- 1二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 02:01:08
おれたちの朝は、仄暗いままの部屋から始まる。
ルビーと一緒の部屋で暮らしていた頃と同じだけど、大きく違う点が二つ。
一つは、俺の方が早起きであるということ。
そしてもう一つは、とても布団の中が暖かいということ。
「……ふふっ」
目を開ければ、同じ布団で、心地良さそうに寝息を立てている彼の姿。
それを見ていると、自然と顔が緩んでしまう。
時間が許すなら、ずっと見ているたくなるような、幸せそうな顔。
おれなんかが、独占してしまっていいのかと思ってしまう。
あはは、こんなことを考えていたら、また怒られちゃうな。
このまま寝かせてあげたいけど、お互い仕事があるから、起こさないと。
おれは心を鬼にして、彼の頬に優しく触れた。
────おれと、そして彼の、お気に入りの起こし方。
ひんやりとしたおれの手は、穏やかで気分良く目覚められるみたい。
そしておれも、彼の熱を感じながら、覚醒していく顔が見られて、好きだった。
彼はゆっくりと目を開けて、おれに気づくに、微笑んだ。
おはようミラクル、その言葉を聞くだけで、心がぽかぽかしてくる。
おれも彼に微笑みを向けて、言葉を紡ぐ。
「おはようございますトレーナーさん……あはは、間違えたね」
慣れ親しんだ呼び名を、つい呼んでしまう。
うん、いけないな、そう呼んでたのは随分前なのに、未だに抜けきらない。
今はもう、レースを共に駆けるトレーナーとウマ娘の関係じゃないんだ。
人生という名の道を共に歩んでいく、伴侶なんだから。
改めて、おれは彼を呼ぶ。
間違えないように、しっかり一文字ずつ心を込めて、愛しい人の名前を。 - 2二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 02:01:23
起きる時間が一緒だから、仕事がある日の朝食は簡単なものが多い。
シリアルに、サラダと、スムージー。
本当は朝から手の込んだものを食べさせてあげたいけど、仕方がない。
お互い、帰る時間が不安定だから、朝だけは出来るだけ一緒に食べよう。
それが彼と一緒に暮らす時に交わした約束。
そのためにも朝の調理は無理をせず、簡単なもので済ませることになっていた。
「コーヒー、どうぞ」
朝食を摂り終えた後、少しだけ時間があったのでまったりと過ごす。
その最中、彼は思い出したように、冷蔵庫から包みを取り出した。
青色の鳥が描かれた、可愛らしい巾着袋。
おれはその中身を察して、じっと彼を見つめながら、ため息をついた。
「はあ、大変だろうから捕食はもう作らなくて、言ったのに」
彼は、ついクセになっちゃって、と苦笑していた。
そんな彼を見ていると怒る気もなくなって、笑みが零れてしまう。
現役時代、食の細いおれをずっと支えてくれた、数々の捕食。
もうそこまで栄養を摂らなくても良いけれど、一緒に暮らしてからは毎日作ってくれた。
……今やプロ顔負けの腕前で、おれの女としてのプライドが傷つくのだけど。
でも相変わらず、おれのことを想って、考えて、気持ちを込めて作ってくれている。
「ありがとう……実は、毎日楽しみにしてるんだ、おれ」
それを受け取って、嬉しくないわけが、ないんだ。
巾着袋を手にとって、ぎゅっと抱き締める。
冷蔵庫から取り出したばかりなのに、ほんのりと温かい気がした。 - 3二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 02:01:38
おれは今、理学療法士をしている。
おれを支えてくれた、たくさんの人達のように、誰かを支えていきたい。
そんな想いで、現役時代から少しずつ勉強をして、目指した未来。
まだまだなったばかりで、大変なことばかりだけど、やりがいのある仕事だ。
午前のリハビリを終えて、少し遅い昼食を摂る。
病院の売店で買ったサンドイッチとサラダとお茶、それに巾着袋。
途中でつまむタイミングはあまりないので、一緒に食べることが多い。
彼もそれを知っていて、主にデザートを用意してくれている。
「あら先生、またデザートがあるんですね?」
看護師さんが、後ろから覗き見るように声をかけてきた。
努めている病院のベテランで、おれにも良くしてくれている人だ。
「はい、まだ中身は見てないんですけど」
