Velvet Motel [SS]

  • 1124/03/18(月) 20:04:40

    「雨、ですか」

    ある夜だった。
    窓を眺めて、一つため息。景色を映し出すスクリーンは、少しの時間しか白濁することを許さなかった。
    叩きつけるような豪雨ではなく、舞うような霧雨でもなく。遠くに見える街のネオンがよく映えるくらいの雨。しとしとという擬音がよく似合う。
    その景色に溺れるように、虚空を見つめながら、私はただ揺蕩っていた。
    午後7時。その日は、所謂熱帯夜というやつで、少しくらいは雨が降ってほしいと、大半の人は思っていたんだろう。
    まあ、そういう言い回しをするということは、言わずもがなで。私としては、憂鬱なことこの上ない。そんな理由があるのである。

  • 2124/03/18(月) 20:05:17

    「暇を潰すのはいいんですけど……持て余すのは、よくありませんね」

    人員と物資の遅れ、付随する作戦の遅れから、虎丸と共に現在モーテルに駐屯中。それはいい。私にやらせろと言ったのに、無理やりに計画を立案したバカ議長にはいい薬だろう。
    問題は、駐屯命令が出てもう3日も経っていること。そして、何も"できない"ことである。
    サボり検定一級資格者として、これは我慢ならないことだ。しないとできないには、ヒトとゾウリムシくらいの明確な違いがある。仕事、重圧、責務、その他諸々の一切を投げ捨て、快楽を貪り食うことが尊いのであって、受動的に湧いた時間、それを無為のままに過ぎるのを待つというのは、全くもって違うものだ。人はそれを『退屈』と呼ぶ。
    持ち込んだ本もゲームも、もちろんお菓子も、全て消費した。外を出歩こうにも、生憎の天気。睡眠も摂り尽くした。もうそろそろ、外の景色にも飽きるだろう。
    私は久しぶりに、結構困っていた。議長に無茶振りをされるより、はるかに。

  • 3124/03/18(月) 20:06:09

    「どうしましょうか……ね」

    机に突っ伏す。
    思案を巡らせる顔をしながら、しかし私が思い出していたのは、たった一人の顔だった。
    ……話は変わるが、このキヴォトスには、所謂便利屋のような組織があるそうだ。(『ような』とつくのは、その名称を冠する毒にも薬にもならない別団体が存在するからである)

    曰く、超法規的組織であり、
    曰く、解決できなかった事件はなく、
    曰く、新任の責任者の手腕が光るのだとか。

    「はぁ……」

    もう一度だけ、ため息を吐く。それは、雨の中に呼び出す、ほんの少しの罪悪感であり、

  • 4124/03/18(月) 20:06:35

    「──もしもし、『先生』?」

    「今からこっちに来て下さい。えぇ、急用です。なるはやで」
    「場所?ええと、確か……」

    「──『Velvet Motel』」

    窓に映る、自分の口角を見ての感想であった。


    携帯電話を耳から離して、1分足らずの通話履歴を、ぼうっと見つめる。
    それは誰もが、私さえもが思うように、全くもって意味のない行為。だというのに、
    私は、画面に自分の顔が映るまで、ちっとも動く気になれなかった。

    ホントに、いいニヤケ面だ。

  • 5124/03/18(月) 20:06:59

    不思議な関係と言えた。
    出会いは覚えていない。例えば、パンを咥えて走る私と、曲がり角で……なんて、運命的なモノでなかったのは確かである。そもそも私は朝走らないし、それくらいなら堂々と遅刻する。
    きっと、社交辞令みたいな、面白味のない、ひどくぶっきらぼうな挨拶だったんだろう。
    多分私なら、そうしたはずだ。

    よく話すようになったきっかけは、まだかろうじて覚えている。万魔殿からの任務で、確か……「シャーレの懐柔」だったような。
    もう本当に、本当にめんどくさい仕事が回ってきたと思ったものだ。戦車長にやらせるなと、愚痴でも吐きたくなる。
    懐柔そのものは初めてじゃなかったけれど、人間の男性相手となると、まぁあるわけもなく。それでいて、優秀なウチの諜報部からの実績だけ耳にするものだから、やりづらいことこの上ない。せめて極悪非道とかなら、まだやりやすかったけど。

    ……そう、最初は、ちゃんと遂行する予定だった。自分で言うのもなんだが、この私が、である。
    理由は主に2つ。戦略的有用性が分かりきっていたし、少し、興味もあったから。
    だから、最初に計画を全て喋ってしまったのも、シャーレに入り浸っていたのも、実は本当に、計画の内だったのだ。

    『だった』、のだ。

  • 6124/03/18(月) 20:07:30

    固定電話が鳴る。1コールの内に、受話器を手に取った。びくっと反応した身体を、誰に見られている訳でもないのに、誤魔化すかのよう。

    「もしもし」
    『こちらロビーです。106号室にお泊まりの、棗イロハ様で間違いないでしょうか』
    「はい。あー……もしかして、『知り合いを名乗る不審な男性』とかですか?」
    『不審、ということはないんですけど……概ねそういうことです。心当たりが?』
    「ええ、それはもう。今すぐ向かいますね」

    私はそう言うと、返事も待たずに電話を置いた。
    それをなんだか認めたくなくて、立ち上がった勢いとは裏腹に、ロビーまではゆっくりのんびり、歩いていくことにした。
    聞こえてくる音は雨と靴だけ。その落ち着きようは、どこかニヒルに、私を非難しているようだった。
    ……そう。私って、意地が悪いんです、結構。

  • 7124/03/18(月) 20:08:06

    ロビーにいる件の彼には、思ったより早かったなというのが率直な感想だった。この広いキヴォトスのことだから、来れない場所にいたっておかしくないのに、まさか1時間かそこらで来るとは思わなかった。
    彼も私を見つけたようで、荷物を床に置いて座ったまま、ぷらぷらと手を振っている。
    切り出したのは、彼からだった。

