- 1(1/37)気持ちはまだ2月24/03/09(土) 20:27:37
良く言えば素朴。
それはつまるところ飾り気がなく、言ってしまえば地味で質素。ヨーロピアンスタイルだかなんだか知らないが、見映え良く飾られた同室のそれとは大違い。
そんな、入寮した頃からまともに手を加えたこともない部屋備え付けの学習机は、窓から差し込む午後五時の斜陽にそのブラウンの天板を鈍く反射させている。ごちゃついた机上じゃ据わりが悪いからな、不要な書籍やら筆記用具やらは引き出しに仕舞い済み。整然としたまっさらな木目に影を引くのは、いつぞ常連の飲み屋から持ち帰ってきたバヤリースのジュース瓶で、季節柄まだ温むことのない水道水がその中身を満たす。
誰ぞからバレンタイン・ディナーの誘いを頂戴したらしい同室は、夜まで帰ってくることはないだろう。それをいいことに空調をつけずにいるからそこそこ寒い。凍えるとまではいかねぇけど、外出用のブルゾンを脱ぐにはちと心許ないひやりとした空気──帰寮したばかりの冷たい鼻先に、花の香りが弾ける。
すみれの花の季節にゃまだ早い。そもそもあれは窓辺で育てているし。眼下、私をひどく惑わせているのは、瑞々しい薔薇の花。
私の面白みのない机にもいまやレトロだと言われがちなジュース瓶にもそぐわねぇが、それに褪せることも室内に漂う夕光にも負けることなく気高く鮮やかに咲く一輪に。
「……どうしたもんかね、これは」
後悔だとか困惑だとかが混戦模様の盛大な溜め息は、見目麗しくラッピングされたの花を前に、これまた大層似つかわしくないものだった。 - 2(2/37)24/03/09(土) 20:28:38
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バレンタインデー。
いわゆる製菓会社の陰謀だのプロデュースだのいろいろ言われているものの、最早年間行事だと謳われても過言ではないだろう。
かといって国民の休日になるわけでもないのがネックと言えばネックではある。
この時期になるとあちらこちらが赤やらピンクやらの装飾できらめいて、甘ったるいチョコレートの香りがそこかしこから漂ってくる。
実際、全国チェーンのコーヒーショップともなれば限定商品もピックアップもビターからホワイトまでチョコまみれ。
授業を終え速攻で着替えて街に飛び出した午後三時。
胸焼けしそうなほどのメニューラインナップを一瞥しなんの変哲もないホットコーヒーを注文した私とは対照的に、『先生』はしばし悩ましげに唸り深慮熟考の末に──何の変哲もないホットティーを注文した。
そりゃあな、今や全快を待つのみとばかりの健康状態とはいえ、二年前の今頃はまだまだ病床にあった人だ。闘病の甲斐あって現在は普通の生活に戻れつつあるが、チョコレートにチョコレートを重ねチョコレートをまぶしたようなカロリー祭りのデザートドリンクをリスクなく摂取するにはまだ躊躇われるところだし。
「先生、こっちだよ」
せめてそのかわりにとばかりにオランジェットが飾られたブラウニーを皿に載せた『先生』──小学生の担任で、大切な恩師──に向かって手をひらひら振ってみせる。私があらかじめ確保しておいた二人掛けの席までたどり着いたその足取りで、先生の機嫌の良さと体調の良さは一目瞭然だった。
「ありがとう、フェスタ。あいかわらず貴方は席取り上手だね」
「張ったヤマが当たっただけさ。しかしわざわざこんな千客万来に混ざるこたなかったんじゃないか?」
先生を淡い陽射しが降り注ぐ壁際の席に導くついでに受け取ったトレイの上には、注文したホットティーに、くだんのブラウニー。
それから皿とフォークがもうワンセットずつ。
私の注文はスタンダードなホットコーヒーだけだから、結果論とは言え敢えて客入りの多いチェーン店なんて選ばなくても良かっただろう。
それこそ小ぢんまりした老舗の喫茶店の方が静かだし何かと煩わされることもない。
ここじゃ騒がしい子どもからお喋りに夢中な学生、楽しげに歓談する妙齢のご婦人方まで揃い踏み。どう足掻いても落ち着いたティータイムを望めるはずがないからな。 - 3(3/37)24/03/09(土) 20:28:55
最も立ち寄るカフェを見繕う最中ここがいいと足を止めたのは先生だ。こんな日に呼び出したのは私だが、正直な所、人出のある場所に先生を留めておくのは若干の躊躇いがあった。
病人ってのは免疫力が低下してるだろ。もう退院だってしたし医者のお墨付きを得ているから、過保護だと臍を曲げられてしまうから口には出さないが。
それに、なんつうか……実家が太いのも相俟って純粋無垢なお嬢様然としたところがある人だ。だからこういう大衆のためのカフェにもあんま縁がなかったらしく、さっきからまるでお上りさんか何かでさ。
なにはともあれ、先生のご所望だ。
そこから客の並びと提供状況、混雑する席の空きにアタリをつけて腰を据えられる状態には持ってきたものの。やはり私の耳は無意識に負けて絞り気味。
二本のフォークで器用にブラウニーを切り分けていた先生がそれを見ればすまなそうに眉を下げるだろうから、そこは賭場並の気合いでコントロールしてみせるが。
その甲斐あって、「半分どうぞ」とオランジェットが多めに乗せられたブラウニーの皿を差し出す先生は、やさしく瞳を細めている。
「だってせっかくのバレンタインデーでしょう? 少しぐらい、空気感を味わっておきたいじゃない。それに、折角お茶をするなら、いろいろな場所に行ってみたいし」
「場所はともかくとしてその相手に私を選ぶ酔狂さは相変わらずだな」
「あら。可愛くて大好きな元教え子をお茶に誘うのはそんなにおかしなことかしら? ……それに四月からまた働きはじめるんだから。いつまでも静養ばかりしているわけにはいかないもの!」 - 4(4/37)24/03/09(土) 20:29:10
まるでバレンタイン限定フラペチーノに施されたグラサージュのごとく瞳を輝かせる先生の隙をつき、オランジェットを一枚返す。元教え子だと言うのなら平等でもいいだろうに、多くを分け与えようとするのは元教職のサガなのかもしれないな。
そもそも半分くれと言った覚えもなかったが、突き返すのも無粋といえば無粋だし。レジ前のショーケースに飾られていたブラウニーに『甘さ控えめ、ビターテイスト』の宣伝文句が踊っていたことを思い返しつつ、手にしていたフォークを一度置き、私達は顔を見合わせる。
「それでは、いただきます」
「……いただきます」
小学校の給食の時間じゃねぇんだぞ。……なんて思うもののこういうのは習慣ってやつで。
ジョッキを突き合わせる乾杯のかわりにお互い一口だけそれぞれのカップに口をつけて──先生がくすぐったいとばかりに笑うもんだから、私も釣られちまうんだ。
***
洒落たBGM、食器のお喋り、老若男女の楽しげな会話。途切れることのない騒がしさを縫うようにして、ビターといっても甘みがないわけじゃないブラウニーを深煎りのコーヒーで中和する。
二月も中旬と言えど通りの見える大窓に面する席は思うよりずっと冷えててさ。陶器のカップの温もりが心強いが、先生は寒くないだろうか。
席を確保するヤマ張りを優先しすぎてロケーションの見定めをしくじったかもしれない。テーブルに置かれた細く長い指先や顔色をそっと窺う。
室外ならとてもじゃないが日光浴なんて出来っこない気温ではあるものの、強すぎずかといって弱すぎることもない良い塩梅の陽当りは、先生の細面をやわらかく照らしていた。
まだふっくらとまではいかないが痩せこけはしなくなった頬の赤みを見てほっとしたところで。 - 5(5/37)24/03/09(土) 20:29:25
「それで、──、ナカヤマフェスタさん、聞いていますか?」
「……四月から私塾の雇われ講師するって話だろ? 大丈夫。『先生』なら上手く出来るさ」
何年かぶりの『先生』めいた呼びかけに拾っていた会話の欠片から体良く組み合わせるも「違います」なんてぶった切り。そりゃそうだ。物腰やわらかに見せかけてふざけて話を聞かない児童にゃ容赦のない人だったからな。
教員免許の更新は切れてないらしく、復職も可能といえば可能だが、落ちた体力その他諸々で小学校教員なんて激務をこなすには難がある。だからまずは知り合いの伝手で同じ学び舎でもワークバランスの取りやすい雇われ講師から始めるのは、社会に疎い私でも反対する理由はない。
「そりゃあ失礼。だが務めてた小学校の事務員としての復職も声かけられてたって話だったじゃねぇか。誰かに学びを授けていたい先生らしいと言えば先生らしいが」
「そうね。きっと教えることが天職なんだわ。……どこかの誰かさんがちゃんと応えてくれたから、病床にあっても学びが尽きることはなかったし」
皿に残っていたブラウニーの一欠片を口許に運び、すっかり湯気の消えたホットティーで唇を湿らせて、先生は解すようにふっと一息。
オランジェットを一枚残してホットコーヒーを空にしていた私はさりげなく先生の視線から逃れるべく「ホットティーの二杯目、奢ってやるよ」と提案するも。
「フェスタ。話を逸らさないの」
聞いていなかったなんて嘘よね?
