- 1二次元好きの匿名さん24/02/20(火) 23:50:17
「すみません。あの子の引退式は何時ごろでしょうか。」
まるで道でも尋ねるような形で、見知らぬウマ娘の老婦人に話しかけられたのは11Rが終わったころだった。
「次のレースのしばらく後になるみたいです。」
私は簡潔に答えた。仕事で身に付けた社交用の話し方だ。
「ありがとうございます。こういう場は初めてで…。」
老婦人は微笑みながらゆっくりお礼を述べてくれた。
やっぱりそうかと内心納得しながら私も微笑み返した。
話し方というか、纏う雰囲気の違いは彼女がお孫さんに連れられて隣に並んだときにすぐにわかった。
その日私は昼をむかえる遥か前からその場所で寒風に耐えていた。
レース場の片隅。地下通路の階段前の最前列。ここにカメラを構えて私は半日以上”ある時”を待っていた。
マナーを考えると決して褒められた行為ではない。実際さっきも隣で場所を取られた腹いせに、罵声を浴びせて行った奴も見た。いくら環境が変わったとはいえ、それでもここはこんなことばかりだ。
「去年、別の子の引退式は一時間もかからなかったです。いまあのビジョンに出ている案内の時間からすると、終わるのは17時半くらいでしょうか。」
だからこそ我ながら少しだけ嬉しかった。
よく他人に道を聞かれる質だが、こうした鉄火場でも話しかけていい人と思ってもらえたのだから。
メインレースからこっち、老婦人は最前列でじっとターフを見つめていた。
「”彼女”はここまで来ますか?」
婦人もまた”その時”をゆっくり待っている様子だった。鉄火場を満喫するわけでもなく、瞬間の一枚を押さえたいわけでもない。一人のファンとして来ているのが分かった。 - 2二次元好きの匿名さん24/02/20(火) 23:51:05
そこから私は一度だけ参加した引退式の流れを伝える。
「始まると、芝コースを歩いてきてくれます。おそらくこの位置なら目の前まで来てくれるでしょう。」
「その後は?」
「関係者の方々がスピーチをします。その後はクラブ用の写真撮影をして終了です。」
「意外とやることはそうないんですね。」
その返しに私は思わず吹き出してしまった。
「本当です。やるだけでも大事なのに、思いの外単純ですよね。」
私は何気なしに聞いてみた。
「今日はなぜここへ?」
すると老婦人は答えてくれた。
「今までずっとテレビ越しで応援してたのです。こうしたものを応援することは今までありませんでしたが、彼女には…惹かれてしまって。」
微笑みながら夫人は滔々と話す。
「ここで引退のお披露目があると聞いて、初めて足を運ぼうと思い、孫と一緒に。」
「そうだったんですか。素敵です。私も似たようなものです。彼女は綺麗に走る子です。未だに居なくなるとは信じられません。」
正直、私自身今日の引退式にはそれほど良い印象は持ててはいなかった。競馬を始めたクラシック戦線からずっと勝負を抜きにして追いかけ続けていたから、走るレースが無くなったとか、繁殖の価値とかはどうでもよかった。ちょうど自分が心身をすり減らした時期に重なり、何度も現地で見守った彼女の姿が社会に戻る時の心の支えだった。そんな彼女の脂の乗りきった5歳を前にしての引退。
寂しいと言う言葉では語り尽くせない、どこか冷ややかな感情が腹の底に溜まっていた。
「そうですね…私も唯一心残りがあるとすれば…彼女の走った証を、投票券を手元に置いておきたかったです。」
微笑みの声のなかに、微かに寂しさが混じっていた。 - 3二次元好きの匿名さん24/02/20(火) 23:52:00
その時が来た。来てしまった。
底冷えのする師走の日没後。いっぱいに焚かれたナイターライトの元を、青い馬着に身を包んだ彼女がゆっくりと練り歩く。
「来ました。」
私はカメラを構えた。ライトバズーカを伸ばし、決して暗闇が得意ではないAPCセンサーへ可能な限り美しく焼けるよう、シャッターを押した。
その隣で老婦人はスマホを向けるでもなく、なにかを呟くでもなく、ひたすらに彼女を目で追い続けいていた。
何度も我々の前を通り過ぎ、そして遂にお披露目は終わった。
「美しい子ですね。」と老婦人は私に語りかけてきた。
いつの間にか腹の冷たいものが消えていた。
私は「ええ。美しい子です。」と返すのが精一杯だった。
関係者のスピーチが終わり、クラブ向けの撮影時間に差し掛かると、人の流れが変わった。帰り始める人々が、目の前の連絡通路を下っていく。
「今日はありがとうございました。」
老婦人が別れの挨拶をする。
お孫さんの姿が見えなかった。おそらく待ち合わせているのだろう。
「こちらこそ。お話できて楽しかったです。」
純粋な気持ちをもって、彼女を一目見送りたいとやってきたこの夫人に、私は同じ子を応援してる者として敬意を抱かずには居られなかった。
「どうぞお気をつけて。」
そうして老婦人は人混みの中へと消えていった。
まさか…
少し前に訪れた、北海道のとある観光牧場で出会った方と似ていたように私は感じた。確かその方は今日まさに引退した彼女の──
「…まさかな。」
知りようもないことと私はそれ以上の詮索はやめた
やがてクラブの撮影も、最後のお披露目も全て終わる。
後に残るのは大型ビジョンに映される「ありがとう」という言葉と、寒空に煌々と浮かぶ欠けた月の姿のみ。
師走の冷たさが私の熱を冷ましていく。晴れ晴れとした寂しさを少しだけ呑み込めたような気がした。 - 4二次元好きの匿名さん24/02/20(火) 23:56:11
駄文失礼しました
イクイの引退式で出会った方との一幕がどうも自分のなかで残り、度々ハーヘアお祖母ちゃんと重なったので、それを題材になんとか今日に間に合わせた次第です
玄孫を見るつもりで長生きして欲しいです
ハーヘアさんどうか今後も健やかに - 5二次元好きの匿名さん24/02/21(水) 00:13:46
読みました。
日常の一幕、確かめる術も意欲もないけど、もしそうだとしたら少しだけ心が暖かくなりますね