    「どう見ても、急用には思えないよ」

    嫌な影一つ残さず、彼は微笑む。からかうようなその仕草が、なんだか印象的だった。

    「いえ、急用ですよ。暇で暇で死にそうだったので」
    「世の中には、忙殺とは全く縁のない死に方をする人もいるものなんだね」
    「さぁ、どうなんでしょう。私の辞書にその言葉があったかどうか……」
    「イロハの辞書、サ行のところに大きな付箋が見えるよ」
    「ああ、やっぱり見えます?殆ど開きっぱなしなので、あんまり意味はないんですけど」

    こんな軽口でさえ、どこか居心地がいい。ああ言えばこう言うの権化たる私にとって、彼は不足のない相手であり、叫べば返ってくる山彦のようでもあった。
    ロビーの受付の方をチラリと見て、「知らない人ではない」とアピールしながら、私は彼に呼びかける。

  • 8124/03/18(月) 20:08:42

    「いつまで座っているつもりですか。折角迎えに来たんです。出張秘密基地への招待切符、もちろん受け取ってくれますよね?」

    私は手を差し出す。
    それは例えばダンスの誘い。

    ふふっと、笑みをこぼしながら、
    或いは、シンデレラ嬢の手を取るように。
    彼は私の手を取った。

    「うん。それじゃあ、招待されちゃおっかな」

    ゆっくりと立ち上がる姿は、悪く言えば緩慢で、別の言い方をするなら、それは数分前の鏡写し。
    小さな苦笑の後、目を背けるように、私は歩き始めた。

  • 9124/03/18(月) 20:09:44

    「……先生、わかってたんじゃないですか?」

    横を歩く彼に問いかける。顔は見ずに、呆れたトーンで。

    「それはまた突然、なにを」
    「何回同じ手に引っかかってるんですかって話ですよ。学ばないですねー」

    用件も伝えずに呼び寄せているというのに、よくもまあほいほいと来れるものだ。しかも一度と言わず、二度と言わず、それはもう数えきれないほど。不用心さに、少し心配にまでなる。
    そんな心配は勿論顔に出さず、私は揶揄うような口調で言う。彼はむっとした顔で答えた。

    「失礼な、概ね見当は付いてたよ。多分遠征先か何かで暇になったんだろうなって。本当に急用だとしたら、イロハは簡潔に用件だけ書くだろうし」

    少し、驚いた。なんでもないかのように言ったその言葉は、中々どうして良いところを突いている。私をよくわかっているって、そーゆーことなんだろうけど。
    でもやっぱり、わからない。

    「……そこまでわかってて、どうして」

  • 10124/03/18(月) 20:10:19

    思わず問いかけて、彼の口が開きかけた時。

    ──あぁ、失敗した。と。
    バスケットボールを投げた瞬間に、外れることがわかってしまうような。
    なんとなく、そんな感覚があった。

    「万が一はあるからね。可能性は捨てきれない」
    「そもそも、生徒が困っていたら、助けてあげるのが」
    「『先生』だから」

    一言。それは、私自身、私の気持ちを測りかねるような。
    予感さえも、宙に浮いたまま、リングの手前で静止していた。
    でも、彼の言葉は、とても優しそうだったから。
    私は、あんまり気にしないことにした。

  • 11124/03/18(月) 20:10:45

    窓縁をなぞりながら、曇ったガラスの先を愛おしそうに見つめる彼。それを見る私。
    そこまで長くもない廊下には、途中に小さな掛け時計が一つ。
    時刻は午後8時。

    夜は長い。
    魔法が解けるには、まだまだ時間がかかりそうだ。

  • 12124/03/18(月) 20:11:25

    「はい、こちらが私の部屋です」

    廊下の端、木目の波たつドアー前。他のものと比べて重厚さを残しつつ、ややモダンな作り。
    男の人を安易に部屋にあげてしまっていいのだろうかと、一瞬だけ躊躇する。馬鹿ばかしいと一蹴。
    では、何か部屋に見られたくないものでもあったかと、さっきより少しだけ長く逡巡する。今更何を見られても別に……というのが、こちらの結論であった。
    結局、ドアノブに熱も伝わらないうちに、私はガチャリという音を聞くことになった。

    「おお、これは中々……」
    「いい部屋でしょう。私のお気に入りです」

    このモーテルは、通路の端がいわゆるハイクラスルームで、建物の構造的にも、若干広く設計されている。ベルベットの名を冠する看板に偽りは無く、溢れんばかりの高級感に、ちょっとした王様気分だった。

    「お気に入りって、何度か来てるの?」
    「ええ、この辺りに出張の時はよく使います。ウチのフロント企業なんで、ここ」
    「センスあるよ」
    「『万魔殿にしては珍しく』?」
    「──敵わないな……」

    彼は、降参とでも言いたげに眉を下げる。困ったようなその笑顔が、私は好きだった。なんというか、からかいようがあって。

  • 13124/03/18(月) 20:12:34

    「まあ適当に座ってください。お茶くらいは出しますよ」
    「ありがとう。それじゃあ、あのソファーでも使わせてもらおうかな」

    キッチンに向け足を進める。後ろから
    「うわ、すっごいふかふか!手触りいいなー」
    なんて、無邪気な声が聞こえてくる。
    まったく、子供じゃないんですから。
    そんなことを思いながら、私は電気ポッドをこぽこぽ鳴らす作業を終える。

    「イロハー、紅茶あるー?」

    柄もない、真白なコップに注ぎながら応える。

    「アールグレイでしょう?ありますよ」
    「流石だね」
    「いつも同じじゃないですか」
    「そういうイロハは、今日もコーヒーなの?」
    「ええ勿論。好きなので」

    カップで両手が塞がったまま、ソファーの元へと向かう。ありがと、と礼を言って、彼はそのうちの一つを手に取った。
    ティーパックとインスタントなのに、お互い変なこだわりもあるものだと、私は思った。