言外のプレッシャーは、レース中のウマ娘たちに勝るとも劣らずなんじゃねぇの? 先生。 - 6(6/37)24/03/09(土) 20:29:39
***
ホットティーを奢るどころかホットコーヒーを奢られつつも、騒がしさの尽きないカフェには一時間ほど滞在しただろうか。
改札口まで付き添い、多少重い『土産』を持たせてしまった先生の細いその背が人混みに紛れてしまうまで見送って、そこでようやく詰めていた息を漏らす。
肩の荷を下ろすような心地。別れ際、先生のひとことが私の脳に残り続けている。
『フェスタ、これは貴方への宿題です』
なんてさ。
だから私はもうトレセン学園の生徒で、先生が受け持っていた頃の小学生のガキじゃないってのに。
宿題を出されたところでやるとは限らねぇぞと宣言はしたさ。でも『無理に立ち向かうことでもないものね』と言われてしまえば……押して駄目なら引いてみろとはよく言ったもの。本当に私の扱い方を知っている。
これがもう少し血気盛んに煽ってくるのなら。
──たとえば『怖いから逃げるのか』だとか『勝負すらしないのか』だとか、そういう焚き付け方をしてくるのなら私にだって考えはあるが、そうじゃないからたちが悪い。
帰宅ラッシュのピークにゃまだ早いがコーヒーショップ以上に騒がしい駅構内。鹿毛耳をコントロールする必要もなくなった。いつものニット帽をかぶっちゃいるから耳が完全に『寝て』髪に埋もれて見えなくなることはないが、あからさまに絞られたそれと、もともと愛想の欠片もない人相を曝け出し踵を返す私は、不機嫌の権化と表現しても過言じゃなかっただろう。
もっとも不機嫌、っつても、先生に会うのが嫌だったとか、そういうんじゃない。そもそも今日トレーニングを休みにして、先生を呼びつけたのは誰でもない私だし。数日前から大量に仕込んでいたコイン型のチョコレートを負担にならない程度に数枚。それから、あれこれと借りを作り入手したとあるブランドのフラワーベース──馴染んだ言い方をすれば花瓶なんだが、ともかくそれらを手渡した。
さして嵩張らないチョコレートはともかくとして問題は花瓶だ。 - 7(7/37)24/03/09(土) 20:29:56
先生が愛してやまないフランス・パリ。そこに拠点を構える手吹きガラス工房の花瓶は、サトノやルビーといったお嬢様連中に紹介された思わず目の玉をひんむくようなハイブランドのものと比べれば価格も手頃。
サクラローレルなら丁度良いものを知っているだろうと言ったのはシリウスで、そのお節介からのバトンを受け取ったローレルは最適解を私にくれた。
サイズ感も程良く、取り回しやすい。派手すぎず質素すぎず高価すぎず安価すぎずの塩梅の、フラワーベース。
だからといって、ガラス製品だから軽すぎるわけもないんだが。
先生がひとりで電車に揺られ来てくれることなんてわかっていたし、本来ならいつものように手紙を書いて、郵送なり宅配なりで送るべきだったんだ。
本来の、いつもの私だったら、そうしていた。
なにはともあれ先生さえ見送ってしまえば、こんな煩わしい音に満ち満ちた駅に用はない。くっきりと刻まれていそうな眉間の皺を一伸ばし。バレンタインデーは国民の休日ではなかったし、今日同様に明日も特筆することなき平日なわけだから。
楽しい時間の余韻を呼び起こしつつも歩くなり走るなりで帰路につこう。今から帰ってもまだ寮食堂は開いていないから飯を食って帰るのもいい。そういや駅コンコース直結のショッピングモールには美味い惣菜の店が幾つかあった気がするし。
脳裏をぐるぐると巡るアレコレやら『宿題』やらをひとまず隅に押しやった。このまま見ないフリで忘れてしまえたらそれで結構。
モヤつきを振り払うが如くショッピング街へ足を踏み入れ少し歩いたところで。
「……クソが」
ただでさえ剣呑。眼光の鋭さを和らげきれなかった視線の先。
色とりどりの鮮やかな花が、通路に面した花屋の店先を飾っていた。 - 8(8/37)24/03/09(土) 20:30:08
***
柔らかな曲線や温かみのある木材のディスプレイテーブルに、幾多の種類の花を飾ることが出来るフラワースタンド。主役を食わないよう抑えられた色味のバケツが大中小と並び、それらすべてからこれでもかというほどに、色とりどりの花が顔を覗かせる。
ハンギンググリーンに木漏れ日を思わせるような電球色の下、チューリップにスイートピー、ラナンキュラスにアネモネ、ストック。洒落たブーケに観葉植物が並んで、これから訪れるだろう春を主張する。
「いらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞ」
先程まで頭の隅に追い払おうとしたあれこれがふたたび舞い戻り脳裏を過り、思わず踏みとどまる──そんな通行人の気配に気づいたんだろう。商品の手入れをしていた店員が振り返り、にこやかに声をかけてきた。
体裁が悪いとはこのことだ。折り合い不足のしかめっ面を敢えて隠す必要なんてなかったが、通りすがりにビビられるのと面と向かってビビられんのは別の話。
虚をつかれたのも相俟ってまごついた会釈なんてのを返しちまったのは全くもって私らしかない。
何事もなかったかのように立ち去れば良かったし、踵を返す時間だって充分にはあった。
しかし無防備な私の鹿毛耳はどうやら迷いを気取らせるのにいささか明白過ぎたようで。
「今日はバレンタインデーなので、お土産用に切り花をたくさん用意しております。良かったらご覧になってください」
「……どうも」
バレンタインデー。
今の私を本来の私でいさせてくれない諸悪の根源。
何かございましたらお声掛けください、と、気を利かせてか店の奥へ引っ込んでいった店員の背を見送り、鉛みたく重い脚を一歩、二歩、三歩と進めれば、花の香りがより濃くなった。 - 9(9/37)24/03/09(土) 20:30:23
バレンタインデーってのはさ、まあまあ便利な催し物だ。
一昔前は寒い冬を燃え上がらせる恋人たちの一大イベントって体だったが、昨今は趣がまた変わってきている。
なんでもかんでも恋だのなんだのに結びつくわけではなく、『チョコレートを渡す』って行為がよりフランクになっていたりさ。
いわゆる友チョコ。あとは世話になった相手へ感謝の意を込めて。
つまるところ、いつの間にやら降り積もっていた借りだの義理だのがチョコレートひと粒でご破算に出来る可能性があるんなら、積極的に取り入れていくべきだろう?