「一緒に見せてもらっても良いですか? 先生のデザート、華やかで楽しみなんです」
「もちろん、どうぞ」
そう言って、看護師さんはおれと隣に腰かけた。
彼からもらった巾着の中身は、食べる直前まで見ないようにしている。
楽しみは、最後まで取っておきたいから。
どきどきと高鳴る心臓を抑えながら、おれは袋の中身を取り出した。
茶色がかった白のムース、表面には焼き目のついたバナナと、ホイップクリーム。
そして、飾り付けに乗った、チョコククランチとミントの葉。
おれの好物で、初めて彼が作ってくれたもの。
「わあ、バナナムースだ……!」
「おっ、美味しそう……! せっ、先生、一口だけ……!」
「ふふっ、一口だけですからね?」 - 4二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 02:02:02
そう言うと、看護師さんはいそいそと備え付けのスプーンを持ってきた。
少しだけ掬い上げて口に入れると、幸せそうに顔を綻ばせた。
「ん~! ふわふわで、まったりとしていて、それでいて程よい甘さ!」
「うん、本当に美味しい、また上手になっちゃってるなあ」
「前のババロアも凄かったですよね……確か、旦那さんが作ってるんでしたっけ?」
「はい、お菓子作りだけじゃなくて、料理も上手で、困っちゃいます」
「確かトレセン学園のトレーナーさんでしたよね? 多芸で凄いんですねぇ」
「……! はい、おれのトレーナーさんは、すごいんです!」
「あっ」
────気が付いたら、十分近く彼について語っていた。
呆れた表情の看護師さんの顔を見て、ようやくやらかしに気づく。
……またやってしまった。
彼が褒められると、つい気持ちが高ぶって、彼の自慢をしてしまうのだ。
おまけに素でトレーナーさん、と呼んでしまって、恥ずかしいことこの上ない。
熱くなった顔を両手で押さえて俯くと、看護師さんは楽しそうに笑った。
「あはは、先生、普段は穏やかなのに旦那さんのことになるとコレですね」
「……すいません、つい」
「デザートの代金だと思っておきますよ、ご馳走様でした」
「……はい、時間をとらせて、ごめんなさい」
「仕方ないですよ、自慢のだ・ん・な・さ・ま、ですからね?」
「あうぅ……」
からかわれて、おれはますます小さくなってしまうのだった。 - 5二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 02:02:24
この日は、定時に仕事を終えられた。
スマホでLANEを確認すると、彼の方は少しだけ遅くなるみたい。
……じゃあ、今日はおれが料理を作るチャンスだ。
彼にその旨を伝えて、帰りにスーパーによって、材料を買い集める。
今日は少し寒くなってきたから、身体が温められるシチューを作ろう。
帰宅して、お風呂の用意をして、晩御飯の支度。
それらが一通り終わった頃────ガチャと、扉が開く音。
耳が勝手にピンと反応して、尻尾がぶんぶん動き回るのを抑えられなくて。
気が付けば小走りで、玄関に向かっていた。
「おかえりなさい……!」
彼はただいま、とおれに向けて笑顔を向けてくれる。
それだけでとても嬉しくなって、彼に駆け寄って、鞄を受け取った。
ふわりと、鼻先に、彼ともおれとも違う匂いが吹き抜ける。
思わず、眉間に皺を寄せてしまう。
それに目敏く気づいた彼は、心配そうに、どうしたの? と声をかけた。
「うっ、ううん! なんでもない、お風呂もう入れるよ!」
彼は少しだけ考え込むと、じゃあ入っちゃうね、と言った。
お風呂場に向かい彼の背中を見ながら、おれは鞄をぎゅっと抱き締める。
自分の匂いを、めいっぱい、彼の鞄につけるように。 - 6二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 02:02:42
さっき、彼から感じた匂いは、今の彼の担当ウマ娘の匂い。
トレーナーを生業にしている以上、おれが引退した後は、別の子と契約する。
それは仕方のないこと、それはおれも望んだこと。
彼はおれが最初で最後の担当でも良い、と言ってくれた。
おれは彼に、最初で最後にしないでください、とお願いした。
それなのに、他の子の匂いをつけていることが、とてももやもやしてしまう。
「……バレて、ないかな」
いつもなら、ご飯を先に食べるのに、お風呂を薦めた理由。
