【SS】2月4日、有明某所

  • 1二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 21:25:15

    およそ1年半前。


    世界全体が流行り病の克服に向けて進みつつある時分に、息子の就職が決まった。
    学業に励む裏で幼少期より暖めていた夢の第一歩。それは妻を亡くし男手一人で育てた…たった一人の血縁者との離別をも意味していた。

  • 2二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 21:25:45

    息子が新居探しのために自宅と勤務予定地を忙しなく行き来していた頃、前触れもなくライブのチケットを渡された。
    11月6日、所沢某所。2枚。
    トゥインクルシリーズを駆けた名ウマ娘達による大型ライブ。20名以上にわたる出演者の中には、ウマ娘界隈に疎い私でも名前だけなら知っている方々も並ぶ。

    「最近のトゥインクルシリーズには詳しくない。私の接待をしてもつまらないだろう。友人と行きなさい」
    息子の誘いに対し条件反射で拒否反応を起こしたが、今思えば息子の眼前で年頃のウマ娘を見ることが恥ずかしかったのだと思う。

    『接待でもかまわない。父さんと二人で遊びに行くのはこれが最後かもしれないから』
    夢に挑む以上は当分人並みの娯楽に触れることは困難になるだろう、だから今のうちに親孝行も兼ねて、大好きなウマ娘のライブを最後に当分決別したい… ということだった。


    結局根負けして、人生初のライブ参加を息子と果たすことになった。

  • 3二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 21:26:18

    『父さん。この季節は本当に冷えるからマフラー持ってって、靴下は二重に履いて。ライブ始まる直前にお腹にカイロも貼った方がいい』
    山登りにでも行くような冬装備を進める息子に対しライブ鑑賞というものはそうも過酷なのかと尋ねるが、今回の会場が特別過酷だからと苦笑いしながら答える。

    実際、私の想像を超える程に過酷であった。

    名前の書かれた派手な法被、数多に及ぶグッズを飾りつけたカバン、それらに劣らずも愛を表現するグッズを身に着けたファンがこれでもかと電車に詰め込まれ、終着駅であるライブ会場へ追いやられていく。
    会場周辺の随所には催事ブースが立ち並び、ビー玉をばら撒いたように人が行き交う。休憩所にも人が溢れ、心を落ち着けられるスペースはどこにもない。
    座席への入場が始まる頃には日も傾き始め、いよいよ息子の語った冬装備が役に立つことになった。


    ようやく座席に着く。息子は冬装備の上に、出走者と思しきウマ娘のグッズを手にしている。
    手持ち無沙汰の私を哀れに思ったか、サイリュームを譲ってくれた。

    『底面にボタンがあって、まず長押ししたら電気がつくから。あと曲ごとに色が決まっていて…』
    「…応援にも作法はあるんだな」
    サイリュームを振っての応援は、声を出せない世情では画期的だと感じた。
    指紋のすり減った指先で小さなボタンを押す。まばゆい緑色の光に目が眩みそうになった。

  • 4二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 21:26:52

    さて、人生で初めて経験するライブというものは特別なものであった。


    自宅では到底再現不可能な音響と派手な映像効果に合わせ、数多の出走者が全力で私達観客の心を揺り動かそうとしてくる。

    序盤はクラブ・サウンドや荘厳な音楽の洪水が私達を襲った。
    声を出せなくても、拍手やサイリュームの激しい動きから観客全体が盛り上がっていることが判った。

    いつしか外には月明かりが差し始めた。それに倣うようにライブの雰囲気は切なく、厳かなものへ切り替わっていく。
    ウマ娘が満員の会場の前でたった一人、曲を通して思いの丈をぶつける。
    各々の背景を知らない私でも、涙が零れそうになった。


    クライマックスの直前を飾る一つの歌、一つぽつんと空いた立ち位置があったことが気になった。
    私の無知やライブの慣例という言葉では片づけられない、純粋な違和感だ。

    生じた違和感に対する答えを隣の息子に求めようとする。
    が、息子はサイリュームを握りしめ、舞台のただただ一点を見つめていた。

    息子だけではない。
    この場に臨席する観客皆が、この欠けた舞台を目に焼き付けよう────
    そういった覚悟の気が張っているようにも思えた。

  • 5二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 21:27:38

    帰り道、ポツンと空いた立ち位置のことを尋ねる。

    『…彼女の歌、すごく楽しみにしてたんだけどさ、数日前に出れないってことになって』
    息子が身に着けていたグッズは、その彼女の名前が刻印されていた。

    出られない理由は、ただの体調不良とは勝手が違った。
    時間や外科的治療で完治するようなものでもなく、悪化すれば日常生活にすら影響の出るようなものだ。

    他の出走者も観客も事情を呑み込み、彼女の分まで全力で走り抜けた。精一杯の応援を届けた。
    門外漢の私からすれば最高の舞台だった。息子もそれに対しては首を縦に振る。
    だが彼女のいない舞台に対する喪失感は、また別のものなのだろう。


