:11
乙女フジ寮長は健康に良い
もっとちょうだい - 10二次元好きの匿名さん23/10/11(水) 21:03:10
ゲノハラ発言を後で恥じるフジキセキ概念か、いいね
- 11◆bEKUwu.vpc23/10/11(水) 21:07:39
- 12二次元好きの匿名さん23/10/11(水) 21:53:22
真面目な方の寮長いいね…
- 13◆bEKUwu.vpc23/10/11(水) 22:18:18
- 14二次元好きの匿名さん23/10/11(水) 23:23:43
しっとり後つよつよフジは私性合
- 15◆bEKUwu.vpc23/10/12(木) 00:35:31
ありがとうございます!
自信満々つよつよなフジキセキは彼女の理想であり、演技であり、本心
一方で弱気になったり、不意に素が出てしまった彼女もまた彼女自身
ちょっと俯瞰しながら考えると、育成ストーリーの言葉一つとっても味わい深く感じますよね
- 16二次元好きの匿名さん23/10/12(木) 08:09:08
改めてイベ見るとたしかにちょっと無意識っぽいセリフなのよね
- 17◆bEKUwu.vpc23/10/12(木) 12:04:43
- 18二次元好きの匿名さん23/10/12(木) 12:18:22
フジと藤
鼻と花か
ふふっ - 19◆bEKUwu.vpc23/10/12(木) 21:14:11