その子の匂いをいち早く落として欲しいという、おれのわがままだということを。
◇ ◇ ◇
一緒に食事を終えて、おれがお風呂から上がって、ゆっくりと時を過ごしている時。
彼は思い出したように鞄の中から、巾着袋を取り出した。
それを見て、ずきりと心が痛んでしまう。
彼は中から一口サイズの手作りマフィンを取り出して、余ったから食べない? と問いかけた。
……これも、仕方のないことだ。
おれを担当していた頃に得た技術や経験は、トレーナーとしての彼の財産。
今の担当ウマ娘に対してもその財産を使わなければ、その子に対して失礼だろう。
もう、おれだけのトレーナーさん、ではないのだから。
わかっている。
わかっている、のだけど。
胸の最奥から、めらめらと醜い嫉妬の炎が、燃え上がってしまう。 - 7二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 02:03:08
「……あーん」
おれは、彼に対して口を開いた。
食べさせて欲しいと、甘えるように、この場にいない彼女に当てつけるように。 - 8二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 02:03:30
優しい彼は何も言わないまま微笑んで、おれの口にスコーンを運んでくれる。
そんな彼の指先ごと、おれはぱくりと食べた。
こっそり舌先でちょっとだけ、彼の指を舐めたりなんかして。
スコーンは、とても濃厚な甘さがして、それにとても熱くて、頭も胸もぽかぽかして。
……いや、きっとそれは、おれが勝手にそう感じてしまっているだけだ。
「ご馳走様、とっても甘くて、美味しかった」
おれがそう伝えると、彼はそうだったかな、と首を傾げる。
あの子は今減量中だから甘さは控えたはずなんだけど、とも付け足して。
それが、どうしようもなく、気に入らない。
気が付けば、焼け付くような衝動が、身体を勝手に動かしていた。
「……甘さのお返しを、したいんだ」
おれは彼に顔を近づけて、そのまま唇を重ねた。
何度も、何度も、啄むような短いキスを繰り返して、時より深く、じっくりと、
彼の熱が、想いが、心が、鼓動が、伝わってくるようで。
おれの熱が、想いが、心が、鼓動が、伝わってしまうようで。
蕩けるような時間を、過ごしてしまう。
気が付けば、彼に絡みつくようにソファーの上に倒れ込んでいた。
彼はもう、おれだけのトレーナーさんじゃない。
だけど、彼はおれだけのもので、おれも彼だけのものだから。
おれは、彼の名前を呼んだ。
そしてこの胸に溢れる衝動を、情欲を、そのまま吐き出すようにぶつける。
「おれと、このまま、“奇跡”を育んで欲しいな……?」 - 9二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 02:04:02
おれたちの朝は、仄暗いままの部屋から始まる。
布団から感じる冷たさから、夢を見ていたのだと、おれは気づいた。
……なんて夢を見てしまったのだろう、思わず顔が熱くなってしまう。
「……おはようございます、ミラクルさん」
「……っ!? おっ、おはよう、ルビー、今日も早起きだね」
「ええ、ミラクルさんも」
いつも通りのやり取り。
けれど、大きく違う点が二つあった。
一つは、ルビーがおれのことをベットの横でじっと見つめていたこと。
もう一つは、何か言いづらそうな表情で、顔を少しだけ赤らめていたこと。
彼女は少しだけ逡巡すると、やがて小さくため息をついた。
「……ミラクルさん、失礼ながら一つだけ忠告を」
「えっと、なにかな」
「あまり夢を見ない方が宜しいかと」
……えっ、なんか急にすごい辛辣なことを言われた気がする。
ルビーは失言に気づいたかのようにハッとして、小さく頭を下げた。
「失礼しました、前言を撤回させてください」
「うっ、うん、それは別に構わないけど」
「人前で居眠りなどはしない方が宜しいかと、では先にグラウンドへ行かせていただきます」 - 10二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 02:04:46
それだけ言い残すと、ルビーは少しだけ急いだ様子で、部屋を出てしまった。
……なんだか、珍しいな。
言葉を間違えるのもそうだけど、いつもならおれが支度するまで待ってくれるのに。