  • 14124/03/18(月) 20:13:18

    カップに口をつけ、しばしの沈黙の後、切り出したのは彼だった。

    「そういえば、退屈してるって言ってたよね。これ、持ってきたけどいる?」

    そう言って、彼は紙袋をがさがさと揺らす。先程から気になってはいた。軽い食事でも入っているのかと思ったけど、どうやら違うらしい。
    中を覗きこむ。
    ──ひとつため息を吐いて、言う。

    「先生、やっぱりわかってたんじゃないですか」

    入っていたのは幾つかの本。私の知らない本だし、後付に貸し出し用バーコードもないから、多分シャーレか彼自身の私物だろう。奥の方にはトランプとレンタルビデオが数本。間違いなくそれは、娯楽用品の山だった。

    「いやあ、一応ね。折角気づいたからには、持っていかないと損かなと。予想が当たって良かったよ」
    「……因みに仕事の進捗は?」
    「あんまり聞かないでほしいな。嫌になっちゃう」
    「方便が上手くなりましたね」
    「なにおぅ、これも仕事だよイロハ」

    ソファーにもたれながらそう言って、彼は頭を後ろに向ける。どんな顔をしているか定かじゃないが、大体検討はついた。
    きっと、悪い顔をしている。
    私みたいな顔を。

  • 15124/03/18(月) 20:15:17

    「それじゃあ、ポーカーでもしましょうか。何か賭けます?」

    すると、彼は顔を向けて、さっきの困ったような笑顔で言った。

    「だめだよイロハ。賭け事は先生として推奨できない」
    「……真面目なんですから」
    「まぁそう『遊びのない人』とでも言いたげな目で見ないでほしいな。私の考えは変わらないし、妥協策も考えてきたんだから」

    そう言うと彼は、袋の底から何かを取り出そうと手を突っ込んだ。

    「これ、チョコ。個包装で30個入ってるから、これを15個ずつにして奪い合おう」
    「賭け事じゃないですか」
    「いやあ、そもそも全部あげる予定だったんだけど、イロハが何か賭けたいって言うからさ。全部食べれなくて残念だったね」
    「……いいですよ。じゃあ、それでやりましょう」

    それはそれとして、今の発言には少しむっとした。そうでなくたって、彼の思い通りになるのがどうにも我慢ならない。

    ──だから、取り敢えず彼の資産を、少しだけ着服することにした。

  • 16124/03/18(月) 20:15:46

    数個手に取って、包装を破いて、彼が何か言うより先に、口に放り込む。
    「あ」なんて間抜けな声。そう。その顔が見たかった。私はいつもの顔で、多分彼にとっては見飽きた顔で、言った。

    「ハンデ、ごちそうさまです」

    彼も同じ。そろそろ私も見飽きてきた、あの顔で、あの言葉を言う。

    「──敵わないな。本当に」

    やっぱり、甘い。
    チョコレートの味を噛み締めながら、私はカードに手をつけた。
    一番下はハートのA。
    真っ赤なマークが印象的だった。

  • 17124/03/18(月) 20:16:25

    一つ、誤算があるとしたら。
    彼の敵わないという言葉も、
    私の甘いという言葉も、
    こと勝負においては、当てはまらなかったということだけである。

    「……ツーペア、9とジャック」
    「10とキングのツーペア。私の勝ちだね」

    ゆっくりだが、確実に手元から無くなっていくチョコレート。まるで溶けているかのよう。
    決して顔には出さないけれど、私ともあろうものが、結構焦っていたのは事実である。

    「意外でした。先生ってこういうの弱そうだなーと、高をくくっていたのに」
    「慢心は命取りだよ、イロハ。『獅子は兎を狩る時にも全力を尽くす』って言葉、辞書に書き足しておいて」
    「本当に兎なんて生優しいモノだったら良かったんですけど。象と真正面から戦うのは私の仕事じゃありませんよ」

    半ば諦め気味に、カットを始める。甘い匂いは何処かに消えて、窓の外の冷気が私の身体を撫でていた。

  • 18124/03/18(月) 20:17:08

    「雨、止みませんね」
    「というか、強くなってる? 風の音も結構聞こえるけど」
    「そう言えば、夜は嵐だとか言っていたような。夜半ごろには弱まるらしいですけど」
    「……はぁ、どうしよう。外は出れないよなあ……イロハ、テレビつけてもいい?」
    「ご自由に」

    画面の明るさと一緒に飛び込んできたのは、中継映像と、『外出はお控え下さい』の文字。風速がどうとか、風向きがどうとか。
    私がカードを配っている間に、彼は「うへー」と他人事のように言って、「帰れるかな、これ」と、私に振り返って問いかけた。すっごく薄目で。
    表情豊かで、飽きのこない人だ。

    「無理ですよ。というかやめて下さい。先生は人一倍危ないんですから」
    「だよねー……どうしようか」

    その響きが伝わる瞬間、ある考えが頭をよぎった。
    ──その時の私には、不思議な勇気があった気がする。もしくは、誰かに操られていたのか。わからないけれど。
    普段なら軽く抑え込むその衝動に、私は身を任せてしまった。

  • 19124/03/18(月) 20:17:34

    「じゃあ、泊まっていきますか?」
    「え」

    長年共に戦い抜いた舌は、こんな時でも、いつも通りの調子で動く。
    よくやってくれました、戦友。

    「言ったじゃないですか。もう3日も此処に捕まりっぱなしで退屈なんですよ。一夜くらいいいでしょう?」

    配り終えたカードで口元を隠しながら、さながら遊女のように、私は誘う。

    「いやあ、しかしねイロハ……先生と生徒がモーテルの一室で夜を共にするっていうのは、ひじょーに体裁が悪いんだよ」
    「ええ、わかってますよ」
    「だから、先生」

