- 11/924/02/03(土) 21:49:20
それが喜劇にせよ悲劇にせよ物語には逆境へと転落する展開が付きもので、もし将来に後進たちが私を――〝シーザリオ〟の名を語ってくれるのなら、やはり今をそのように語るのだろう。
青々と輝いた夏はとうに過ぎ去り、天高くに響く大歓声を通院の車中から聞いた。冬休みが明け、私は寒ひでりの続く学園のトラックにただひとりいて汗を流している。夜空を見上げても星は照明塔の鮮烈な明かりにかき消され、踏みしめた常緑の冬芝も色褪せて見える。
まだ緩やかに負荷を上げていくべき時期だから、学園の生徒たちは午後の練習を日が沈むころに切り上げて寮へ帰っていった。私のトレーナーも大事をとろうと言って譲らなかったので、私たちは一旦解散した。しかし小康を得た身――私の脚は快復と再発を生涯繰り返すことになるとトレーナーは言っていた――には一日が惜しく、寮に帰るふりをしてジャージ姿のまま図書室で勉強を済ませ、こうしてトラックに戻ってきてしまった。
静かなトラックを包む夜の空気はさえざえとして、すこし荒れた芝は皆が努力する姿を想像させる。私も努力できるのだと思うと清々しくて、口当たりのいい毒だとは知りながら安心さえしてしまう。トレーナーへの不義は、成果であがなおう。
入念にストレッチをしてからトラックを二周流して走り筋温を上げ、再びストレッチをして体温を上げていく。冬に運動すると手足が熱いせいで体の冷えに気づかないことがあるから、一人のときこそ注意しなければならない。準備を終えて、本走を二本。走るという行為には自分の頭も体も十全に働かせる必要があって、それが代えがたい充足感を生む。次がほしいと逸る心を抑えて小休止を挟み、その場で何度か芝を蹴ってみる。脚に違和感はなく、あと三本は平気だろう。次は距離を正確に設定してレースの感覚を思い出しておきたい。
そうしてスタートラインに立ち三度股関節をほぐし終えたとき、ちょうど後方から近づいてきた足音に心を奪われた。
見ずとも誰か分かった。この時間に私に近づくヒト。芝の感触を楽しむように踏みしめながら、ゆっくりとした間隔で歩いてくる。他のヒトと違うのかと問われれば困窮するが、直感でそれと分かる足音だ。
心拍が上がる。理由はふたつ、ひとつはばつが悪いから。もうひとつは、いつもそばにいてくれるだけで勝手に。 - 22/924/02/03(土) 21:50:37
「すまない、トレーナー」
隣に立ったトレーナーの姿を認めた途端に、謝罪が口をついて出た。我ながら情けない。
トレーナーは事もなげにポケットからストップウォッチを取り出して言った。
「一本だけね。……一六〇〇メートル。はい、用意」
その声で、私の体は反射的にスターティングの姿勢をとっていた。トレーナーが私の担当になってから、何回繰り返したのだろう。あと何回繰り返せるのだろう。他の生徒たちよりはずっと少ないはずだ。スタートの合図は、まだない。
三ハロン弱先のコーナーを見据える。トラックの芝は照明塔によって昼間の如く照らされているが、柵の外は闇に沈んでいる。実際にはいくらか光が届いていても、トラックに比べれば無に等しい。
闇。光から外れれば闇がある。闇に思考を惹かれて、スタートの合図に出遅れた。
†
クールダウンを済ませ、汗を拭き取ってから金色に輝くエマージェンシーシートを軽く羽織る。風を凌いでしまえば冬の寒さは苦にならない。むしろ試練に身を置いている気さえして引き締まる。火照った肌なら心地いいくらいだ。
結局、トレーナーが測ってくれた最後の一本は凡走のひと言に尽きた。この調子では、春に控えた復帰戦――ヴィクトリアマイルで堂々たる勝利を掴むどころか、入着も厳しい、そういうタイム。自主練習の成果を見せられなかったのは残念だ。
ただ、脚は少しだけ重く感じたから、一本で切り上げられてよかったと思う。トレーナーはそれを見越してこの時間に現れたのだろう。あるいはずっと見てくれていたのかもしれない。
今日根を詰めても成果が出ないこともトレーナーは知っていたのだ。それでも一本だけ走らせてくれたのは、優しくて厳しい人だから。
休むのは走るより難しい。私の理想は現役と引退後の両方に渡る。理想を叶えたいならいまは走ってはいけない。でも、理想を叶えるためにいま走らなければいけない。走れなくなって理想が離れていくのが怖い。走って理想に愛想を尽かされるのが、怖い。
トラックの内にいても闇は足元にあった。ずっと覗かれている。そっと覗き返すと、ぴゅうと吹いた風にうなじをなでられて身震いをした。 - 33/924/02/03(土) 21:51:42
