じゃあ……頭撫でてよ……

  • 1◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:11:42

    【心、手櫛で梳かして】

    「忘れ物はないか〜?」
    「鞄から何も出してないんだしするわけないでしょ」

     春先のとある日、練習後のミーティング終わり。トレーナーも今日は早上がりするみたいで、戸締まりをする前に忘れ物がないか念押しされる。

    「オッケー……俺も大丈夫っと。そういえば明日は土曜日だし休みだけど……友達と遊ぶ予定とかは?」
    「は? なんでアンタがそんなこと気にするわけ?」

     至極普通の、なんでもない金曜日。しかも土日にイベントごとがあるわけでもなく、それなのに予定の有無を聞いてくる理由が分からない。

    「まあまあ。で、どうなんだ?」
    「別に特には。気が乗ったらアロマ買いに行ったりするくらいだと思うけど」

     特に隠すような理由もないのは確かで。買い物に行くかもしれないけどそれだってあってないようなもので。
     まあ、暇と言えば暇なんだと思う。予定がないならないなりの過ごし方があるとは思うけど。

    「じゃあ空いてる、って事でいいか?」
    「まあ、そうだけど」

     どうしてそこまでアタシの予定を気にしてくるんだろう。
     直近の出走レースの予定はないし、怪我するような事さえしなければ大丈夫なはずなんだけど。

  • 2◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:11:53

    「じゃあさ、明日一日俺に付き合って貰えないか?」

     脈絡がなかった。本当に、特になんでもない週末のはずだったから。
     いきなりなんでトレーナー主導でお出かけに誘われたのか分からない。
     先にトレーナー室から出ようと扉に手を掛けていたところ、思わず振り向く。

    「は? えっ? トレーナーと? なんで?」
    「たまにはトレーナーと担当ウマ娘、親睦を深めるのもいいんじゃないか?」

     親睦も何もクラシックレースと、そしてシニア級の1年目は終えている。
     お互いの事をよく知っていない頃ならまだしも、今更深める親睦ってなんなんだろう。

    (これ以上先となると……お付き合い……とか?)

     いやいやいやいや! それはない!
     だって別にアタシだってトレーナーの事が男性として好き、とかそういうのじゃないはずだし!
     それにトレーナーだって年は比較的近いけど、そういう相手は同年代の女の人の方が良いだろうし!

    「じゃあそういうことで!」

     爽やかな笑顔で、よろしくと言わんばかりに親指を突き立ててくる。

    「アタシまだ大丈夫とか言ってない!」
    「まあまあ。いいじゃないか、たまには」

     アタシの了承すら待たず、何故だか大丈夫な事にされている。確かに予定はないと言ったけど。
     言ったけど誘われたのではい行きます、みたいな。そんな軽くは見られたくない。

  • 3◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:12:03

    「待ち合わせは……今週は普通に寮にいるよな?」
    「だから! ……はぁ。もう……そうだけど」

     そう。だからこれは仕方なく。トレーナーの押しが強くて、断り切れなかっただけ。アタシが軽い女という訳ではなく。

    「ならドーベルのタイミングでこっちの宿舎まで来てくれないか?」
    「……それ、アタシが行かなかったらどうするつもりなの?」

     あまりにもアタシに任せ過ぎな待ち合わせ。誘われた以上ちゃんと行くつもりだけど、冗談半分で疑問を投げ掛けると。

    「うーん……家でだらだらして過ごす事になるかな」

     あまりにも卑怯な、アタシが行かなくてもいい逃げ道を用意された。
     気が乗らなかった。アンタが強引に誘っただけ。ちょっと体調が悪くて。行かない理由なんていくらでもでっち上げられる。

    「じゃあ……気が乗ったら」
    「ああ、それでいいよ」

  • 4◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:12:17

     行かなかった時の事なんて聞かなければ良かったかもしれない。
     強引に誘われたからとか、そういう言い訳が出来なくなった訳だから。
     どうしよう……お出かけ自体は別にいいんだけど、誘われて嬉しいみたいには思われたくない。なんでかは……分からないけど。