    彼からは私の口は見えない。私も勿論、自分の口なんて見えない。
    それがどれだけ歪んでいるのか、この場でわかる人はいないのだ。

    「ゲームをしましょう」

  • 20124/03/18(月) 20:18:20

    ────────
    胸躍る勝負は、お互い一言も話すことなく、沈黙のままに終了した。

    「──ヒヤヒヤしました」
    「フラッシュで負けるかぁ……完敗だね」

    結果だけ言えば、私は勝った。この土壇場でフラッシュとかいう豪運を引っ張ってきた先生を、更に上から、具体的にはフルハウスで叩きのめした。
    ここまで運がいいと、運命論とか信じたくなるものだろうが、残念ながらそんなロマンチックなものではない。
    だって私、イカサマしたから。

    「いやあ先生、運が悪かったですね」

    だから私、嘘は言っていない。私は自分の手札しか変えられなかったから、事実肝を冷やしたものだ。結局は単純な話で、彼は運がなくて、私は運という概念そのものがなかっただけ。

  • 21124/03/18(月) 20:19:26

    「さて、ここからは、貴方が約束を守るかという話になるわけですが……」
    「まあ、心配していませんよ。だって、先生ですから、ね?」

    罪悪感など、微塵も感じない。感じさせない。あくまで傲慢に、効くはずのない挑発を吐く。正確には、効かないというか意味がない。
    何故ならというのは、先に述べたとおりだ。

    「うん、イロハがいいなら私もいいよ」
    「『生徒』との約束だしね」

    彼は、『先生』だからである。

    「……ただ、あんまり言いふらさないでね。なんて言われるか分からない」
    「ええ、二人だけの秘密です」

    二人だけの、秘密。
    自分で放った言葉が、あんまりにも響きが良かったものだから、私は少し驚いた。
    好きなレコードに何度も針を落とすように、
    リフレインが止まらなかった。

  • 22124/03/18(月) 20:20:04

    『ぐぅー』

    ……割り込んでくる雑音一つ。そこで私は目を覚ます。

    「もしかして先生、夜ご飯まだですか?」
    「……いやぁ、恥ずかしい。ずっとシャーレに缶詰め状態でね。実のところ、救いの手を待ってたってわけさ」
    「良かったですね。リオさんからの連絡じゃなくて」
    「違いない」

    少しずつ、彼の懐柔は進行している。大分前に任された務めを、私は愚直に果たしている訳だ。

    「ふふっ、そうですね」

    だから、この微笑は、穏やかな笑みは、それ以上の意味は持たない。
    たとえ、彼以外の前で見せたことのない表情だとしても。

    「と言っても、ろくな食材もないので。カップラーメンで我慢して下さい」
    「えー、イロハの手料理食べたかったなぁ」
    「お湯を入れる手間を料理と言うなら、それくらいはやってあげますけど」
    「ちぇー……これじゃあシャーレの食事と何も変わらないじゃんね……」

    ぶつぶつ言いながら、彼はシーフードのカップを手に取って、ケトルに入った湯を注ぎ始める。律儀にタイマーを持ってきて、3分間計るみたいだ。妙なところでまめなのは、なんというか、印象そのままで面白かった。カップラーメン一つにも「いただきます」って声を出すところとか、特に。

  • 23124/03/18(月) 20:20:39

    「……私の食べてる姿見て楽しい?」
    「……いえ、別に。ぼーっとしてました」
    「ふぅん、珍しいね」

    私のことなどお構いなしと、彼はずるずる麺を啜る。よくもまぁ、そんなに美味しそうに食べられるものだ。本当に空腹だったんだろう。

    「じゃあ私、先にお風呂だけ済ませてきますね」
    「ん、ひっへらっひゃい」

    口に麺を挟んだまま彼は顔をあげる。それを横目に、美食研究会にでも推薦してあげようかなと、どこかズレた感想を抱いていた。

  • 24124/03/18(月) 20:21:07

    風呂場で考え事なんて、よくある典型の一つだけど、私もその例に漏れることはない。
    中間管理職というのは、悩みの尽きない役職だ。私もいつもなら、次の仕事を考えて、ため息の一つでも出るものである。
    ただ、今日は違った。

    洗面所に服を脱ぎ散らかして、さっさと風呂場のドアを開くのだけど、どこか変だ。
    風呂場独特の冷気が、今日は無い。
    シャワーのお湯は、なんだかぬるくて、釈然としない感じ。
    私の頭はそれこそ、ぬるま湯に浸かったみたいだった。
    かかる水も、手の中の石鹸も、濡れた髪の感触すら、何もかもが他人事のよう。
    変だとは思いつつも、変えようとは思わない。思えない。
    圧倒的な違和感が、心地良かった。
    鏡の中の誰かは、私の口を動かそうとしていて、

  • 25124/03/18(月) 20:23:04

    「ふしぎ」

    その時、私の口をついて出た言葉は、解決をたったの三文字で済ませてしまった。
    それは中々的確で、驚くほど都合の良い解釈。

    「──『There is a rose in Spanish Harlem……』」

    だって普段なら、私から鼻歌なんて、出るわけないのに。
    全くもって不思議なことだし、そこには確実に、不思議以上の何かがあった。
    ただ、変になってしまった私の頭では、「ぼーっとしてるなぁ」以上の感想は出ない。
    それだけのこと。

    ……そろそろ、あがろうか。

  • 26124/03/18(月) 20:23:25

    湯上がりにも、やっぱり寒気はなかった。少しでも気を緩めれば、ふわふわ浮いてしまうような、そんな感覚だけがあった。
    オーデコロンを体に馴染ませて、ラフな部屋着を見に纏う。頭に疑問符を浮かべたまま、私は洗面所を出る。

    ……出る。出るのだが、その前に一つ、一般論を話したい。
    心というものは、不安定で、一瞬一瞬揺れ動くものだ。
    それは、いままで考えていたことを、全て忘れ去ってしまうほどに。
    どういうことが言いたいかというと、つまり。

  • 27124/03/18(月) 20:23:51

    「い、イロハ。おかえり……」

    彼はこっちを見ると、少し驚いた顔。
    そして、少し頬を紅潮させて、目を逸らしながら、
    繕うように、言葉を並べた。

    私を包んでいた、ふわふわした何かはふっとんで、
    私の頭が、というより心が、
    急速に稼働してゆく。

    ──おやおや?
    おやおやおやおや?

