【ブルアカSS】そして2人で帰りましょう【棗イロハ】

  • 1イロハァァァァァァァ24/02/25(日) 16:05:18

     シャーレ専属の秘書、という役職がある。
     日頃からキヴォトスのあちこちを飛び回り、かれこれ10年以上は鉄火場の最前線に立ち続けるシャーレの先生を常時傍らで補佐し続けるという仕事内容だ。そしてその立ち位置に私がいるわけだが。

    “イロハ、トリニティ関連の書類はどこ?”
    「それならデスクの右方にまとまっていますよ」
    “うん、ありがとう”
    「はい」

     今回の会話、以上。私も先生も各自の作業に戻る。
     空調の音がシャーレの執務室に響く。今日の当番の生徒が居辛そうに私たちの方をちらちらと見ている。確かミレニアムの生徒だったか。

    「あ、あの……棗さん」
    「はい、何でしょうか田中さん」
    「えぇと、お2人は……夫婦なんですよね?」

     彼女の視線が私の左手に向く。薬指に光るのは銀色のシンプルな指輪。

    “そうだよ、一応ね”
    「い、一応、ですか」

  • 2イロハァァァァァァァ24/02/25(日) 16:05:41

    「言っておきますが、先生はキヴォトスにおいては中立の立場ですからね。私はゲヘナ出身ですが、それとこれとは全く関係がありませんので」
    「あ、いえ。それは承知しているんですが……」

     言いたいことは分かる。夫婦という関係からは想像もつかないあまりに淡泊な会話に、まるで相手が今ここにいないかのような仕事への没頭具合。
     まあ、正直言って世間一般で言うところの夫婦の距離感ではない。どちらかというと仕事仲間だ。

    「同じ人と5年一緒にいたらこれくらいの距離感になりますよ」
    “まあ、そういうことだよ”
    「は、はぁ……」

     喧嘩とかはしませんのでね、と付け足しておく。これで不仲説とか疑われたら洒落にならない。
     ただでさえ多感な時期の生徒相手に、超絶スーパーダーリンと言っても差し支えないシャーレの先生があれこれ手を尽くしてくれるのだ。勘違いしてしまう生徒はこの人の隣にいた10年間で何十回も目撃してきた。

    「全く、苦労させてくれますよ」
    「そうなんですね……?」

     ふふんと笑いながらそう言ってやる。先生は相変わらずのアルカイックスマイル。そして当番の田中さんはなおも居心地悪そうな相槌を打ってくれる。

    “…………ん?”

     ここで先生のスマホが通知音を鳴らす。あの音は確か生徒からのモモトークだ。

    “イロハ、ちょっと行ってきていい?”
    「呼ばれてるんですか。ならもう仕方ないですから行ってきてください。行かずに何か起きたらコトです」
    “本当ごめんね、急いで行くよ”

     つまり、この後数時間は私がやれる限りの仕事をやっておかないといけないということだ。田中さんはあくまで生徒だ、重要な仕事を任せることはとてもじゃないけどできない。
     先生は急いで自前の白衣とタブレットを引っ提げて、執務室から速足で出ていく。

  • 3イロハァァァァァァァ24/02/25(日) 16:06:07

    「早く帰ってきてください。先生じゃないと処理できない仕事が山ほどあるんですから」

     先生の背中に向けて言う。目線は書類から逸らしてやらない。

    “もちろん”

     先生がそう言う。そんな答えが返ってくるのは分かりきっている。
     扉がバタンと閉まる。執務室には私1人がペンを走らせ、印鑑を押す音だけが断続的に響く。
     眼前には未だに大量の書類が鎮座している。これで今日の仕事の半分がもう既に終わっているというのだから全くもって嫌になる。

    「この仕事量じゃあ、満足にサボれませんね」

     秘書になって何百回目のボヤき。田中さんがビクリと肩を浮かせた。

    「さ、サボる……? 棗さんもサボることがあるんですか?」
    「たまに、月1回くらいですね。休暇を貰ってゲームしたりマンガ読んだり……」

     これを元々の意味での「サボり」と言っていいのかは甚だ疑問だが、まあ「仕事を休む」という括りならそう言ってもいいだろう。大人になってからというもの、日中はひたすらに仕事ばかり、土日休日全て返上で数百数千の生徒のために奔走する毎日。
     ついでに言うと、先生がアメなら私はムチの役割をしている。何かを提言してきた生徒に対して厳しめに接することは少なくない。だから生徒たちの記憶には残れども感謝されることはまあない。これだから大人になんてなりたくなかったのに。