買ってもいいし、『気持ち』ひとつで価格を抑えても目くじらを立てられないのなら手作りも射程圏内。
幸いにも私は料理に覚えがあるときた。もっとも菓子作りなんてレシピを遵守しなきゃ目も当てられないことになるから、遊び甲斐はないが。
諸悪の根源なんて表現はしたが、借りを返すために、柄にもなく『感謝』のための場が改めずとも得られるんだ。
きっかけなんてないよりはある方が断然いいし。
それ故に私はバレンタインデーなんて名目で先生を呼びつけて、復職祝いで贈られるであろう幾多の花を飾るひとつの選択肢として、先生に花瓶を押し付けた。
バレンタイン・フェアと銘打たれた店先のディスプレイ。その一角を艶やかに飾るのは、赤白黄色、ピンクにオレンジといった大輪の薔薇だった。棘の落とされた一輪売りのものから、既にラッピングされたブーケまで絢爛の様相。
帰宅ラッシュに合わせて手入れをされたんだろう。瑞々しい花群を眼下に、脳裏で冷静な『私』が肩をすくめてみせる。
店員はいなくなった。立ち去ってしまえ。
そもそも声をかけてきたのはそれが仕事だからで、そういうのに気遣うガラじゃないだろう? 退路を塞ぐためにニンニクのがっつり効いた餃子でも食って帰ってしまえ。どうせシリウスが帰るのは門限ギリギリだ。
それに対して反駁するのは──。
バレンタインデーなのだから、と私に『宿題』を課してきた先生だ。 - 10(10/37)24/03/09(土) 20:30:36
飛んで火に入る夏の虫、って言うだろ。あの瞬間──『先生』の復職先について話を逸した私はまさに災難を前にした羽虫のようなもんだった。
自慢じゃないが口はそこそこ回る方だし都合の悪い感情を表情に出さない術は心得ているからな。素知らぬ振りをして会話をすげ替えるのも手慣れたもんだ。
白を切り通して不穏な話題を丁寧に煙にまく……いつもの私なら上手にやり過ごせたが、相手が『先生』であれば話は違う。
誤魔化さないの、と、唇を尖らせた先生は、自らのハンドバッグから簡素な包みを取り出す。今年、方々に少量ずつばら撒いた、私手製のコイン型チョコレート。
『まさかトレーナーさんに対しても、このチョコレートだけで済ませたなんて言わないわよね?』
手製ってのはどういうことか喜ばれるし、上手くキマりゃ達成感もあるよな。自分で言うのもなんだが、この私が手ずから遊びのない普通に食えるもんを作ったとあれば、外面からも価値が生まれる。
だが先生は、それだけではいけないと宣う。
……つまるところ、大量生産大量配布のチョコレートに加え、私が『先生』にしたみたくプラスアルファはないのか。『先生』はそう言いたいんだ。
しかも、よりにもよってトレーナー相手に。
つくづく最初に話を逸したことが裏目に出た。トレーナーにバレンタインデーの贈り物をしたのかと問われたとき素直にしたとだけ答えてりゃ追撃されずに済んだものを、やらかしもやらかし、下手を打った。
眼下、艶やかに咲き誇る薔薇を睨みつける。いつ何時外食の気分になってもいいように手持ちには余裕を持たせてあった。ふらっとゲーセンに寄りたくなる日もあるだろ。
心の一つや二つ偽りゃいい。『宿題』だとか言ったけど、きっと先生はこちらが話を振らない限りは進捗報告を求めない。あの人はそういう人だ。私のことを上手に煽ってくるけれど、けしてそこに執拗さはない。 - 11(11/37)24/03/09(土) 20:30:46
そして。
必要とあらば──どんなに私がそんな素振りを見せないようにしていても、どういうことか私の背を押してくる。
なんやかんやと否定材料を連ねちゃいるが、私の視線は一輪ラッピングの薔薇をなぞるように彷徨ってしまってるんだ。
赤、白、黄色、ピンクにオレンジ。
すみれみたいな紫に花言葉が変質した青。変わり種のチョコレートブラウン。
ああ、つまりはそういうことなんだよ。
大層腹立たしいことにさ。 - 12(12/37)24/03/09(土) 20:31:00
***
花は褒めて育てろとはよく言ったもの。
かすかな変化も見逃さずちょっとしたことでも讃え喝采をあげる。クラシック音楽を聴かせるのもいいらしいな。この部屋じゃシリウスのイヤホンからの音漏れか先生に勧められた歌劇の動画を視聴する時くらいが関の山だが、寮の部屋の窓辺で育てているすみれの花は毎年ご機嫌な花を咲かせている。最もその効果のほどは知らないが。
さておき、薔薇の花だ。
どうにも堪えきれず完全に鹿毛耳を寝かせレジカウンターに足を運んだウマ娘に、作業台でミニブーケを作っていたらしい店員はわずかに目を見開いた。
怯えられても仕方がないくらい殺気立ってたってのに。どうやら相手は接客の強者だったらしい。
自分で言うのもなんだがここまで不機嫌を顕にした客がやってきたらどんなクレームをつけられるのかと狼狽えられたって何らおかしかなかったってのに。
ま、駅ビルの花屋だ。人の往来が激しければおかしな客がご機嫌ようすることだってなくはないだろう。
『薔薇をお買上げの方に、こちらのリーフレットもお渡ししているんです。よければどうぞ』
接客のプロがあくまでにこやかに差し出した小さな紙片はブルゾンのポケットに。花の健やかな咲き姿にはいかにも悪そうな機嫌がそれでも和らいだのは、一輪の薔薇を手に足早に寮へ戻ってきたあたり。
私もウマ娘といえばウマ娘。常歩程度であっても走ればモヤつきはそれなりに昇華されるんだろう。 - 13(13/37)24/03/09(土) 20:31:13
好奇心旺盛なのだとかお節介なのだとかに見咎められたら面倒だったから速やかに廊下を進み、疾風の如く自室に戻る。
全く今日という日にシリウスの野郎に外出の用事があって良かった。柄にもなく安堵して、他人に贈ったわりに部屋に用意のない花瓶がわりに空っぽのジュース瓶を取り出して。
改めて落ちるのは深い溜息だ。
茜色差し込む一人の部屋。どうしたもんか、なんて、独りごちる私が一番聞きたいよ。どうしてくれるんだよ、この薔薇。
これが、先生から私に課された『宿題』。
『花を買って帰るの。そうね、薔薇がいいわ!』──だった。
勿論買うだけには留まらない。わざわざラッピングされた一輪を選んできた以上は、自分用のはずもない。私の部屋の花は春先に咲くすみれの花だけで充分だったし、ときたまシリウスが誰ぞから花束を貰ってくることもあるが、切り花を飾る趣味なんてそもそもないからな。
それじゃあこの一輪の薔薇の行く先は?
『それでね、トレーナーさんに贈るの。簡単でしょう?』
それが簡単だったら今頃私は早風呂でもして夕食待ちしてるが?
今年のバレンタインデーに私が用意したのは、コイン型のチョコレートだった。大量生産出来るよう、モールド──コインを模した抜き型を二種発注して、ミルクとビターと味を変えたそれを四枚ずつ、末広がりの計八枚。
それを、世話になったメンツ全員に、平等に。先生宛は体調を考慮して別にした。ラッピングに凝ることはしなかったが、却ってそれが手作り感を助長していた気もする。
ちなみに、別に驚かせたりする意図はないがシリウスのデスクの上にも置いておいた。最もお嬢様のお口に合うかは存じ上げないがね。
そう、先生の推測どおりさ。私はトレーナーへのバレンタインデーも、『特別』な手心なんて加えずに、これで終わらせる気でいたんだ。 - 14(14/37)24/03/09(土) 20:31:29
そもそもさ。
一昨年。シニア一年目の二月。
悪夢のせいで眠れない眠りが浅いでバレンタインデーどころの話じゃなかったし。
去年。凱旋門賞のために渡欧準備に明け暮れていた二月。
ま、それどころじゃなかったわな。
そして、凱旋門賞への挑戦も終わり、腰を落ち着けることのできた今年。
本日、バレンタインデー。
正直なところ、これまでバレンタインデーなんて意識、してこなかった。贈り物を贈り合うことすら、私たちの間には存在しなかった。勝負を元に奢り奢られはあったがな。でもそれは立場の問題とかじゃなく──私はそんな『特別』を求めなかったし、アイツもそんな『特別』を求めなかった。
必要ないと言い切るのは語弊があるが、なくたって私たちは成り立っていた。つかず離れずの良い塩梅で。
それでいいと思っていたし、それで良しとしたかった。私が私として生きていくための『相棒』として一生手放す気はなかったし、向こうも離れていくとは思ってないが──最近、どうも雲行きが怪しい。
トレーナーがおかしいんじゃない。
おかしいのは私だ。
恐らく兆候自体はあったんだろうさ。凱旋門賞に挑むまでの私たちは『それどころじゃなかった』のが実情なんだから。けれどその挑戦を最高の結果で完遂して、帰国して、あちこちお礼参りに足を運んで、ジャパンカップに出走したり有馬記念に乗り込んでみたりして──慌ただしくしつつ、ふとした瞬間、自覚しちまったんだよ。
言うなれば恋煩い、みたいなものを。
わけもなく心臓が騒ぎ出すことがある。
ついその姿を探してしまう。
なんとなく距離感が縮まって、無意識に尻尾を絡めかけてしまう。
驚愕したよ。私が? トレーナーに? でも有り得ないと即答出来なかったのが、明明白白、疑いの余地を私から奪ってしまった。
だからといって、何が変わるわけじゃない。だって私たちは、担当トレーナーと担当ウマ娘だぜ? 過ごした時間の長さと培った情の深さが担当トレーナーと担当ウマ娘を恋仲にさせることがあると聞いたことがあったが、お盛んなことでくらいの感想を抱いたことしかなかったし。
完全に他人事。どうやら仕事が恋人らしい大人のトレーナーが、こんな小娘に懸想するなんざ思ってもないから、自分ごとにもなりゃしない。 - 15(15/37)24/03/09(土) 20:31:43
これは流行りの風邪みたいなもの、と、結論づけたのは自覚のタイミングから三日ほど。この気持ちにどんなレッテルがつくのかは考えないようにする。確かに心臓は鼓動を刻むさ。掌に嫌な汗もかく。バカみたいの思考回路でサイアクな気分にすら陥ることだってある。
でもそれは、私が制御できない恋愛感情が勝手に始めようとしている勝負で、勝負なんてのは己の意思において遂行されなきゃ意味がない。私の求めるそれじゃない。
何かを求めてしまえば……『特別な』な手心なんて加えちまったら最後、文脈が発生するだろ? トレーナーが気づく気づかないは別として。今は気づかなかったとしても、いつか気づいてしまうかもしれない。
あのクソ真面目なトレーナーのことだ。
今の適切で適度な距離感は、きっとぶっ壊れてしまう。
守りに入るどころか日和倒す私は、ちっとも勝負師の顔をしていない。
恋情に平常心を奪われ煩わされて、冷静さを失う様を晒してしまいそうになる私は、乾いた笑いすらでないくらい無様で……そんな私を、私自身はどうにも許せない。
それでもさ。
それとなく渡す人数の中に入れちまった。んで、沢山作ったからと投げてきて。
……それだけでも、私の中じゃ途方もなく『特別』だったんだぜ? これがデッドラインの折衷案。
それなのに?