    吊り上がる口角は止められず、
    彼の視線の先を追って、
    それが自分の体と認識した時には、
    既に私の『懐柔』は始まっていた。


    「どうしたんですか?」
    「顔、紅いですよ」

    ……はぁ。

    隙を見せたのが悪いんですよ?先生。

  • 28124/03/18(月) 20:24:19

    『……ちょっと、お風呂借りようかな』

    彼はそう言って、いそいそと脱衣所に行ってしまった。食べていたはずのカップラーメンは、残ったまま放置されている。箸も、少し乱雑に置かれていた。
    正直、まだ実感がない。

    『先生には、どんな誘惑も通用しない』
    そう結論付けてから、長い。
    先生はやっぱり大人で、一線というものをよく弁えていた。例えば、シャーレが一つの陣営に肩入れするとどうなるか。大事な会議をサボるとどうなるか。
    ──生徒に手を出すと、どうなるか。

    これできっぱり、白旗でもあげれば良かったんだろうけど。何故か私は諦めきれなかった訳である。
    それは多分、楽しかったから。彼との駆け引き、彼のリアクション、その結末が、どうにも私を飽きさせなかったから。
    だから柄にもなく、この関係が続けばと思っていたのだ。

    ただ、私は一つ、勘違いをしていたらしい。
    先生への誘惑は通用していなかったんじゃなくて、
    我慢していたんだ。おそらく、ずっと。

  • 29124/03/18(月) 20:24:50

    私のどこか奥の方から、熱が込み上がってくる。久しぶりの仕事に沸いているのだろうか。いや、私に限ってそんなことは。
    或いは──熱を今やっと、実感したのだろうか。
    シャワーからあがっていくらか経つのに、向こうが見えそうな薄着だと言うのに、身体は一向に冷えそうもなかった。

    長く息を吐いて、お気に入りのソファーに腰かける。もうすぐ彼は上がるだろう。きっとそう長くない。
    考えていることは、蠱惑だけ。ただ、『どうやって』がすっぽ抜けた、意味が空っぽの思考。
    この感情が『期待』という名前だとわかるのは、もう少し後のことだった。

  • 30124/03/18(月) 20:25:37

    ──そう、それは

    蒸気を纏った彼が
    備え付けの寝巻きを着流して
    私の前に出てくる
    少し後のこと

  • 31124/03/18(月) 20:26:08

    空っぽの脆弱な思考は崩れ落ちる。
    俯瞰する筈のいつもの視点は、
    今、強烈に『私』だった。
    五感の全てが彼を許さない。
    頭の中では、聞いたことのない、小さいような大きいような音が聞こえて……

    さっきの不思議な気持ちを、『浮かんでいる』と形容するなら、
    今の私は『とんでいた』。

    種族の差というものを思い知る。
    肉体派ではない私でさえ、彼をベッドへ押し倒すのに、2秒と掛からなかった。

    なんだか、カラダが硬い。
    聞こえるのは、心臓の鼓動、耳に通る血流。それと、互いの吐息だけ。
    汗が流れる。オーデコロンが鼻につく。
    シャワーを浴びた後だからなのか、先生の手はいつもより、柔らかく思えた。
    はだけた胸元は、ベッドシーツより白く見えた。
    自分における全てのリズムが、一瞬にして崩れていく感覚。
    繰り返されるのは恋愛感情。
    呼び起こされるのは性的衝動。
    不治の病に侵されて、そのままに、
    何もかもが気持ちよかった。

  • 32124/03/18(月) 20:26:34

    『今日くらい』
    『理性も』
    『立場も』
    『建前も』
    『何も考えず』
    『愛したって──』

    暴走していく意識の中。
    つぎはぎだらけの言葉を、
    心の中で言い切る前に、
    私は彼の顔を見た。
    彼は、

  • 33124/03/18(月) 20:26:52

    ──私の知らない、顔をしていた。

  • 34124/03/18(月) 20:27:28

    拒絶なのか、恐怖なのか、嫌悪なのか、断罪なのか。
    それとも、そもそも表情なんて無かったのか。
    或いは、私にはわからなかっただけなのか。
    彼の目は私を確かに捉えているのに、紅潮している頬に熱は無く、まるで風呂上がりとは思えなかった。
    彼の全ては、
    あまりに、虚ろだった。

  • 35124/03/18(月) 20:28:01

    ──ええ、まぁ、わかってましたよ。
    こんな可能性もありますよね。当たり前じゃないですか。
    だって私はまだ『お嬢さん』。
    そもそも、これでいける方がおかしいんです。ロリコンじゃないですか、それって。
    別に、いいんですよ。こんな方法じゃなくたって、シャーレの籠絡なんて幾らでもできます。
    完了する必要もないですしね。こんなに楽な仕事なんてないんですから。サボり放題だし、戦果がなくってもいいですし。
    今まで通り、適当でいいじゃないですか。

    だから、今日はもう寝ましょう。
    寝ましょう。お互いに忘れましょう。
    やめて下さい。口を動かさないで。
    わかってますから。
    これ以上は聞きたくない。
    私は嫌です。
    私は。

  • 36124/03/18(月) 20:28:43

    「──ダメだよイロハ」

    「こんなことしちゃ」


    嗜めるような、柔らかな語気。
    その言葉はまるで、
    『先生』のようだった。

    視界の端に映った、時計の針は0時を指している。
    私はやっと納得がいった。

    あぁ、魔法は、解けてしまったんですね。

  • 37124/03/18(月) 20:29:09

    「──なんて」

    私は立ち上がる。乱れた服を直して、息を大きく吸って、そして吐く。
    帽子を深く被って、どこか遠くを見つめてみる。
    カーテンが半分かかってる。電気の明度は2。開け放しの菓子袋と、隣には感度の悪いテレビのリモコン。
    視界はまったく広がって、
    そこはまったく、私の部屋なんかじゃなかった。