    「仕事はきちんとしないと、ですからね。はーぁ」
    「……この仕事に就いて、後悔とかしてらっしゃるんですか?」

     何をそんな、当然のことを。

  • 4イロハァァァァァァァ24/02/25(日) 16:06:43

    「してるに決まってるじゃないですか。こんな仕事、やりたくてやってる人なんていませんよ」
    「あー…………」

     私は省エネで生きたかったのだ。適切な仕事量、適切な休み、適度な遊び。人間が生きるために必要なのはこれだ。
     どこかの国は「労働は1日8時間」を「最低8時間」と考えているらしいがとんでもない。私にはそんな仕事中毒なマネは絶対に無理だ。普通に考えたら「最高8時間」だろう。そんなものに耐えられるのはあのクソ真面目な慈愛の化身くらいでいい。
     田中さんは相も変わらず私を怪訝そうな目で見つめる。この話を聞いて疑問に思ってることなんてお見通しだ。

    「じゃあ何でこの仕事に就いたのかって、そう訊きたそうですね?」
    「え……まあ、ハイ」
    「何で分かったみたいな顔してますけどね…………その質問、百を超えたあたりで数えるのをやめました」

     深く、深くため息をつく。今回は純粋な疑問のようだったからまだいいものを、先生ガチ恋勢なんかもこんな質問をする。その場合は大抵「じゃあさっさと離婚したらどうですか」なんて感情が透けて見えるものだから、女ってものは本当に面倒だ。私も女ではあるが、ここまで陰湿ではない。
     何にせよ、返す答えは決まってるわけだが。

    「先生の助けになりたかったからですよ。昔、私が生徒だった頃、先生はこの仕事量を全部独りでこなしてたんですよ」

     書類の山をバンバンと手で叩く。重厚な音、そして紙とは思えぬ手応えだ。
     よく考えたら当然のことだ。私という秘書がいなかったわけだから1人当たりの仕事量は単純に考えて2倍になる。無論当番の生徒が手伝ってくれるが、それでも先生にしかできない業務もやはりあるわけだ。
     その上に今日のように生徒の困りごとがあった日には、あの人は大抵仕事をほっぽって駆け付けるものだから、残業徹夜は日常茶飯事。

    「はっきり言って、見てられなかったんですよね。でも今じゃ顔色はあの時に比べたらだいぶマシになりましたけど」

     昔の先生は目の下に立派な隈があった。今でも隈自体はあるが、あの時ほど黒々としたものではない。

  • 5イロハァァァァァァァ24/02/25(日) 16:07:05

    「……その優しさ、憧れます」
    「や、優しい~?」

     思わず背筋に冷たいものが走った。優しいだなんて冗談じゃない、そんな高尚な心掛けなんかであるものか。

    「憧れないでください、痛い目を見るだけですよ。実際私なんて何回後悔したことか」

     真剣に、心からの忠告である。今日の当番は随分と素直なようだから。
     こういう子がコロッと悪い方に転がってしまうものだから、世界というものはやりきれない。

    「思いがけず思いやりなんてものを持ってしまったのが運の尽きですよ。はぁ……」
    「……では、なぜご結婚なされたんですか?」

     書類からは目を離してやらない。話しながらでも依然手と頭は動いている。

    「さあ、何ででしょうね」

     おっと、これは先生でなければ処理できないものだ。先生のデスクめがけてパラリと放ってやった。
     その紙は勢いに反してハラリハラリと、2つのデスクの合間に落ちた。

  • 6イロハァァァァァァァ24/02/25(日) 16:07:39

     夕方になって、田中さんは当番の業務を定刻通りに終了して寮へと帰って行った。
     そして、それと入れ違いになるように先生が帰ってきた。足元がふらつき、汗を滲ませ、硝煙の臭いを漂わせているのは何かしらのアクシデントに巻き込まれたか。何でこの人は毎度毎度生きて帰って来れるのかそろそろ疑問だ。

    「おめでとうございます、残業確定コースですよ」
    “あ、あははは……ごめん”
    「私の業務は既に終わってますので」

     先生のデスクには書類一束。一方私のデスクの上にはパソコンのモニターとキーボードにいくつかのフィギュア。
     こうなるとまるで登山を終えた後のように気分と眺めがいい。鞄の中をゴソゴソと掻き分け、こういう時のために持ち込んであった漫画本を手に取る。

