【ブルアカSS】今更イロハのバレンタインストーリーを見たので発狂して書いたSS

  • 1お前なんなんだよ!24/02/28(水) 15:04:43

     バレンタインデーという行事がある。
     女性が男性に向けてチョコレート菓子を贈るというもので、恋愛感情を伝える際に体のよいイベントだ。異性からチョコレートを贈られた男性は、少なくとも並み以上には思われているということになるのだから。もちろん社交辞令として職場の全員に市販の安い菓子を配ることもあるらしいが……。

     さて、今日は2月13日。バレンタインデー前日というわけだが。
     私が今立っているのは台所。目の前に広がっているのは融かして使えるチョコレート数十グラムに棒状のクッキー、そしてカラースプレーに食用ラメ。
     そうだ、私は今先生に宛てたチョコ菓子を作ろうとしている。

    「…………はぁ」

     別に、誰よりも早く渡そうだなんて思ってはいない。あの人たらしの先生のことだ、どうせ2月14日の午前0時を迎えたと同時にシャーレのあの執務室を訪れる人はいるだろう。何なら今のうちに抜け駆けして渡している人もいるかもしれない。その辺はとっくに諦めている。
     というか、誰よりも早く渡したからってチョコの価値が変化するわけでもないだろう。相手に向けて作ったということが大事なのだ。うん、そういうことにしておく。そうでないと何となく負けた気分になる。

    「作り方自体は、分かってるんですがね……」

     チョコを湯煎して、クッキーにある程度浸し、カラースプレーとラメを振りかけ、冷蔵庫で固めたら完成。我ながら単純すぎると思う。だが保存の効かない生菓子を渡されたとて、大量のチョコレートを身体に取り入れることになる先生からしたら困るだろう。なら私くらいはしょっぱいものを差し入れるべきかとも思ったが、それだと行事の趣旨そのものに反してしまうような気がしていけなかった。
     ああ、気乗りがしない。どうせ当日は我らが愛すべき愚かなる議長に様々なお使いを任じられることになると分かっていることに対しても腹が立つ。生徒に頼まれたらほいほいついていって、差し出されたものは全て素直に受け取るだろう先生に腹が立つ。何より、こんなイベントに乗せられて、手作りとも言えないような菓子を作ろうと準備までしてしまっている自分に腹が立つ。
     そうしてかれこれ10分、鍋に入れてコンロにかけ終わった水がそれなりの温度で湯気を立てているのを視界の端に収めながら、チョコレートとにらめっこしているのが現状の私なのだ。

  • 2お前なんなんだよ!24/02/28(水) 15:05:04

    「我ながら、本当に面白みがありませんね……」

     もっと手の込んだものを作っている生徒だっているだろう。そういう見も知らぬ生徒に対抗心とも言えないような対抗心を燻らせている自分が嫌だった。でも手間のかかったものを贈るのは生粋のサボり魔たる自分の美学に反する気がした。怠け者には怠け者の矜持というものがあるのだ。
     そもそもこんなもの、市販で似たようなものが売っているだろう。それがただほんの少し太くなって、カラースプレーで彩りを増しているだけだ。いっそ市販のものを投げつけて終わってやろうか。そうした方が「こういうところも面倒臭がって手を抜いた私」感が出ていいじゃないか。

    「やってられませんね」

     思わず1粒チョコレートを手に取って齧る。硬い。そして甘い。粘着質な甘味がした全体にじんわりと広がっていく。チョコレートのかけらを奥歯で噛み潰すたびに、その苦みも含んだ独特の甘みが口のあちこちに飛び散って、何というか、相変わらず面倒臭い味だと思った。

    「やっぱり好きじゃありませんね、これ。何でこんなのをありがたがってるんだか」

     手に持ったチョコレートを見る。冬の気温で冷やされて手に持ってもしばらく融ける気配のないその小さな粒は、私の前歯の形そっくりそのままに削られていた。一部食べてしまったものだから、このチョコレートは私自身で始末しなければならない。そう思っていた。

    「……………………」

     そう思って、いたのだけども。

  • 3お前なんなんだよ!24/02/28(水) 15:06:45

    「…………あー」

     うっかり。そう、これはうっかりやってしまったことなのだ。

    「間違えました」

     そう言いながら、私は鍋に浮かべていた耐熱性のボウルにそのチョコレートを放り込んだ。

    「ええ、うん、やっぱり美味しいですね、このチョコレート。甘くて美味しい」

     だから、私がこうして食べてしまうのも無理はないのだ。
     もう数粒手に取って齧る。舌で味わうことはせず、噛んで、潰して、呑み込む。それでも甘味は舌に引っ付いて離れない。
     そして、その齧ったチョコレートをまたボウルに投げ入れる。残った私が食べていないチョコレートも全てバラバラとボウルの中に入れ、ゴムベラでかき回し始めた。

    「早く融けてください、めんどくさい」

     こんなものは絶対に市販じゃ出せないだろう。ざまあみろ、これが手作りの強みだ。愛情を込めることが料理の秘訣だと誰かが言っていたが、そんなものは必要ない。私はこのチョコレートに愛情なんて高尚なものを込めるつもりはない。
     どれだけ高級なチョコレートのアソートパックでも、しっとりと滑らかな生チョコでも、ケーキやタルトなんかでも、この菓子に勝る感情を持ってやしないだろう。
     それでも粒は融けるにはまだそこそこの大きさだったようで、なかなか融けるそぶりを見せてくれない。刻んだ方がよかっただろうか。

    「融けてくれないと眠れないんですよ。めんどくさい」

     その懸念を振り切るようにガタガタとかき回す。そうして10分ほど湯煎されたチョコレートは、いつの間にかドロドロに融けていた。もうかつての固形なんて姿形も見えやしない。
     もう、どこに私の齧ったチョコレートがあるのか、分からない。

  • 4お前なんなんだよ!24/02/28(水) 15:07:04

    「……ホント、らしくないですね」

     融けたチョコレートを深めのコップに流し込み、クッキーを数本そこに漬ける。そしてキッチンペーパーの上でパラパラとカラースプレーとラメを振りかけて、冷蔵庫の空いているスペースにぶち込んだ。明日の朝には固まっているだろう。
     台所に残っているのは、細かなチョコレートのかけらに湯煎に使ったボウルと鍋、残ったカラースプレーとラメに、チョコ塗れのコップ。そして、何かが燃え尽きたように棒立ちになった私独り。

    「……とりあえず、ココア入れましょうかね」

     インスタントの粉状ココアをコップに入れて、お湯を注いでスプーンでガチャガチャかき混ぜ、ぐいっと飲み干す。舌と喉の奥が焼け、年頃の女子らしくもない声が出た。

    「後はラッピング用の袋に、リボン……り、リボン」

     100円そこそこで買ったかわいらしいリボンを手に取り、頭が痛くなった。

  • 5お前なんなんだよ!24/02/28(水) 15:07:28

     呼び出した先生は、何ともマヌケな顔をしていた。
     デパートはチョコレートの甘い匂いでいっぱいだ。儲けを出そうとここぞとばかりにチョコレート菓子を店頭に出し、どこを向いてもチョコチョコチョコチョコ。
     そんな中、私と先生の2人は一緒に万魔殿から頼まれた買い物をしているわけだが……その目的も概ねがチョコレートである。そろそろチョコレートが私の頭の中でゲシュタルト崩壊しそうになってきた。

     私でさえこうなのだから、先生なんてまさに内心うんざりしてきているのではないだろうか。私は自分のことしか考えなくていいわけだが、先生は生徒数十名からチョコレートを貰っているわけだ。糖尿病が本気で心配になってくる。
     まあ、この後私もその後押しをしてしまうわけだが。先生ならおそらくは大丈夫だろう。

     仕事の愚痴をこぼしながら歩く。それを聞いて先生は私を労ってくれる。

    「苦労が多い者同士、付き合ってくれますよね?」

     自分で言っておいて寒気がする。先生の苦労は私の比ではないだろう。今こうしてここにいて、私の買い物に付き合ってくれていることも苦労の1つに入ることは容易に想像がつく。そのうえで「万魔殿からのプレゼントを考えておいてくれ」だなんて、一体何様なんだろうか。
     でも、先生が甘えてほしいと思っているのならば、お望みどおりに甘えてやろう。ついでにチョコレートの食べ過ぎで鼻血でも出してしまえばいい。

  • 6お前なんなんだよ!24/02/28(水) 15:08:11

     買ったものについて揶揄ってやる。本当に普通の、他人を傷つけるだなんて考えられないようなものばかり買った先生。袋の中に詰まった数々のお菓子は、まるで全ての学園を飛び回る「シャーレの先生」を体現したようなものだった。
     そうして買い物が一段落して、少し歩調が緩んだその時。ふと見ると先生の目つきがどこか潤んでいた。何かを求めているような、そんな目。
     とぼけてやるとまた面白い反応を返してくれる。それは本気でやっているのだろうか。誰にでもこんなことをしているのだろうか。

     ……それとも、私がチョコを渡すタイミングを用意してくれた?
     もしそうだとしたら、お望み通りに乗ってやろうじゃないか。ビニールに入ったチョコを取り出し……そのうちの1つの持ち手の部分を口に咥え、目を閉じる。
     世間ではこれを「ポッキーゲーム」って言うんだったか。双方が同時に両端から食べ始め、最後まで折らずに食べ切れたら勝ち。つまり、勝利への必要条件としてマウストゥマウスでキスすることになる。
     目を開けると、先生は明らかに恥ずかしがっていた。さすがに生徒相手にそんな背徳的な遊びはできないか。期待は少しだけ裏切られたが、まあそれはいい。どうせ叶うはずはないと分かっていたことだ。
     菓子を袋に戻して差し出すと、先生は漸く安心したようだった。

    「ぜひシャーレに戻ってから、ゆっくり味わってください」

     そうだ、ゆっくり味わえ。冷えたチョコは硬いから、飴でも舐めるように口の中で融かしてしまえ。
     帰る素振りを見せると、先生は拍子抜けしたように立ち尽くしていた。全く、この人は面白い人だ。もし真実を知ったらどんな顔をするのだろうか。

    「ああ。先ほど咥えていたのも、中に入れておきましたので」

     そう聞いてぎょっと目を見開く先生は本当に傑作だった。もし真実を知ったら、一体先生はどんなことを言うのだろうか。
     何と言うことはない。その数本のチョコスナックは外れくじばかり。うち1本が大外れというだけだ。
     それを先生は金輪際知ることはないだろう。私も自分から言うつもりはない。私だけが知っていればいい。

     そうして私と同じように、舌に絡みつく甘さでうんざりしてしまえばいい。

  • 7お前なんなんだよ!24/02/28(水) 15:10:44

    イロハは本当におかしい……おかしすぎる……
    何だお前、何だお前……お前はどこまでを想定してるんだ……?

    24時回ってもスレ残ってたらSSのシチュエーション安価します

  • 8二次元好きの匿名さん24/02/28(水) 15:13:59

    なんでイロハ推しには文豪しか居ないんだよ
    この10日で3つ目だぞこのタイプのスレッド立つの

    まあ、大好きだしいくらでも読めるから良いんだけどさ、こう言うの

  • 9二次元好きの匿名さん24/02/28(水) 15:35:08

    このレスは削除されています

  • 10二次元好きの匿名さん24/02/28(水) 16:27:55

    ん、このSSでサイクリングの疲労が吹き飛んだ。もっとたくさんの人が読むべき。

  • 11二次元好きの匿名さん24/02/28(水) 16:41:53

    なんと表現すればいいかわからんが、とにかく良かった!