    「ひゃっ!」

     と、意識の外から背中を軽くとん、と押された。
     振り向くとトレーナーが少しだけ不思議そうにアタシの顔を覗いている。

    「考え込んでるとこ悪いけど早く出てくれないと俺も出られない」

     ああ、ドアの前で立ち止まっちゃってたんだ。意識を切り替えようと軽く髪を撫で、トレーナー室の外に出る。
     トレーナーが部屋の施錠を済ませた後、ウマ娘寮とトレーナー宿舎への帰り道は途中まで同じだからそこまでは一緒に帰る。

    「じゃあ、明日よろしくな」
    「気が乗ったら、ってだけで別に行くとは一言も言ってないんだけど」
    「まあ、そうだな。気が乗ることを期待してるよ」

     ひらひらと手を振り去っていく後ろ姿を見ていても、誘ってきた割にお出かけしたいという意思があまりにも希薄で。
     なんでアタシと出掛けたいのか、黄昏時の空のように曖昧なままだった。

  • 5◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:12:30

     翌日。

    「結局来ちゃったし……」

     しっかりお昼前。あんまり朝早いと迷惑かな、と思って11時くらいにトレーナーの部屋へと訪れる。

    「いいんだよね? 本当に……」

     服装はいつもの私服で。楽しみにしてたと思われるのもなんだか癪だから、あくまで普段通りに。
     人差し指でチャイムを押し、は~いという返事と共に玄関口まで足音が近づいて来る。
     ガチャリとドアが開けられて、部屋の主が姿を現した。

    「いらっしゃい」
    「約束通り、来たけど……」
    「どうする? 一旦上がる?」
    「どうするも何も。アタシ別に予定なかったんだし、アンタが決めてよ……」

     あくまでアタシは誘われた身。トレーナー主導で決めてくれないとどうにも出来ない。

    「じゃあちょっと上がって待っててくれる? すぐに支度をするから」
    「ん、分かった」

     この部屋に訪れるのは一応初めてではないから適当にソファに掛ける。
     トレーナーがお財布をチノパンのポケットに入れたり、着ていくジャケットを見繕ったりしている間に、アタシの方を見ずに質問を投げ掛けてくる。

    「ドーベル、お昼食べたいものは?」
    「え? なんでも……」
    「それが一番困る。何か決めてくれ」

  • 6◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:12:43

     アタシも何時に行くとか言ってなかった訳だし、トレーナーからしたらアタシは午後から来る想定だったのかもしれない。
     ただ例えそうであったとしても、アタシに振られても困る。
     お昼はどこかで食べるとは思ってたけど、トレーナーが決めるものだと思ってたから。

    「あのさ。アンタはないの? 食べたいもの」
    「これといってないな」
    「はぁ? 誘ったのはトレーナーでしょ? だったら」
    「だからだよ。俺が強引に押し切ったんだから昼食を選ぶ権利はドーベルにあると思うけど?」

     それは詭弁だと思うんだけど……大体こういう時、って男の人がリードするのが普通だと思うし。
     ん? いやいやいや! なんでデートする時みたいな考え方になってるんだろう!?
     別に今日はそういうのじゃないはずだし、大体リードして欲しいだなんて……!
     ……でも、強いて言うならそれかもしれない。特に食べたいものは、アタシはないけど、あえて選ぶなら。

    「じゃあ……アンタに決めて欲しい……」

  • 7◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:12:53

     さっきと意味はほとんど違わないのに。口に出すと無性に恥ずかしい。でも理由はなんとなく分かる。
     アタシに希望はない、と貴方に決めて欲しいとじゃ、伝わり方が全然違うはずだから。

    「え!? あ、あ~……そういうことなら……」

     ジャケットを羽織る際の衣擦れの音がピタリと止まり、トレーナーもどこか動揺したのが伝わる。
     その理由は分からないけど、アタシがお昼に食べたいものを決めなかったからとか。そういう訳ではなさそうなのは伝わってきた。

    「……じゃあちょっとお高いランチにでも行こうか。と言っても俺からしたら、だけどな?」

     少し恥ずかしい思いをしたから、はじめからそうして欲しかったけど。まあ、グダグダにならなかっただけ良しとしよう。

    「別にアタシもメジロ家だからって毎日豪勢な食事をしてたわけじゃないんだけど」
    「それもそうだな。よし、俺も準備出来たし出発しようか」

     トレーナーの腕にカチャリと時計が巻かれ、それを合図にアタシもソファから立ち上がる。
     ランチの後にどこへ行くつもりなのかは分からないけど。悪いようにはならないだろうと、暢気な気持ちで部屋を出た。