それに、忠告の意図も良くわからない、確かに居眠りはしない方が良いと思うけど。
ふと、思い出す。
母さんに、小さい頃から良く言われたこと。
『ケイちゃんは本当に寝言が大きいわねー』
そして、思い返す。
先ほど、ルビーから言われた忠告を。
『あまり夢を見ない方が宜しいかと』
『人前で居眠りなどはしない方が宜しいかと』
そして、妄想に近い夢の中での、おれの言葉を。
何故か、今日だけは、ひどく鮮明に、夢の光景を覚えていて。
「~~~~~~っっ!!?」
おれは恥ずかしさのあまり、頭から布団をかぶってしまう。
ああ、ルビーになんて弁明をしようか。
────トレーナーさんと、どういう顔で会えば良いのか。
悶々とした思考のまま、朝の貴重な時間は過ぎ去っていくのだった。 - 11二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 02:06:44
お わ り
細い方のミラクルいいっすね…… - 12二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 02:32:05
すごく良かった…
隠れて鞄に臭いつけるの好き - 13二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 02:47:33
これはどうしようもなく離れたくないミラクル...
- 14123/10/15(日) 07:04:27
- 15二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 08:16:13
朝から良いもの読ませてもらった
この後トレーナーさんに出くわして気まずくなるケイちゃんが見たい… - 16二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 08:43:26
独占力マシマシケイちゃん素晴らしい...
- 17二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 08:59:46
寝言ってどの部分なんだ?知りたいね…
- 18二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 09:51:43
これは恥ずかしい……
太い方も細い方も良いよね…… - 19二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 10:21:36
素晴らしい……こんなに素敵なssを読めるなんて
ぜひ正夢になってほしいですね - 20二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 10:36:55
あぁ"〜浄化されるぅ"〜
- 21二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 17:57:12
いい…すごくいい……
- 22二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 19:54:09
良いですね
- 23123/10/15(日) 21:42:14
- 24二次元好きの匿名さん23/10/15(日) 21:43:36
あなたは神か
- 25123/10/15(日) 23:05:53
ケイちゃんは女神です
- 26二次元好きの匿名さん23/10/16(月) 09:26:25
ええやん……
- 27二次元好きの匿名さん23/10/16(月) 10:22:30
いい…
子供にも囲まれて幸せになれ…… - 28二次元好きの匿名さん23/10/16(月) 11:00:57
ほんの少しの独占欲が俺を狂わせる
- 29123/10/16(月) 20:54:50
- 30二次元好きの匿名さん23/10/16(月) 23:00:17
ケイちゃんいいよね……いいもの読ませてもらった……ありがとう……
- 31123/10/17(火) 00:47:24
- 32二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 02:19:11
最後の方の寝言だけで察された上に忠告までされたってことは、似たようなことが何回もあったってことやん?