    「冗談ですよ。ついでですから、そのまま寝ちゃって下さい。私も眠くなってきました」

    欠伸は出ない。問答無用で電気を消す。
    部屋の中。知っているものは、このソファーだけだった。赤い、ベルベットのソファー。そこで横になる。
    彼は、何も言わなかった。食べかけのカップヌードルも半乾きの髪もそのままで、物音もせず、寝息もせず。死体が転がっているのと同じだった。

  • 38124/03/18(月) 20:29:37

    どれくらい経ったのか、わからない。
    体感時間すらマトモじゃなかった。
    多分、私が私を取り戻してすぐのこと。

    私は立ち上がった。思考が追いつく前に。
    足から先の感触はない。或いは実際に、足なんてなかったのかもしれない。
    私はまるで幽霊みたいに歩き出す。
    部屋のドアまで来て、そこを通り抜ける。
    ノブを回したかさえ、定かじゃない。
    フラッシュバックが止まらない。
    あやふやで、それでいてはっきりした映像。

    『貴重な休日を、一緒にだいなしにしたことがありましたね。夕方過ぎまで寝ちゃって、1日なーんにもしなかった日』
    『勝手にシャーレに上がってアイスを食べてたら、本気で怒られたこともありました。アイスが好きなの、意外でしたよ』
    『珍しく業務を手伝った時には、あなたと、セミナーの方々の仕事ぶりに驚きました。まぁ、その後にあなたの驚く顔も見れたので、仕返しはできたんじゃないでしょうか。私だって、真面目にやればあんなものですよ……』

    上映は続く。私の意思とは無関係に。
    映像は──病気は際限なく進行していく。
    妄想は部屋に捨てて、

    私は外に出た。
    嗚咽が漏れる前に。

  • 39124/03/18(月) 20:30:06

    廊下は何処までも続いて、
    暗がりに雨粒が光る。
    私はそれを知らない。
    夜はまっくら。

    力が抜けて、
    へたりこんで、
    声を殺して──


    「嘘でもいいから……っ、わらって、くださいよ……」


    そこにいたのはただの少女と、
    壁に傾く、風景画だけ。

  • 40124/03/18(月) 20:30:47

    続きはご飯食べたら書きこみます
    長くなって申し訳ない……

  • 41二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 20:33:33

    賞賛したいポイントがあまりに多いから幾つかに絞るんだけど、描写が上手いのは言うまでも無いとして

    >>11での作中時刻をちゃんと現実世界にリンクさせてる細かなこだわりとか、

    いつも生徒のことばかり考えている先生の口調がところどころ他生徒の口癖に汚染されてるところとかがすこ

  • 42二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 20:35:41

    >>22

    (重箱の隅をつつくようで申し訳ないがリオではなくリンでは?他に意図があったのなら申し訳ない)

  • 43二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 20:35:49

    俺30分も読んでたのか。没入感高いから5、6分に感じたわ

  • 44二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 20:42:15

    またやけに文が上手いイロハSSスレか、こんなんいくらあっても良いですからね

  • 45二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 21:16:51

    このレスは削除されています

  • 46二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 21:17:54

    先生は自分の色気を理解してないんすか? って書いたけどそんなことありえないよな……
    罪な人ね

  • 47124/03/18(月) 21:32:18

    しばらくして、脚は機能を取り戻した。冷え切ってしまったそれは、大理石の床をはっきりとは捉えず、引き摺るように、私を何処かへ連れて行く。
    雨音が、私を誘惑している。

    いつの間にか私は、中庭へ繋がるガラス戸の前に立っていた。嫌でも、向こうの景色が見える。
    暗いプールと、淡い蛍光灯。朧月夜の小雨は、腹の立つほど美しかった。
    吸い寄せられる──というより、弾き出されるように外へ出る。傘もささずに。
    私の服は、段々と濃くなっていく。
    私の体は、どんどん重くなっていく。
    倒れ込むように、プールへ身を投げた。

    気泡が昇っていく。それをなんの気持ちも抱かず、目で追う。目は閉じない。見上げても、人工的な光がゆらめいてるだけ。
    瞳から溢れる液体は、雨と、消毒済みの水と混ざって、どこへ行ったのか分からない。
    悲鳴が、カラダの中にこだましている。なのに、耳が捉えるのは静寂だけで、他には何もない。
    ナイトプールは、昔憧れたほどの物でもなく、ただただ寒かった。

  • 48124/03/18(月) 21:32:44

    先に取られなければ。
    求めさえすれば。
    私の気持ちをしっかりと、伝えられれば。
    彼は応えてくれると、そう思っていた。
    それは見事なまでに検討違いで。
    私は、あまりに楽観的だった。

    進行しきった不治の病が、私の判断を鈍らせたんでしょうか。
    愛しあえると思えたのは、一時の夢まぼろしだったんでしょうか。
    それじゃあ、そんなのはただの、

    『流行り病』じゃ──

  • 49124/03/18(月) 21:33:15

    わたしから、だいじなものが抜ける。
    どんどん、どんどん落ちていく。

    ──ああ、このまま、溺れてしまいたい。
    そしたら彼も、私の為に、
    泣いてくれるかな。

    ゆっくりと、水底に臥せながら、
    そんなことを考えていた。

  • 50124/03/18(月) 21:33:47

    目を閉じて、意識を手放す。
    遠くから、声がした。

    「……ハ……イロハ……!」

    水面が弾ける音。次いで、肌に伝わる感触。
    その全てを、私はよく知っていた。

    ──だめです。
    今の私に触れないで下さい。
    期待しちゃうじゃないですか。
    それだけで、まだ、あなたの隣にいてもいいんだって、
    勘違いしちゃうじゃないですか。

