- 1二次元好きの匿名さん24/01/12(金) 23:05:14
- 2二次元好きの匿名さん24/01/12(金) 23:05:27
おそらくそれは、嵐だった。
薄い胸が熱く、熱く燃えていた。喉を焼きながら鋭く息が迸る。足裏がターフを深く踏み、蹄鉄が土塊と濁った緑を蹴り上げる。脹脛がゴムまりのように伸び鍛えた腿に鞭を入れる。前へ、前へ、もっと前へ! はためくコートも鬱陶しく絡む髪も完全に意識の外だった。己の心臓が蒸気でも揚げるかのように煩く脈打つ音しか聞こえない。視界すらあやふやで、曖昧なすがたかたちの背が遠のく。たとえその背を追い越したとて、右を、左を、別の怒号が追い抜いていく。
ここは、そんな直線。
中山レース場、310メートルの、最終直線。
「中山の直線は短いって言うだろ?」
今日という日を賑わしていた観客はとうに去っていた。保守点検及び整備があるのだろう。年内すべてのレースを終え、幾多の蹄鉄により荒れた緑の芝を、照明柱の光がぼんやりと冷たく照らすスタンド前。
学園指定の紺色のコートの薄いポケットに両手を預け、ナカヤマフェスタが息を吐けば白く夜に溶け込んだ。常に暴れる癖毛を巻き込む形で大判のマフラーが首元を隠していたが細身のシルエットはどこか心許ない。
「定番の解説だよね」
そう応えるのはメイクデビュー前から彼女と共に歩んできたトレーナーだった。コートを着込んではいるが既に赤鼻。こちらも口を開けば呼気が凍るかのようだったが脈絡のない担当ウマ娘の言葉に応えることへの躊躇いはない。
日はとうに暮れた。見上げた空には星が輝いていたがバ場を照らす光に気配を消していた。低い位置に月が浮かんでいる。しかしそれらはトレーナーの視界に映らない。
照明が届いていない暗がりの第四コーナーから眠るターフビジョンへ行き着く前、丁度彼女の正面となる直線、坂の始まりを見つめていたナカヤマフェスタの華奢な背を、言葉一つ鼓動一つ聞き逃すまいと静かに見つめている。
衰えたとまでは行かない。しかし随分と細くなっていた。体重が極端に落ちたわけでも筋肉の嵩が減ったわけでもない。磨りガラスの向こうにその姿を見たときのような儚さがそこにある。
メイクデビューから幾つもの季節が巡った。春も夏も秋も、そして今は冬の只中。その印象はしんしんと落ちる影に侵食された三日月だ。 - 3二次元好きの匿名さん24/01/12(金) 23:05:49
一歩。長く伸びる影が動いた。本馬場と観客席を隔てる境界をナカヤマフェスタが予備動作もなく乗り越えた時、トレーナーが心配したのは彼女の何にも守られていない手のひらの事だった。寒がりのくせに手袋は鬱陶しいからと晒した手が痛い程冷たいだろう鉄製の柵に手をかける。
最も、それしきの事で鼻白むような娘ではない。白息棚引くその背を追いかける担当トレーナーに逡巡はなかった。
最短距離で何とか柵を越えようとバタバタしていると、少し離れた場所に立つ担当ウマ娘は瞳を和らげたようだ。
「"ここ"にはあんまいい思い出がねぇんだよなァ」
担当トレーナーが何とか馬場内に侵入するのを視界の端に、ナカヤマフェスタの声音は随分と芝居がかったものだった。
セントライト記念を勝ちはしたものの、京成杯、皐月賞とナカヤマフェスタは苦渋を舐めている。
坂を登り切り脚を伸ばすも届かなかった京成杯。後続に鋭く差し切られた皐月賞。短く長い1.5ハロンの激闘は随分と過去のものとなってしまっていた。
「かたや焦って無駄にスタミナ食って仕掛けようにも仕掛けきれず、かたや根気で坂を登りきっても後ろの連中に躱される。……噛み合わないのは始末に悪い」
一歩、二歩。
担当ウマ娘がゆっくり坂を登り始める。心臓破りとも言われるその坂を、踏みしめるようにして。置いて行かれてはならない。足許が縺れそうになるのを堪え、トレーナーもまた、十秒程度遅れて土と緑の匂いが鼻につくその道に足を踏み出した。
しかし相手は歴戦のウマ娘。トレーナーとてコンディションの悪いターフを歩くことはあるがけして得意なはずもない。もたもたしているうちに道悪巧者のナカヤマフェスタは坂の中腹程までたどり着き、──ライトに照らされてはいるが視界の悪い中、それでもなお自分を独りにしようとしない、世界でいちばんの大バ鹿を眺めることになる。
「噛み合わなくなっちまったんだよな」
「……、だから、君はレースから引退するんだよね」
「で、学園も卒業する。……この最終直線みたく、短い競技人生だったよ」 - 4二次元好きの匿名さん24/01/12(金) 23:06:07
中腹からゴール板まで残すところ150メートルもないだろう。
後悔なんてしてないさ。先手を打つかのようにナカヤマフェスタは嘯く。未だ一線で走り続ける同士達と違い、閃光のようだったと。けれど充実していた。全てが順風満帆だったわけではなかったが、自ら想う者たちに背を見せて走りきったと──。
「仕掛けどころを間違った事もあったが、悪タレにしちゃ上出来だ。これからどう生きていくかも見通しがついてる」