  • 8◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:13:03

    「美味しかった」
    「だろ? 頻繁には来れないけど奮発したランチがしたい時には持ってこいなんだよ」

     トレーナーが連れて行ってくれたお店はお洒落な雰囲気の洋食屋さんだった。
     看板メニューであるステーキが添えられたオムライスの味には思わず頬が緩んでしまったほど。
     デザートのジェラートもしっかりいただいて。このランチだけでも、トレーナーのお誘いに乗って良かったと思えた。

    「トレーナーってさ。意外とああいうお店たくさん知ってるよね」
    「トレーナーをやってるとご飯くらいしか楽しみなことがなくて……」
    「悲しいこと言うのやめない!?」
    「冗談だぞ!? 普通に先輩との付き合いとかあると知っていくんだって!?」

     いや、それはそれでその先輩もご飯しか楽しみなことがない、みたいに捉えられちゃうんだけど。
     まあ、流石にそこまでの激務ではない……と思いたい。

    「さ〜てと。お腹も満たせたし、次はどこに行こうか」
    「……え? 誘うくらいだから何か目的があったんじゃないの?」

     昨日の時点で感じていた疑問。お昼に何を食べるか委ねられるまでは理解出来るとして。
     なんで出掛けたかったのかは相変わらず分かっていないままだった。その分かっていないまま結局お誘いに乗ったアタシもアタシなんだけど。

    「いや? ないぞ? ドーベルと出掛けたかっただけ」

     しかしそんな疑問は呆気なく。そもそも目的なんて最初から伝えていたと言わんばかりに、なんの躊躇いもなく告げられた。

    (え? いや、本当に? 本当にアタシと親睦を深めたいってだけの理由で?)

     言葉の裏をかくまでもなく、言った言葉を素直に受け取ってもいいのなら。本当にそういう意味になる、なってしまう。

  • 9◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:13:14

    (これ以上の親睦、って……本当に?)

     ……いや、流石にそれは話の飛躍が過ぎると思う。トレーナーからアタシに対して、一定以上の好意があるとして。
     とてもじゃないけど恋愛感情が向けられているとは思えない。アタシがそういう経験に疎いから、などではなく。

    (でも……悪い気はしないかも)

     でも、どんな感情にせよ。特別な理由なんかなくても、一緒に出掛けたいと思ってくれているのは純粋に嬉しい。

    「じゃあこの後どうするのさ」
    「ノープラン!」
    「普通そういうこと自信満々に言う?」
    「ああ。だからドーベルに行きたいところがないなら気ままに散歩か解散だ」

     ああ、そっか。別にアタシがこの人に対して、過度に遠慮する必要なんてないんだ。だってトレーナー自身がアタシに対して遠慮してないのに。
     ただ、そうしたいから。理由なんてそれだけでいい。別に理屈を捏ねなくたって。

    「だったらアロマ買い足しに行くの付き合ってよ」

     だからアタシも、遠慮なく。振り回してしまえ。

    「ああ。確かドーベルの行きつけのところってここからだとちょっと離れてるよな?」
    「うん、だから」
    「そこまで運転していけばいいんだな? オッケー、任せとけ」

  • 10◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:13:34

     車でお店まで移動して。気分が塞いだり、不安になったりした時に、心を落ち着ける目的で身に付けたアロマの知識。
     今では趣味のようなものになってるけど、その知識が周りの人から頼られることもちょっとだけ増えた。

    「アンタも買ったら? 前も買ったでしょ?」
    「いやぁ……俺一人だとよく分かんなくて……」

     ただトレーナー相手に披露する機会が多いかと言えば……そうでもない。
     やっぱり男の人だし、アタシから勧めたりしないと続けはしないだろうから。

    「最近は? 寝不足とかはどうなの? お昼、よく机に突っ伏してるでしょ」
    「はぁ!? え、なんで知ってるんだ!?」
    「そりゃあアンタの顔を見に……な、なんでもないっ」
    「昼寝はしちゃうけど休憩中だけだぞ!? 仕事中に、ってことはあんまりないし!」
    「夜はちゃんと眠れてるの?」