    「もしかしたら、ステージに立つ姿はもう見れないかもしれない」


    会話を終える直前に漏らした息子の独り言が脳裏から離れなかった。

  • 6二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 21:28:19

    息子は家を離れた。
    それから数か月。誰もいない自宅に帰り、自分の為の家事をするだけの生活が続いた。


    ある日、ふと。あのライブに居なかった"彼女"に興味が湧いた。

    息子が楽しみにしていた出演者というのもあったし、何か心に空いた穴を彼女を知ることで埋めたかったのかもしれない。


    名前を検索すれば彼女の動画はいくらでも出てくるが、過去のライブに出た際の映像は見つからない。そういえばライブでの写真・動画撮影は禁止だったか。
    近頃更新されているのは先日の休養に関する憶測を語るゴシップばかりだ。
    そうした検索結果をザッピングするうちに、URA公式のレース映像が目に留まった。


    “宝塚記念”、“毎日王冠”。

    触れば折れそうなほどに華奢な身体。
    いざゲートが開けば一目散に抜け出し、
    ライバルなぞ最初から存在しないかのように突き放す。

    "天皇賞・秋"。

    …これまでのレースとは何かが違った。
    今まで自由奔放に先頭をひた走る彼女ではなく、運命に立ち向かう思いを感じた。
    なぜだろう。あの大ケヤキを超え、府中の長い直線を一人駆けだす彼女を見て、涙が止まらなくなった。

  • 7二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 21:29:15

    一年が過ぎた。世間のクリスマスムードと裏腹に、自宅は相変わらず物寂しい。


    『父さん、正月休みある?飛行機の安い時に帰省して話をしたい』
    「仕事、辞めるのか」
    『辞める気はない。ただ父さんの顔が見たい』

    電話越しからでも判るほどに息子は憔悴している。休みは取れているようで身体は大事なさそうだが、心理的には相当追い詰められているのだろう。
    それでも私に頼らず、自分一人で難局を乗り越えることを選ぼうとしていた。

    親としてはなんとしても助けたい気持ちがあるが、息子も相応の覚悟を以て家を出ている。極度な干渉は望まないだろう。
    せめて私に出来ることはないか。


    「休みを二月にずらすことはできないか」
    『…?』
    「お前と見たライブで見れなかった子がいただろう。彼女が復帰するらしい」

    慣れない予約システムとの格闘の末、なんとかチケットを確保することができていた。
    2月4日。有明某所。2枚。

  • 8二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 21:29:48

    「…そういえば彼女は"ゲスト"の注釈があった。何か扱いが違うのか」
    『健康面も気遣って短い時間の出演なんだと思う。それにしても父さん…新しく買ったのはサイリウムだけかと思ったけど、一年でだいぶ変わったね』

    指摘も無理はない。去年は着の身着のままだった中年男性が、今は彼女の名を冠した法被を羽織っているのだから。

    「今の仕事にしか興味のなかったお前が、心を奪われたウマ娘を知りたかった」
    『ごめん、ちょっとキモイ。結婚を認めない親父かなにか?そういう目で彼女みてねえから』
    …確かにキモい。ごもっともだ。

    「でもだ。お前のお陰で彼女を知った。彼女がどれだけトゥインクルシリーズで多くの観客を虜にしてきたかを知ることが出来た」
    「最初にお前から話を聞いた時は、少し残念なくらいにしか思っていなかった。だが彼女を知るうちに、以前のライブを欠席したことがどれだけ悔しかったか、寂しかったかを理解した。彼女が元気にステージに立つ姿を見なければ、一生後悔するとまで思ったんだ」
    『……そっか』


    一年半の間に、流行り病によって苦しんだ娯楽業界は不完全ながら日常を取り戻した。前回はできなかった声出しでの応援が解禁されたらしい。

    前回のライブで見た子も何人かステージに立っていた。少しばかり成長した様子に感慨深さを感じた。

    元気にあふれた曲と共に、観客が、息子が、合いの手を叫ぶ。
    前回のライブでは見れなかった光景に少し面食らってしまったが、息子を見習い出来る範囲でサイリュームを振り、声を出した。

  • 9二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 21:30:38

    楽曲の波に圧され小休止に入る頃にはお互い興奮のあまり彼女の事を忘れかけていた。交流の時間を挟み、ステージは次のプログラムに進む。
    各出走者の語りを、じっと見守る。