- 33123/10/17(火) 12:34:03
毎回シチュエーションが異なるのかもしれない
- 34二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 12:42:18
あまりに恥ずかしい寝言をルビーに聞かれたことが発覚した後。
おれは何とか立ち直り、ルビーに追いついて誤解を解いた。
……いや、そういう夢を見ていたのは紛れもない事実で、誤解ではないんだけど。
とにかく弁明には成功し、いつも通りの関係に戻ることが出来た。
ルビーの方は、それで大丈夫。
おれにとって大丈夫じゃないのは、別の相手。
「……ミラクル? もしかして調子悪いのか?」
突然、心配そうなトレーナーさんの顔が、目の前に飛び込んできた。
心臓がどきりと高鳴って、身体がぴくんと跳ね上がり、尻尾がぴょんと逆立つ。
緊張のあまり敏感になった耳が、周囲の喧騒と足音を拾い上げた。
……どうやら、おれはトレーニング中に、グラウンドでぼーっとしてしまったみたい。
トレーナーさんが心配して当然、そして何より、トレーナーさんに失礼だった。
まずは謝罪しないと、と思うのだけれど。
トレーナーさんの顔を見るだけで夢のことを思い出して、頭が真っ白になる。
これではいけない、おれは意を決して、元気であることをアピールした。
「ごっ、ごめんなさい、おれ、元気ですから! うぇ、うぇーい!」
「…………ちょっとごめんな」
さらに心配そうに表情を歪めたトレーナーさんがさらに一歩近づいて来る。
目と鼻の先に、彼の顔があって、心臓の鼓動がドンドン早くなってしまう。
そして、おれの額に、優しく彼の手のひらが触れた。
温かいはずのトレーナーさんの手の熱が、あまり感じられない。
その事実におれは一瞬だけ不安を覚えてしまうけれど、理由はすぐにわかった。
「少し熱があるのかな? 顔も赤いな、咳とか頭痛とか、そういう症状は?」
「あっ……! トッ、トレーナーさん、本当に、大丈夫だから……!」 - 35二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 12:42:52
おれの顔の方が、熱くなってしまってるからだ……!
顔を見ただけでそうなってしまう子だと思われたくなくて。
トレーナーさんから一歩離れようとした、その瞬間だった。
踵に何かが引っかかって────ぐらりと視界が揺れた。
「わっ……!?」
「ミラクルッ!」
身体の重心が乱れて、全身が傾き、背中から落ちていくような感覚。
立て直しは出来ず、おれは来るべき衝撃に備えて目を閉じる。
その直後、ぐいっと心強い力が、おれの身体を前方に引っ張り上げた。
目を開ければ、トレーナーさんの必死な顔。
おれの身体はそのまま彼の方へと倒れこみ、ぽすんと彼の胸の中に収まる。
そしてそのまま、おれを支えるように、ぎゅっと抱き締めてくれた。
トレーナーさんの優しくて、頼れる温もりが、全身を包み込む。
トレーナーさんのお菓子の甘さの混じった匂いが、鼻先から脳を刺激する。
トレーナーさんの早鐘を鳴らす心臓が、耳から直接伝わってくる。
────夢の中で、彼と一緒の布団に入っていた光景が、リフレインする。
「あ……う……」
「危なかったぁ……ミラクル、怪我はない? ごめんな、すぐ離れるから」
トレーナーさんからの言葉に、おれは反応を返すことが出来ない。
触れてしまった彼の体温が、吸ってしまった彼の香りが、聞いてしまった彼の鼓動が。
おれの心をがっちりと捉えて、離してくれないから。 - 36二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 12:43:09
「えっと、そうされると、離れられないんだけど」
「……えっ?」
困惑しているような、トレーナーさんの声。
……どういうことなんだろう。
おれのことを抱きしめてくれているのは、トレーナーさんのはずなのに。
そして、即座に気づいてしまう。
もうすでに彼の手は、おれの身体から離れてしまっていることに。
そして、おれの両手が、彼の背中に回っていることに。
つまり現状は────おれがトレーナーさんに抱き着いている状態。
離してくれないのは、おれの方だった。
「ごっ、ごめんなさい、おれ……っ!」
「ああ、大丈夫だよ、無事で良かった」
優しく頭を撫でてくれるトレーナーさん。
その大きくてごつごつとした手は、おれの心を不思議と落ち着かせてくれる。
穏やかで、温かくて、優しくて、安心して、とても居心地が良い。
きっと、今だからこそ許されている、特別な場所。
そして────いずれは離れて、誰かの物になってしまうかもしれない場所。
気が付けば、背中に回していた腕に、力が強くなっていて。