    「さっさと仕事進めてくださーい、帰れませんよ」
    “はい……”

     しょぼくれた顔つきだ。しかし手伝うことはもうできない。一応全ての書類に目を通したが、残っているのは本当に先生でなければ判断できないようなものだけだ。他のサインをしたり印鑑を押すだけだったりの仕事は全て片付けてやっただけ褒めてほしい。人間延々と続く単純作業は心に来るものだ。

    「で、今日は何に巻き込まれたんですか」
    “生徒の話を聞きに入ったカフェに爆弾が……”
    「あー、カフェ行ったんですか。何食べました?」
    “コーヒーを1杯だけ。美味しそうなデザートいろいろあったんだけどね”

     私をそこに連れて行こうとでも思っているのか。冗談じゃない。

    「店の名前教えてください、行かないようにするので」
    “え、何で……コーヒーだけでも美味しかったのに……”
    「何でもです」

     気分が悪くなってきた。それもこれも全部この男が悪い。自分もサボってくれないものだから目を盗むことに対して罪悪感が湧いてしまう。私を悠々とサボらせてくれないなんて酷い男だ。

  • 7イロハァァァァァァァ24/02/25(日) 16:08:00

    「今日の晩御飯何にします? 外食なら楽に済みますよ」
    “イロハの体力次第かな”
    「先生の意見を聞いてるんです。私はどっちでもいいので」

     選択権をこっちによこすな。この男のこういうところが嫌いだ。

    「体力自体はあります。ないんだったらとっくに帰って寝てますから」
    “じゃあ、イロハの作ったご飯がいいな”
    「それじゃあ買い物にも付き合ってくださいよ」

     あの仕事量と先生のペースだったら後1時間で今日は終業だ。それくらいあったら今日持ち込んだ漫画も読み終えるからちょうどいい。

    「カレー、シチュー、ハヤシライス、ハッシュドビーフ。どれがいいです?」
    “それほぼほぼ同じじゃない?”
    「野菜と肉切って煮込むだけですし、作り置きできるので簡単なんですよ。言っておきますけど明日も同じものになりますからね。その辺も考えて選んでください?」

     食材を腐らせるべからず。ああいう煮物料理は最低限の食糧と出費で最高効率の食事を提供できる主婦の強力な味方だ。

    “じゃあ今日はシチューの気分だな。クリームシチューがいい”
    「了解です。じゃあブロッコリーも必要ですね」

     仕事をする音1人分に、本のページをめくる音1人分。蛍光灯はずっと光っているが、外はとっぷりと夜も更けている。ピカピカとあちこちで誰かが残業の代わりに命を光らせているこの風景を、外の世界では「100万ドルの夜景」と呼ぶらしい。

    「…………やー、でも」
    “うん?”
    「一悶着はありましたけど、先生は見事に中立ですね。というかシャーレ自体が、ですか」

  • 8イロハァァァァァァァ24/02/25(日) 16:08:28

     私は元ゲヘナ生だ。そもそも私がここに来た最初の目的だって先生を抱き込むことだった。まあその目的は一瞬で私自身の手によって放棄されたが、他人の目からはそうは見えない。
     「先生が万魔殿に取り込まれた」……その報はキヴォトス中を駆け巡り、大混乱の末に大激戦になったものだ。

    “その辺は積み重ねた信頼と未来の行動で示すしかなかったからね”
    「苦労を掛けました、本当に」
    “別に苦労だとは思ってないんだけどな”

     何でもなさげにこの人は言うが、そうやってこの人は過去何回も命を擲って生徒を救ってきた。
     それが、やっぱり気に食わない。

    「自己犠牲も大概にしてくださいよ」
    “うん……それは、気を付けてる”
    「もう先生1人だけの命じゃないんですから」
    “え、まさか”

     ガタリと先生が立ち上がる。何を想像したんだか。

    「できてませんよ? そういう意味ではなく」

     全く、この人はどうしようもない。
     どうしようもなく弱くって、愚かで、優しい人だ。

    「あなたが死んだら、私はどうしたらいいか分からなくなるので」

     まあ、結局のところはそういうことだ。
     この人が死んだら私もすぐに後を追おうと思っている。どれだけ止めようが無意味だ。だってこの人は私を無視して命を捨てるんだから、私がこの人の言うことを聞かなくったっていいだろう。