さらに花を届けろだなんて。こちとら丁寧に丁寧に否定して日常を取り戻そうと四苦八苦してるってのに、先生は簡単にその盆をひっくり返そうとする。覆水盆に返らねぇことぐらい知ってるくせして。
……それでも買ってきてしまったのは。
いつもありがとうと感謝するなら別にわざわざバレンタインデーじゃなくてもいいだろとは思った上で、買ってきちまったのはて……誰でもない私なんだが。
『大丈夫、あなたならできるわ、フェスタ』
別れ際、春を待つ花の蕾みたく少しずつ柔らかくなってきている先生の両手の温もりを思い出す。こちとら褒めりゃ調子付くタイプじゃないんだぞ。そのエールの裏に何があるかなんて……、……わかってんだよ。なんにもないことくらい。
気分良くさせて操ってやろうとか、上手く動かしてやろうとか、そういうことを思ってないことくらい。
……わかってんだよ。 - 16(16/37)24/03/09(土) 20:31:58
***
どんな抵抗をしたとしても、私の目の前にはジュース瓶から水を吸い上げ凛と咲き誇る薔薇の花がある。
きっちり手を入れれば明日も明後日も明々後日も、この机の上で咲き続けてくれることだろう。すみれの香りを嗅ぎ慣れちまえば薔薇の芳香なんて気にならない。別に嫌いなわけでもないし。
シリウスに揶揄されたくなけりゃ談話室にでも置いてくればいいし、世話になったローレルに贈るのも有りだ。……それはそれでからかわれる気もするが。あのお嬢さんはお嬢さんでやたら察しがいいからな。
無駄な時間だと思う。ああしようこうしようと浮かぶのに、そのための一歩を踏み出さない。ああ、いっそ買って帰らなければ? バカ言うな。……ああしようこうしようと浮かんでいた癖に、その中で選択出来た結果が、コレだったのを忘れたか?
私の雁字搦めの心の中から偽らざる情を取り出せば、きっとこんな薔薇のかたちになるんだろうな。かといってこんな鮮やかで美しいものだなんて、口が裂けても言えないが。
のろのろとブルゾンのポケットの中に入れていたスマートフォンを取り出した。ディスプレイに表示されている通知は天気予報を知らせている。明日にかけてぐっと冷え込むらしく、そうなればさすがにこの部屋に暖房をつけずにいるのは難儀しそうだ。夜半にはシリウスも帰ってくるだろうし。
まだ夜の帳が下がりはじめるまでほんの少し、躊躇うくらいの余裕はあるだろう。
けれどどう足掻いた所で私の目の前には凛と咲き誇る薔薇がある。先延ばしにすればするほど花は萎れ、この花にとっての二度とない舞台をみすみす逃してしまうこととなる。
頭を振る。バレンタインデーは愛だの恋だのだけのために存在する日じゃない。
これは勝負だ。
恋愛感情に起因し制御困難になりつつある私と、トレーナーとの距離感を適切に保ちたい私の、手加減無用の真剣勝負。
この薔薇は渡しに行く。けれど情に煩わされなければ私の勝ち。そして、負けの目は絶対に有り得ない、鋼の意志でこの大一番を制すれば、あるいは── - 17(17/37)24/03/09(土) 20:32:13
気合一つ、LANEを立ち上げる。
トレーナー、今どこにいる。どうしても暇なら少しだけ時間を寄越せ。
まだどこか逃げようとしてんな。そんな文面を綴り考え直そうと全消ししたところで。
『ナカヤマ、今、時間ある? 夕食始まってるかな?』
そんなメッセージがトーク画面にポップアップして、私は鋭く息を呑み込んだ。
『飯まだ』
『じゃあ夜ご飯奢るよ。少し出かけない?』
『五分でそっち行く』
『そんなに急がなくても大丈夫だよ! 校門の前で待ち合わせよう。暖かくしてきてね』
ぽん、と、可愛らしいスタンプが飛んでくる。マフラーつけてあったかそうな二頭身のファンシーなキャラクター。アイツの趣味かと言われたらそうでもなくて、フランクに接することができる場だからこその、愛嬌あるチョイス。
対する私は顔文字やら絵文字やらスタンプやらはほとんど使わない。無味無臭の業務連絡めいた返事にすら、トレーナーは顔文字絵文字スタンプを駆使してくる。
どんなに私の返信がそっけなくたって。既読スルーをかますことがあったって。
薄い胸の奥の奥に、なにかがじわりとにじみ出すのを感じる。
それは、私を少しずつ侵食する恋情と呼ばれるものだ。そして、私をどんどん私じゃなくしていく。遅行性で、とびきりの劇薬。
『相棒』の一挙一動に、ささやかな仕草に、言葉に心が乱される。無意識のそれを良しとなんて、したくなかったのに。
バチバチに掛かり倒した即レスなんてしやがって。本当にバカじゃねぇの?!
メッセージに対してたまに友人だとか先生だと相手に使う『わかった』のスタンプを投げて、長く、長く息をついた。まるで日が落ちれば落ちるほど細く伸びる影みたく、肺の中の空気を絞り出す。
それから、LANEのトークルームを移動して。
『勝負してくる』
今日の待ち合わせ前に交わしたささやかな遣り取りのあとにそう綴った。先生のことだ。もし見ていたとしても何が反応することはないだろう。例えば頑張れ、だとかの応援がさして私の背を押すわけじゃないことを知っているから。 - 18(18/37)24/03/09(土) 20:32:26
ブルゾンはそのまま、クローゼットから大判のマフラーを取り出した。一輪の薔薇は迷った挙句、デカめのボディバッグに突っ込んだ。
あんま荷物を持ち歩くのは好きじゃないんだが、剥き出しで持ち運ぶのは心許ない。
そうして部屋を飛び出して、誰にも捕まってなるものかと足早に廊下を進む。
マフラーの下、ブルゾンの下、パーカーの下、心臓がばくばくと踊り出していた。ドキドキ、なんて可愛らしい音を立ててくれないのはいつものこと。
これは勝負──トレーナーに薔薇を渡す。いつもの私らしく、平然とした顔をして、勝負を挑む。
そう、言い聞かせて。少しかさついた唇をきゅっと引き結んだ。
寮食堂から漂ってくる昆布出汁の香りに後ろ髪を引かれることなく、寮の冷えきった硝子戸を押し開けた。紫を帯びてきた夕空を見上げる。
あからさまに駆け出しそうになる脚には溜めの指令を下す。おいこら疾駆けしようとすんじゃねぇよ。勝負は始まったばっかりなんだから。 - 19(19/37)24/03/09(土) 20:32:39
***
『チョコレートって、恋の媚薬なんだって』
楽しいイタズラでも見つけたように、桜の花咲く瞳が細まる。
数日前、都心のとある輸入専門インテリアショップにてそんなことを言い出したのは、先生宛のフラワーベースを紹介してくれたサクラローレルだった。
そもそもその紹介も奴さんの父親の伝手か何か。さらには休養日にも関わらずわざわざ同行してしてくれた手前、雑な対応が出来るほど礼を失しちゃいないさ。
もっとも──このくらいのお年頃のお嬢さんが好きな恋だの愛だの本命だの義理だのといった会話にゃてんで乗り気になれない。考えりゃ誰かさんの顔が過るし、そのせいで無駄に心臓を打ち鳴らしてしまう。目の前にいねぇのに振り回されるのが腹立たしいなんて憚りもあった。
確か私はレギュレーション違反も何もねぇな、なんて当たり障りのない返答をしたっけか。
だいたいさ、この手の話に花を添えられるような乙女でも少女でもなく、そもそもそんな柄じゃあないだろう?