ぽつりと、おれの口からは本音が零れ落ちていた。
「…………もう少しだけ、こうしてても良いですか?」
トレーナーさんは何も言わず、そのまま、頭を撫で続けてくれた。
おれは、ウソをついた。
本当は、ずっとこうしていたいと、思っていたのに。 - 37二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 12:43:24
十分ほど経過して、ようやくトレーナーさんから離れることが出来た。
だけど、おれの頭の中はほわほわしてしまって、全く使い物にならない。
そんな情けない有様を見かねた彼は、一つの提案をした。
「とりあえず、休憩にしようか」
「…………はい、本当にすいません」
「気にしないで、むしろいつも頑張り過ぎなんだから、今日はゆっくり行こうよ」
グラウンドの外れにある木陰にシートを敷いて、二人で腰を下ろす。
先ほどまで感じていた胸いっぱいの幸福感と、それを失った寂寥感。
そしてまともなトレーニングが出来ていない罪悪感と自己嫌悪で、気持ちはぐちゃぐちゃ。
体育座りのまま、顔を自分の膝に埋めるように俯いてしまう。
ああ、今日のおれは、本当におかしい。
トレーナーさんに、いっぱい、迷惑をかけてしまっている。
早く気持ちを落ちつかせて、立て直さないと。
そう考えている矢先、ふわりと香ばしさを含んだシナモンの匂いが流れて来た。
「これ、作って来たんだ、食べてくれる?」
トレーナーさんの方を向けば、そこには小さなタッパーに入った一口サイズのマフィン。
しっとりとしていて、ふわふわで、とても美味しそうで。
夢の中で出て来たそれと、全く同じで。
トレーナーさんがおれなんかのために、手間をかけて作ってくれたもの。
そして、おれが引退した後は、他の誰かのために作るであろうもの。
ちりちりと、心に火種がくすぶる。
まだ存在すらしない誰かに対して、おれは嫉妬の火を灯そうとしていた。 - 38二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 12:43:50
「……あーん」
「えっ」
気が付けば、夢の中と同じように、トレーナーさんに向けて口を開いていた。
彼は目を丸くした後、焦った様子で目を右往左往させている。
当然だ、今までこんなことを望んだことなんて、なかったのだから。
今日のおれは、おかしい。
おかしいんだから、おかしな行動をするのは、仕方がない。
そんな身勝手な理屈で、おれは彼の手が口の中にくるのを、じっと待っていた。
「……今日のミラクルは、甘えん坊なんだね」
トレーナーさんは小さく笑いかけながら、おれの口にマフィンを運んでくれる。
そんな彼の指先ごと、おれはぱくりと食いついた。
こっそり舌先でちょっとだけ、彼の指を舐めたりなんかして。
マフィンはとても濃厚な甘さがして、それにとても熱くて、頭も胸もぽかぽかして。
まるで、夢の中を再現しているみたいで。
────あの夢だと、この後はどうなったんだっけ。
まるで何かに操られているかのように、おれの身体は彼に近づいていく。
イケないことだとわかっているのに、止まることが出来ない。
いや、止まる気になれない。
だって、これを望んでいるのは、紛れもないおれ自身なのだから。
無防備に微笑むトレーナーさんは、おれが何をしようとしているのか気づいていない。
まるで恋人のようにスムーズに、まるで悪女のように強引に。
光に引き寄せられる蝶のように、おれの顔は彼の唇へと向かう。
おれとトレーナーさんの間には、障害はない。
おれの愚行を止められるのは誰────。 - 39二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 12:44:08
「ウチ! ウチ! ウチ! ウチ! Uchi! Uchi!」
────なんか急に来た。
太陽のように眩しい笑顔、見てるだけで元気になる底抜けの明るさ。
ダイタクヘリオスは、おれとトレーナーさんの間に入り込むように現れた。
「ミラてんミラトレウェーイ! わ、このマフィン、ミラトレが作ったん!?」
「あっ、ああ、そうだよ、一個食べる?」
「マ!? あざまる水産~! あむ! ………………えっ、ヤバ」
「急にすんとしないでよ、えっと、なんか変だった?」
「美味すぎっ! 美味通り越してボ美ってるっ! マジでレベチなんですけど!」
「……あー、うん、ありがとう、大袈裟な気もするけど」
「ミラてんがテンアゲしまくるのもそれなー! って感じっしょー! ねー!」
そう言いながら、ヘリオスはおれにぎゅっと抱き着いて来る。
トレーナーさんとは違う温もりに、曇っていた思考が晴れ渡っていく。
そして────ようやくおれは正気を取り戻した。