     だから、これはアタシのお節介。でもそれで大丈夫なんだって。
     変に遠慮なんかしなくたって、アタシがしたいようにすればいいって言ってくれてるから。

    「まあ、多分? もう少し寝起きに満足感があれば嬉しいけど」
    「ふ~ん……じゃあおすすめなのはラベンダーとかオレンジとかかな」
    「あっ、それならオレンジがいいな」
    「え、なんで?」
    「ラベンダーよりも香りが好きだ」

     でも、例え独り善がりなお節介だとしても。少しでも理解を示してくれるのは嬉しい。

    「うん、いいんじゃない。好きな香り、ってのも大事な要素だし」

     だって、アタシの得意なこと、好きなことを認めてられている気がするから。
     そう思うと調子づいて。普段なら絶対にトレーナーとは来ないようなお店にも足が向く。

  • 11◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:13:46

    「な、なにっ? いいでしょ別にアタシがこういうお店知ってたって」

     けれどお店の中に入った途端、可愛らしいドールやアンティーク、華やかな茶器などが置いてある店内に気後れして。
     慣れた店内のはずなのに、居心地悪く髪を撫でる。

    「俺は何も言ってないけど」
    「アンティークって気品があるからメジロのウマ娘としては相応しい趣味だと思うし、決して可愛い茶器が欲しいとかそういう訳ではなくて……」
    「俺は何も言ってないけど!?」

     ついつい言い訳ばかりが並んでしまった。
     自分の周りからのイメージとか、なんとなく分かるし。流石にこういうお店にもよく来るという事を知られるのは……ハードルが高かったかもしれない。
     少女漫画趣味とか、可愛いカフェが好きとか色々バレてるし、手遅れな気もするけど。

    「へ〜……なんかザ・お嬢様趣味、みたいなお店だな。アイツが言ってたお店ってここか」
    「アイツって?」
    「ブライトのトレーナー。なんかブライトと一緒に来た時にドーベルも居たって」

     いや、本当に何もかも手遅れだったかもしれない。

    「そ、その時は新しいティーカップが欲しくて」
    「ん? ああ、確かに可愛いデザインのが多いな」
    「あ、アタシが使うという訳ではなくて!?」
    「じゃあ誰が使うんだ……?」
    「……ライアン?」
    「なんで疑問形……?」

     この部分は……アタシも恥ずかしいからもう少しゆっくり知ってもらおう……。

  • 12◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:14:00

     その後カフェでお茶をして。車を停めるついでに宿舎の部屋まで戻ってきた。

    「なんかごめん。足みたいに使っちゃって」
    「ん? いやいや、嬉しかったぞ。遠慮なくしたいこと言ってくれて」

     普段の休日なら今日したことの、どれか1つしかしなかっただろうし。とても充実した1日を過ごせた気がする。
     ただ……アタシは満足したけど。トレーナーの目的は、きっと果たされていない。
     アタシと親睦を深めたい。トレーナーはそれだけの理由で、アタシの時間を使うような人じゃない。
     だってこの人は、ドが付くほど気が利く人なんだから。
     トレーナーの分のアロマオイルを机にコトリ、と置いて。

    「……あのさ。なんで今日お出かけに誘ってくれたの?」

     投げ掛けた疑問に、一瞬面食らったような顔を見せる。しかし直ぐ様その表情に笑顔を浮かべ、朗々と答えてくる。

    「俺がドーベルと親睦を深めた──」
    「そうじゃなくて。理由、他にあるんでしょ」

     そんな当たり障りのない返答は求めていない。その答えが全くの嘘、という訳ではないと思う。
     けれどアタシの勘が正しければ真ではあるだけで、芯ではない。
     一瞬渋い顔をした後、こちらを見ながら口が開く。