「レースに身を置けないからってまた裏路地に戻るんじゃないかって心配だったけど、杞憂だった」
「いつまでもガキじゃねぇからな。己のヒリつきとの賢い付き合い方だって、生きてりゃそれなりに心得るもんさ」
風が軋むような悲鳴を上げていた。
お互いの声が届く、ぎりぎりの距離感。そこが見えない不可侵であるかのように、ナカヤマフェスタは影の落ちた紫の瞳で足を止めた担当トレーナーを見ていた。
担当トレーナーもまた、それ以上踏み出すこともなく、口を噤む。
まるで背を押すかのように、夜は加速していく。
「なぁ、トレーナー」
「何?」
長いようで短い、寒風切り裂く沈黙を少女の声が遮った。
「最終直線はこんなにも短いんだ。……卒業したら、さっさとどっかに行っちまうぜ?」
現役を引退しターフに別れをと言うが、レース場に限らずとも駆け回る場所はある。不揃いのフリースタイルレース場から一般向けの運動場まで、困ることはない。
学園を卒業したとしてもそこで門扉が閉ざされるわけでもない。
けれど、担当ウマ娘と担当トレーナーの縁は、少しずつ細く脆くなるだろう。
両手はポケットに守られたまま。ナカヤマフェスタは問いかける。
「ゴール板を越えちまう前に、捕まえとかないでいいのかい?」 - 5二次元好きの匿名さん24/01/12(金) 23:06:18
***
おそらくそれは、嵐だった。
ごうごうと空が鳴いていた。星の見えない空は、まるで底なしの伽藍のようだったかもしれない。
相棒と同じくいつの間にやら高鳴る脈を必要とするようになってしまった己の心臓のあたりを握り、唇を引き結ぶ。
まるで恋情を説き解せと言わんばかりの言葉に気づかないほど、愚かではなかった。他愛のない世話話に揶揄いの色が交じることもあるほど近づいた間柄だ。仕事ばかりのめり込んでないでいい伴侶を見つけろだとか、だからすぐ愛想を尽かれるんだとか。容赦なく言い合っては笑い合う。
だからこそ理解できる。そのかすかに揺れる視線が、淡く掠れる声音が、ひどく曖昧な言葉が、すべてすべて本心であることを。
一歩。
そして二歩。三歩。足を踏み出す。みっともなく躓いてしまわないよう。不可侵を破る。足裏で土と芝を踏みしめ、腿を上げ、立ち向かう。立ちはだかる坂に。ゴール板の先、幾多に分岐するだろう道を見失ってしまう前に。 - 6二次元好きの匿名さん24/01/12(金) 23:06:36
進んで、進んで、進んで──立ち止まらずそのまま追い越されたものだから。
_ - 7二次元好きの匿名さん24/01/12(金) 23:06:54
百戦錬磨、数ある賭場を、戦場を渡り歩いてきたナカヤマフェスタである。勝負所は心得ていたし、雰囲気を作為的に作り出す術にも長けていた。その割には王手が若干日和ってしまっていたが、今更やり直しが効くはずもない。
曖昧な拒否か、完全な拒絶か、優しい言い訳か。勝ち筋の見えない戦いであることは承知していた。当たって砕けろなんて捨て身に訴えるほど愚かではないが、……彼女は結局それに賭けてしまっている。
だからこそ、仰天した。
仰天して、さらに立ち止まることなく坂を登っていく相棒の背中を呆然と見つめた。どういうことだよ。勝敗がつくことなく終わるのは想定外だった。待てともおいとも言えず、柄にもなく立ち尽くす。遠のくその背を呆然と目で追いかけようとした所で、ようやく担当トレーナーが立ち止まった。
踵を返し、振り返る。自分と同じくらい寒がりの癖をして、この寒空の中のこのこついてきた、赤鼻の、世界でいちばんの大バ鹿者が、口元に両手を添えて、声を上げた。
吹きすさぶ風を遮るようにして。
「まだ仕掛けどころが完全に終わったわけじゃないよね?」
「……は?」
「君は捕まるよりも、捕まえに行く方だと思うから!」 - 8二次元好きの匿名さん24/01/12(金) 23:07:05
坂を越え、ゴール板まで残り70メートル。
心臓というエンジンをどれだけ吹かして踏み込んでも後続に捕らえられ差し切られた皐月賞。届かなかった、京成杯。
外に持ち出してぐんぐんと風を切り、全てを撫で斬った、あの眩い日。運命の女神が舵を切った、阪神の最終直線。
おいで! とばかりに両腕が広がった。アイツ、ここをドラマのロケ地か何かと勘違いしてやしないか。私と違ってブラフも下手糞なクセに、生意気だ。零れ落ちそうになるくらい溢れる感情をまず否定したがるのはナカヤマフェスタの悪癖でもあった。
心臓が脈打っている。
どくどくと、どくどくと。
こんなにも寒い夜なのに体中に熱が伝播して、いてもたってもいられなかった。ありとあらゆる言い訳や照れ隠しを振り払い、いつものように踏み込んだ。あれだけ噛み合わなかった脚が嘘のように跳ねる。推進力となって、夜のターフを切り裂いていく。
それは恐らくいつかに比べたら失われたものであると断言できるだろう。衰えのないウマ娘などいないのだから。
それでも走る。
走る。走る、走る。駆けて駆けて駆けて──!