  • 12二次元好きの匿名さん24/02/28(水) 16:48:50

    何でイロハの心情描写をこんなにねっちり描けるんだ素晴らしい…

  • 13二次元好きの匿名さん24/02/28(水) 17:31:36

    過酷なあにまん掲示板を乗り切るのに必要な栄養素を全て含んでいる

  • 14お前なんなんだよ!24/02/28(水) 18:15:09
  • 15824/02/28(水) 18:15:53

    >>14

    全部ガチの名作だからちっとも気にしてないんだよなあ

  • 16お前なんなんだよ!24/02/28(水) 18:26:33

    一応これが本人確認ですね

    スレ削除ボタンがあるってことがスレの1である証明だと思います。画像も切り貼りしたヤツだからコピーのしようがないし

    でもってあれだ……0時回ったら安価するつもりだったけど、よく考えたら0時である必要ないですね


    ということでイロハにどんなシチュで何してほしいか >>20

  • 17二次元好きの匿名さん24/02/28(水) 20:50:08

    クオリティが高いせいでリクエストする側が萎縮してるなこれ

  • 18二次元好きの匿名さん24/02/28(水) 20:51:40

    まあ一応加速しとくか

  • 19二次元好きの匿名さん24/02/28(水) 21:47:34

    今だッ!「浮上」しろッ!!

  • 20二次元好きの匿名さん24/02/28(水) 22:40:47

    明確に仕事の疲れが溜まってきてる先生を、虎丸の「イブキが乗ってる部分」に乗っけて海なり山なり静かな場所に連行するイロハ…とか…?

  • 21お前なんなんだよ!24/02/28(水) 23:28:53

    >>20

    了解! 早速書きますね!

  • 22お前なんなんだよ!24/02/29(木) 02:55:47

    前編できました! 続きは今日中に書きます!
    テレグラフ全然使えないんだけど何で……? めっちゃ不便……

  • 23お前なんなんだよ!24/02/29(木) 02:56:20

     先生が疲れているのはいつものことだった。
     よれよれの白衣に最低限の手入れしかしていないぼさぼさの髪、今にも閉じそうな瞼に不安定な声調。そりゃあ毎日家にも帰れずシャーレの執務室に籠りきりでは精神衛生上悪かろうというものだが、そうでもしないとシャーレ及び連邦生徒会のあの大量の仕事は片付かないのだ。頻繁に当番として生徒を呼び出せるのはいいが、生徒ができることだって高が知れている。結局のところ詰めは先生自身がやらないといけないのだ。

     ただ、どうやらここ最近はただでさえ過酷な仕事がますます過酷にだったらしい。
     というのも、今週は温泉開発部や便利屋68、そして美食研究会だったりが他校の自治領内で大暴れをしてくれたらしい。その解決に駆り出されたというのがまず一つ。ゲヘナの恥としか言いようがないが、校風とキヴォトスの治安上どうしてもそういう生徒は出てくるものだ。嘆かわしいことである。
     そして先生はそんな状況下でありながら、生徒からの呼び出しに対して断るということをしなかった。相談事だったり買い物への付き添いだったり、別に先生が相手じゃなくったっていいだろうと言いたくなるようなことにすら嫌な顔1つせずに付き合っていたという。
     今週は毎日のようにイベントが盛り沢山だったものだから、先生本来の執務の方にまで手が回らなかったらしい。何徹したか分からないほどに疲れきった顔をした先生は、なぜか公園のベンチで気絶するように眠っていた。

    「……これ、生きてますよね。全然寝息立ててないんですけど」

  • 24お前なんなんだよ!24/02/29(木) 02:57:24

     午前7時。朝日があたり一帯を照らし始め、鳥の囀りは爽やかに響き渡っている。そしてベンチに倒れ伏した先生の顔面にも日光が差し込んでいるのだが……一切起きる気配がない。それどころか、開いた口から「あー」だの「うー」だのか細いうめき声を出し始めた。
     生存が確認できたのはいいが、このままでは先生の身体そのものに異常が起きかねない。こんな硬い椅子の上では安らぐものも安らがないだろう。
     
    「仕方ないですね……おーい、起きてくださーい」

     幸いながらこの時間帯の公園には、ふとした思い付きでコンビニに朝食を買った帰りである私以外に生徒はいない。よって、先生のこの無惨な屍を目撃する生徒は現状私以外にはいないわけだ。
     身体を軽く揺すってみるが、先生は慣性に従って首をがくんがくん上下に振るだけだ。ゾンビのような鳴き声も止まらない。

    「起きてください、何でこんなところにいるんですか」

     もう少し強めに揺すってみるがなお起きない。ここまで来ると何かの毒でも盛られたのではないかと思ってしまう。空砲で起こすことも考えたが、そんな物騒な起こし方はあまりしたくなかった。

    「ああもう! 起きてくださいっ! 寝るならせめて布団でお願いします!」
    “…………うぅ”

     半ば叫ぶように声をあげ、肩を掴んで強く揺さぶると、先生の瞼が重そうに持ち上がった。全く酷い顔だ、目が充血している。一体全体何をどうしたらこんな惨い生き物が出来上がってしまうのだろうか。
     手首で顔をごしごしとこすり、不思議そうに周辺の景色を見渡すその姿は、まるで小説でいつか読んだ「目が覚めたら見知らぬ異世界にいた」という状況とそっくりそのままだった。

    “い、イロハ? どうしてここに?”
    「それはこっちのセリフです。何でこんなところにいるんですか?」
    “わ、分からない……何でだろうね?”

     シャーレのビルからこの公園まで数百メートルも離れている。意識的に行こうと思わなければ行けないだろう。ましてや判断力の鈍っている徹夜明けならばなおさらだ。

    「覚えてないんですか? ここどこだと思ってるんですか」
    “イヤ、仕事を終わらせて、『やったー!』って立ち上がって……その後ここに辿り着くまでの記憶がない”
    「どういうことですかホントに……」

  • 25お前なんなんだよ!24/02/29(木) 02:57:50

     推測するに、目の前で背中をさするワーカホリックは仕事が終わったあまりの興奮に酔いしれ、トランス状態のままにこの公園まで千鳥足で歩き、そのままベンチで気絶したのだろう。これが自分の行く末かと思うと全くもって大人になるのが嫌になる。

    “体が痛い……”
    「そりゃあベンチで寝たならそうなりますよ」
    “あはは、確かにね……”

     先生が極めて重そうに背伸びをする。体のあちこちからバキボキと音がして、まさか骨が折れているんじゃないかと恐ろしくなる。それでも本人にとっては気持ちよかったようで、スッキリしたかのように立ち上がった。

    「待ってください。どこ行くんですか」
    “え? 帰るんだけど……”
    「それ家ですよね? シャーレの休憩室だとか言いませんよね?」
    “シャーレの執務室だけど……?”

     ダメだ、想定の斜め下45度をぶっちぎっている。一回辞書で「帰る」という言葉の定義を調べ直してほしい。少なくとも仕事場に戻ることを「帰る」とは言わない。それは「出勤」だ。
     見ていられない。思わず手で顔を覆ってしまった。へたり込んでしまいそうになるが何とか踏ん張るが、脚がガクガクと震えている。何で私の方が追い詰められているのか真剣に意味が分からない。

    「最後に休んだのはいつですか」
    “しっかり5時間睡眠とれたのは、えっと、確か……”
    「あ、もう言わなくていいです」

     その手に持ったタブレットで適切な睡眠時間というものを調べてほしい、切実に。
     ため息が出る。先生には「同じ管理職に就いている」ということへの仲間意識が少なからずあった。その先生がここまで擦り減っていることに我慢ならなかった。このままでは銃弾で死ぬ前に過労死してしまう。

  • 26お前なんなんだよ!24/02/29(木) 02:58:17

    「…………先生」

     あえて強めの口調で口火を切る。

    “何かな、イロハ”
    「ちょっとお時間いただきますね」
    “え、ええ? いいけど”

     言質はとった。しばらくは私が先生の予定を貰う。今日他に誰の予定が入っていようが知ったことではない。

    「少しついてきてください。行きたいところがあるんです」
    “分かった。どこに行くの?”
    「万魔殿の車庫です」
    “車庫……?”

     歩き出す。しばらく歩いて振り返ると、先生が覚束ない足取りで私を追いかけていた。
     これがキヴォトスを駆け回るシャーレの先生か。大人の姿か。いや、大人だからこそ過剰な量の責任を背負ってこの有様なんだろうが、本当にやめてほしい。未来に希望が持てなくなるから。ペースに合わせていられなくて思わず先生の手首を掴み、そのまま引きずるようにまた歩き始めた。

     手を引いて歩く最中、私は周囲のことなんて気にする余裕がなかった。おそらく誰かに見られていた可能性もなくはないが、そんなことよりも今は先生だ。先生を目的の場所に連れていくことしか頭になかった。
     今にして思えば、私も軽く寝惚けていたのかもしれない。普通ならこんなこと、思いつくはずがないのだから。

  • 27お前なんなんだよ!24/02/29(木) 02:58:51

    「はい、着きました。車庫です」

     朝の車庫は静かだ。持っていた鍵を使って開けたその空間は、窓からの光に照らされてどことなく神秘的だった。空調が効いていないからか少し暑い。

    “車庫だね。それで、どうして私をここに……?”
    「休憩スペースにご案内、するんですがね、普通は」

     カツン、カツンと私の足音が響く。向かう先は、いつも使っている戦車だ。

    「ご存知ですか? この戦車、複数人乗れるんです」
    “ああ、イロハはいつもイブキを乗せてるよね”
    「巡回中はまあ、そうですね。だけど今回は……」

     目線をやると、先生はまさかと言うように目を見開いた。

    “まさか、私が乗るの?”
    「はい、いつもはイブキが乗っているスポットなので、安全性は保障します」
    “いやいや、大丈夫なの!? だってそれ大事な戦車でしょ!?”

     先生はいかにも悪いと言わんばかりに首を振った。この人はこういうところがある。自分は厚意を振りまくが、自身に向けられた厚意についてはあまり関心を持とうとしない。それは自分が子供から施しを受けることそのものを拒んでいるかのようで、気に入らなかった。

  • 28お前なんなんだよ!24/02/29(木) 02:59:35

    「私は万魔殿の戦車長ですよ。少し言い訳すれば誤魔化せるでしょう」
    “いや、でも……!”
    「ああ、こう言った方がよろしいですか?」

     戦車に上り、ハッチを開ける。ギィッという音が響いた。

    「私と一緒にドライブしてくださいませんか? 行先は、海です」
    “海!? 何で!?”
    「この時期の海は人がいないので」

     いつものように体をハッチの中に滑らせる。先生は相変わらず立ち尽くすばかりだ。

    「で、付き合ってくれるんですか? ダメだったら言ってください」

     そう言って先生を見つめると、先生は覚悟を決めたかのように戦車に向かって歩き出した。

    “分かった。でもイロハが後悔しないようにね”
    「後悔するも何も、勝手に戦車を私用するんですから始末書ですよ。それは先生だって同じでしょう」

     全く、職権乱用もいいところだ。戦車長がこんな体たらくなものだから、万魔殿の質とやらも推して知るべしというもの。
     きっと先生はシャーレに戻ったらまた仕事と人助けにてんてこ舞いだろう。ああ、何て酷いことだろうか。スーパーマンである先生は、今日この日だけは悪魔に攫われて雲隠れしてしまうのだから。

    「共犯ですね、これで」
    “う、うん……”

     よいしょよいしょと危なっかしい上り方をするものだから、少し身を乗り出して手を貸す。先生は恥ずかしそうに「本当にごめんね」と笑うが、謝る理由なんてどこにもない。
     私は自分がこうしたいからやったのだ。ゲヘナの校風は「自由」と「混沌」。私はそれに従って自由に振る舞ったまでのこと。

  • 29お前なんなんだよ!24/02/29(木) 03:01:59

     戦車の中に入った先生は興味深そうに周囲を見渡すが、どうにも狭苦しそうだった。当然だ、先生は私やイブキよりも体が大きいのだから。

    「そこから顔を出せますよ。はい、イブキがそうしてるみたいにしてください」
    “了解……おお、これは”
    「思った以上に高いでしょう。じゃあ私は運転に回りますね」

     ハッチを閉め、運転席に座り、戦車のエンジンをかける。もう既にモモトークで議長には『火急の用ができたので戦車を1輌使います』と連絡済みだ。先生が今私と一緒にいるということまでは知らせていない。
     ずっと持っていたボトル飲料とスナック菓子におにぎりが入ったレジ袋を脇に置く。少し多めに買っておいてよかった。

    「運転席の横に食べ物と飲み物があるので、よかったらどうぞ」
    “大丈夫! 私今お腹減ってないんだ!”