  • 9イロハァァァァァァァ24/02/25(日) 16:09:53

    「ずっと二人三脚ですからね」
    “そうだね”
    「あなたの助けになりたくって、私は今ここにいるんですから」
    “ありがとうね、イロハ”
    「礼を言うくらいなら目と手を動かしてください」

     この人がサボらないなら私もサボらない。極度の苦労を当然のように呑み込むこの人を見ていたら、もう一緒に地獄に堕ちてやるしかないと思った。

    “イロハの仕事は終わってるみたいだけど……、別に帰ってもいいんだよ?”
    「は? 何バカなことを言ってるんですか」

     寝惚けた発言もここまで行くと清々しいと、ついついため息が出てしまう。

    「早く今日の仕事を終わらせて……ああもう、今日で何回目ですか、これ」

     私はさっさと家に帰って、一緒にだらけたいのだ。

  • 10イロハァァァァァァァ24/02/25(日) 16:13:20

    別カテで間違えて立ててしまったものの立て直しです
    指摘してくれた方、本当にありがとうございました。お手数をお掛けして申し訳ありませんでした

  • 11二次元好きの匿名さん24/02/26(月) 01:44:00

    ハンドルネームから溢れ出る愛
    あにまんの真ん中で愛を叫ぶスレ主

  • 12二次元好きの匿名さん24/02/26(月) 12:44:24

    めっちゃいい

  • 13イロハァァァァァァァ24/02/26(月) 13:56:24

    すみません、先生がイロハに寝かしつけられるシチュの短編SS書いていいですか?
    どんな答えが返ってきても書きますね

  • 14二次元好きの匿名さん24/02/26(月) 13:59:11

    行きなさい>>13君!!

  • 15イロハァァァァァァァ24/02/26(月) 16:56:37

     ガチャン、と音を立てて鍵が閉まった。
     ハッとして扉の方へ振り向くと、鍵をかけた張本人であるイロハがいたずらっぽく笑っていた。

    “え、えーと……イロハ?”
    「ふふふ、まーた騙されましたね」

     ここはイロハの休憩スペース。モモトークで呼ばれたからとほいほいここに来てしまったのがいけなかったか。いつになく真剣そうな口調だったから心配していたのだが、イロハ自身は何でもなさげなので安心半分に不安半分だ。

    「別にとって食いやしませんよ」

     ゆっくり、ゆっくりと勿体ぶった歩き方をしながらイロハが私に近づいてくる。
     そして私の目の前まで来た後、ニッコリと不敵に笑って言う。

    「先生、最近サボってますか?」
    “え? サボるって……”
    「最近寝てないらしいじゃないですか」

     どこからそんな情報を仕入れてきたのか。ついつい眼を逸らしてしまうと、イロハは「だろうと思った」と言わんばかりに大きくため息をついた。

  • 16イロハァァァァァァァ24/02/26(月) 16:57:40

    「まさか本当だったとは……どれだけ仕事中毒なんですか」
    “やってもやっても仕事が終わらなくって……”
    「シャーレの業務というのも大変ですね。あれだけ他人の世話焼いてるんだからそうなるのも必然ですけど」

     畳の匂いと鳥のさえずりが、やけに私の感覚器官を揺さぶってくる。
     きっと徹夜続きで私の頭が働いていない証拠だ。脳のパフォーマンスが低下しているから、情報の取捨選択ができていないのだ。

    「まあまあ座ってください。座布団そちらにありますので」

     イロハはそう言いながらクッションを床にボスンと置いて、それを枕にして寝転がった。私は敷かれてあった座布団に正座する。ここに来ると、床が畳になっていることも相まって何となく正座がしたくなった。

    「それでリラックスできてるんですか」
    “え、うん”
    「もうちょっと崩した座り方でもいいんですがね。ほら、私なんて寝転がってますよ」

     そう言ってイロハは脚をジタバタさせている。それならと私はお言葉に甘えて座り方を崩して足を延ばす。

    “えーっと、イロハ……”
    「はい、何でしょう…………っく、移動せねばいけないとは」

     ギリギリ手の届かない場所にある漫画本を何とか寝たまま取ろうとするイロハに声をかける。

    “外に出るには、どうすればいい?”