かといって相手はそこそこに口の回るローレルだ。隙を見せれば一発でドカン。店頭にて購入したフラワーベースが梱包されるまでの数分は程々に茶を濁す。
フェニルエチルアミン、だっけか。
とにかくそういう成分が『恋愛』によく効くらしい。そのフェニルなんたらはチョコレートにも含まれていて、それもあってバレンタインデーには途轍もない効果を発揮するんだとか。
別にそれを知ったからって、なにがどうなるわけでもない。そもそもチョコレートにそんな効力があるのだとしたら、意中の相手に毎日のように十円チョコでも貢げばいい話。眉唾ものも眉唾もの。信じるものは救われるかもしれないが。
私には関係ない。……少なくとも愛だの恋だのにおいては、関わりを持つのは控えたい。
だって、私には不釣り合いだろ?
この私が。博打狂いのヒリつきたがりが、いっちょ前に恋だの愛だのなんて。ちゃんちゃらおかしいにも程がある。
だからこそ私はトレーナーへ向ける『特別』を遠ざけてしまいたかった。
惑わされて、空騒ぎして、これまでとの勝手の違いに狼狽えて。恋に恋する乙女じゃねぇんだから。 - 20(20/37)24/03/09(土) 20:32:54
それなのに。
心臓がヒリつくみたいに打つかわりに、ワルツでもキメるみたく踊っている。上機嫌に、朗らかに。
鎮まれと命じて鎮まるようなもんじゃないから私の表情はまた険しく濁ってしまう。
五分ぴったしで出てきてやった校門前には往来を行き来するクルマだのトレーニングを終えて下校する生徒などがちらほらと。もう三十分もしないうちに日は暮れるだろうが、グラウンドを照らすまばゆいスタンドライトも稼働を始めているから、まだまだ根を詰める奴らもいるはずだ。
ロードワーク帰りの生徒とすれ違うのは若干の居た堪れなさが浮かぶ。こちとら校門前にいるにも関わらす制服でもジャージでもなく私服だからな。
鼻先を冷たい夕風が撫でる。とてつもなくそわついて、尻尾は所在なく揺れているばかり。
ボディバッグの中の一輪がおかしなことになっていないか確認して、息をついて、視線を泳がせて、ちらりとこちらを一瞥して去っていく帰り支度の生徒たちからは不自然にならないように目を逸らし。
手袋を持ってくりゃ良かっただなんて思ったところで後の祭りで、両手をブルゾンのポケットに突っ込んだ。
かさり、と、手に何かが触れる。それが花屋で貰ったリーフレットだということを思い出した。薔薇を買った客に配布しているんだっけか。
とにかく手持ち無沙汰で、かといってスマホで暇を潰せるほど心は暇を持て余しているわけでもなく、かじかむ指先でそれを取り出した。
A3のコピー用紙が四つ折りにしてあるいかにも手製のリーフレットの表紙には、可愛らしい手書き文字で『薔薇の花の本数別意味』と記載されている。
ああ、そういや薔薇の花だけは渡す渡される本数によって花言葉の意味が変わってくるんだったか。
花を育てることにゃ慣れてるがそこに込められた願いだとか想いにはてんで疎い。必要とあれば調査はするが──今日のはほぼ衝動買いのようなもの。
薔薇とバレンタインデーの関わりだとかいうコラムに目を通し、本数による意味紹介のくだりに差し掛かったところで。
緩やかなブレーキ音。断続的なエンジンの震えに顔を上げる。 - 21(21/37)24/03/09(土) 20:33:10
***
「ナカヤマ、お待たせ!」
パワーウインドウが下がりきれば、見知った、見慣れた顔が覗く。教官連中も匙を投げ気味だった悪たれウマ娘の手綱を握り御してみせた稀代のじゃしゃウマ馴らしは、常から穏やかな風貌をしている。一見すりゃ私の相棒だとは思えないくらい。
ドアを開け出てきたその出で立ちにぎょっとする間もなく、恐らく社用車だろうセダンの後部ドアを開き手招きする様は、……控えめに言えば尻尾くらいブラッシングしてくるべきたったかと思わざるを得なかった。
「さあ乗って。とっておきのディナーを予約したんだ!」
……そこからは、あっという間で。
私の内心の混乱をよそにトレーナーに手を引かれるまま、後部座席に押し込まれた。行くとも行かないとも言う前に……いや行くっつったから待ってたわけだが。それはそれとして状況を理解する時間くらいはくれたっていいんじゃねぇの?
助手席には何かの荷物が置かれていたが、それはそれとして後部座席に導かれたことにどうしようもない居心地の悪さを覚える。そういう気遣いなんて私にゃ不要だろ。大切にされる気配があると尻が痒くなってしかたない。
あれよあれよという間に目的地に到着し。
あれよあれよという間に予約席に通されて。
トレーナーの……まばゆく壮麗なシャンデリアの下にあっても然程違和感のないしゃんとした身なりに見合った、ちょっとしたコース料理の数々に立ち向かい。
厳格なドレスコードまではなさそうな、かろうじてカジュアルなレストランらしかったが、いつものニット帽、脱いだブルゾンの下はパーカーなんつうのは些かラフすぎやしなかったか? 場違いなんて言葉は好きじゃねぇが格式を疎かにして恥を晒すのは正直御免被るところ。
……もっとも美味いものに対しての私の意思は薄弱で、あきらか舌鼓を打てる料理を前にして味を感じないだとか喉を通らないだとかはいうことはなかったが。 - 22(22/37)24/03/09(土) 20:33:25
会話は……あんま覚えてない。多少特別なシチュエーションではあるが他愛もないことばっかり喋っていた気がする。最高の状態で凱旋門賞への挑戦を終えて、これからの参戦レースをどうするかとか。
別に敢えてこんな場所でしなくたってトレーナー室でも充分で、なおかつ何度か遣り取りした内容の焼き直し。確認作業。
虫の居所が悪けりゃ同じ話を何度もする必要があるか? なんて呆れるところだったが、どうしたって会話が途切れるのを良しとすることができなかった。
これ美味いな、とか。
これ気に入った、とか。
そういうストレートな物言いをレストランの雰囲気に合わせて装飾して、装飾しきれなくてこらえきれずに吹き出したりさ。
つかシリウスやらサトノやらルビーじゃねぇんだぞ。こんな場でうまく立ち回れると思うのか?
螺鈿みたいなチョコレート細工の乗ったデザートまでぺろりと平らげて、傅くみたく懇切丁寧なウェイター連中に見送られて、トレーナーと私はまた車内のヒトとウマ娘になる。
もうすっかり日なんて暮れて、オレンジの欠片すら太陽の余韻すら残っていない。小さく吐息すれば、夜の車窓がほんのり白く染まる。
トレーナーはまだ私をどこかに連れ回すつもりらしい。
で? 次はどこに付き合わせるおつもりで?