     それは大丈夫ではないだろう、もう朝なんだから。そんなツッコミは今更野暮なのでぐっとこらえた。
     戦車が少しずつそのキャタピラを前に転がし始める。先生の「おー! 動いた!」なんて驚嘆の声をBGMに、戦車は車庫のシャッターを通り抜ける。ガタガタと戦車が揺れ、グオングオンと轟音が響き渡る。
     私にとっては日常の風景だが、シャーレに籠りきりである先生にとってはまるで遊園地のアトラクションのように映っているのだろう。いつもとは比べるべくもなく、子供のように目を輝かせていた。

    「あ、車庫の鍵閉めるので一旦止まりますね。どうですか、初めての戦車は」
    “いやぁ、すごいね! こうして見るとわくわくするなぁ!”

     戦車から颯爽と飛び降り、シャッターを下ろして鍵をかける。少し手が震えて、いつもは流れるようにこなせる作業でも手間取ってしまった。私もこの逃避行とも呼べない何かに興奮しているのか。

    「それじゃあ、海へ向かってしゅっぱーつ。激しい振動にご注意ください」

     目指すは海。誰もいない浜辺。
     今回は絶対に使われないだろう戦車の砲口は、青い空の彼方を指差していた。

  • 30二次元好きの匿名さん24/02/29(木) 03:05:00

    このレスは削除されています

  • 31二次元好きの匿名さん24/02/29(木) 03:20:22

    夜中の3時なのですよ!?
    感謝!!

  • 32二次元好きの匿名さん24/02/29(木) 04:38:03

    文豪先生の画集に感謝をご友人…ゲヘナらしくていいじゃないかぁ…

  • 33お前なんなんだよ!24/02/29(木) 16:08:43

    6000字超えた! あと少しで書き終わります!

  • 34お前なんなんだよ!24/02/29(木) 16:21:17

     火砲にいつもの「巡回中」の掛札をかけて、ひたすらに海に向かって進む。
     先生が戦車から上半身を乗り出している都合上、もし誰かにばれてしまったら休むどころの騒ぎじゃなくなってしまうので、できる限り人のいない道を選んで通っている。
     そろそろ街全体が目覚め始める時間帯だ。今でこそ人を見かけることはないが、1時間後にはこのあたりは生徒やら一般人やらが往来している。帰りはこうはいかないだろう。

    “スピード結構出るんだね!”
    「これで大体時速40kmです。どうでしょう。非常にスリリングな乗り心地だと思いますが」

     人通りの少ない道を選ぶならば、やはりあまり整備されていない道も通ることになる。それに加えて大体の戦車の乗り心地はハッキリ言って最悪に近い。キャタピラの振動がダイレクトで内部に伝わって常時ガタガタと上下に揺らされるものだから、タブレットの画面でも見ようものなら乗り物酔いまっしぐらだろう。
     そんなものに外気に身を晒しながら乗っている先生は、下手なジェットコースターに乗るよりもスリル満点な経験を味わっているのではないだろうか。現状私からは下半身しか見えない先生に向かって、念のために声をかける。

    「気分が悪くなったら言ってくださいね、ただでさえ先生はまともに寝てないんですから」
    “今のところは大丈夫ー!”

     陽気そうな声が返ってきた。「了解でーす」と返答を受け取り、ハンドルを握り直す。
     私はといえば慣れたものだ。普段運転は他の生徒に任せてはいるが、何かあった時のためにそれなりに動かせるようには訓練されている。できる限り素早く、しかし安全運転で海に向かってひたすらに進む。

    “空が青いなー! 風が気持ちいい!”

     たまに聞こえる先生の歓声は、いつもの落ち着いた声のトーンからは考えられないほどにはしゃぎまくったものだ。寝起きかつ睡眠不足でテンションが一周回ってハイになってしまっているのだろうが、先生のそんな声を聴くのはなかなかに悲痛であり、また痛快だった。
     それに、そこはいつもイブキが乗っている場所、言ってしまえば特等席だ。イブキと先生以外の誰もそこに乗せるつもりはないくらいには特別なのだから、楽しんでもらえなければ嘘というものだ。

  • 35お前なんなんだよ!24/02/29(木) 16:22:01

    “あ、おっと”

     先生が戦車の中に首をひっこめた。右前方150m地点に、おそらくゲーセン帰りのスケバンが数名。なるほど、これは見つかってしまってはいけないだろう。
     スケバンたちは私たちの虎丸を見て顔をしかめ、足早にすれ違っていった。どうやら先生の存在に勘付いてはいないらしい。

    「バレませんでしたか」
    “いやどうだろう?”

     あはは、と先生が無邪気そうに笑う。見つかってしまうことに対するスリルすらも楽しんでいるようだ。
     いつもなら先生がこんな面を見せることはまずない。よほど疲れてしまって、「大人」というペルソナを被る余力もないのだろうか。先生は申し訳なさげに私の横のレジ袋からスポーツ飲料を取り出し、一口分を口に含んだ。

    「行き帰りは眠る暇もなさそうで、申し訳ありませんね」
    “いやいや、すごく楽しませてもらってるよ!”
    「そうですか? ならいいんですが」

     目的地まで残り約3km。虎丸は相変わらずガタゴトと微細振動を起こしながら、そろそろ見えてきた水平線めがけて進んでいく。

  • 36お前なんなんだよ!24/02/29(木) 16:22:30

     海を目的地にしたのは、別に何か特別な場所だからとかそういう理由ではない。ただ単に、この時期の浜辺は静かだからだ。そこならば、きっと先生は休むことができると踏んでいた。
     虎丸を駐車場に停め、先生を先に下ろす。私は非常用の備品をある程度抱えて外に顔を出す。先生がハッとしたように私を見た。

    “それは何?”
    「レジャーシートにタオルケットにクッション、後は食べるものです。定員+数名分はいつも備えてあるんですよ。万一のことがあった場合にはこの虎丸も出動するので」
    “ああ、なるほど。そんな大事なものを使っていいの?”
    「今がその『緊急事態』なので」

     風はナトリウムとタンパク質が混ざったようなにおいを乗せて私たちに吹いてくる。この生臭さを、私はなぜだか嫌いになれなかった。
     疲れと移動の後遺症で朝よりもふらふらとしながら歩く先生の手を取り、群青色をした海に向かって歩く。潮騒がどんどん近づいてくる。やはり疲れているのだろう、足取りも重かった。それでも先生はふにゃふにゃと笑顔でついてきてくれている。それが何だか年の離れた弟ができたようでくすぐったかった。

     浜辺のきめ細かい砂の上にレジャーシートをバサリと敷くと、その風圧で足元の砂粒が吹き飛んだ。その上に座って、先生の座る場所をぽんぽんと叩いて示す。

    「狭いスペースですが、どうぞくつろいでください」
    “ありがとう。身だしなみ整ってなくてごめんね”
    「謝らないでください、気にしませんから」

     ウソだ。気にしているからこんなところに連れてきたのだ。怪しまれないようにわざわざ虎丸に乗ってまで。

  • 37お前なんなんだよ!24/02/29(木) 16:22:59

     先生と私、隣同士で波の行き来する様子を眺める。青い空に青い海。人はここに2人だけ。ここには仕事も問題事もない。

    「食べてください。お昼ご飯もここで済ませちゃいますから」
    “いいの? これ多分イロハのだったでしょ?”
    「買いすぎたんですよ。それにスポドリに口つけてるんだから今更です」

     本当はこれで1日分の食べ物のつもりだった。レンジ不要で食べられるうどんにコンビニ弁当、コンソメ味のポテトチップスなんかもある。腹を膨らませるには十分ではないだろうか。カップラーメンはさすがにここでは食べられないけども、まあ持ち帰って自分の部屋で食べたらいい。
     先生がおにぎりのラップを開ける音が隣でする。目線は送らない。ずっと海だけを見ている。パリパリと海苔が噛み砕かれていく。

    「……先生は」
    “ん? んっ……どうしたの?”
    「食べながらでいいですよ、焦らないでください。喉に詰まらせたら大変です」

     ここで急病人の看護はしたくない。先生の方を向くと、食べかけの鮭おにぎりを手に持って私をきょとんと見つめていた。

    「一体、どうしてそんな大人になったんですか?」
    “どういう意味?”
    「別に悪い意味じゃないですよ。大人ってみんなそんな風に大変な日々を過ごすんですか?」

     先生は大人だ。そして、私たち生徒は子供だ。
     先生が普段どれだけ過酷な日々を送っているのかも知っている。あちこちで起きる問題を解決するために東奔西走することなんてしょっちゅうだ。ここに来た頃に起きたアビドスでの事件の際は、風紀委員長に助けを求めるために足を舐めたりなんかもしたらしい。
     ……これは先生の趣味が多分に入っていることは否定しがたい、だが異常なことは分かる。大人としての矜持もあるだろうに、それらを全て目的のために捨て去ることができる。できてしまう。

     先生は、狂っている。良くも悪くも。
     生徒のためと言いながら、自分が発狂するレベルの仕事量を愚痴1つ零さずこなす人間のどこを見て正常だと判断すればいい?

  • 38お前なんなんだよ!24/02/29(木) 16:23:43

    「先生は……子供だったんですか?」

     今日虎丸に乗ってはしゃいでいる先生の姿は本当に子供のようだった。それを見て悟ったのだ。
     「ああ、先生も昔は子供だったんだ。カッコいいものに憧れ、興奮を抑えきれなくなってしまうような子供だったんだ」と。

    「いつから大人になったんですか、先生は」

     ゴクン、と何かが飲み込まれる音がした。見ると、先生が口の端についた米粒を手に取って食べていた。もう食べたのか。口の小さい私は食べきるのに5分くらいはかかるのに。

    “難しいね。いつから大人になったのか、か”

     私はポテトチップスの袋をパーティー開けする。幸い爆発するようなことはなかった。

    “いつの間にか大人になってたよ。私も昔はイロハみたいな学生だった”
    「どんな生徒だったんですか?」
    “普通だったよ。勉強が大変で、部活頑張ってて、時々友達とゲーセン行ったりして……”

     外の世界の学校には、いろんな部活があるらしい。それもスポーツや音楽活動に特化したものが種類ごとにあるようだ。生徒会や風紀委員の権力もそれほど強くないという。それは教師や親という大人が生徒たちをきちんと庇護しているからだ、と先生は言う。

    “私、先生になろうとは思ってなかったんだよね。最初は”
    「じゃあ何で先生になったんですか」
    “うーん、楽そうだったから?”