    目を開けると、そこは水上で、彼の胸の中、抱き上げられている私がいた。
    ずぶ濡れの彼は、安堵と心配の狭間にいる。
    感情は、私に向いている。間違いなく、私を見ている。
    それが嬉しいと感じられたのも、今は昔。
    『俯瞰』はいつしか、『不感』に変わってしまった。

  • 51124/03/18(月) 21:34:17

    私は肺に残った空気を垂れ流す。その流れは小さな呟きとなって、何処かに消えていく。

    「先生」

    彼は、崩れた顔をさらにくしゃっと歪ませて、私を抱きしめる。
    私にとっては、もはや意味のなくなった言葉なのに。

    寝起きだからなのか、プールに入っているからか、それとも大人だからなのか。そんなことはわからないけど。
    冷たい人だなと、そう感じた。

    プールサイドにあがる。
    小雨の下、水を滴らせて歩く二人を、蛍光灯だけが見ていた。

  • 52124/03/18(月) 21:34:45

    「風邪をひいちゃいけない」と、彼はいつものように言って、部屋へ戻るとすぐに、脱衣所に入れられた。
    おぼつかない足取りで浴室に入り、服を脱いでないことに気づいて、また扉を開ける。緩慢な動作で服を脱いで、今度こそシャワーを浴びる。
    浴槽はむせ返りそうなカビの匂いで立ち込めている。私は、それが彼の性の匂いならいいのにと、朧げに思う。
    流れる水は、刺すような痛みを伴って、私の皮膚を焼いていく。拒絶した筈の世界と、溶け合っていくよう。
    痛い。
    そう、痛かった。この部屋に戻った時から。空気に触れるのが苦痛で、息をするのも億劫だった。

    まるで、熱があるみたいだと、私は思う。
    でもそれは違う。
    だって、『それ』はついさっき、私が失ったものなのだから。

  • 53124/03/18(月) 21:35:33

    湯を止めた後、私はそのままでいた。
    冷える風呂場の中、私はそのままでいたかった。

    結局、風呂場からあがったのは、震え始めた頃だった。新しい寝巻きに腕を通す。身体の拭きが甘かったのか、少し服が濡れてしまった。
    気持ち悪い。

    いっそこのまま風邪でも引いて、あの人に怒られでもしようものなら、
    なんて、幸せなんだろう。

    そんな妄想が浮かんでは、雨の音に消されていく。
    「貴方が好き」という言葉さえ、紡がれることのないまま消えていく。

    今はもう、何もかもが不確かだけど、
    頭に残っているのは、
    半透明の彼だった。

    脱衣所を抜けて、妄想を現実と照合する。
    思ったより、彼の瞳は空っぽだった。

  • 54124/03/18(月) 21:36:17

    彼が風呂に入るまで私は一言も話さず、それはまた、彼も同じ。
    一人になった部屋で、私は彼の寝ていたベッドの上、寝転がる。ただ遠くを見つめる。その頭は空っぽだった。
    身体は寝返りをうったり、腕を投げ出したり、黄色と橙の中間のような色をする、間接照明を見つめたりする。それとは全く切り離されて、『私』はいる。もしくは、いない。
    眠ってしまえれば楽なんだろうけど、私にはできない。少なくとも、このシャワーの音が止まないうちは、せめて。

    私は、随分長いこと枕に顔を埋めていた。目一杯押し付けていた。
    息が苦しくなって、手が震え始めて、少し力を弱めたのち、
    ドアの開く音が聞こえた。
    足音はしない。先生はいつも、足音がない。

  • 55124/03/18(月) 21:36:42

    「イロハ」

    背中から呼びかけられる。私は返事も、体を動かすことすらしない。お構いなしに、彼は続ける。

    「今夜は、ソファーで寝るね」
    「おやすみ」

    その声は、不気味なほど優しかった。

  • 56124/03/18(月) 21:37:49

    目がちかちかする。真っ暗な筈の視界なのに、光とは違う、何かが私の目を焼いている。
    えづきそうになったのを我慢して、まるで何かに追われているかのように、私は身動き一つしない。
    ほんの少しでも気を抜くと、手と足と頭と胴体がそれぞれ、みんな何処かへ行ってしまいそうになる。
    強烈な嘔吐感は、
    きっと、酸欠のせいだろう。
    言葉が出ないのも、
    きっと、そうだろう。

    だから私は、上を向いた。
    浅く、それでいて遅い呼吸は変わらずに、このままだと、ベッドの上で溺死する。
    遠く、遥か遠くで聞こえる衣擦れは、私の首を優しく締める。
    まだ、苦しい。

  • 57124/03/18(月) 21:38:21

    いったいどうして、どこで間違ってしまったんだろうか。
    私は彼を求めただけ。求めようとしただけ。
    その代償に、彼は全てを持っていった。私の目線、私の欲望、私の心、その全て。
    賽銭を入れれば叶うという、神社がなんと有情か。
    三回唱えれば叶うという、流れ星がなんと有情か。
    魂と引き換えに三つも願いが叶うという、悪魔のなんと有情なことか。
    私は全てを引き換えにしても、結局のところその願いには、
    届かなかったのだから。

    夢遊病患者のように、或いは墓から蘇る死者のように、私は立ち上がる。
    部屋の外と、私の中のノイズはそれぞれ、ざーっと、砂嵐みたい。

    返して欲しい。願いが叶わなかったのなら、心を、あなたを、わたしを。

  • 58124/03/18(月) 21:39:01

    「……せめて、ソファーくらいは」

    私はソファーの僅かな隙間に、倒れるように寝転がった。

  • 59124/03/18(月) 21:39:34

    「──狭いよ、イロハ。落ちちゃってもいいの?」

    いくら大きなソファーと言っても、人が二人も寝転がれるようには設計されていない。必然、身体は密着し、顔も身長差があるとはいえ、幾分近くなる。それでも私の顔は彼の胸辺りにしかなく、身長のないことを本気で後悔する。涙に濡れ、乱れきったこの顔すら、今は彼に見てほしかった。