    「ドーベルさ、自分の癖って知ってるか?」

     まるで、アタシの顔ではなく。もっと深く、瞳の奥を覗き込むように。視線がアタシに突き刺さる。

  • 13◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:14:16

    「自分って……アタシのこと?」
    「そう」
    「自分じゃ分かんないけど……それが何?」
    「よく髪を触ってるんだよ。こう、撫でる感じで」

     言いながら頭の横あたり。ウマ娘で言えば耳の下あたりを撫でるような仕草をしてみせる。

    「普段もそうだけどレースで勝った時もさ。俺が迎えに行くまで耳の先を撫でる感じで、居心地悪そうに」

     自分の癖なんて自覚する方が難しい。
     そんなに触ってたっけと考えようと、髪に手を伸ばそうとしてはたと気付いた。……本当だ、触ってる。

    「知らなかった?」
    「でもそれと今日のお出掛けになんの関係があるの?」

     問題はそこ。アタシにそういう癖があるのは分かったとして。だからと言ってその癖一つでお出掛けに誘われる理由にはならない。

    「髪とか頭をよく触る子って甘えたかったり、安心したい気持ちが強いらしくて。よくよく考えたらドーベルにも当て嵌まってるな、って思ってさ」

     甘えたかったり、安心したい?
     安心したい、っていうのはなんとなく分かる。自分で言うのもなんだけど心配性だったりする部分はあるし、恥ずかしがり屋な自覚はあるし。
     注目を集めるのが苦手だからついつい撫でるように髪を触りがち、なのかもしれない。

    「不安で安心したい部分は自信がついていけば治るのかな、って様子を見てたんだけど。どうにも違うっぽかったから」

     トレーナーと出会った頃と今とでは、精神的な安定感は全然違う。
     自分以外の誰かになりたくて、誰かの背中を追いかけ続けていたあの頃と違って、今のアタシは目指した先へと歩んでいるから。

  • 14◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:14:29

    「それで誰かに甘えたいんじゃないか、って思ったってこと?」
    「ご明察。まあ、俺じゃあ甘えたり安心する相手には不足かもしれないけど」
    「そんなことはっ……ない、と……思う、けど……」
    「そこは言い切って欲しかったなぁ!?」

     今日はいつもよりは甘えられた気がするけど。それでもやっぱりトレーナーはアタシの中で大人の人でもあり、それと同時に男の人でもある。
     異性に対する理解が乏しいアタシに、どういう態度が正解なのかなんて分かるわけがない。

    「実際俺が女だったらもっと甘えやすかったんだろうな、とは思うよ。君の先輩への態度とか見てると」
    「アタシ、そんなに先輩相手だと甘えてるの?」
    「懐いてる犬っぽい」
    「犬ってちょっと失礼じゃない!?」
    「ご、ごめん!? でもエアグルーヴ相手とか飼い主を前にしてる時みたいだぞ!? 尻尾とか凄いことになってるし!?」

     そんなの頭を撫でる癖以上に知ってるわけがない……! 先輩に失礼な態度になってなかったかな!?
     ……いや、今日まで何も言われてこなかったんだし、失礼はなかったと思おう。そうしないと悶えて死んでしまいそう。

    「そ、それで?」
    「だから最近無理したりしてないかなぁ、って」

     最近特に変わったことがあるわけもなく。アタシが無意識に誰かに甘えたいと思っているとするならば、それは慢性的なものだと思う。

    「まあ俺が無理させちゃってる可能性も否めないけど」
    「それはない」

     だからその続きの言葉には考えるより先に、口が否定を示していた。

  • 15◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:15:27

    「だってトレーナーと居たら安心できるし、いつだって先回りして気を遣ってくれるし」

     アタシのことをよく知っている人。重荷を一緒に背負ってくれる人。隣でいつも見守ってくれている人。

    「本当はも、っと……」

     もっと素直に甘えられたら。重荷を預けた分だけ、きっと心は軽くなる。

    「わ、忘れてっ」
    「本当はもっと?」
    「忘れて!!」

     でも、いつまでも甘えられるとは限らない。そうなった時、背負い直すのが苦しくなるだろうから。
     例え心の奥底で甘えたいと思っていたとしても、甘えないのが正解なんだ。

    「……俺からは、無理に甘えてくれとは言えないけど。でもさ、親元を離れて頑張ってる君たちを見ていて、少しでも心の拠り所になれたら、とは思ってる」

     トレーナーの気持ちは、痛いほどに有り難い。

    「でもアタシ、そう言われても甘え方とかよく分かんないし……」

     ただ、そもそもアタシが甘え上手ならば適度にガス抜きが出来ている。トレーナーを心配させない程度には。

    「確かに、君が甘え上手だったら今のドーベルにはなってないだろうね」
    「それ、バカにしてる?」
    「いーや。そんな風に、誰よりも直向きで。誰よりも努力家で。誰かに負担を掛けたくない、って優しい君だから、ちょっとでも気を抜いてほしいんだよ」