そんないかにも付き合ってやってるみたいな言い草。いつもの私みたいな不遜な物言いをしようとして、やめた。
寮の門限までにゃ時間はあるが、聞いてしまえばこの時間に終わりが見えてしまう。
思考は偽れど気持ちを偽ることが難しいことくらい、とうに知っていたはずなのに。
どんなに見ないフリをしようとも、走り出せば止まれないんだ。脚であろうとなかろうと。
気持ちはけして、止まってくれやしないんだ。 - 23(23/37)24/03/09(土) 20:33:36
***
私も大概何かに影響されやすい自覚はあるが、似た者同士なのかどうなのか、私のトレーナーもまたそういう面がある。
「ナカヤマ、はい、お手をどうぞ」
「フジみたくサマになるにゃまだ鍛錬が足りてないな?」
「……気づいた? ふふ、相変わらず手厳しいなぁ」
エスコートなんてされるよりする方のことが多い。それでも歌劇の娘役みたいに楚々とやれればいいものを、それをするには私の羞恥心が許してはくれなかった。
それでもまあ、形だけでも手を取って後部座席からクルマを降りる。結局どこへ行くのか聞かなかったし、聞けないままだった。私たちの移動は大体電車であったり飛行機であったり学園が出してくれるマイクロバスで、クルマで移動することなんて滅多にないからな。あるとしても昼間で、夜の時間帯に差し掛かったことは記憶にない。
それもあってか車内で会話が交わされることはほとんどなく──急に呼びつけられて、値段が比較的張りそうなレストランで腹を満たして人心地、私の頭はようやく冷静さを取り戻せていた。
先程まで借りていた手は自然に離れ、指先の温もりは簡単に散った。「行こう」と促されトレーナーの半歩ほど後ろを歩き出す。府中からはそこそこ距離のある商業施設だ。駐車場を離れれば離れるほど視界に光が、行き交う人が増えていく。それが最高潮になったのは、ガレリア──まあつまりは場に相応しい洗練された店がいくつも立ち並ぶアーケードだな、そこに差し掛かったあたりだった。
まるで昼間みたいな光量は、ひとの表情をあらわにする。ちらりと視線を動かしてトレーナーの表情を窺う……、ああ、本当にさコイツ……ブラフがヘタクソなんだよなァ。 - 24(24/37)24/03/09(土) 20:33:49
人やBGMで賑わう通りを少し進んだところ。見えてきたそれに、さすがの私も僅かながらに瞳を見開くこととなった。
幅の広い通路の真ん中に設えられた、大きなオブジェ。ガレリアを行き来する客の目線を奪うそれは、日中のような光量に照らされているにも関わらず、幾多の、色とりどりの光の粒を宿す。所謂イルミネーション。しかしただのイルミネーションとワケが違うのは、ベースにあるのが様々な花の集まりだということだ。
それこそ薔薇。昼間の花屋で見かけた春の花々から、この時期に花開くクリスマスローズ。立体感を与えているのは紅梅や桜の枝で、むせかえるような香りが鼻をつつく。
「……すげぇな」
なんて零したのは無意識だ。なんつうか、唖然とした。花を育てるのは嫌いじゃない。ただ別に、花じたいそこまで好きなわけじゃない。それこそニシノフラワーだとかエアグルーヴだとかみたく花を愛でる趣味はなく、健やかに咲いてくれたらそれでいい。そこにあるのは美しいものを摂取するというよりも命を育てる達成感なんだろう。
豪華絢爛、花盛り。鮮やかな春。まさに冬が少しずつ遠のき始めるこのタイミングに相応しい、春の象徴。
『只今より三分間、ガレリアの消灯を行います。お足許にお気をつけ頂き、特設オブジェをご覧ください──』
「すぐ戻るから、待っていて」
肩に触れられてかけられた言葉と、高いガラス天井からアナウンスが降ってきたのはほぼ同時。引き止める間もなく踵を返し駆け出すトレーナーを見遣るもアナウンス通り、昼間のようだった往来が一気に暗くなる。
けど、完全に闇に沈んじまわないのは、あくまで消灯されたのが通りだからだ。左右に軒を連ねる営業中の店の灯りはそのまんま。
それでも──トレーナーの背中を見失うのに充分で。
それでも──イルミネーションが描く光陰に目を奪われるのに充分で。 - 25(25/37)24/03/09(土) 20:34:02
綺麗だ、と、思う。
ここにいるのは私だけじゃないからな。足を止めたひとびとが声を上げ、楽しげに囁く。手にしたスマートフォンを掲げて、束の間の花と光のコラボレーションを記録に残す。
ちかちかと、きらきらと、またたく。
きれいだ。とても。美しさを感じ取れない程、感受性が枯れてるわけじゃないからな。花と光が、光と花が、きれいで──。
ぽつんとオブジェの前に立ち尽くして、ぼんやりと脳裏に浮かんだのは、夕食の値段のことだ。厚意を無下にするわけじゃないが……例えば上手い話に対して簡単にノれるかよ、と勝負の一つや二つ仕掛けなかったのは、全く私らしくなかったのではないか、とか。
誘ってきたのは向こうだが、冷静に考えりゃ『奢らせる』にゃ些か高値すぎなかっただろうか、とか。
アイツ、なんのために私に飯を奢ったんだろう。そんで、こんなとこまで連れてきたクセに……どうして今、隣にいないんだろうな、とか。
勝負だと気を張ってたのに、意志薄弱にも途切れてしまっている、とか。
三分なんてのはあっという間だよな。私の菊花賞のタイムが三分五秒ちょいだったから、まあそのくらい。先行勢ほど先行でもないが中段の前目を走る。追走する。ペースを読み間違えたと気づいても後の祭り。力を振り絞って、もう、凌ぎ切るのみで。
あっという間なのに、随分と長い時間そこにいたような気がしたのは、どうしてなんだろう。 - 26(26/37)24/03/09(土) 20:34:15
次の消灯時間が十五分後であることをアナウンスが告げて、ガレリア内を再び眩い光が満たす。ロマンティックなオブジェを楽しむために足を止めていたひとびとが、通りの空気を動かし始める。なんとなく身動きするのが躊躇われたとは言え、オブジェのドセンをたった一人で占領し続けたのはよくなかったかもしれないな。……二人なら良かった、ってわけじゃないんだろうけど。
さて、すぐに戻るとは言っていたものの、すぐってのは具体的にどれほどのタイムを指すのだろう。ステイヤーズステークスだって四分もかかんねぇんじゃなかったか? バカ正直な奴だから便所なら便所と言うんだろうが。
囁くようようだったが、何かを堪えるような声音だった。便意をかい? ……違うだろう。ブラフがヘタクソな、どこかそわついて緊張した横顔を思い出す。
色とりどりの花群から視線を落とせば、前に下げたボディバッグが見えた。すっかり失念しきっていたが、そもそも呼び出しに応じたのはこの中にある一輪の薔薇を押し付けるためだ。
たった一輪。されど一輪。
自分用のついでに買った安眠用チョコレートを渡した一昨年。
完全に失念していてなあなあになってしまった去年。
ひそやかに、素知らぬ振りをして、渡すメンツの中に混ぜたのに──結局特別であることを伝えざるを得なくなった、今年。
ぺたんと後ろに寝かけていた私の鹿毛耳が、近づいてくる足音を捉えた。走り慣れてない、不安定な歩様。
「ナカヤマ! おまたせ!」
息せき切って、トレーナーが帰ってくる。声を上擦らせ、私の名を呼ぶものだから。
私はゆっくり振り返る。
時間はゆっくり動き出す。 - 27(27/37)24/03/09(土) 20:34:29
***
不機嫌も最高潮とばかりに耳を寝かせて、苛立ちを隠すことも出来ず尻尾を振り回していたのは、他人への怒りなんかじゃなかった。
分別のつかないような子どもじゃないんだ。いつまでも腹立たしさを飼っていたところで、毒にも薬にもなりゃしない。高揚しやすく冷静さが吹き飛びやすいレースと同じで、折り合いはつけなきゃならない。誰に言われたとかじゃなく、矜持のために。
今日、一日中、ずっと堪えきれずにいた感情があった。
さすがにモノに当たりはしなかったし、人に当たることもなかっただろう。……花屋の店員の内心を推し量ることは出来ないが、息災であれと思う。悪いとは思ってるよ、悪いとは。
冷静であれ。俯瞰しろ。感情の奔流を発露するタイミングを間違えるな。警戒しろ。隙を見せるな。心も、身体も手中に収めろ。
行きあたりばったりじゃ勝負なんて出来ない。逆上せたアタマじゃ機運を見ることも、ここぞというタイミングを掴むことすら不可能だ。
少なくとも勝負においては冷静沈着、泰然自若、なににも動じず、まるで岩のように。肩の力を抜いてゆるりと構えていたい。いつトップスピードで駆け出してもいいように。 - 28(28/37)24/03/09(土) 20:34:43
バレンタインデー。
幾多の甘味と情でひしめくお祭り騒ぎ。
私から冷静さを奪い、私を柄にもなくおかしくさせる、狂気の宴。
恋だとか、愛だとか、そういうものに煩わされて、乱されて、まるで私が私じゃないようなそんな心地にさせる──ああ、そうさ、諸悪の根源。
振り返った先、私のトレーナーは、やっぱり緊張した面持ちのままだった。両腕を後ろ手に、こほん、と改まったような咳払い。深呼吸。そして、意を決したみたいに、口火を切る。
「これを君に、渡したくて」
相変わらず私たちはガレリアのオブジェのどセンター。オブジェがあるからこそ往来の流れを絶つことはなかったが、場所が場所だから、まァ目立つわな。
実際にちらちらと視線を感じる気がするのは自意識過剰の賜物か。羞恥心がそうさせるのかはわからない。
それらに怯むことなく──もしかしたらそれどころじゃないのかもしれないが──トレーナーは背に隠していたなにかを取り出した。
フランス国旗みたいなトリコロールリボン。透明セロファン、ラッピングペーパー。葉物とフィラーフラワーに包まれるようにして。
取り出されたのは薔薇の花束だ。
「……は?」
自分でもどうかと思うくらい怪訝な声が出た。かろうじて細く、薄く、意思表示にはならない素の反応がぽろりと溢れた。
夕飯後、それでも平常心を取り戻してから、トレーナーがやけにソワつきはじめたのには気づいていたさ。それこそガレリアに訪れて、こいつの緊張感がわかりやすく伝わってきたからな。
何かを隠してるだろうことは明白で、それがけして悪いことではなく、ただの『奢り』にしてはとっておきのメシの延長線上にあるだろうことは察していた。
で、さっきまでの私は、花と光のオブジェがそれに当たると思ってたんだ。門限の方が近い時間帯、薄暗い裏路地にいるならともかく、光に溢れるガレリアになんて自分から足を運ぶことなんてないし。興味が沸かないわけじゃねぇが、わざわざ行くほどのこともない。
じゃあその意図は?