     驚いた。先生のことだからてっきり最初から先生という職業になりたくて頑張っているものだと思っていた。

    「そんなのでいいんですか」
    “よかったんじゃないかな。教員免許も持ってるし”
    「何かこう、崇高な志とかそんなのは」
    “なかったね。ああ、でも、ただ……”

  • 39お前なんなんだよ!24/02/29(木) 16:24:44

     先生が空を見上げる。雲が太陽の光に照らされて白く光っていた。

    “さっきも言ったけど、私がこうして生きられたのは、護られてきたからなんだよね”

     外の世界の子供は、無力らしい。戦う術なんて何もない。銃すら触ったことのないまま学校生活を終える生徒がほとんどだ。それはそんなものを持つ必要性がないからだ。そしてそんな世界を作っているのは、間違いなく大人なのだ。

    “それに気付いた瞬間、世界が見えたんだよね”
    「世界が見えるとは」
    “こう、目の前がブワッて開けるみたいな”

     パリパリと2人がポテチを咀嚼する。聞いてはいけないような話を聞いている気分だ。味が濃いはずなのに、味が分からない。
     特段夢らしい夢を持っていなかった先生が、本当の意味での「先生」になるまで。

    “ああ、こんな大人になりたいなって、思ったんだ”
    “そのために一番適してるだろう職業へのパスポートを、幸いながら私は持っていたしね”

     子供の夢を守る。子供の意思を尊重する。子供の背中を笑って押してあげられる、そんな大人になりたいと、かつて何者でもなかった青年はそう思ったのだろう。
     海はずっと何も変わらずに、寄せては引いてを繰り返している。風も相変わらず涼しく生臭いままだ。それが妙に安心した。

    「先生も、子供だったんですね」
    “人はみんな子供だよ。そしていつか大人になるんだ”
    「私、大人になりたくないんですけど」
    “なっちゃうもんだよ”

     将来のことを考えると憂鬱だ。何せ一番身近な大人があんな醜態を晒していたのだから。
     いつの間にか、ポテトチップスは開いたポリ袋の上から消えていた。少し腹が膨れているのは先生も同じなようで、体重を少し後ろに傾けてリラックスした姿勢をとっている。

  • 40お前なんなんだよ!24/02/29(木) 16:25:29

    “イロハは、どんな大人になりたいの?”
    「私ですか? えぇー……」

     具体的なビジョンは何もない。何になりたいかなんて考えたことがない。強いて言うならば「楽して過ごしたい」というのが夢だが、それを今ここで言うのは違う気がした。
     でも、ボヤッとした霧の向こうにある何かの輪郭が、今の話を聞いて少しだけ分かったような気がした。

    「…………そうですね」

     きっと、何年経ってもこの海は変わらないのだろうと思うと、心が凪いでいった。

    「先生、ですかね」
    “え?”
    「先生のような大人になりたいです」
    “…………えっ!?”

     先生は本気で驚いたようだった。今日は先生のいつもは見られないような顔ばかり見ている。
     その「大人」の仮面の向こうにある誰かの顔が見えたようで、それが嬉しかった。

    「何驚いてるんですか。そんなこと無理だと思ってるとか?」
    “いや違っ、そういうわけじゃ……”
    「酷い、先生がそんな人だったとは思わなかったです。よよよ……」

     何だか恥ずかしいことを言ってしまったので、ついつい揶揄って誤魔化す。
     でも、まぎれもなく本心だった。

    “な、何でそう思ったの?”
    「何となく、ですかね」
    “何となくか……そっか……”

     ウソだ。どの職業に就くのであれ、恰好の悪い生き方はしたくなかった。それはきっと、先生に守られて育った生徒として、一番してはいけない生き方だろうから。幸いにして、そういう生き方の目標は、今私の隣にいた。

  • 41お前なんなんだよ!24/02/29(木) 16:25:49

    「だから、休んでください。タオルケットかぶせて、クッション枕にして」
    “え、え、え……?”
    「私に休み方というものを教えてくださいよ、『先生』なんですから」
    “ちょ、待って、え?”

     だから、私が未来で過労死しないためにも、先生には適度な休み方というものをしてもらわねば困るのだ。

    「日光が眩しいので、あんまり眠れはしないでしょうけど。仮眠くらいにはなると思いますよ」
    “え? 私寝るの? ここで?”
    「ここに来た目的は、誰もいない場所で先生を寝かすことです。ベンチよりも数倍マシだと思いますが」
    “それはそうだけど……”
    「お疲れなんでしょう。シャーレなんていつ誰が来るかも分からないんですから」

     ここには私しかいない。
     今日この場で先生を休ませるのは、私しかいない。

    「帰ったらまた仕事仕事で大変でしょうけど、今くらいは休んでおかないと」

     このままシャーレに帰してなんてやりたくなかった。

  • 42お前なんなんだよ!24/02/29(木) 16:26:30

    “イロハは、私が眠ってる間は何してるの?”
    「別に何も。せいぜいこの近辺を散歩して、水遊びして、それくらいですね」
    “退屈じゃない?”
    「もし耐えきれなくなったら砂の城作ってるので」

     それを聞いて、先生はニコリと微笑んだ。「大人」の顔だった。

    “ありがとう。イロハは優しいね”
    「私がやりたいからやっているんです。お気になさらず」
    “ううん、優しいよ。ありがとうね”

     そうして、先生はクッションを枕にして横たわった。私はそこにすかさずタオルケットを被せてやる。必殺タオルケット攻撃だ。

    “ふかふかで気持ちいい……”
    「結構な頻度で洗濯してるので、質は保証しますよ。寒くないですか?」
    “暖かくて気持ちいい……”
    「ならよかったです」

     先生の瞼があっという間に落ちる。極度の疲労にふかふかの枕と布団だ。いくら大人でも耐えきれるわけがない。

    “じゃあ、ごめん。ちょっと寝るね……”
    「はい、お疲れ様です」

     そうして、30秒もしないうちに隣から寝息が聞こえ始めた。
     私はキラキラ光る水面を眺めながら、できる限り物音を立てないように立ち上がる。レジャーシートがガサガサ言ったが、先生は熟睡してしまったようで起きる気配がない。

     先生が見えなくならない範囲で、私は散歩を始めた。来た方には2人の足跡、行く方には1人の足跡。
     何となく、くるりと一回転してみた。柔らかな日光と波の音に挟まれて、心が少しだけ浮き立った。

  • 43お前なんなんだよ!24/02/29(木) 16:26:53

     結局、4時間後に先生は勝手に目を覚ました。
     私が砂の城を作っているのを見て苦笑いをしていたが、これはギャグというものだ。あまり気にしないでほしい。

    “ごめん、退屈だったね”
    「もうちょっと寝ててもよかったんですよ?」
    “うん、ありがとうね。ただ……もうそろそろ帰らないと”

     先生には今日も仕事があるのだ。それを放棄して寝ていられるほど図太くはなかったようだ。
     分かっていたことだった。私も、仕事はしなければならない。ましてや今私は職権乱用して虎丸を勝手に運用してここにいるのだから。

    「帰りますか」

     先生に、改めて問いかける。

    “うん、帰ろうか”

     先生がそう答える。白衣を着たまま寝ていたからか、ただでさえ多かった皺がますます増えているが、顔つきはだいぶすっきりしていた。
     その顔を見られただけで、ここに来た価値はあった。

    「じゃあ、後始末は手伝ってくださいね」
    “もちろん。あ、タオルケットとクッションは……”
    「私が洗濯するので大丈夫ですよ」

     乱雑に畳み、レジャーシートの砂を払い、2人で手分けして持つ。そして虎丸に運び込むと、海がなぜか遠く見えた。
     私が作っていた出来損ないの砂の城なんか、もう点のようにしか見えない。

  • 44お前なんなんだよ!24/02/29(木) 16:27:31

    「先生」

     戦車のハッチを開ける時に、訊きたいことがあった。

    “何かな、イロハ”
    「……………………」

     それを私は、飲み込んだ。

    「……また、特等席に乗ってみますか?」
    “いいの!?”

     今目を輝かせ、うきうきした様子で上ってくる大人が、今回のドライブで少しでも気が紛れていることを、私は心の底から祈った。
     万魔殿に帰った際の言い訳は「先生を篭絡するため」でいいだろう。それで責任問題はあの議長に行くはずだ。尤も、その責任問題も発生するかは怪しいが。

     中に入り、ハッチを閉めて、運転席に座る。エンジンをかけると、先生の歓声が聞こえてきた。

    「はいはい、行きますよー」

     そうして私たち2人は、人込み溢れる街並みへと戻っていった。

  • 45お前なんなんだよ!24/02/29(木) 16:29:58

    以上です! リクエストに報いられるような出来栄えだったら幸いです!

  • 46二次元好きの匿名さん24/02/29(木) 16:40:48

    >>45

    最高だよ…御友人…

  • 47お前なんなんだよ!24/02/29(木) 17:03:59

    改めて、素敵な案を提供してくださってありがとうございました! 書いててめっちゃ楽しかったです!

  • 48二次元好きの匿名さん24/02/29(木) 17:55:49

    さささ、最高じゃないですか…良いんですかコレ?お金を払って居ないのですよ…?

  • 49二次元好きの匿名さん24/02/29(木) 21:12:44

    このスレを開くだけでリンク含めて3スレ分の良質な概念を摂取する事が可能であり、
    これにより人々はパワーを得る事ができる。

  • 50二次元好きの匿名さん24/02/29(木) 23:47:04

    文豪先生の次回作は生まれるのか…きになるぞぃ

  • 51124/03/01(金) 01:03:17

    次書くSSもこのスレを使って発表します
    まさか自分がこんなにSS書きとイロハにドハマリするとは思ってませんでした
    好評いただけているようで嬉しいです。アイデアが湧く限りは書き続ける所存です

  • 52二次元好きの匿名さん24/03/01(金) 01:06:31

    でぇじょうぶだ>>1よアイデアならいくらでもくれてやる…

  • 53二次元好きの匿名さん24/03/01(金) 12:13:40

    保守。恐ろしいものを見てるぞ俺は今

  • 54124/03/01(金) 20:59:06

    短めですができました。イロハが先生のお見舞いに来た話です

  • 55124/03/01(金) 21:00:34

     スポーツドリンクにゼリー飲料、この2つが切実に欲しかった。

    “あー……これはまずいかも……”

     今朝どうも体調が悪いと感じ、体温を計ったら37.5度。そこから昼、夜と時を経るにつれて体の火照りと倦怠感に咳、鼻水、頭痛、しまいにゃ関節痛。風邪の症状フルコンプだ。
     念のために今日・明日・明後日の当番になっている生徒にはモモトークで「体調が悪いので来るな」という旨を伝えた。しばらくは独りで仕事をすることになるが、万一でも生徒に風邪をうつしてしまってはいけない。苦肉の策だ。

    “これ、リンちゃんに仕事量しばらく減らし……ては、もらえないよなぁ……”

     今、私は休憩室で横になっている。仕事が手につかない。普段なら徹夜してでも終わらせるのだが、それをしたら確実に私の身体は終焉を迎えてしまう。私ができることは、最短最速で風邪を治して仕事にいち早く復帰することだけだ。

