神聖ローマといえば諸侯の力が強くて皇帝の力が弱いイメージだけど

  • 1二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 18:54:18

    昔は寧ろフランス(西フランク含む)の方が国王の力が弱くて諸侯の力が強かったんだよね
    いつのまにか逆転されたけど

  • 2二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 18:55:36

    まあカペー朝がなんやかんや続いたのはでかいだろうな

  • 3二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 18:56:32

    >>2

    後、フランスは名君が誕生したら名君が中央集権進めるけど神聖ローマの場合はイタリアにかまけて国内無視するのもデカいだろうな

  • 4二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 19:01:08

    フランスは十字軍に参加する諸侯が多くて勢力自発的に弱めてくれたからな
    第七次?なんのこったよ

  • 5二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 19:05:52

    >>3

    結果的に失敗したから「ローマでもない」って言われたけど、ローマであることは重要だったからな

    失敗した辺りから国号に「ドイツ国民の」と付けた辺り、南を併合するの無理と受け入れて地元密着アピールを始めた北朝鮮と被るものがある

  • 6二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 19:06:17

    七選帝侯にハプスブルク家が選ばれんかったのはなんでなん?

  • 7二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 19:10:10

    フランスが中央集権化早かったのって、隣にフランス内の有力大名でかつ中央集権化が完了したイギリスがあって、大体イギリス倒せば中央集権化が大幅に進んだから、そしてイギリスと後には加えてスペインに対抗するために中央集権化しやすかったからはある

  • 8二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 19:12:17

    >>6

    カール4世「公正な話し合いの結果だよ(ハプスブルク家に中指を立てながら)」

  • 9二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 19:13:01

    >>6

    オーストリア大公位は選帝侯にならなかったけどハプスブルク家自体はボヘミア選帝侯位を手に入れてるからその認識は間違い

  • 10二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 19:20:21

    帝位がなまじ宗教権威を帯びていたせいでローマ教皇が対立諸侯の受け皿になってしまったのが厳しい

  • 11二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 19:26:26

    >>6

    選帝侯位ができた時点でハプスブルクは取り立てのない一諸侯に過ぎなかったから。


    >>9

    ボヘミア王位を継承したから、事後、選帝侯になったのであって、選帝侯に選ばれなかったというのは別に認識間違いではないのでは?

  • 12二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 19:31:45

    >>11

    それもそうだわ

    何故ハプスブルク家が選帝侯になれなかったのかって意味で受け取ってたので

  • 13二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 19:56:08

    初期の神聖ローマ帝国は鎌倉幕府並みには中央政府の権限が強かった
    逆にフランスは中央政府の権限がクッソ弱かった

  • 14二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 22:04:52

    長文ごめん。

    元々、東フランク(ドイツ)王国は部族大公が強い力を持っていて、王の力は弱かった。
    こうした状況を改め、王・皇帝への権力集中を図るため、初代神聖ローマ皇帝であるザクセン朝のオットー大帝は部族大公達との対立を選び、
    彼らを打ち破っては、その権限を制約すると共に後任の大公を自身の親族で固めた。
    また、奪った領地を教会に寄進することで、帝国の要地の支配者を、世襲で王・皇帝に反抗的な諸侯から、
    王・皇帝の意に沿う、一代限りの、行政官としても期待できる聖界諸侯(司教)に代えていった。
    当時は領内の司教叙任権は皇帝が握っていたし、皇帝はローマ教皇と協調していたので、こうした措置は理にかなっており、
    他の方も言っているように初期神聖ローマ帝国の皇帝は他の西欧諸国の君主に比べて強い権力を持った。
    (続く)