かあっ、と燃え盛るように頬が熱を持ってしまう。
おれは、なんてことを、していたんだ。
抱き着いただけでは飽き足らず、あーんしてもらって、更には。
……ヘリオスがいなかったら、大変なことになっていただろう。
もしかしたら伝わらないかもしれないけれど、これだけは言っておきたかった。
「……ありがとう、ヘリオス」
「あー、うーん」
すると、ヘリオスは珍しく言いづらそうに目を逸らした。
そもそも何故、彼女は急に割り込んできたのだろうか。
疑問に答えるように、彼女は苦笑いを浮かべつつ、周りを見渡して言った。 - 40二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 12:44:35
「……ちな、すでに手遅れ、的な?」
ヘリオスの言葉に、おれは慌てて周囲を見回した。
顔を赤くして、なんともいえない表情を浮かべるパーマー。
同じく顔を赤くして、注意するべきか渋面をみせるバンブー。
両手で顔を覆いながらも、指の間かしっかりこちらを見てるヒシミラクル。
いつもの表情を崩さないものの、尻尾や耳が明らかに反応しているルビー。
とても気持ち良さそうに風を浴びているゼファー。
他多数。
おれがみんなの視線に気づいた瞬間、ゼファー以外の全員が同時に目を逸らした。
直後、学園のアナウンスが鳴り響いた。
たづなさんの、少しだけ低い声。
『ケイエスミラクルさんの担当トレーナーは、大至急、理事長室までお越しください』
「あれ、急に呼ばれたな」
「……うん、ごめんなさい、トレーナーさん」
「なんでキミが謝るのさ、ちょっと行ってくるから、このメニューを出来るだけで」
「…………はい」
首を傾げながら立ち去るトレーナーさん。
周囲の皆は、行先が処刑台であることを知らないで連れ出される罪人を見るような、憐憫に満ち溢れた目で彼を見送った。
やがて彼が完全に見えなくなるところまで行ってしまった後、周りの子達は一斉に近づいて来る。
……おれのほうも地獄のような時間を過ごすことになるのは明白だ。
残ったマフィンをちらりと見ると、それだけで夢と、さっきの光景が蘇ってしまう。
甘さと、熱さと、迸るような想いが、蘇ってしまう。
「……もうおれ、マフィン食べられないかもしれない」
すごい目をしながら迫りくる皆を見ながら、おれは小さくため息をついた。 - 41二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 12:46:06
お わ り
書いてる途中に最初の話でマフィンが急にスコーンにすり替わってることに気づきました
夢の中であることを示す伏線を無意識に配置してたんやろなあ…… - 42二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 12:52:47
独占力高めなミラクル好き、最高
- 43二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 13:10:52
突然の睡蓮花でダメだった
トレーナーさんは最初の方の歌詞書いてた人みたいにされるのだろうか… - 44二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 13:24:50
ありがとう…ありがとう…
- 45二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 14:25:28
またしても何も知らないケイトレさん…
完全に貰い事故なんだよなあ - 46二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 14:30:10
- 47二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 14:34:30
続編来てる!
夢の内容思い出しちゃうのかわいい…… - 48二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 16:25:05
すごくいい……ドギマギしちゃうケイちゃん可愛い……あとケイトレは強く生きろ
- 49123/10/17(火) 21:32:43
- 50二次元好きの匿名さん23/10/17(火) 21:40:42
もっと…もっと続きを読みたい…
良すぎる…いくらなんでも良すぎてタヒn - 51123/10/17(火) 22:38:17
これ以上の続きは何を書けば良いんだろう……
- 52二次元好きの匿名さん23/10/18(水) 03:00:31
- 53123/10/18(水) 07:43:10