すると視界の端からトレーナーの影が近寄って私の闇にくっついた。足元にあるのは輪郭のぎざぎざとした、ただ二人ぶんの影だ。顔を上げるとちょうどトレーナーは自分の首に巻いていたマフラーを解いて取ったところで、それを私の首にかけて言った。
「体、冷えちゃうから」
私は平気だが――そう言い返そうとして、やめた。トレーナーの心配性とひたむきさが同時に発揮されるとそれを覆すには大変な労力を要するから、私は黙ってされるがままだ。抗議の目線だけを送ると、トレーナーは一瞬目を合わせたがやはり苦笑いで済まして、私の首にマフラーを一周ぶんゆるく巻いた。
しようがない。前下がりのボブヘアは練習後で既にいくらか乱れているが、それは気を遣わない理由にならない。髪に跡がつかないように、私はマフラーの下から左右それぞれに手を差し込み髪を纏め入れて押さえた。
トレーナーは制止されると思ったのか動きを止めていたが、私がそれ以上何もしないのを見て再び巻き始め、独り言のように言った。
「気をつけるね」
それは、またするつもりがあるのか。黙っていると決めたから聞かなかったし、考えないようにもして、巻き終わるのを待った。 - 44/924/02/03(土) 21:53:12
トレーナーは洒落た結び方をしようとしたのか、垂れた端と端を何度か交差させては戻し、首をかしげて、結んで解き、また首を捻ってから結局ひとつ結びにした。なんだったんだ。
ともかくトレーナーの手が離れたので、私はエマージェンシーシートをマフラーの上から羽織り直した。開口部の隙間が埋まって、たしかにさっきよりも暖かく感じるのは間違いない。けど、顔も熱い。トレーナーにあまり見られないように俯くと、首元からグリーン系の香りが立ち上って鼻がすっとした。次いでそれを嗅ぎ慣れていることにも気がついて、首が反射熱以上にじんじんと熱っぽく感じられた。
一方のトレーナーはいそいそとダウンコートのファスナーを引き上げ直して、手をポケットに深くしまっていた。ダウン越しでも首を縮こめているのが丸わかりだ。
マフラーが必要なのはどちらか考えるまでもない。どうしてこうまでするのか。普段からトレーナーのほうが寒がりだし、じっと立っていたのだからなおさら寒いだろう。
案の定、トレーナーはくしゅ、とくしゃみをした。
「これは違うやつ」
私が口を開く前にトレーナーは否定したが、一体何が違うのか。まったくこの人は呆れる。
「そんな笑わないでよ」
トレーナーはそう言って、まるでつられたかのようにからからと笑った。
私は怒っているというのにトレーナーは適当なことを言う。そう思って自分の唇にそっと指を当てると、口角が上がっていた。
これは冷たい風で顔が引き攣っていたんだろう。マフラーを摘んで口元を隠す。嗅ぎ慣れた香りが、また強くなった。 - 55/924/02/03(土) 21:54:31
いつまでもトラックに立っていては体が本当に冷え切ってしまうので、二人で帰り支度を始めた。荷物を置いた観客席に戻ると私の学生鞄や紺のコート、紙袋はそのままあって、隣にトレーナーの鞄が増えていた。私はエマージェンシーシートを畳み、ジャージの上からコートを羽織る。トレーナーは鞄からタブレット端末を取り出して、今夜の記録をつけているようだ。
今日もこれで終わると思うと、昼間は賑やかなトラックも観客席もいまは私たちだけしかいないことがそぞろに寂しく感じられて、既に頭に入っている明日の予定をトレーナーに聞いた。トレーナーは今夜のぶん練習量を減らすつもりだけど、と前置きをしてから、私の知っているとおりの予定を話してくれた。
それから今週の予定も確認したり、蹄鉄のすり減り具合を見てもらったりした。実務的な情報共有が終われば、トレーナーは昨晩自炊したという料理のレシピを話してくれたり、私は今日図書室で得たストレッチの知識をさも以前に知ったかのように話したりもした。
とりとめのない会話が途切れたところで、トレーナーはタブレット端末をしまって訊いてきた。
「そろそろ帰る?」
それは夕暮れに練習を切り上げたときの諭すような言い方と違って、譲歩の余地を感じられた。私が自分の欲求を都合よく投影しただけかもしれないが、言外にまだ話し足りないなら続けようと提案してくれたと思う。