    “常備薬があってよかった、けど……”

     静かだ。シィン、という音さえ聞こえそうになるほどに。
     残念なことに、この部屋には暇を潰せる漫画本もゲームもない。ベッドで横になって天井を眺めるか寝に入るかしかない。だが、身体の灼熱感が無理やりにでも意識を覚醒させてくる。

    “ネットも……目が疲れた……”

     手持ち無沙汰になってシッテムの箱でネットサーフィンなどもしてみたが、ブルーライトがどうにも目に沁みて暇を潰すどころじゃなかった。
     閉じる間際のアロナの申し訳なさげな顔が頭から離れない。大丈夫だよと画面越しに頭を撫でてはみたが、完治したらアフターフォローをしなければならないだろう。

     今日は何もできなかった。書類も書いた直後に分かるようなミスを頻発し、デジタルの作業をするにもキーボードを上手く叩けない。日頃の不摂生が祟ってしまった。ビタミンを野菜ジュースで済ませるのは愚策だったし、徹夜をして免疫力が弱っていたのもあるだろう。

  • 56124/03/01(金) 21:00:46

    “あー、辛い……”

     身体が重い。眠れない。動けない。食欲がない。苦しい。汗が気持ち悪い。
     何より、寂しい。

    “今日、誰とも会わなかったなぁ……”

     日頃自分がどれだけ人に囲まれているか分かる。どれだけ人との会話で救われていたか分かる。
     今日一日人と会わなかっただけで、こんなに心細さを感じてしまうとは思わなかった。無性に人に会いたい。

    “でも、誰かと会ったらうつるしなぁ…………”

     起きていてもこのまま精神が直滑降コースなのは分かった。だからもう寝るしかない。目をぎゅっと瞑り、意識の電源ボタンを長押しし続ける。
     そうして、何分ほど経っただろうか。寝返りを打って一番心地いい姿勢を変え、サウナのように暑くなった布団の中の空気を交換し、やはり寝られないことに半ば絶望していた時のこと。

     コンコン、とノック音がした。

    “え……?”
    「棗イロハです。夜分遅くに失礼します」

     ガチャリと扉が開いた。扉の隙間から漏れる光がその量を増していく。
     パチンと音がするのと同時に部屋のLED灯が点く。そこにいたのは毛量の多い緋色が特徴的な髪に軍服風の制服を着た、気怠そうな少女。

  • 57124/03/01(金) 21:01:18

    “何でイロハがここに……?”
    「今日の当番になるはずだった子、誰だったか覚えてます?」

     覚えている。確か……。

    “イブキから聞いたのか”
    「はい。イブキが『先生が心配だけどお見舞いに来るなって言われてる』って寂しそうでしたよ」
    “それは……悪いことしたな……”

     体を起こすと、べったり肌に張り付いたTシャツがやけに冷たかった。そして頭に溜まっていた血が重力に従って一気に身体中に戻っていく感覚で眩暈がした。

    「起きないでください。寝たままで」
    “えっと……イロハは何で、ここに……?”
    「これ、渡しに来ました」

     言われるままにまた横になってそう問いかけると、イロハはガサリと手に持ってるビニール袋を揺らした。半透明の膜の中に見えるのは、よく冷えていそうなスポーツドリンクに、果物ゼリー?

    “それは、まさか”
    「はい、見た感じ晩ご飯も食べてませんよね」

     思い返してみれば、今日は何も食べていなかったな。全く空腹感を感じなかったうえに、何か胃に入れるとすぐに戻してしまいそうだった。さすがに自分のとはいえ、吐瀉物の処理をしたくはなかった。
     誤魔化そうとして苦笑を浮かべると、イロハは心底呆れたように溜息をついた。

    「だろうと思ったので、食べてください。食べないとますます体調悪くなりますよ」
    “あ……うん……”

     ガサガサとレジ袋の中から果物ゼリーとプラスチック製のスプーンを取り出し、ゼリーの蓋をペリッと開けた。その瞬間、果物の甘酸っぱい香りが部屋いっぱいに広がった。詰まりがちな鼻の細胞に届いたその匂いに連動して、口の中に涎が溜まっていく。
     イロハはゼリーを凝視していた私を見て、ニヤリと意味深そうに笑った。

  • 58124/03/01(金) 21:02:49

    「じゃあ、はい。口開けてください」
    “えっ?”

     そして、ゼリーの一かけらが載ったスプーンを、私の方に差し出した。

    “ななな、何で!?”
    「何でも何も、食べさせようと」
    “いやいや、自分で食べられるよ!?”

     そもそもイロハがここに残る必要がない。喚起を回していたとはいえ、締め切っていたこの部屋にイロハが長時間いたら間違いなくイロハも風邪になってしまうだろう。
     ゼリーは未だスプーンの上でプルプルと美味しそうに揺れている。

    「体力がなさそうだったので、必要かなと」
    “大丈夫! 自分で食べるくらいの体力は残ってるから!”
    「そうですか? 信用なりませんね……先生はいつも無茶するから」

     事ここに至って無茶はしない。風邪と長く付き合えるほど私はマゾではない。

    “イロハにもうつっちゃうから! ね!?”
    「分かりました、分かりましたよ。さすがにこれは冗談です」

     そう言うとイロハはいかにもぶーたれてますといったような顔をして、スプーンをゼリーの容器の中に戻した。

  • 59124/03/01(金) 21:04:18

     そうしてまだ中身がありそうなレジ袋が、私の寝ているベッドの脇に置かれた。見えたのは500mlのスポーツ飲料が数本に、果物ゼリーが2個。吸って飲むタイプのゼリー飲料もあった。ついでとばかりにベッドの上、ちょうど私の胸の上に蓋の開いたゼリー容器を絶妙なバランスでちょこんと置き、イロハは私をビシッと指差した。

    「ちゃんと食べてください。そして早く治してくださいね」
    “うん、心配かけてごめんね”
    「謝るくらいなら体調なんて崩さないでください」

     全く返す言葉もない。今回私が風邪をひいたのは明らかに体調管理を疎かにしていたのが原因だ。これからはコンビニ弁当だけじゃなく、栄養バランスを考えた食生活をしなければいけないと強く痛感した。

    「先生はサボらなさ過ぎなんですよ」
    “あはは……確かに最近は休んでなかったな……”
    「適度な休暇もパフォーマンスを保つ上では大事ですよ」

     そうして立ち上がったイロハはちゃんとした足取りで扉に向かう。

    “帰るの?
    「ここにいても先生が困るだけでしょう。それとも残ってほしいんですか?」

     残ってほしい気持ちもある。だが、それでイロハが病気になっては元も子もない。

    “いや、もう外も暗いから早く帰りな”
    「でしょうね。先生、私に早く帰ってほしげでしたし」
    “それは別にイロハのことが嫌いってわけじゃないよ!?”

     そう叫ぶと喉が痛んで咳が出た。イロハは「分かってますよ」と言いたげに肩をすくめる。

    「ホント、早く治してくださいね。みんな寂しがってますので」
    “うん、頑張る”
    「はい。それでは」

     イロハがドアノブに手をかけた時、私はハッとした。言わなければいけないことがあるじゃないか。

  • 60124/03/01(金) 21:04:54

    “とにかく、食べなきゃ……”

     体を起こしてスプーンでゼリーを掬い、口に入れる。消化をできる限りよくするためによく噛んでいると、酸味と甘味が脳を癒していく感覚がした。そうして気が付くと、ゼリーの容器は既に空になっていた。
     スポーツドリンクを一口だけ飲むと満腹感が出てきた。もう今日はこれ以上食べなくてもよさそうだ。

     ドサリとベッドに横たわる。先ほどと何ら変わらない白い天井だ。だけど少しだけ明るくなった気がする。

    “…………ああ、そういえば”

     昔のことを思い出す。私がまだ小学生だった頃のことだ。
     あの頃は風邪をひくと、母が学校に「休みます」と電話を入れてくれたっけ。そして午前のうちに病院に行って薬を貰い、帰ってきたら私の好きなテレビ番組をつけてくれて、私はそれを横になって布団を被りながら見て……。

    “何だか、楽しかったんだよなぁ……”

     そして、昼ご飯にはおかゆとゼリーを出してくれたんだ。
     普段はその時間帯は授業を受けて、給食を食べているのに、私は今こうして家で甘やかされている。その時はまるで私が特別な人間になったかのような気分になった。いつもは宿題しなさいとうるさい母も、私のことを心配してくれている。そんな優しい雰囲気が嬉しくって、いっそこの病気が治らないでほしいとすら思ってたっけな。

    “……早く、治さないとね”

     でも、私はもう子供じゃないから。私はれっきとした大人であり、先生だから。イロハみたいな生徒が待っててくれると思うだけで、沈んでいた気持ちが上向きになった。

    “そのためにも、寝ないと”

     布団から抜け出し、LEDを常夜灯モードにする。何だか眠気も出てきた。今ならすっと寝られそうだ。

    “……おやすみ”

     誰に向けたわけでもないその言葉は、誰に届くでもなく闇に消えた。

  • 61124/03/01(金) 21:07:39

    次回、イロハが先生に看病される話。ご期待ください

  • 62二次元好きの匿名さん24/03/01(金) 21:25:17

    このスレもしかしなくてもこのままだとイロハ濃度がヤバい事になるんじゃね?

  • 63二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 03:39:02

    このレスは削除されています

  • 64124/03/02(土) 03:40:34

    >>62

    別のキャラも書いた方がいいですかね。自分としてはどちらでも大丈夫です

    とりあえず次書く話は収まり的にイロハで書きますが、その次の話は安価とって決めましょうかね

  • 65二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 06:27:01

    乙ですよ文豪先生。いや~存在しない記憶が生まれちゃうぜぇ

  • 66124/03/02(土) 16:48:09

    できました! 今から投稿します!

