- 1二次元好きの匿名さん22/01/18(火) 00:00:10
……ジイ――ジジジ――――ジジ……。
蝉の声。夏の風物詩――なんて言えば聞こえはいいが、実際耳にすると鬱陶しいばかりで風情も何もない。
……ジイ――ジジジ――――ジジ……。
鳴りやみそうもない騒音のオーケストラに耳をぺたんと倒し、アタシは嘆息をひとつこぼす。
……ジイ――ジジジ――ジッ。
蝉の声がひとつ、突然コードを抜かれたように途切れた。あぁ、これが風情というものなのだろうか。そんな考えも、別の蝉の声に飲み込まれ消えていく。
――ネイチャは、『胡蝶の夢』って知ってる? ふと、前聞いたトレーナーさんの話を思い出した。『胡蝶の夢』、それは確か……夢と現実の境目が曖昧になって、どちらが本当の現実かわからなくなるという説話……だったっけ。今のアタシはまさにそれだ。目の前の「現実」が本物なのかわからない。
……カナカナカナカナ……。
ひとりきりのトレーナー室。ひぐらしの鳴き声だけが、いやに煩く響いていた。 - 2二次元好きの匿名さん22/01/18(火) 00:03:09
◇
コン、コン、コン――――トレーナー室の扉を叩く。
「おはよ、トレーナーさん。入るよ」
今日は授業の前に今後の予定についてふたりで話し合うことにしていた。見た目ほど重くない扉を引き、部屋の中に入る。
「おはよう、ネイチャ」
トレーナーさんがアタシの大好きな笑顔で出迎えてくれる。幸せだなぁ、なんて思いながら備え付けのソファーに腰掛けた。
「これからの予定、だっけ。どうしよっか?」
開口一番、真面目な話。ホントのことを言っちゃうとすぐにでもイチャイチャしたかったけど、これだけは先に話しておかないと。
「――よし、これで大体終わりかな。細かい部分は都度調整していくってことで」
時計を見る。……残念、もうすぐ授業の始まる時間だ。トレーナーさんとイチャつくのは午後にお預けかな。
「じゃ、ネイチャさんはお勉強に行ってきますね~」
なんて軽い調子でトレーナー室を後にしようとする。
「あっ、待ってネイチャ」
トレーナーさん? まだ決めてないこととかあったっけ。
「はいはい、なん――」
返事を言い終わるより先にトレーナーさんに抱き締められる。トレーナーさんの体温が、柔らかさが、服を挟んで伝わってきた。
「今日も一日頑張ってね」
……ほんとずるい。ずるいよトレーナーさん。そんなこと言われたら、頑張るしかないじゃんか……。お互いの身体が離れても、トレーナーさんが触れていた場所の熱はしばらくひかなかった。 - 3二次元好きの匿名さん22/01/18(火) 00:06:12
◇
……夢だ。何か月か前の幸せな時の夢。じっとりと背中に張り付く服の感触。その不快さに顔をしかめながら、あたりを見回す。窓の外はオレンジに染まり、蝉たちがその生命を必死に主張していた。
「トレーナーさん……?」
控えめにトレーナーさんを呼んでみる。返事はない。トレーナー室にはアタシ以外、ほかに誰の姿もなかった。ただ席を外しているだけだろう。そう思いつつも、何故か心臓は早鐘を打つ。トレーナーさんが目の前にいないことに、アタシはどうしようもない不安感を覚えていた。嫌な予感――虫の知らせ、というやつだろうか。トレーナーさんがいなくなってしまったかのような――そんな感覚が脳内を蝕む。
……カナカナカナカナ……。
ひとりきりのトレーナー室。ひぐらしの鳴き声だけが、アタシを嘲笑うように響いていた。 - 4二次元好きの匿名さん22/01/18(火) 00:09:04
◇
……夢だ。いやにリアルな夢。アタシの全身は汗でぐっしょりと濡れていた。
「あっ、ネイチャ。起きたんだね。ずいぶんうなされてたけど、大丈夫?」
トレーナーさんの声。数十年ぶりに聞いたかのような、懐かしい感覚。安心したアタシはひとつ息を吐いた。
「ネイチャ、ほんとに大丈夫? つらかったら今日のトレーニングはやめにするよ?」
トレーナーさんが心配そうにアタシの顔を覗き込む。その手にはタオルが握られていた。……どうやら、アタシの汗を拭いていてくれたらしい。やっぱり優しいな、トレーナーさん……。
「ん、大丈夫……。ちょっとヤな夢見ちゃっただけだから……」
いったん寮に戻ってシャワーを浴びてこよう。トレーニングで汗をかくとは言え、さすがにこのままは気持ち悪い。トレーナーさんにそれを伝え、トレーナー室を後にした。
……道中、蝉の鳴き声がやけに煩かったのを覚えている。