私はすぐには答えられなかった。帰りたくはないが、それなら何を話せばいい。さっきまでそうしていたのに、あらためてトレーナーを引き留めたがる自分を自覚すると、それに適う重大な話題を振らないといけない気がして詰まった。ここですっぱり帰るならそれでもいい。心がほぐれるくらいには話せたし、また明日会えるのだから。
やはり荷物をまとめて帰ろうか、そう思って自分の鞄と紙袋を見たときに、はたと思いついた。
紙袋。ここしばらく学園と寮で持ち歩いていて、その袋の口から覗くのはいくつかの道具と、青い毛糸の塊。
今、かもしれない。この機会はもう二度と来ない。 - 66/924/02/03(土) 21:56:02
「まだ少し、時間を貰えるか」
トレーナーの顔を窺うと、トレーナーはもう一本走るのと茶化してきた。そんなに私は思い詰めた顔をしているのか。眉間のしわを指で擦りとってから、姿勢を正して言う。
「これを、贈らせてほしい。……寒いの、苦手だろう」
同時に紙袋から取り出してみせたのは厚手で幅の広い、深い青色のマフラー。編み物には多少の覚えがあって、既製品と同じくらいには見栄えがすると自負していた。それにトレーナーが着けていた――いま私が着けているマフラーより暖かいはずだ。
しかしそう告げてから、トレーナーがあまりに嬉しそうな顔をするものだから。
「あの、まだ完成はしていないんだ。悩んでいたというか、どうしようかと。渡す機会も、いつに……。いや、これ自体は完成していて」
かっと熱くなって舌足らずにハードルを下げようとしたが、トレーナーは聞いているのかいないのかうん、うんと頷き続けている。私がしっかりしなければいけない。短く深呼吸をして、頭を冷やした。
「マフラーは完成した。ただ最後に、端にひとつビオラの蕾をつけようか悩んでいて、機会を逸していたんだ。その……これと同じモノを」
そう言って、左の耳飾りから下げたアクセサリ――ビオラの蕾に指で触れる。
本当は毛糸も青一色ではなく白い毛糸を一筋編み込みたかったけれど、それではあからさまに〝私〟だったから。
「もしかして、手編み?」
トレーナーに訊かれて、私はぎこちなく顎を引いた。
「休養の間、手は暇だ。それで」
渡していいのか渡すべきでないのか決心がつかないまま、とっくに冬になってしまったが。
「トレーナーが暖かく過ごせたらと、そう――」
声は細くなって消えた。本心のなかに混ぜた嘘の棘が喉に引っかかった。 - 77/924/02/03(土) 21:57:35
「じゃあ、はい」
トレーナーはそう言って、ダウンのファスナーを胸まで下ろして首を晒し、私にお辞儀をするように差し出した。
「……自分で巻いてくれ」
そう返してもトレーナーは動かなかったし、正確にはかすかに震えているのが見てとれた。
「うう、寒い」
そのうえ厚かましくもそんなわがままさえ言うから、根負けしてその首にマフラーをかけた。
ため息をつきながら、どんな結び方にしようか考える。ただ巻くだけでも様になるし、トレーナーがそうしたように私と同じ一つ結びでもいいが、それでは芸がない気もする。逡巡して、ネクタイ巻きにしようと決めた。トレーナーにも少しは気を引き締めてもらおう。
そう勇んだものの、果たして私もまごついた。ネクタイの結び方くらい覚えているつもりだったが、自分で結ぶのと、相手のを結ぶのでは視点が反対だから勝手が違う。さてどちらを長くするんだったか、上を通すんだったか下だったか。
左右の長さを入れ替えて、端と端を交差させて、戻して。誰かとまったく同じことをしている自分が気に入らないし、目の前にある顔の口角が段々と上がっていくのはもっと気に入らない。
私も後進に教えるときは視点と態度に気を配らなくてはならないなと胸に刻んだ。
トレーナーは私の手を目で追っていたが、しばらくすると口角も眉尻も下げて、沈んだ声でぽつりと零した。
「人のためにって、難しいな」
私の手はぴたりと止まった。マフラーの話でないことはすぐに分かった。脚の話、故障の話。私を今日まで導いておいてそれを言うのは、卑怯だ。
何の話か分からないふりをして呆れてみせようかと思った。私はマフラーを巻いてくれなんて頼んではいないし、巻かせてくれとも言っていないだろう。
それとも叱り飛ばそうか。私のトレーナーなのだから弱気になるな。前を向いて、私を導こうという気概を見せてくれ。
しかし、どう答えれば慰められるのか悩んだことが何よりの証左かと思い直して、選んだ言葉を三度頭に思い浮かべてから、声音が変わらないように努めて舌にのせた。
「そうだな」
ようやく結び終えたマフラーに、トレーナーは顔を埋めた。 - 88/924/02/03(土) 21:59:12