  • 67124/03/02(土) 16:49:11

    「――――くしゅっ!」

     脇に置いていたティッシュ箱からティッシュを抜き取り、すぐさま鼻をかむ。今日これで何十回目かも分からないくしゃみだ。くしゃみのし過ぎで鼻の奥と頭が痛くなってきた。

    「あー……あー、きついですね……」

     丸めた鼻紙をゴミ箱に投げると、淵に当たってころりと床に転がった。こんなことならゴミ箱もベッドの横に置いておけばよかったと少し後悔する。
     少しの倦怠感と発熱、鼻詰まりに咳くしゃみ。完全に風邪である。関節痛などはないから感染症の類ではないだろうが、病気なことには変わらない。

    「こういう形でサボるのも、いいかもしれませんがね。体調が良ければベスト……」

     朝から額に貼ってあった冷えピタが、粘着力を失ってブルブルと目の上で揺れている。その温い感触がやけに気持ち悪くなったので、剥がしてまたゴミ箱に捨てた。今度はきちんとリングインしたようで、山盛りになった鼻紙の上にポスンと着地した。

    「体調のいいうちにスポーツ飲料買っておいて正解でしたね……」

     買ってあるのはそれだけなのだが。他に冷蔵庫の中にあるのは確か、昨日のうちに解凍しようと思っていた味付き肉とパックジュースに卵に野菜数個。

    「パックごはんは確かあったか……でも、料理しなきゃダメなんですよねぇ」

     食欲自体はあるのに、腹に物を入れられないだろうという変な感覚がする。固形の何かが食べたかった。快気祝いにはジャンクフード祭りをしてやろうと強く決意した。
     中途半端に閉めてあるカーテンから差し込むオレンジ色の光が眩しい。外からは生徒たちの歓声、それと爆発音に発砲音が遠く聞こえる。そろそろ外に出て新鮮な空気を胸いっぱい吸いたいところだが、外に出る気力がない。

  • 68124/03/02(土) 16:51:08

    「卵雑炊が食べたいですね……醤油かけて……」

     自分で料理をしないなら、何かを食べる手段は外食かデリバリーかだ。だが病人の身空で外食だなんて倫理的にどうだという話になる。

    「となると、デリバリーですね……」

     スマホでデリバリーアプリを起動する。ある程度探すと味の薄そうなおかゆを出してくれる店がヒットした。値段はトッピング諸々含めると概算で2000円強。高いが、デリバリーなんてこんなものだ。というか外食自体がどうしたってこれくらいの値段になってしまう。

    「はーぁ……背に腹は、代えられませんね」

     重い指で「注文する」をタップする、その瞬間。
     コンコン、と予定にない来訪者がドアをノックした。

    “イロハ? いる?”
    「……いますけど」

     大人の男性の声。間違いなくシャーレの先生だ。

    「私の現状分かってて来てます? というか何で来たんですか」
    “分かってるよ? だからいろいろ持ってきた”

     ガサガサ、チャポチャポと音がする。食べ物を持ってきてくれたのか。

    「どこで聞いたか……なんて、訊いても仕方ないですね。今開けます」

     体を起こすと、普段は私の真後ろでもっさもっさ言っている髪が、自重に圧されてペッタンコになっているのが何だか面白かった。ピンク色の縞々パジャマを引きずりながらドアを開けると、先生がニコニコ笑って立っていた。

  • 69124/03/02(土) 16:53:07

    “や、イロハ。体調はどう?”
    「救急医学部にかかって薬ももらってます。ただの風邪です、1日寝ていれば治るかと」
    “そっか。ちゃんと食べられてる?”

     実のところ、量を食べることはできていない。ゼリーを1皿食べただけで腹が満たされてしまう。どうにも胃腸系が弱っているようだ。

    「食べることはできるんですがね」
    “何食べたの?”
    「ゼリーです。この前先生のお見舞いに行ったときに差し上げた、果物の」
    “イロハも食べてたんだ。美味しかったなぁあれ”

     外から入り込む空気が妙に寒くてブルリと体が震えた。そうだった、悪寒の症状もあったんだった。暖かい布団の中に入ってたからすっかり忘れてしまっていた。

    “っと、ごめんね。上がっていいかな”
    「上がって何するつもりですか」
    “よかったら何か作ろうかと思って。ほら、材料も持ってきた”

     見えたのは卵にパックのごはん。私が今一番食べたかったものだ。

    “私が風邪ひいた時は料理なんてできなかったからさ。イロハもひょっとしたらって”
    「…………そう、ですね」

     何で、この人はタイムリーで私が欲しいものをさらっと出すことができるかな。

    “大丈夫そうだったら帰るけど”
    「……お願いしても、いいですか」
    “うん、任せて”

     暖房の効いた部屋に、病人の私と大人の男が1人ずつ。
     創作だったらここで急接近するんだろうけど、残念ながらここは現実で、私と先生はそういう関係ではない。私は枕元に置いてあったレディコミをさりげなく掛布団で隠しながら、ベッドの縁に座った。

  • 70124/03/02(土) 16:53:26

    「ガスコンロがあるので、はい、それで料理していただければと」
    “料理するには食堂使わなきゃいけないもんね”
    「それがなかなか面倒なんですよ」

     先生がクローゼットの中にあったガスコンロを取り出し、慣れた手つきでボンベを設置する。何か恥ずかしいものとかが置いてなかったかと心配になってしまい、どことなく落ち着かない。
     確か下着棚と洋服棚はベッドの真下にあるから見られることはない。本棚にも変な本は置いてないし……大丈夫、なはずだ。

    “じゃ、作るね”
    「早すぎませんか、作るの」
    “もう7時だからね”

     カーテンを開けると、もう外はだいぶ薄暗くなっていた。空を見たら一番星と、半ば欠けた月が光っている。

    「……もう、そんな時間ですか」
    “昼寝とかした?”
    「少しうとうとして、気付いたら2時間くらい落ちてました」
    “寝られたならよかった”

     携帯ガスコンロがチチチと音を立てて点火する。どうやら動作確認だったようで、すぐに先生は火を消した。

    “あの、フライパンって”
    「ガスコンロと同じところです。料理用具はその近辺に固めてあるので」
    “ああ……ごめんごめん”

     先生はクローゼットに頭を突っ込んであれこれ物色した後、よく冬に使われる小さな土鍋を持ちだした。
     水道はあるから洗い物をわざわざ食堂でしなくていいのが楽だ。尤も、こういった自室での料理はあくまで黙認されているだけで、何か事が起こったら真っ先に規制されるだろうが。

  • 71124/03/02(土) 16:54:14

    「火事とかには本当に気を付けてくださいね」
    “大丈夫。その点は注意してる”

     床を焦がしたりしたら洒落にならない。高額の弁償をしなくてはならないうえに、後に部屋に来る生徒にも迷惑がかかる。何よりそうなったら処理がめんどくさい。
     土鍋にレンチンしたごはんを落とし、水とうま味調味料を少し入れて、火にかける。するとふつふつと甘い匂いが広がり始めた。

    “これにごま油とか垂らして食べると美味しいんだよ”
    「いかにも美味しそうですね」
    “やってみる? 一応持ってきてるけど”
    「食べたことないので、ぜひ」

     ぼーっと先生が料理するのを見つめていると、何だかお腹が空いてきた。
     そうして最後に卵を割り入れてぐるぐると菜箸で混ぜると、簡単卵がゆのできあがりというわけだ。

    「でもそれ、量多くないですか? ごはん2杯分はありますけど、そんなに食欲ありませんよ?」
    “うん? これ私の夜食も兼ねてるんだけど”
    「はい!? 本気で言ってるんですか。うつりますよ?」
    “うつらないよ。それに、独りでご飯食べるのは寂しいじゃない?”

     2杯のお椀におかゆをよそう。湯気が立っている。熱々の証拠だ。
     久しぶりに外食や給食ではない誰かの料理を食べる。そうして、簡単な食卓が出来上がった。

    “じゃ、いただきます”
    「いただきます」

     息を吹きかけて少し冷まし、熱いうちに口に入れる。いつも食べているジャンクフードのような濃い味ではなく、ふんわりと沁み入る薄い味が胸をほっと温めてくれた。

    「んっ、美味しいです。すごく、すごく美味しい……」
    “そう? ならよかった。時々こういうのが食べたくなるんだよね”

  • 72124/03/02(土) 16:54:41

     聞くところによると、このおかゆは先生のオリジナルレシピだという。試行錯誤とアレンジを重ねてようやく掴んだ、先生だけのおかゆ。
     そんなものが、今こうして私に振る舞われていることが、少しだけ嬉しかった。

    “とはいえ、似たようなものはあるだろうけどね”
    「いいじゃないですか。調味料は同じでもそれは先生の舌に合ったオリジナル配分なんでしょう?」
    “一時期自炊にハマっててさ。イロハは普段どんなもの作ってる?”
    「私はあまり自分でレシピ考えたりはしないですね……」

     そうして、2人テーブルで向かい合いながら何気ない話をした。
     料理のことから派生して家事のこと、そして最近読んだ本のこと。面白かった漫画を先生にオススメしたり、展開について話し合ったり。夢中になって話しているうちに、左手に持っていたお椀はちょうどいい温度になっていた。

     気が付くと、おかゆは全て私の腹の中に難なく納まっていた。

    「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」
    “おそまつさまでした。洗い物はしておくから、横になってて”

     お言葉に甘えてベッドで横になり、布団を被る。隠していたレディコミが頭にこつんと当たった。
     洗い物をする先生の背中が妙にぼやけて見えるのは、きっと熱のせいだろう。カチャカチャと食器の擦れる音を聴いていると、言い様のない焦燥感が私の胸を焼いた。

    “うん、洗い物終わったよ。今乾燥させてる”
    「本当に、ありがとうございます。何から何まで……」
    “いいんだよ。ゆっくり休んでね”

     先生の顔が逆光になってよく見えない。
     それが無性に寂しいのは、風邪で心が弱ってるからだ。そうに違いないのだ。

  • 73124/03/02(土) 16:55:14

    “私はこれから帰るけど……イロハは寝られそう?”
    「…………はい」

     先生が優しく私の頭を撫でてくる。先生の手は暖かくて、安心して、いつまでも触れていてもらいたかった。
     少なくとも、私が寝るまでは撫でていてもらいたかった。

    “本当に大丈夫そう?”
    「大丈夫です。心配しないで、先生はお仕事頑張ってください」
    “……そっか。イロハは強いね”

     そんなことを言わないでほしい。私は強くない。
     先生が持ってきた調味料や料理で出た生ごみをそれぞれ袋に入れて鞄にしまう。カランカランとごま油の瓶が音を立てた。

    “早く元気になったイロハの顔を見せてね”

     私は、一体どんな顔をしているというのか。いつもの私だろうに。

    “それじゃあね、おやすみ”
    「……はい、おやすみなさい」

     力を込めて首だけ起こすと、先生の背中がドアの向こうに隠れてしまった。
     脱力して枕に頭を埋める。見上げた白い天井が眩しかった。

    「…………何で」

     何で、先生はあんなに優しいんだろう。何で、先生はあんなに安心させてくれるんだろう。
     何で、いなくなったらこんなに寂しいんだろう。

  • 74124/03/02(土) 16:55:36

    「うぅぅぅ……!」

     涙が溢れだしてくる。寂しい。淋しい。孤独なのは嫌だ。
     でも、私は「大丈夫だ」と言ってしまったから。だから、先生は私の意思を尊重して出て行ってくれたんだろう。

    「一緒にいてって言えたら、いてくれたんですかね……!」

     普段だったら「一緒にサボりませんか」なんて誘えるのに、こういう時に引き留められない自分の弱さが嫌になる。
     瞑った瞼の裏を、電灯の光が刺激する。目の奥が滲むように痛い。鼻水だって出てくる。
     早く治さないといけないのは分かっている。だが、この痛みが引くまでは眠れそうにもなかった。

  • 75124/03/02(土) 16:58:25

    以上です。ビターな感じでお送りしました
    23時を回ったらキャラとシチュの安価をとろうかと思います

    後、自分は文豪ではないです……そんな大層なものではないです……

  • 76二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 23:39:41

    このレスは削除されています

  • 77124/03/02(土) 23:41:44

    安価に協力してくださる人どれだけいます?
    24時までに3人確認出来たら安価します。2人以下だったらこちらでまた考えます

  • 78二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 23:48:31

    いるぜよここにな

  • 79124/03/03(日) 00:07:47

    次はイロハが先生に料理する話にしますねー

  • 80二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 11:49:57

    このレスは削除されています

  • 81二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 17:08:21

    料理マダー(チンチン

  • 82二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 17:42:00

    >>81

    予定を変更して足を怪我したイロハをお送りします

    何を料理するかで考え込んでしまったんじゃ。すまない……

  • 83124/03/03(日) 17:43:36

     たまにはふらふらと散歩をしようとしたのがいけなかった。
     歩いていた大通りで爆発があったものだから、拳銃しか持っていない今の自分じゃどうにもならないと全速力で走ったのが運の尽き。日頃そんなに走る機会がないために脚が思うように動かず、足を捻って盛大にすっ転んだのが今の私だ。