  • 15二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 22:05:55

    (続き)
    しかし、教皇との協調をモットーにしたオットー大帝のザクセン朝は断絶。また、皇帝の権限が次第に強くなるにつれて、教皇と皇帝の利害の対立が表面化。叙任権闘争に至る。
    教会勢力と皇帝勢力の対立は長く続いたものの、その後も紆余曲折を経ながら皇帝権力は強化され、
    婚姻によりシチリア王国(シチリア島+南イタリア)を手に入れたホーエンシュタウフェン家のハインリヒ6世の時代、神聖ローマ皇帝の地位・専制権力は絶頂に達する。
    だが、ハインリヒ6世が早世し、その子フリードリヒ2世が幼少であったことや強い皇帝を望まない教皇並びにドイツ諸侯の意向もあって、帝位は他家に移ってしまった。
    こうした経緯から、成長したフリードリヒ2世は帝位を取り戻すために、ドイツ諸侯に権限の大幅な譲歩をした。
    帝国外にシチリア王国という権力基盤を持つフリードリヒ2世にとってはこの譲歩は大きな問題ではなかったが、結果としてドイツ国内における皇帝権力は完全に骨抜きになった。
    (続く)

  • 16二次元好きの匿名さん24/03/02(土) 22:07:34

    (続き)
    その後、フリードリヒ2世の嫡子コンラート4世が早世すると、その子コッラディーノが幼少であったこと、
    フリードリヒ2世と敵対したローマ教皇がホーエンシュタウフェン家の皇帝を望まなかったこと、ドイツ諸侯間の勢力争い、
    シチリア王国がローマ教皇の策謀でフランス王の弟シャルル・ダンジューに侵略された結果、ホーエンシュタウフェン家は断絶したことなどもあって
    神聖ローマ帝国は大空位時代に突入。皇帝権力はますます有名無実化していった。

    その後、ハプスブルクがいろいろ頑張るけど、ここに至るまでの遅れを結局、取り戻すことができなかったように思う。

    結論、だいたい歴代ローマ教皇とフリードリヒ2世(仕方がない面もあるけどさ)のせい。

  • 17二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 10:00:43

    >>4

    聖王ルイ、捕虜になる・・・・・・

    なお、懲りずに第8次もやった模様

  • 18二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 10:05:46

    >>5

    ドイツ国民を最初に付けたフリードリヒ3世がローマで戴冠した最後の皇帝になるという

  • 19二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 11:03:56

    >>1

    どっから取ってきたのか知らんが何だこの絶妙に違和感のある地図は

  • 20二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 11:06:47

    >>19

    いつの時代の版図なのか謎よな

    神聖ローマ帝国が存在している次第にイタリアがこんな版図だった時代はないはず

  • 21二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 11:10:54

    >>20

    そもそもユトランド半島全域を支配した事も無いしの

    チェコも地図上だと多分ボヘミアだけってのを示してるんだろうけどもモラビアもセットだろうし

  • 22二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 11:16:47

    >>16

    フリードリヒ2世は先見的過ぎたところもあるからねえ

    近代に起こる啓蒙思想をいち早く取り入れていたし

    フリードリヒ2世の時代の神聖ローマ帝国はヨーロッパ覇権国であることは間違いない

    偉人だの世界の驚異とも言われ死んだことに多くの人が悲しむくらいには名君ではある

    ただまあ、教皇とのバチバチな対立故に敵を残したまま死んだことが後の衰退に繋がる

  • 23二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 13:05:37

    >>22

    傑出した才人で偉大な君主であることと、王朝や帝国の中興の祖に必要な能力は一致しないからね・・・。


    しかし、フリードリヒ2世の没後18年までにコンラート(子、病死)もマンフレディー(庶子、戦死)もコッラディーノ(孫、敗戦後刑死。享年16歳)も死んで、

    残ったのは20年間幽閉中で解放の見込みのない(結局、獄中死しました)庶子のエンツォだけ。おまけに病死のコンラートを除いて、どれもローマ教皇が関与している案件なことを考えると、

    フリードリヒ2世が偉大な皇帝ではなく、平凡なシチリア王だった方が子孫にとっては良かったよね…。

  • 24二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 21:49:34

    >>22

    一人戦国自衛隊やってるような皇帝だよねフリードリヒ2世

  • 25二次元好きの匿名さん24/03/03(日) 21:52:29

    神聖ローマ帝国は三十年戦争のせいやろうなあ

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