さも安価な回転寿司でも奢るみたいな誘い方をして騙し討ちをしかけてきた意図がなんなのか考えたとき、思い至ったのは──バレンタインデー。 - 29(29/37)24/03/09(土) 20:34:55
私が微動だにしないからだろう。
トレーナーは目に見えてあせあせだのあわあわだの散らしながら焦りだす。
「あ、えぇと、つまり……昼間、チョコレートを貰ったじゃない」
「そうだな」
「美味しかったし、嬉しかったから」
「全部食ったのか?」
「つ、つい」
「暴食かよ」
「末広がりの八枚だったよね? そんな意味を込めてくれたのが嬉しくて」
んなこと一言だって伝えてねぇってのに、アンタはなんで気づくんだよ。
じわり、と、胸の奥が熱くなった気がする。
また侵食がはじまる。じわり、じわりと、意に沿わない情が、生まれている。
ああ、クソッタレ。湯を沸かしてんじゃねぇんだぞ。喉が詰まって、息をするのを忘れそうになる。感情が、心が、あふれそうになる。
動じるな。勝負だって言ったじゃないか。最後まで、せめて表面上だけでもいつもの私でいろと。たじろぐな。血迷うな。眉一つ動かすな。
──臆するなよ。
「えっと、だからさ。嬉しくて、つい。ホワイトデーまで待つのが礼儀かなと思ったんだけど、なんだかいてもたってもいられなくなってしまって。……受け取ってはもらえない、かな?」
一歩、踏み込まれて、差し出される。人の良い相貌。眉を下げちゃいるがその瞳は真剣だ。
そっと受け取ると、奴はあからさまに安堵のため息をつく。ここまで来といて日和ってんじゃねぇよ、とか、そのくらい言ってやれればいつもの私だったんだろうけど。
むせ返るような芳香。形の揃った花姿。ぱっと目を引くようなオレンジとピンク、それから赤の薔薇。助手席を陣取ってたのはこいつで、けして温かな夜ではなかったにも関わらず車内で暖房がつけられてなかったのもこいつが原因だ。──私だってシリウスがいないのをいいことに部屋の暖房つけなかったし。切り花ってのは、熱に然程強くない。 - 30(30/37)24/03/09(土) 20:35:09
ひいふうみい、と、薔薇の本数を数える。
「薔薇、……八本なんだな」
「うん。君からもらったチョコレートと同じだし、『あなたの思い遣りに感謝します』って意味になるんだよ」
「花屋の入れ知恵かい?」
「ご名答。本当にお見通しだなぁ」
トレーナーは照れたように後ろ頭を掻いている。人の気も知らないで。私が贈ったのは、友人たちや世話になった奴らと変わりのない八枚ぽっちのチョコレートだぜ? 溶かして固めただけのような手は抜かなかったが、それでも──いてもたってもいられなくなったとか、三倍どころの話じゃない返しをするもんじゃねぇだろ。
人の気も知らないで。
普通の反応でよかったのに、想定以上に喜びやがって。
まるで『特別』なものを贈ったみたいな受け取り方、してんじゃねぇよ。
……人の気も、知らないでさ。 - 31(31/37)24/03/09(土) 20:35:22
「アンタってさ」
「うん?」
「なんつうか、抜けてるとこあるよな」
「えっ?!」
思いも寄らないみたいな声が上がった。急に罵られりゃそうもなるか。と言っても悪意はない。
だってさ、考えてもみろよ。
私たちは変わらず花と光のオブジェ前。このガレリアに訪れた誰もが一度は目を奪われる光と絢爛の芸術。おそらくはこのために宣伝も打ってあるだろうな。詳しくは知らないが有名な作家の手によるものじゃないか?
対するはラッピングされた八本の薔薇の花束。
はっきり言えば多勢に無勢にも程がある。順番逆じゃね?
それでも、それでもだ。
トレーナーはさ、美味しい飯を食わせて、私をここに連れてきて、薔薇の花束を渡したら、喜ぶだろうって思ったんだよ。
私が先生へのフラワーベースを、郵送じゃなくて直接手渡ししたみたいに。喜んだ顔が見られるんじゃないかって。──見たかったんじゃないかって。 - 32(32/37)24/03/09(土) 20:35:35
それなのに、それなのにだ。
受け取った花束に顔を寄せる。私の表情筋は上手に動いちゃくれない。未だ抵抗を続けている。恋情に振り回されるな。いつもの私らしくあれ。なぁトレーナー、仕方ねぇからこれに見合うよう今年の春も走ってやるよ。距離は長いが春天でもどうだい? いや、その前に大阪杯に緊急参戦でもして春三冠を賭場にしてやるのも良さそうだ。きっと楽しい時間になる。全く、私にゃ薔薇なんて似合わないのに、豪勢なことしやがって。確かに歩数にはそんな意味があるだろうがな、こんな日に、薔薇の花束を渡すなんて、……相手を考えろ、相手をよ。
……ああ。
サトノみたいに、ローレルみたいに、笑えればいいのに。嬉しいんだと、心が震えているのだと、素直に、愛らしく。
そう、まるで、美しく花が咲くみたいに。
「……10本……」
ぽつり、と、トレーナーが呟く。
「……? 何がだよ」
「君の両頬も、薔薇みたいだなって、思ったんだ」
──綺麗だね。
ささやくように。ぼんやりと。まるで夢見心地かなにかのように。
トレーナーは瞳を細め、私を見つめている。 - 33(33/37)24/03/09(土) 20:35:50
***
たとえば八本の薔薇に『あなたの思い遣りに感謝します』という気持ちが託されているように。
10本の薔薇も意味を持つ。そういうのがざっくりと、昼間の花屋に貰ったリーフレット『薔薇の花の本数別意味』に記載されていた。
でもこの体たらくじゃ、私に10本の薔薇は見合わない。
──あふれこぼれるだけでは留まらず、間欠泉みたく迸った感情は正直なところ私の顔色を変えるのに充分すぎた。
この目の前の……人の気も知らない、自分がとんでもないことを言ったなんて露にも思っていないらしいこのクソボケは何をトチ狂ったのかはっと鋭く息を呑む。
「ご、ごめん!」
「は?」
「寒かったよね、頬、真っ赤だし!」
……なぁ。
何がどうなりゃそんなセリフが飛び出すんだよ。一周回って愕然だぜ、これは。
だってさ、コイツ……『特別』なものを返した自覚がないんだよ。
考えてみろ。
相棒となって今年で五年目に突入するが、私たちの関係性は相変わらず指導者とその生徒だ。私はコイツへの恋情と戦いついぞ勝つことは出来なかったが、コイツは違う。
とっておきのディナーも。
アフターファイブのイルミネーションデートまがいも。
傍目から見りゃ意味が生まれてるなんて、どうやら思いもしてない。
思いもしてないからいてもたったもいられないとか言いつつ実行に移せるんだ。恥ずかしげもなくな!!
んで、私の頬がトレーナー曰くの薔薇みたいに赤いのは、ただ寒いせいだと言い切るんだ。
挙げ句の果てに。 - 34(34/37)24/03/09(土) 20:36:04
「本当にごめん! あ、暖取っていいよ、手冷たくはないから」
「……ッ!」
「あれ? 冷たくない」
あれ? じゃねぇよバカ野郎。
私の両頬を両手で包もうとするのはトチ狂うどころか血迷うにも程があるじゃねぇか!