着替えとタオルを取るために、自室の扉を開ける。そこにはアタシのルームメイト――マーベラスサンデーが立っていた。
「あれ、マーベラス? トレーニング中じゃ……」
今の時間、ほぼすべての生徒はトレーニングに励んでいる。だからこそ、制服姿で自室にいた彼女の存在はとても異質に見えた。
「…………」
沈黙。静寂がふたりの間を満たす。
「マーベラス?」
声をかけてみるも、返事はない。
いつもやかましい彼女が何も言わない。それはまるでちぐはぐな、おかしな気分だった。
「……ネイチャ」
マーベラスが静かに――普段からは考えられないほどに落ち着いた声色で――アタシの名前を呼ぶ。……おかしい。おかしい。何かがおかしい。
「マー……ベラス……?」
恐る恐る、もう一度彼女の名前を呼ぶ。目の前の「それ」がアタシのよく知る彼女なのかもわからない。まったくもってなにもわからない。
「…………」
再び静寂が部屋の中を支配した。寮の壁を挟んだ外の世界の喧騒も、すべてが消えてなくなったように何も聞こえない。
暗転。
……カナカナカナカナ……。
視界が闇に染まり、意識は落ちてゆく。ひぐらしの鳴き声だけが、悲しそうに響いていた。 - 5二次元好きの匿名さん22/01/18(火) 00:12:11
◇
……夢だ。おかしな夢。変なマーベラス? 確かにあの子はちょっと変わってるけど、あんなんじゃない。絶対に考えられない。けれど、ついさっきの夢は不思議な現実感と共に脳裏にこびりついていた。
「マーベラス!」
……いつもの声。朝っぱらからやかましい、明るくて元気な声。なんだかとても安心した。
「おはよ……」
元気なく返す。夢のせいでアタシはドッと疲れていた。
「おはよーネイチャ☆ 今日もマーベラスな朝だね★ ……って、あれ? なんだか元気ない?」
……早速気づかれた。この子はそういうのに敏感な子だ。
「いやぁ……変な夢見ちゃってね。あんまり寝た気になんないっていうか……」
変な夢。……ほんとうに、変な夢だった。
「そっか……つらいならあんまり無理しちゃだめだよ? 休むこともマーベラス☆」
いつもの調子で元気づけてくれる。ホント、この子はいい子だ。
「そうしよっかな。先生とトレーナーさんに伝えておいてくれる? 今日は休むって」
眠気はまったくないが、身体は思うように動かない。一日休めば回復するだろう。
「オッケー★ ……えっ? トレーナー、さん……?」
……は? どうしてそこで不思議そうな顔をするの?
「トレーナーさんだよ。アタシのトレーナーさん。美人で、かっこよくて、優しくて……」
マーベラスは気まずそうに顔を伏せる。わからない、わからない、わからない……。どうして目の前のこの子はそんな態度をとるの? どうして……。
……カナカナカナカナ……。
体内時計の狂ったひぐらしの鳴き声だけが、すべてを知っているような気がした。 - 6二次元好きの匿名さん22/01/18(火) 00:15:08
◇
……夢だ。怖い夢。トレーナーさん……。……そうだ、トレーナーさん! トレーナーさん、どこ、どこ、どこにいるの? アタシが目を覚ましたトレーナー室の中は空っぽで、人の気配はどこにもなかった。
途端に暗い不安が思考を覆っていく。トレーナーさん、トレーナーさん……。
「おっ、ネイチャ。起きたみたいだね。飲み物買ってきたけど飲む?」
乾いたドアの開閉音の後、トレーナーさんが入ってくる。
「トレーナーさん……!」
思わずトレーナーさんに駆け寄り抱き着いた。
「どうしたのネイチャ。怖い夢でも見た?」
トレーナーさんの体温、感触、声……。あぁ、「い」る。トレーナーさんは今ここに、確かに存在する。
「トレーナーさぁぁぁん……」
涙が両の目からとめどなく溢れる。この歳で号泣なんて、という考えも気にならないほどに、今のアタシにはトレーナーさんの存在がたまらなく嬉しかった。
「今日のネイチャは甘えん坊さんだね。よしよし……」
優しく頭を撫でられる。その掌の感触が、とても、とても、心地よかった。あぁ、もしこれが夢だったとしても、どうか一生覚めないでください。
……カナカナカナカナ……。
ふたりきりのトレーナー室。ひぐらしの鳴き声だけが、やけに煩く響いていた。 - 7二次元好きの匿名さん22/01/18(火) 00:15:21
以上です。
- 8二次元好きの匿名さん22/01/18(火) 00:49:34
ドグラ・マグラみたいだな…
- 9二次元好きの匿名さん22/01/18(火) 02:26:48
いいね…