     ああ、でも。そう言って貰えたら。甘えるのが下手なのは、誰かに対する優しさという理由をくれるのなら。
     そんな自分は、嫌いじゃないかもしれない。

  • 16◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:15:37

    「だから今日出掛けるのに誘って好きなことを目一杯──」

     そしてそんな風に理解してくれているのなら、負担を掛けても分かってくれるはずだから。

    「じゃあ……頭撫でてよ……」
    「はい?」
    「甘えて……いいんでしょ……」

     ほとんど無意識で発された言葉。
     トレーナーに頭を撫でてもらいたいだなんて、考えたことは一度もなかったのに。口からはぽろりと溢れ落ちた。

    「女の子って頭触られるの、髪が崩れるから嫌じゃ──」
    「いいからっ! ぶ、ブライトとかはよくしてもらってるみたいだしっ、アタシだっていいでしょ別に……」

     そりゃあ特に親しくもない相手からされたら嫌だろうけど。トレーナーは親しいと言える間柄だと思うし。
     それに髪をセットしてるブライトと違って、アタシは基本的に髪を梳いて整えてるだけだから。よっぽどぐしゃぐしゃにされない限りは影響も少ないし……。
     無意識で出た言葉とは言え、我ながらベタな方法を言ったものだなと思う。ハグとかじゃないだけマシかもしれない。
     逡巡するように彷徨うトレーナーの手が、やがて覚悟を決めたようにアタシの頭上に添えられる。

    「わ、分かった。じゃあ、するぞ?」
    「う、うん……」

     アタシも構えるように耳が垂れ下がり。直後ふわりと。トレーナーの手のひらが乗せられて、手櫛で髪を何度も梳いていく。

    「こんな感じでいいか?」
    「うん……」

     アタシは小さい子にするような、所謂よしよしを想定していたんだけども。まるで恋人にするような、優しい手つきに心が溶かされ。
     なんで撫でてもらいたいと思ったのか、ほどけた心で理解出来た。

  • 17◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:15:47

    「……お母さんにあんまりこういうことしてもらえなかったから」

     多分、子どもの頃の撫でて貰いたかったという思いを今でも引き摺ってたんだ。

    「ああ……モデルのお仕事で忙しかったんだっけ」
    「お父さんはたくさんしてくれたけど。やっぱり、半分じゃ足りなかったというか……」

     お母さんが忙しかった分、お父さんは目一杯手を掛けてくれた。
     それに弟妹が生まれてくるまでの間、実質ひとりっ子だったアタシは下の子のお世話で放ったらかしにされたとか、そういう経験もないし。
     だから、十分恵まれていたのは分かってる。

    「別にお母さんの愛情を疑ってる訳でもないけど。でも……もっと甘えたかったな、って。……それだけ」

     それでも、子どもの愛への執着は貪欲なもので。お父さんだけじゃなくて、お母さんにだって本当はもっともっと甘えたかった。
     アタシがそれが出来る素直な子どもならまだ良かったんだけど。どうにもそういう口下手だったり、素直になれない部分はお母さんに似ちゃって。
     似てる分だけ、気持ちも分かるから。余計にお母さんは責められない。

    「……そっか」

     今もこうして撫でてくれているけど、きっとお母さんが撫でてくれなかった代わりになるわけじゃない。
     けれど確かに、胸の奥が満たされていくのは感じる。

    「……ん、もういい」

     どれくらい撫でてもらっていたのかは分からない。ずっとこうしてもらえたら、とは思ったけど。
     どこかでやめてもらわないとキリがないから。自分の意思で、もう十分だと伝える。

  • 18◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:16:00

    「元気出たか?」
    「別に落ち込んでたりしたわけじゃないんだけど」
    「それもそうだな」

     元々気持ちが沈んでた訳ではなく。単純にトレーナーの洞察力が凄かったというだけの話ではあるから。
     撫でてもらってすぐに気持ちが上向きにとか、そういう変化はきっと訪れない。

    「お母さんにもしてもらえるといいな」
    「でもアタシもうこんなにおっきいし、弟と妹もいるし……」
    「親にとって子どもはいつまでも子どもだろ。だから案外、頼んだら喜んでしてくれるんじゃないか?」
    「そうならいいけど……」
    「きっとそうだよ。ドーベルのお父さんも不器用なだけ、って言ってたろ? 大丈夫だよ」
    「うん……」