この鈍感。ボケナス。頬が冷たくない理由がよくわからないみたいなすっとぼけた表情してんじゃねぇ。暖かくして来いって言ったのはアンタだろうが。
気づきやがれ。この阿呆みたいな心臓の音に。アンタがしでかしたとんでもない無欲の攻勢にこちとら立ってるだけでやっとなんだよ。いややっぱ気づくな。気づいてくれるな。
私にゃ恋なんて似合わない。
バレンタインデーに影響されて、流行り風にかかったようなもんなんだ。そのうち落ち着く。恋なんて激情は腹の足しにもならない。なんてことのない私たちが壊れてしまう。
だから私は『特別』を遠ざける。それを良しとする。恋情に打ち勝って、私が私らしくいられるように。トレーナーがトレーナーでいられるように。
でも、まぁ、無意識なんつう本能に近いそれに勝とうなんざ土台無理な話で。
じゃあこの勝負は恋情に敵わなかった私の負けなのか──よく考えろ、私の一輪の薔薇は、まだ渡されてない。
勝負はまだ、始まっちゃいない。 - 35(35/37)24/03/09(土) 20:36:17
『大丈夫、あなたならできるわ、フェスタ』
先生のエールが耳の奥に甦る。
できるって何がだい? 薔薇を渡すことができる? 勝負に勝つことができる? それとも。
私が新たなステージに踏み出す先生にエールを送ったように、私なら、私らしく変わっていける、と。
そう、想いを込めたんだろうか。
頭を振ると「ごめん!」と声が上がった。さっきからごめんごめんと騒がしい奴だ。冷たくはなかったが別に温くもなかったトレーナーの両手がぱっと離れていく。
私の手指は冷たかったからさっき手を取られたときは温かったが、紅潮してる頬はそうでもないからな。さすがに寒いんじゃなくて顔が赤くなっているせいだと気づいたかと思ったが……この期に及んでこりゃ意識の外だな。
まあいい。それでいい。それがいい。今は、その方がいい。
「トレーナー、持っとけ」
「え、あ、うん」
返す、とかいらない、とか言ってんじゃねぇんだからキョドんなよ。八本の薔薇の花束を押し返し、ボディバッグを開けた。
取り出すのは一輪の薔薇。
私の気持ちを形にした、『特別』な一輪。 - 36(36/37)24/03/09(土) 20:36:30
「花束返せ」
「あ、え、うん」
「これをアンタにやる」
「……薔薇?」
「薔薇か薔薇じゃないかと言われたら薔薇じゃねぇの?」
なぁんで「そうだよ」の一言すら素直に言えねぇんだろうな?
八本の薔薇に比べりゃ、んでもって目の前にあるオブジェに比べりゃ貧相な一本かもしれねぇけど、一輪売りされているっつうことはそれなりに存在感がある花姿という証左でもある。
「アンタには世話になりっばなしなんだ。チョコレートだけで済ますのは誠実じゃない、と、……思ってさ」
「そんな。チョコレートだけでも充分だったのに」
「私が納得いかなかった。そんだけだ。……ま、今日の借りをこれだけで済ますだなんて思っちゃいないから、安心しろ」
ホワイトデーにゃ三倍返しだったか? 価値観の違う貸し借りなんて出来ればしたくないからな。なんてつくづく可愛げのない言葉ばかりを並べてしまう。
私はさ、アンタのことが好きなんだ。
担当トレーナーとしての親愛とはまた違う、ここまで共に走り抜けてきた信頼ともまた違う。きっと、心を焦がして、恋をしている。
けど、まだそれは言わない。「じゃあ、有難く頂こうかな、ありがとう」なんて照れたように一輪を受け取るのを見遣り、ほっとした心は隠すけど、──そういうのを否定して抵抗するのはもうやめだ。
勝負をするんなら、コンディションを絶好調に。相手関係や距離やバ場どんなに自分にとって優位なレースだって、追い切りがクソなら本番だって見込めない。……いや希にいるらしいけどな、そういう奴も。
なら私は、恋をする私を認めてやんなきゃ、スタート地点に立てやしない。自分同士でケンカして折り合い欠いて掛かり散らして本来の力の半分も出せなきゃ、やりたい勝負なんて出来やしねぇし。
それを理解できたからだろう。あれだけ雁字搦めだった心はすっきりとしていて、爽快感すらあるかもしれない。
思わず吐息を溢すと、トレーナーと目があった。 - 37(37/37)24/03/09(土) 20:36:43
「ナカヤマ、これ、トレーナー室に飾ってもいいかな」
「……アンタのもんだからお好きにどうぞ。私は世話、しねぇからな」
「勿論! ……枯れてしまうまで、大事にするよ」
「……ならついでにこっちも、トレーナー室で世話してくれ。……持って帰ってもいいが、あれこれ邪推されるのが鬱陶しいし」
まだ私の両頬は、トレーナー曰くの薔薇みたいだっただろうか。さっき渡した一輪を奪い返して──十一本。……別に返せともやっぱやらねぇとも言ったわけじゃないんだからそんな悲しそうな顔すんなって。
腕の中にまとめて、花束たちを抱きしめる。
今日の勝負は私の勝ち。
そしてこれからまた、勝負がはじまる。
このニブチンのボケナスを、私の卒業までにどうにかしてやる。勿論、いまある距離感はそのままの方向で。落ち着き払ったこの心臓で、攻めて攻めて、ぐうの音も出ないくらいに攻めきって。
担当トレーナーと担当ウマ娘じゃなくなったその暁に、最後の勝負をしかけよう。
『只今より三分間、ガレリアの消灯を行います。お足許にお気をつけ頂き、特設オブジェをご覧ください──』
降ってくるアナウンスにトレーナーが顔を上げる。
「これ見てから帰ろうぜ」
抱える薔薇の花束のように。目の前のオブジェのように、まだ、アンタの傍らで美しく花開くことはできないけどさ。
少しずつ、少しずつ。
変えていく。変わっていく。
私は。私たちは、光に満ちる春へ、近づいていく
ゆっくりと。ゆっくりと。 - 38二次元好きの匿名さん24/03/09(土) 20:37:40
おしまい。
ここまで読んで下さった方が万が一いらっしゃいましたら感謝を。
ありがとうございました! - 39二次元好きの匿名さん24/03/09(土) 20:40:08
薔薇の花1本
「あなたしかいない」
薔薇の花8本
「あなたの思いやりに感謝します」
薔薇の花10本
「あなたは完璧な人」
薔薇の花11本
「最愛」
薔薇の贈り物(ローズギフト)だったり薔薇色の頬(ロージーチークス)だったりお祭り騒ぎ(バルドリア)だったり - 40二次元好きの匿名さん24/03/09(土) 20:41:08
(1/37)で二度見した
今から読むけどとりあえず頑張ったな!お疲れ様だ - 41二次元好きの匿名さん24/03/09(土) 20:49:25
産駒の名前要素をこっそり混ぜ込んでるの好き
- 42二次元好きの匿名さん24/03/09(土) 21:19:39
すっごい大作…読んでる間こっちまでドキドキしてした
制作お疲れ様です、そして素晴らしい作品ありがとうございます - 43いち◆xn7VzWEhyM24/03/09(土) 22:38:45
- 44二次元好きの匿名さん24/03/09(土) 22:39:45
読んだ!すごかった(語彙)
内心で自分とケンカしまくってるのとやっぱり先生に頭上がらないの好き
バラの本数が8+2+1で11になるのすごい。
>……それだけでも、私の中じゃ途方もなく『特別』だったんだぜ?
ここすき。
- 45二次元好きの匿名さん24/03/09(土) 23:24:45
先生といる時のナカヤマも勝負仕掛けに行ったナカヤマも違ったかわいさでとても良かった
きゅんきゅんする
あとトレーナーも大概バグり散らかしてるのすき
これで担当としか思ってないならにぶにぶすぎる - 46二次元好きの匿名さん24/03/10(日) 04:23:42
個人的にナカヤマはたくさんの人との関わりやそこから生まれた想いを人一倍大切にしている子だと感じており、本作品からもそんなナカヤマの優しさや愛情が溢れんばかりに感じられて愛おしい気持ちで満たされました。
そして薔薇の本数で変わる花言葉を絡めていたりと端々に散りばめられた描写が最高にロマンチックで、その甘さに好き………としか言葉が出てこなくなりました……好きです……
本当に素敵な作品をありがとうございました…!! - 47二次元好きの匿名さん24/03/10(日) 10:10:36
夕方くらいにまた来ます
一度保守させてください! - 48いち◆xn7VzWEhyM24/03/10(日) 19:45:07
お読みいただきありがとうございます!
ちなみにもう1本薔薇を足すと「結婚してください」になりますね……
気が向いたらこのネタで続きみたいなのを書いてみたいところです!
お読みいただきありがとうございます!
先生パートのナカヤマはめちゃくちゃ可愛く書けてたと思いますし、トレパートのナカヤマも可愛くなれと念じながら書いてたのでそう言って頂けて幸い……!
お読みいただきありがとうございます!
そうなんです! ナカヤマは周囲のいろんなひとたちに助けられているなという印象が強くて……もともとお話を書く際も、トレとナカヤマ1:1のお話ではなく、名前だけでも存在だけでも周辺の子達を出そうという気持ちで書いているので、なにかそのあたり伝わっていたら嬉しいなと思います!
- 49いち◆xn7VzWEhyM24/03/10(日) 23:27:06【トレウマ/SS】1.5ハロンのヒルクライマー|あにまん掲示板※注意※・トレーナー性別不問(♂寄りかも)のトレウマ・可愛げのあるナカヤマはいないが最後の最後若干少女漫画っぽくなるbbs.animanch.com
前回
最近ナカヤマ書きさんが増えてきたのでそろそろ自分の需要もなくなってきたかなと思いつつ近いうちにお会い出来たら〜
お読み頂きありがとうございました!