    「あー……っ、つつつ……」

     膝小僧が擦り剥けて、ジワリと血が出てくる。少し傷の周りを押すと痛みと出血が増すとともに新たに痺れの感覚が出てきた。
     何とか足を引きずりながら人通りの少ない路地に入って、腰を下ろして空を仰ぐと見事な青天。ここから自分の部屋までおよそ500mといったところか。

    「ツイてませんね……せっかくの散歩日和だと思ったのに」

     足首が疼くから満足に歩くこともできない。救急医学部に手当用具を貰うにも校舎に帰らなければ始まらない。かといってこの程度の怪我で救急車を呼ぶような真似はしたくなかった。

    「あー、もう…………」

     となると、思い当たる頼り先は1つしかなかった。
     スマホの電源を入れる。起動するアプリはモモトーク。そしてパパッと「先生」のトーク画面を開き、ゆっくりとメッセージを入力する。

    『お世話になってます』
    『突然ですみませんが、ちょっと迎えに来ていただけないでしょうか』

     まずはジャブ。これで既読がつかなかったら途方に暮れていたところだが、どうやら今の時間帯は先生の近くにスマホがあったようで、すぐに「送信済み」が「既読」に変わった。

  • 84124/03/03(日) 17:44:11

    “どうしたの?”
    『寮から少し離れた場所で足を怪我してしまいまして』
    『申し訳ありませんが、肩を貸していただければと』

     問題の右足首を見ると青く腫れている。ここは裏路地とはいえスケバンが屯するほど薄暗くも深くもない。しばらくは動かなくてもよさそうだ。

    “待ってて、すぐ行く!”
    『申し訳ありません。よろしくお願いします』

     どうやら先生は来てくれるようだ。安心と落胆がない交ぜになっていっぱいになった胸の不快感を吐き出すように、深く息をついた。
     ふと、汗が頬を伝うのに気付いた。走っていた際にかくはずだった汗が今更になって出てきたようだ。暑くなって帽子を脱ぐと、蒸れた空気がすっと頭上から抜けていって少し涼しい。

    「……しかし、暇ですね」

     ただの散歩のはずだったから、本もゲームも持ってきていない。現状とれる暇潰しの手段は手元のスマホでのネットサーフィンだけだ。だけどどうも今はそういう気分ではない。日頃から見飽きている画面なのだからたまには外の景色を楽しみたかった。
     路地に差し込む光でできた影の模様が何に見えるのかをぼんやりと考えていると、すぐ近くでゴトリと物音がした。

    「…………?」

     足音ではない。何かを揺らしたような音。眉をひそめながら、音のした方を向く。
     すると、ゴミ箱の陰で野良猫が1匹、目を光らせながら私の方を見つめていた。
     猫が低くニャアと鳴く。突然現れた大きな何者かを警戒しているようだ。

  • 85124/03/03(日) 17:44:43

    「……大丈夫ですよ、あなたに害は与えません」

     言葉が通じないなんて分かっていたが、声をかけた。声のトーンと表情で分かってほしかった。

    「ここはあなたの餌場でしたか? ならすみませんでした」

     猫がまたニャアと鳴く。見た感じ成熟した大人の猫のようだ。尻尾を振って、依然として私をその黄金色の細まった瞳で見定めているようだ。

    「じきに出ていくので、もうちょっとお待ちいただけると……っ、てて」

     少し姿勢を変えようとすると、足首にピシリと鋭い痛みが走る。膝の傷は出血こそ止まったが、体の表面が剥がれているわけだからまた別の種類の痛みが続いている。
     猫はスッと目を細めたかと思うと、私にゆっくり近寄ってきた。手負いの私を餌と認識しているとか、そう言ったことはないと思うけど。

    「食べられませんよー……にゃあ、にゃあ、なんて」

     猫の鳴き声を真似してみると、猫は私のすぐ傍で止まった。じっと見つめるその瞳孔は開かれている。無害だと認識してくれたのか、私の弱点を探しているのか。前者だと思いたいけど、万一咬まれたら怪我がもう何個か増えることになる。それは避けたかった。

    「……とりあえず、背中撫でてみますかね。確かそれがいいっていう話だし」

     そっと手を伸ばすと、猫の目が私の手を追う。攻撃するわけではない、敵意がないということを分かってほしかったので、「大丈夫ですよ」なんて言いながらもう片方の手を振る。
     そうして背中から腰にかけて撫でてやると、猫はリラックスした様子で柔らかくングゥと鳴いた。

  • 86124/03/03(日) 17:45:58

    「お前は独り? 寮暮らしじゃなかったら飼ったんですけどね」

     不思議だ。動物がこうして自分に心を許してくれる様子を目の当たりにすると、なぜこんなにも心が安らぐのだろう。単純に信頼されていることが嬉しいからか、それとも庇護欲でも芽生えたか。

    「それとも、野良猫の方が性に合ってるんですかね。自由、混沌はゲヘナの校風ですよ」

     喉を鳴らしているこの猫を見る。痩せ細ってはいない。それにどうも人懐っこいというか、何というか。いつか噂で「便利屋68の鬼方カヨコは猫好き」だと聞いた。彼女のような猫好きな生徒から餌を貰っているのだろうか?

    「ここはゲヘナの自治領ですからね……お前も野良の方がいいか」

     野良の世界もいろいろと大変だろう。それでも、その中でこうして逞しく生きているこのやけに太々しい猫を見ていると、日頃から議長の訳の分からない指示を聞いている身としては羨ましく思えてくる。

    「尤も、お前が何考えてるかなんて、お前にしか分からないだろうけど」

     猫は気持ちよさそうに背伸びをする。まるでもっと撫でてくれと言っているかのようだ。

    「顎の下とか撫でるといいらしいけど、危ないですから。これだけ」

     自然と口に微笑みが浮かぶ。赤ん坊とかを撫でる時もこんな心持ちになるのだろうか。いつの間にか私は、目の前のブチ模様の背中を撫で繰り回すのに夢中になっていた。
     そうしているうちにどれほど時間が経っただろう。後ろで鳴った足音に、私の身体が少し跳ねてしまった。

  • 87124/03/03(日) 17:46:28

    “イロハ、大丈夫?”
    「大丈夫ではないのでここにいるんです……あっ」

     私が今さっきまで撫でていた猫は、また突然現れた得体のしれない巨大な何かに怯えて風のように逃げてしまった。伸ばした手が虚しく空を掴む。

    “今のは猫?”
    「撫でさせてくれたんです。どうも手持ち無沙汰だったもので」
    “そっか。遅れてごめんね”
    「いえ、ありがとうございます」

     スマホを開くと、私がここに逃げ込んでから20分ほど経っていたようだった。20分間大人しく撫でられていたあの猫も大概だが、20分間夢中で撫でていた私も私だ。苦笑してしまう。

    “足怪我したって?”
    「おそらくは捻挫と、膝の擦り傷です」
    “擦り傷の方はここで処置するよ。道具は持ってきてるから”

     そう言って先生は鞄から消毒液と大きめの絆創膏を取り出した。独特の匂いのするその液体が膝の傷にかかると、痛みがますます激しくなった。

    「痛っ……」
    “ごめんね、これで終わりだから”

     肌色の見慣れた絆創膏が膝小僧にペタリと貼られた。ずっと思っていたことだけど、この「自分の身体の上にベタベタグジュグジュした付着物がある」という感触が気持ち悪い。

    “後は捻挫だっけ”
    「はい、右足首をやってしまいました」
    “なら、私が学校まで運んでいこう”
    「…………え」

     慮外の申し出。いや、そういう可能性もあるとは思っていたけど、真っ先に出てくるとは思わなかった。

  • 88124/03/03(日) 17:46:44

    “あ、肩貸した方がいいかな。それともこう、抱き上げた方が……”
    「背負う方でお願いします」

     ただでさえ歩くのがきついのに肩を貸されたら変に体重がかかってますます痛みそうだ。抱き上げるなんて、それは世に言う「お姫様抱っこ」か「俵抱き」だろう。論外だ。
     先生は私に背を向け、私が乗りやすいように屈んで後ろに腕を伸ばす。私がおぶさると、先生は私の太ももを抱えて立ち上がった。

    “どう? 痛いところとかない?”
    「ないです。高いですね、これ」
    “これがいつも私の見てる世界だよ”

     そうして先生が歩き出す。そっと後ろを見ると、薄暗い路地に瞳が4つ光っていた。

    「ああ、連れがいたんですね。失礼しました」

     私の後ろで、ニャアオと柔らかい鳴き声が聴こえた。

  • 89124/03/03(日) 17:47:01

     先生がゲヘナの校舎に向かって歩く。目指すのは校舎内にある保健室だ。そこならちゃんとした処置ができるだろうと先生は言う。
     すれ違う生徒たちから怪訝そうな目を向けられるが、膝に貼られた絆創膏と青く腫れた足首を見てみんな納得したようだった。でも、何かしらの波風が立つことは容易に想像がつく。

    「いいんですか、先生」
    “何が?”
    「こんなことしたら、先生が万魔殿に取り込まれたって噂されますよ」

     シャーレという組織は連邦生徒会に属している。言ってしまえば中立だ。名目だけとはいえ、私が持ちかけた「万魔殿との協力体制の構築」に難色を示したのはこれが原因だ。
     というよりも、先生は全ての生徒の味方であると同時に、誰の政治的立場にも立ったことがない。あの議長はその辺のことを考えているのだろうか。そもそも私にそんな命令を出したことを覚えているのだろうか。

    “いいよ。否定すればいいし”
    「そんな簡単に言えるようなことですか?」
    “それに、イロハが困ってるのを助けて何か悪いことでもあるの?”

     こういうことを平然と言ってくれるものだから困る。一体何人の生徒が陰で泣いていることだろう。

    「……あまり、そんなことを生徒に言うものじゃないですよ。いつか痛い目見ます」
    “それ、別の生徒からも言われたな”
    「へぇ……反省しないんですね」
    “反省も何も、本音だし”

     先生が誰のこともそういった意味合いで特別扱いしないのは分かっている。この人にとってはあまねく全ての生徒が尊ぶべき存在であり、奉仕の対象なのだ。
     そんな先生が、今こうして私を背負ってくれている。その現実がくすぐったい。
     先生がどこかで足を止めてくれやしないか、信号が赤になってくれないかと願うが、こういう時に限ってすんなりと進んでしまう。

  • 90124/03/03(日) 17:47:40

    「先生」
    “うん、どうしたの?”
    「私、重くないですか?」

     先生の息が切れ始めているのを感じ、そう声をかける。先生は快活そうに笑っているが、500mはそこそこの距離だ。歩くのでさえ少し疲れるのに、私を抱えながらだとその体力の消費具合はかなりのものになるだろう。

    「どれだけ軽く見積もっても30kgはありますよ、私」

     実際は30よりも重いが、その辺は暈しておく。乙女の秘密というものだ。

    “そんなもの? 軽いけどな”
    「……ありがとうございます」

     重いとかぬかしたら理不尽に肩パンして暴れてやろうかと思ったが、そういうことなら矛を収めてやる。そうですかそうですか、私は軽いですか。少しだけ自信がついた。

    “しかし、どうしてそんな怪我をしちゃったの?”
    「散歩してたんですよ。全く、たまに外に出てみたらこれです」
    “災難だったね……お疲れ様”

     先生の背中が大きい。私の細い体がすっぽり覆い隠されてしまうほどに。
     そして、温かい。安心する温かさだ。他人の体温とはこんなに安心するのか。

    「……あの仔は、夫婦だったんですかね。親子だったんですかね」
    “ん? 何の話?”
    「何でも……」

     あの猫も、こうして誰かと寄り添って、その温もりを感じながら生きてきたのだろうか。
     そして、その温もりを抱えながらこれからの日々を生きていくだろうか。

  • 91二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 17:49:37

    このレスは削除されています

  • 92124/03/03(日) 17:51:54

    「…………温かいですね」
    “そうだね。上着脱いできちゃった”

     目を瞑ったらすぐに眠ってしまいそうなほどに心地いい。この温かさをできる限り忘れないように、少しだけ先生を掴む力を強めた。
     太陽の光が優しく街全体を照らしている。もうすぐ春が来る、そんな日のことだった。

  • 93二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 17:53:45

    このレスは削除されています

  • 94124/03/03(日) 17:54:35

    以上! 次のSSの題材安価! 誰が何をするかを明記してくれると書きやすいです!