     嘘偽りなく、お母さんにしてもらいたかったというのは、心から思っている事だろうから。トレーナーが撫でてくれたから、ってその思いが消えるわけじゃない。

    「あのさ……」
    「なんだ?」
    「やっぱり、なんでも、ないっ」

     でも。

    「頭を撫でるくらい、いつでもしてあげるよ」

     少しずつは、それで変わっていくものが出来るのかもしれないと。

    「……ん」

     なんとなく、そんな予感がした。

  • 19◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:16:13

    「1着おめでとう!」
    「ひゃっ! いるならいるって言って!」
    「いや、控え室まで一緒に戻ってきたんだからいるに決まってるだろ」

     あのお出掛け以降。

    「あ、あのさっ」
    「ん? ああ、そうだったな」

     前まではしてこなかったこと。レースを終えた後、決まってお願いすることが増えた。

    「よく頑張ったな」
    「んっ……」

     慣れた手つきで頭に手が添えられ、アタシも撫でやすいようにあごを引いて耳を垂れ下げる。
     トレーナーに頭を撫でて貰う。レースを終えた後だけ、ではないけど。
     そうするようになって、いつの間にかアタシはあまり自分で頭を触らないようになっていたらしい。
     結局トレーナーの予想通り、アタシは誰かに甘えたかったみたい。いざ本当にそうだったと知ると少し恥ずかしいけど。
     穏やかな波のような心地良さに目を細めていたところ、不意にトレーナーの手が止まる。

  • 20◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:16:25

    「な、なに?」
    「いや、なんでもないよ」

     上目遣いで顔を盗み見ると、照れ臭そうに微笑み返された。

    「レースの後なのに凄い触り心地がいいな、って。そう思っただけだ」
    「手入れはちゃんとやってるから……」

     今はこうして。レースの後には決まってしてもらってるけど。アタシだっていつまでも現役でいられるわけじゃない。
     いつかはしてもらえなくなる日が来るのは、分かってるけど。でも、それすら越えて。髪を梳いてもらえるような関係でいられるのなら。
     きっとそれは、とても幸せなものなのだろうと。

    (そうなれば、いいな……)

     詰まる事なく手櫛を通す、髪のように。さらりと溶けて、心に落ちた。

  • 21◆y6O8WzjYAE24/01/26(金) 23:16:38

    みたいな話が読みたいので誰か書いてください。

  • 22二次元好きの匿名さん24/01/26(金) 23:36:40

    すき


    > 気が乗らなかった。アンタが強引に誘っただけ。ちょっと体調が悪くて。行かない理由なんていくらでもでっち上げられる。

    この段落好き

  • 23二次元好きの匿名さん24/01/26(金) 23:37:20

    もう出来t

  • 24二次元好きの匿名さん24/01/27(土) 00:09:21

    ちょうど頭を撫でてもらうベルちゃんを見たかったから助かる

  • 25二次元好きの匿名さん24/01/27(土) 00:35:34

    相変わらず破壊力高くて好き、ベルちゃん不器用で真面目だから妹弟優先するのは分かる

  • 26二次元好きの匿名さん24/01/27(土) 00:47:25

    純粋に文章構成の暴力で尊みバーストさせてくるの好き

  • 27◆y6O8WzjYAE24/01/27(土) 01:14:36

    立ちポーズで頭触ってたりG1以外の勝利ポーズで耳先を気にしてるのをスーパー都合良く甘えたい願望がある、という方向で解釈したお話でした
    書いておいてなんですが普通に不安になりがちだったり緊張しいなだけで特にそういった事はないと思います

    ここまで読んでいただきありがとうございました

  • 28◆y6O8WzjYAE24/01/27(土) 01:15:46
  • 29◆y6O8WzjYAE24/01/27(土) 12:12:56

    あげあ〜げでうぇうぇーい

  • 30二次元好きの匿名さん24/01/27(土) 12:36:54

    デートじゃん!

  • 31二次元好きの匿名さん24/01/27(土) 18:46:44

    かわいい…
    よかった…

  • 32二次元好きの匿名さん24/01/27(土) 22:33:23

    凄く良作…

オススメ

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