トレーナー。本当に、貴方はわがままな人だ。
私の脚の不安は先天的にあった。それでも私は父母の背を追って、我が身を礎に後進を導くことを理想として掲げた。だから故障は想定の範囲内にある。走れなくなっても、私の道は終わらない。
しかし現状を粛々と受け入れられるほど私は冷めてもいない。時だけが問題を解決してくれることを知っていながら、自主練習を控えられないのは私の心の弱さだ。
すべては私が望んで私が負うべき責。それを貴方はトレーナーの責任だと言い張って自分のものにしている。そのくせ、私が貴方に何か捧げようとすれば、自分はそれを受け取るに値しないと逃げる。
それならばと、マフラーの結び目をかるく絞めて、形を整える。
贈り物だけで想いが伝わらないのなら。貴方が言葉もほしいと望むのなら、貴方の望むままにしてみせよう。
「トレーナー」
マフラーを引いてトレーナーの顔を寄せ、その目を見つめる。二年前、私の末脚の粘り強さを見出した目。一年前、私の刻むべき蹄跡を見通した目。そして半年前、私の脚の故障を見抜いた目。
そこに映っているのは私の目。あの日――担当契約を交わした日、トレーナーはこの紫色の目を澄んでいると言ってくれた。今も澄んでいると、いい。
「貴方がいてくださったお陰で、私は本当に幸せです」
マフラーを引いたまま、逃さないように言葉を押し付ける。
私は貴方のもとで成長し、夢に向かって進むことができている。決して譲らないと誓った樫のティアラは、この頭上にある。
アメリカ遠征もそうだ。日本のウマ娘として初めての栄誉に輝くことができた。実地で吸収した知見の数々は大きな礎となる。
貴方はひとつひとつの夢を拾い、導き、強く輝かせてくれる存在。私にとって、貴方は特別だ。ただのトレーナーではとても収まらない。想いは日に日に溢れていく一方で、手で覆って留めたくなるほどに惜しいと思ってしまう。
「貴方は、私の理想です」
私は未だ道半ばにいる。導く者として進むこの先の道は今まで以上に険しいだろう。
それでも私は、決して理想を譲らない。貴方を、譲らない。 - 99/924/02/03(土) 22:00:10
ダウンについたマフラーの糸くずを払うと、やっとトレーナーは油を差し忘れたみたいにぎくしゃく動き出した。
「あー……、ありがとう。……とっても嬉しいし――それに、暖かい」
トレーナーは目尻に二重三重のしわを作って笑った。マフラー越しにくぐもったその声が、どうしようもなく暖かい。
「……照れてしまうな。でも、伝わったのなら、私も嬉しいよ」
涼しい顔を保つつもりだったが、熱っぽくて相好を崩してしまった。今度は指で触れなくとも口角が上がっているのが分かる。それどころか、あまり人に――トレーナー以外に見せられる顔をしていないと、思う。
「じゃ、帰ろう。あとで付けてね、ビオラ」
そう言って歩き出したトレーナーに、うん、と答えて後をついて歩く。
私にヒトの耳がなくてよかったと思う。きっと、トレーナーのそれ以上に赤くなっていただろうから。
トレーナーに尻尾があればよかったと思う。私のそれ以上に揺らしてくれていたかもしれないから。
隣を連れ立って歩かないのはお互いに耳と尻尾を見られたくないからだと、信じてもいいのかな。
背を追いながら、火照った顔の力を抜きたくてマフラーを下げ口から息を細く吐いた。それは白くたなびいて、冷たい夜の闇に消えていく。どれだけ息を吐いても、この闇を白く染めることはできない。
私の名前は歴史に刻まれた。しかしすぐに後進の時代が来るだろうし、私自身そうさせるつもりだ。〝シーザリオ〟を過去のウマ娘とするくらいに強い後進たちを育ててみせよう。その意志はたしかに私の中心にあって、揺らぎはない。
でも、貴方にだけは。貴方に過去のウマ娘だと、そう思われることがどれほど苦しいか分かるか。貴方の温もりさえ届かない闇の冷たさに、きっと私は堪えられない。
どれだけ多くの後進が貴方と私のもとで育っていこうと、彼女らがどれだけ輝かしい〝スーパースター〟になろうと、貴方がまっさきに思い描くウマ娘は私でありたいんだ。
この想いには、譲らないなんて綺麗な言葉は似つかわしくない。
嫌だ。私は貴方でなければ嫌だ。それ以外に表現しえない。なんて狭量で浅慮なわがままだろう。本当に、人のことを言えやしない。
ああ。貴方の前できちんとした私を維持するのは、すっかり難しくなってしまった。 - 10二次元好きの匿名さん24/02/03(土) 22:01:08
おしまい
長文ですが読んでくださりありがとうございます