    >>95>>98の中からダイスで決めます! 24時までにまで行かなかったらそこで締切です!

    選ばれなかったやつもいつか書くんでよろしくです!

  • 95二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 23:51:53

    素晴らしいSSをありがとう……
    安価はセリナに寝かしつけてもらうか話なんてどうでしょうか

  • 96二次元好きの匿名さん24/03/04(月) 00:50:20

    このレスは削除されています

  • 97124/03/04(月) 00:50:45

    セリナですね。ちょっと絆ストーリーとか熟読してから書くので時間かかると思いますが、しばしお待ちください

  • 98二次元好きの匿名さん24/03/04(月) 12:11:32

  • 99124/03/04(月) 17:03:32

    できました。今回は短めです

  • 100124/03/04(月) 17:07:11

     その日の日中、私は超絶眠たかった。
     前日に徹夜をしたのがいけなかった。人の身体というものは基本、夜眠らずに動けるようにできてはいないらしい。
     目の前の画面に映し出されたメール百数十件をこれから一刻も早くチェックしないといけないというのに、眠気に耐えきれなくなった私の脳は、私の意思に反して急激に動作を停止しようとしていた。

    “まずい、このままじゃ……”

     意を決して立ち上がり、愛用のマグカップにインスタントコーヒーを淹れる。香ばしい匂いが鼻を刺激する。これでカフェインを摂取して、少しでも目を覚まそうという寸法だ。
     息を吹きかけて冷まし、啜るように飲む。キヴォトスに来てから何十回何百回と味わった、甘く苦い風味が舌の上を走り抜けた。

    “これで少しは楽になった、かも”

     メールの山は相変わらず画面上に鎮座している。これが終わったら次は書類仕事だ。このペースを続けられたら、時計の針がてっぺんを越える前に終わることができそうだ。
     少しでも早く進めなければと堅苦しい文面に目を通しているうちに、カフェイン効果で去ったと思っていた眠気がまた到来してきた。

    “いや、まずい。まずいなこれ……”

     ボールペンで手の甲を刺そうが頬をつねろうが、眠気はますます大きくなっていくばかりだ。
     現在午後2時、昼食で腹を満たした直後なのもあるのだろう。高校では昼休み直後の数学の授業が一番寝やすかったな、とどんどん機能を停止しつつある頭は仕事と無関係な思考を走らせる。

    “でも仕事を終わらせないと……また徹夜……”

     何とかキーボードに手を伸ばそうと苦闘しているその時、通常ではありえないはずの、だがこの状況なら一番聞く可能性の高い声が部屋に響いた。

  • 101124/03/04(月) 17:11:40

    「お困りですか、先生?」

     目線を上げると、白衣の天使がデスクの前に立っていた。桃色の髪が窓からの光を反射してとても綺麗だ。ほんのりと薬品の匂いがする。
     どうやってここに音もなく入り込んできたかは聞かないことにする。そういうものだと受け入れた。

    “セリナ……眠い……”
    「先生のことですから、昨日徹夜してしまったのでしょうね。お疲れ様です」

     心配そうに私を見つめてくる。人が来て少し興奮したのか、ぼやけていた私の視界が少しだけクリアになったような気がした。

    “今日は眠気が酷くってね……。何かこう、対策とかないかな”
    「眠気への対策ですか。そうですね……」

     少し考え込んだ後、セリナは困ったように私に語りかける。

    「眠気は人体が睡眠を欲しているサインなんです。それを無視するのは、やはり難しいと言わざるを得ませんね……」
    “今日中に、この仕事を終わらせないといけないんだ……”
    「うーん……でも、もう先生の身体は限界だと思うんです」

     その言葉の通りだ、もう今にも倒れてしまいそうなほどに眠い。
     頭が重い、ボーッとする。正直言って寝たい。すごく寝たい。今すぐ寝たらきっとすごく楽になるだろう。その誘惑に負けまいと目を擦っていると、濁ったうめき声が口から漏れた。
     でも寝られない。何とかして起きてこの仕事を終わらせないと、明日がますます辛くなるだけだ。

    「…………仕事の量が多いんですよね?」

     セリナが問いかけてきた。確認しようとしてメールの未読通知135件という数字を見てしまい、思わず気絶しそうになったが何とか堪えた。

  • 102124/03/04(月) 17:13:27

    “あ、ああ……机の上に山積みになってる書類も今日の分”
    「そのうち、明日に回してもよさそうなものはどれくらいありますか?」

     書類にも3種類ある。「今日中に絶対に終わらせないといけないもの」と「期限は今日じゃないけどできる限り早めに終わらせてほしいもの」、そして「現状は後回しにしていいもの」だ。極論、今日終わらせるべきなのはそのうちの「今日中に絶対に終わらせないといけないもの」だけだったりする。
     つまり、セリナが言っているのは……。

    “今日の分の書類仕事の何割かを、明日に回そうってこと?”
    「そういうことです。眠気を抱えたまま仕事をするとミスが生まれてしまう可能性が高まります。何より今の先生は本当に辛そうです」
    “あー……確かに、それはそうかも……”

     実際眠気が酷いままこなした仕事にはミスが多い。ミスが見つかる度にリンちゃんから電話がかかってくるので、その日一杯はスマホのバイブにいちいち戦々恐々としていた記憶がある。

    「お仕事なら少しくらいは手伝えますし……短時間の昼寝なら、できませんか?」

     悪魔のような天使の誘いとはこのことではなかろうか。私が心の奥底に封じていた「今すぐに寝たい」という欲望がむくむくと膨れ上がっていく。

    “うん……じゃあ、いいかな、寝ても”
    「はい! 起きた後のお仕事はちゃんと手伝いますからね!」

     2時間だけだ。2時間だけ寝て、今日の仕事は最低限の量にして、そして今日はしっかりと睡眠をとる。そう決めた途端に身体中から力が抜けていった。
     私は何とか椅子から立ち上がり、覚束ない足取りで仮眠室へと向かった。
     そして後ろの方で、私についてくる小さな足音が聞こえた。

  • 103124/03/04(月) 17:16:01

    “え、えーっと……セリナ?”
    「はい、何でしょう?」
    “その、何でセリナがここにいるの?”

     今、私は薄暗い仮眠室のベッドの中にいる。
     そして、その傍らでセリナが、まるで聖母のように私を見守っている。

    「起こす人間が必要だろうと思いまして。今日私はお仕事お休みですから」
    “いや、別にセリナがここにいなくてもいいんだよ? 目覚ましとかかけるし……”
    「起きた後仕事を手伝うって、約束しましたから。今日この後、先生に独りでお仕事をさせるわけにはいきません」

     清らかにセリナが笑う。私はこういう自分の意思を強く持った生徒に弱い。
     接しているとどうにも気圧されてしまう。この笑顔に勝てる気がしなかった。

    「先生はいつも、お仕事頑張っていらっしゃいますから」

     優しく頭を撫でられる。垂れ下がっていた前髪が掻き分けられ、目の上をちらつかれる不快感がなくなった。

    「だから、こういう時は素直に休んでください」
    “…………セリナ”

     頭を撫でられると、人は安心するらしい。
     リラックス効果にストレス軽減なんかも期待できる。自分で撫でた時でさえそんな効能があるというのだから、人の身体と心というものは何とも分からないものだ。
     そういえば親元を離れてからしばらく頭を撫でられたことがなかったな、と思い出した。しかしそんな考えもすぐに眠気の前にぼやけ、霞み、消えていく。

    「おやすみなさい、先生」

     頭を撫でてくる手が時折私の視界を遮る。それが何だか嬉しくなって、私は目を瞑る。
     セリナは何も言わない。ただ手の感触と呼吸音だけに集中していると、意識の電源がどんどん落ちていくのが分かった。
     それが、とても心地よかった。

  • 104124/03/04(月) 17:18:11

    「起きてください、先生。もう時間ですよ」
    “ん? ん……ああ……、もうそんな時間か……”

     身体を揺すられて目が覚める。まずセリナの笑顔が目に映った。

    「約束してた2時間きっかりです。少しすっきりしましたか?」
    “うん、もう少し寝てたいけど”
    「ちゃんとした睡眠は今夜とってくださいね。先生はおそらく全般的に睡眠不足なので」

     昼寝した直後特有の頭がボーッとする感覚は、話しているうちに薄れていった。すぐに仕事に戻るべく温かい布団から身を抜き出し、ベッドから降りる。

    “2時間ずっとここにいたの?”
    「はい。先生がいつ起きてもいいように看てました」
    “大変だったでしょ。何かお礼とかは”
    「必要ありません。大丈夫です」

     きっぱりと言われてしまった。なぜかと理由を訊くと、セリナはこう答えた。

    「お礼やお代を貰うために救護しているわけではありません。それに、あの時の先生はまさに病人だったので」
    “病人!? 病気とかしてないけどな”
    「睡眠不足は免疫力を低めます。それに、先生はコーヒーをあの時飲んでいらっしゃいましたよね?」

     確かにセリナが来る直前はコーヒーを飲んでいた。どうも最近は摂取量が多くていけない。

    「コーヒーの飲み過ぎはカフェインの過剰摂取による不眠症、それと胃酸の過剰分泌を起こします。適量ならいいとは思いますが、飲みすぎるのはおすすめできません」
    “どうも、眠気覚ましに飲んじゃうんだよね”
    「先生もお仕事が大変でしょうけど、やはり身体の健康が第一なので」

     ドアを開けると、黄色がかった青い光が差し込んできた。もうじき夕方だ、日が暮れる。

  • 105124/03/04(月) 17:19:54

    「先生。執務室に戻った後、私がお手伝いできることは何でしょうか」

     そうだった。この後もセリナは手伝ってくれるつもりらしい。
     それはきっと、放っておくと病気まっしぐらな私を少しでも助けたいという慈愛の深さ故のことだろう。光に照らされた彼女の顔が赤く見える。

    “そうだな。じゃあ書類の仕分けをお願いできるかな。やり方は着いたら私が教えるから”
    「了解しました。お手伝いいたします!」

     あんなに酷かった眠気は、もうどこかへ消え去っていた。

  • 106124/03/04(月) 17:20:43

    以上! お付き合いいただきありがとうございました!
    セリナの苗字、ずっと「わしみ」って呼んでた……「すみ」って言うのか……

  • 107124/03/04(月) 17:21:45

    改めて、素敵な案をありがとうございました! 本当にかわいいよなぁ、この子……

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