     別に外に出るならドアの鍵を開けたらいいだけだ。しかしイロハがわざわざそういう簡単な解決策があるにも関わらず鍵を閉めたという事実が、この事態がそう容易に片付くようなものではないことを私に告げていた。

    「別に、私がサボり仲間の先生とサボりたかっただけですが……その顔を見て気が変わりました」

     ジトリとイロハが私を見つめる。思わず身体が跳ねた。

  • 17イロハァァァァァァァ24/02/26(月) 16:58:19

    “私今どんな顔してるの?”
    「酷い顔ですよ。なのでこういうのはあんまり好きじゃないんですが」

     イロハの傍にあったクッションを乱暴に投げつけられる。すぐさま受け止めようとしたが反応に遅れ、柔らかくいい香りのするそれがそこそこの勢いで顔面にクリーンヒットした。

    「一緒に寝ましょう」
    “え……えー?”
    「えーじゃなくって」

     私の足元に、投げつけられたクッションがゴロンと転がる。

    「寝ないと、ほら、まともに仕事できませんよ」

     今日の仕事分はまだ4割ほどしか終わっていない。このまますぐに帰ったとて残業コースは確定。何なら何か起こったら自分史上の徹夜タイ記録になることは確定的に明らかだ。
     思わず虚空を見つめてしまう。窓から差し込む日光が左手を暖かく照らしている。

    “仕事がなぁ……まだ残ってるから……”
    「仕事仕事仕事、本当にそればっかりですね。どんな子供時代送ってきたんですか」

     イロハがズリズリと這って私の隣に移動してくる。まさかと思って訊いてみる。

    “まさか、寝るまで鍵を開けないつもり?”
    「そういうことになりますねぇ。無理矢理部屋から出ようとしてもダメですよ。死ぬ気でこの部屋に連れ戻すので」

     光がやけに目に沁みる。虹色の暖かい線が何本も私の視界を遮ってきて、瞼を落としたくなってしまう。
     それに加えてふわりといい洗剤の香りが鼻をくすぐるものだから、思わずぐっと目頭を押さえてしまった。

    「まあそういうことですので、さっさと寝てしまった方が賢明かと」

     ポンポンと肩を叩かれる。ああ、ダメだ。頭が働いていないからかこんな優しい衝撃で体全体がブツンブツンと音を立てて電源を落としていく。

  • 18イロハァァァァァァァ24/02/26(月) 16:58:34

    “……じゃあ、2時間だけ”
    「はいはい。あ、そうだ」

     私が手に持っていたシッテムの箱がさっと取り上げられてしまう。

    「それ、ぽーいっと」

     そして、イロハがそれを畳まれたタオルケットの上に投げてしまった。それを見届けるのと同時に、視界がぐらぐらと揺らぎ始める。

    「私も一緒に寝てあげますからね。それと、寝るのならもう寝転がってしまった方が楽ですよ」

     イロハの透き通った声が私の脳髄をくすぐる。言葉通りに、さっきまで座布団にしていたクッションを枕にして横たわった。
     そして、同じように寝転がっていたイロハとバッチリ目が合う。イロハはまるで慈悲深き聖母のような眼差しで私の頭をなでてくる。

    「ふふ、限界だったんですね。お疲れ様です」

     掛け布団はないので申し訳ありませんがとイロハは言うが、昼時の柔らかな気温があれば布団なんてなくても十分暖かい。ましてや隣に人がいるとなれば、なおさら。
     鳥のさえずりとイロハのささやきが耳に入ってきて、ああ、これはもうダメだ。

    「おやすみなさい。私もここで一緒に寝ますから」

     意識がどんどん落ちていく。イロハの顔すら満足に見られなくなっていく。

    「本当にお疲れ様です。ちゃんと休んでくださいね」

     そうして、私の意識は闇に沈んだ。

  • 19イロハァァァァァァァ24/02/26(月) 17:00:04

     夢を見ていた。

     いつか、私がイロハの年頃よりもさらに幼かった時代。あの頃の私は外で友達と追いかけっこばかりしていた。友達と一緒に遊べなくても、公園を駆け回っているだけで満足していた。
     そんな活発的な子供だ、当然未発達な身長と重心の関係で転ぶこともある。地面で膝小僧を擦り剥いて、血がだらだらと流れてくる。そしてやはり痛いものだ。

     そんなことになったら、私はわんわんと泣きながら家まで歩いて帰るしかない。その泣き声は近所にも聴こえるほどだったというが、当時の私にはそんなことは関係ない。ただ自分が世界で一番不幸ですと言わんばかりに、声をあげて泣いていたものだ。