「避けんじゃねぇぞ、バカ野郎!」
華奢な体にめいっぱいの速さを宿し、ナカヤマフェスタはそのまま、己を迎え入れる腕の中に飛び込んだ。 - 9二次元好きの匿名さん24/01/12(金) 23:07:17
***
「ゴール板を越えても、一緒に……ぐ……、ごほっ! ごほっ!!」
「おいそこは決め台詞だろうが、もう少し気張れや」
「いやだって、げほっ、息が……思ったより、ごほ、ちょっと、待って」
衰えたまでとは行かない。しかしそこはフルスロットルで加速したウマ娘の突撃である。少女漫画か何かのように受け止めきれるわけもなく、弱き人間はそのまま仰向けに倒れ、強かに背中を打った。しかしウマ娘を愛し慈しみ支えるトレーナーを天職とする者ゆえに、しっかりとナカヤマフェスタの下敷きに──クッションにはなれている。
「仕方ねぇな。3秒ほどなら待ってやる」
「っ、それは、短い!」
ぜえぜえ、げほげほと止まりかけた息の根を整えるため上下する厚手のコート越しの胸に、無茶を繰り出しつつも少女はそっと、ひんやりとした手のひらと頬を寄せる。
嵐のように高鳴る心臓は、きっとこれからもいつだって、共にあり続けるに違いない。
ゴール板を越えたその先も。ずっと、ずっと、遠くまで。 - 10二次元好きの匿名さん24/01/12(金) 23:07:50
このレスは削除されています
- 11二次元好きの匿名さん24/01/12(金) 23:08:12
おしまい。
交際期間0日プロポーズはヘキ(9ヶ月ぶり4回目) - 12二次元好きの匿名さん24/01/13(土) 00:41:50
待ってたで……
良いじゃない - 131224/01/13(土) 01:04:43
語彙力消失してたからもうちょい書くで
ナカヤマらしい駆け引きからの末脚爆発はなかなか甘酸っぱくて良き
ワイはこういうトレウマを待っていたんや - 14二次元好きの匿名さん24/01/13(土) 01:10:40
語彙力がこう…すごくすごいです!
自分が書くと地の文素っ気なさすぎるから羨ましい… - 15二次元好きの匿名さん24/01/13(土) 01:35:31
甘いのに爽やかにすっと心に入ってくるような、素敵なトレナカをありがとうございました……………!!
- 16二次元好きの匿名さん24/01/13(土) 08:02:27
午後以降お返事きちっとしたいので1度保守します〜ありがとうございます!
- 17いち◆xn7VzWEhyM24/01/13(土) 13:07:52
- 18二次元好きの匿名さん24/01/13(土) 19:08:39【SS】ぱやぱや時代を振り返るナカヤマと元トレーナーの話【SSまとめも】|あにまん掲示板【注意】・ナカヤマは現役引退後、トレーナーと結婚済・トレウマ(トレ♂)・最後にSSまとめ有bbs.animanch.com
前回
実馬フェッスーがAERUで幸せそうに過ごしているから書くものもそちらに引っ張られがち。
此度も楽しんで頂けていますように!
- 19二次元好きの匿名さん24/01/13(土) 19:18:40
- 20いち◆xn7VzWEhyM24/01/13(土) 22:21:01
ナカヤマって本当に捕まえに行くタイプだとは思うんですがいざという時には相手を立てるタイプなのかもしれないという気持ちもあって……どっちも書けばよかったと思っててぇ……
お読み頂きありがとうございました!