    明るくなったステージ。この場にいなかった二人のウマ娘がゆっくりとステージ中央に歩みを進める様子を、誰かが見つけた。

    これまでとは全く異なる歓声が会場全体を包み込んだ。


    一年半前、欠けた立ち位置の隣で声を張り上げ、センターで皆を引っ張ったダービーウマ娘。
    その隣には、一年半前のステージに立ちたかったであろう彼女が、私の想像もできない苦しみと向き合った末に、ただこの場に立っていた。


    序列からすれば彼女も、ダービーウマ娘の彼女も、こういったライブでは第一線を張るプロフェッショナルであるはずだ。
    それでも二人の第一声は涙声交じり。
    普段の美声には程遠かっただろう。感情を必死に抑えながら、上手く自分の声を調律していた。
    それでも間奏でお互いが向き合うと、お互いの感情のタガが一瞬外れた。


    一年半前。息子が、観客が見たかったものとは異なるかもしれない。
    彼女をはじめとする出走者が見せたかったものとも異なるかもしれない。

    それでも皆、あふれる涙を必死に抑えながら、彼女の帰還を見守っていた。

  • 10二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 21:31:49

    数曲を挟んで、再度の小休止に入る。彼女が登壇する。
    溢れる涙をタオルで拭く裏の笑顔は、あの大ケヤキを乗り越えた時と変わっていなかった。


    "なんと今日は特別に、我々で話す時間を、頂きました…。という事で…。"
    トレーナー、そして客席全体から彼女の帰還を祝う声が飛び交う。

    息子も周りの観客と変わらず緑色のサイリュームを振り、
    ステージから溢れるだけの光源でもわかるほどの涙を流し、
    親子喧嘩でも発しなかった程の声を張り上げ、彼女を祝った。


    "…ただいま!"

  • 11二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 21:32:38

    …私はというと。
    恥ずかしながら、涙を流れるに任せ、眼前の彼女を見守ることしか出来なかった。
    祝福する緑色のサイリュームの光より、緑色のメンコを耳に付けた彼女が、ただただ眩しい。


    彼女がこれまでの苦しみと向き合い、不完全でも私の前で元気な姿を見せてくれたことに、心の中で感謝の言葉を送る事しかできなかった。


    そしてどうかあなたが。そして息子が。
    これからも絶望することなく、夢に向かって走り続けてくれれば、と祈った。

    (了)

  • 12二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 22:16:01

    非常に文章に厚みがあって素晴らしいSSだった
    これは本当に傑作だと思うし、もっと評価されるべき

  • 13二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 22:19:01

    こういう一ファンからの視点で描かれてる作品は中々貴重
    面白かった

  • 14二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 22:23:18

    推しが心身共に健やかであるのを祈るのも愛の形だよね

  • 15二次元好きの匿名さん24/02/06(火) 22:53:47

    最初は村上春樹かと思った
    普通にいい一ファンの話だったよ

  • 16二次元好きの匿名さん24/02/07(水) 00:02:39

    重い題材だけどすごくいい話だった

  • 17二次元好きの匿名さん24/02/07(水) 00:53:05

    主な過去作(感想・イラスト等誠にありがとうございました)

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  • 18二次元好きの匿名さん24/02/07(水) 00:55:15
  • 19二次元好きの匿名さん24/02/07(水) 03:09:16

    サイレンススズカの話でもあるし、先週あったライブの話でもあるのか

  • 20二次元好きの匿名さん24/02/07(水) 13:14:00

    ファン目線の話は珍しいなと思ったら過去作の幅の広さで納得した
    強い

  • 21二次元好きの匿名さん24/02/07(水) 20:27:07

    とても優しい話だ

  • 22二次元好きの匿名さん24/02/08(木) 02:50:14
  • 23二次元好きの匿名さん24/02/08(木) 10:55:23

    >>22

    この絵師さんの絵はいつ見ても良いよね

  • 24二次元好きの匿名さん24/02/08(木) 11:20:23

    >>18

    すごく良い

  • 25二次元好きの匿名さん24/02/08(木) 12:14:50

    >>22

    この絵師さんの絵はどこか優しい感じがするな

  • 26◆os6UVi1GVMOT24/02/08(木) 12:27:30

    読んでるスレの方本当にありがとうございます…!

    スレでいきなり投げられたの初めてでびっくりしています


    このSSは所沢の過酷な寒さ以外殆どがフィクションですが、彼女が再びステージに戻ってきてくれたことはまごうことなく事実です

    アーカイブ配信チケットはabemaなどで来週末まで購入視聴可能です

    【ウマ娘】5th EVENT ARENA TOUR GO BEYOND -YELL- 見逃し配信中!


  • 27二次元好きの匿名さん24/02/08(木) 12:49:34

    >>22

    👍

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