     そうして家に辿り着いて玄関の扉を開けると、母親が私を出迎えてくれた。そして私の身なりを見るや否や、「また転んだのね」と言いながらクローゼットから救急箱を慣れた手つきで取り出すのだ。
     消毒液の独特なにおいと、特撮のキャラクターがプリントされた小さな絆創膏。そうして処置を終えても、痛みがすぐさまパッと消えるわけではない。

    「痛かった。痛かったんだよ」

     そうやってソファーの上で寝転びながらぐずる私を、母は頭を撫でて慰めてくれたものだ。

    「痛かったわね。頑張ったわね」

     その声をかけられるだけで、私は嬉しくなってしまう。痛い中頑張って家まで歩いたからこそこんな風に褒められたんだ、と一端の勇者になったような気持ちさえした。

    「強いわね、○○は」

     そうだ、私は強いんだ。痛くても立ち上がれるのは、そんな経験があったからだろう。
     自分にはそんな美徳と呼ぶべき強さがあるのだと、私は自分を信じることができたのだ。

     陽だまりの中に埋もれていた、もう遠い過去の記憶だった。

  • 20イロハァァァァァァァ24/02/26(月) 17:00:31

     衣擦れの音で目を覚ました。
     周りを見渡すと、もう既に起きていたらしい先生が服装を整えていた。

    “おはよう、イロハ”
    「おはようございます……」

     時刻は午後6時、既に空は橙色に染まっている。カァ、カァと烏の鳴き声もどこかから聴こえてきた。

    「よく眠れましたか?」

     タオルケットの上に投げてあった仕事道具のタブレットを拾っている先生に、そう問いかける。

    “うん、久しぶりに睡眠がとれた”

     そう言う先生の顔つきは、昼頃よりもどことなくスッキリしていた。口元に微笑みを浮かべているのはいつものことだけど、雰囲気が何となく清涼になったというか。

    “イロハはよく眠れた?”
    「まあ、普通です」

     眠気がとれない頭をゆっくり揺すりながら返す。タブレットと身分証を引っ提げて白衣も整えたその有様はすっかり「シャーレの先生」だ。

    「この後はお仕事ですか?」
    “今日の仕事が終わってないから……”

     いつか当番で行った、シャーレの執務室のデスクを思い出す。あんな書類の量、人間1人が抱えていいものじゃないと思うが。
     それでも、先生は何も言わずにこなし続けるのだろう。そして暇さえあれば生徒の手助けに、こうやって生徒のご機嫌伺いに奔走すると。全くもってご苦労なことだ。

  • 21イロハァァァァァァァ24/02/26(月) 17:01:21

    「……また、ゆっくり寝たくなったら言ってください」
    “仮眠室とかあるから大丈夫だよ”
    「仮眠室はいろんな生徒が使ってるでしょう。ここは私と先生しか知らない秘密の休憩スペースですから」

     元SRTの生徒だとかが頻繁に使っていると噂で聞いた。まさか同衾しているのだろうか。さすがにそんなことはないだろうが、先生のことだからありえなくもないのが厄介だ。

    「言ってくれれば、いつでも部屋を貸すので。その時は一緒にサボりましょう」
    “ありがとうね、イロハ。……イヤァ、でも”

     先生が気持ちよさそうに背伸びをする。私よりもよほど身長の大きい大人の男性の背伸びなものだから、ともすれば天井に手が届くのではないかとさえ思った。

    “本当によく眠れたよ。ありがとう”

     ニコリと表情を崩して先生がそう言った。
     だから、私は無表情を崩さずに言ってやる。

    「お仕事、頑張ってください。応援してます」
    “うん。イロハも頑張ってね”

     私と一緒にサボってくれる人。でもずっとサボらずに、自分の仕事に戻れる人。
     もう既に鍵の開いてあるドアに向かっていく先生の背中が、私には大きくて仕方なかった。

  • 22イロハァァァァァァァ24/02/26(月) 17:02:55

    個人的に、イロハが先生にサボりをねだるのは、先生の過労を少しでも和らげたいという思いがいくらかあるからだと思います
    先生だけをサボらせるのは先生自身が苦しむので、あえて自分のわがままという形を通して先生を休ませているわけですね
    全部自分の願望です

  • 23二次元好きの匿名さん24/02/26(月) 17:08:09

    君に甘毒武勇髭勲章を授けたいよ

オススメ

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