    彼の気遣いからか回された腕は、私の予想通りではあったものの、期待通りではなかった。私が落ちないよう、支えるようなその手のひらは、『優しさ』以外に何もなかった。
    お風呂から上がって間もないからか、彼の匂いを強く感じる。
    触れる肢体と肢体は、二人の温度を交換している。
    ──今までは、これで満足だったのに。

  • 60124/03/18(月) 21:40:21

    「先生」

    私は、私たちの関係は変わってしまった。

    「やっぱり、だめ?」

    でも、手を伸ばさずにはいられない。

    「イロハ」

    たとえそれが、

  • 61124/03/18(月) 21:40:45

    「──きっと私より、いい人がいるさ」


    届かないものであろうとも。

  • 62124/03/18(月) 21:41:19

    ──ああ、先生。
    私はいつまで、『フロイライン』なの?

  • 63124/03/18(月) 21:42:00

    深夜0時半刻過ぎ。
    ソファーの上、女と男が一つずつ。
    外と内。
    主人と客人。
    生徒と教師。
    そして何より、子供と大人。

    泣いてる女と、泣けない男が、一つずつ。

    二人きりの部屋。最愛の人の腕の中で抱かれているのに。
    今夜はどこまでも、一人だ。

    夜は更けてゆく。
    涙を流した感覚も、眠りに落ちた感覚もないまま、私の身体は、時を重ねていた。

  • 64124/03/18(月) 21:42:43

    ────────

    ……最初に目に入ったのは、ソファーの背もたれだった。
    足を動かせば、私の上には掛け布団があるらしく、立ち上がれば、ソファーの側にクッションがしきつめてあるみたいだった。
    ……隣には、誰もいなかった。

    喉が渇いたから、水を飲む。
    500mlのペットボトルを一気に流し込む。
    咽せても、息ができなくても、お構いなしに。

  • 65124/03/18(月) 21:43:08

    誰かの笑顔、思い出、その輪郭。
    私はもう、思い出せない。

    差し込む朝日と、乱れたベッドシーツ、誰かの痕跡に塗れた部屋の中、私は呟く。

  • 66124/03/18(月) 21:43:28

    「──しごと、しなきゃ」

  • 67二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 21:49:15

    悲しいぜ!!
    先生xイロハは「ある」はずじゃないのか!!
    くそっキリノがやられた!!
    退却するぞ!!

  • 68124/03/18(月) 21:50:52

    完結です。
    まずは、こんなにも長い文章を読んで下さりありがとうございます……スレの1/4も使ってしまった……
    ブルアカにおける生徒と先生の関係って、強固であると同時に薄氷の上を歩いているような感じはするんですよね。それが割れた場合、どうなってしまうかという話でした。
    ちなみにタイトルは、大滝詠一の同名の曲からです。スレの残りは、イロハについて、先生と生徒の関係について、生徒とシナジーありそうな曲についてでもなんでも話して下さい!
    (感想もあったら嬉しいな!)

  • 69124/03/18(月) 21:51:47

    >>42

    これはその通りですね……申し訳ない

  • 70二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 21:52:39

    とてもいい助かるラスカル

  • 71二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 21:52:48

    豪華に飾り付けたような文体なのに不思議と全く読みづらくないのはさすがですね…
    うわあん!!悲しいお話なのに読み進める手が止まりません!!

  • 72二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 21:58:03

    全然本筋に関係ないけどプールに落っこちたイロハは髪が水吸ってめっちゃ重いだろうなとか思ってしまった

  • 73124/03/18(月) 22:07:55

    大滝詠一 Velvet Motel

    原曲です


    色々褒めてもらって嬉しい……

    みんな、イロハはいいぞ

  • 74二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 22:10:19

    >>73

    誰か一瞬A.R.O.N.A.に見えた俺を殴ってくれ

  • 75二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 22:21:53

    無料で読んでいいのですか!?お金を払っていないのですよ!!?

  • 76二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 22:39:48

    >>68

    イロハとか先生と生徒の関係とかをこのスレで>>1と並べられるほど高純度で語れる気がしない!!

    私は>>1にはなれない…!!

  • 77124/03/18(月) 22:53:30

    >>76

    聞かせてくれ……!頼む!

    新人先生だからまだ解像度が高くないんだ……!

  • 78二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 22:59:52

    昔からアリウスの誰か(アズサあたりな気もする)に合いそうな気がしてた曲なんだけど、

    曲に合う生徒を出すスレだとリオ会長って言われた。感覚の違いってやつだよね。


    コールドケース / wotaku feat. 可不(KAFU)


  • 79二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 23:37:11

    余りにもラスト一文が強すぎる。どんな顔で言ってたんだろうか

  • 80二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 23:37:57

    良いものを見た

  • 81二次元好きの匿名さん24/03/18(月) 23:43:18

    あまりに某欲毒が強すぎてこんな悲恋は思いつかなかったなぁ…
    読んでるとありありと情景が想像できるの文才が半端なさすぎる

  • 82二次元好きの匿名さん24/03/19(火) 01:22:02

    あにまん開いて泣く事になるなんて思わないじゃないか

  • 83二次元好きの匿名さん24/03/19(火) 13:12:04

    あにまんのオススメ欄ってたまにマジでいい仕事するよね。
    それはそうと自称新人先生でこれ書けるって何者なんだ…?

  • 84二次元好きの匿名さん24/03/19(火) 13:42:54

    すんげえ自己解釈なんだけど、イロハは先生のことを「自分の挑発に本気で乗ることはない」と分かってて揶揄ってる気はするんだよな
    だからこそムキになって落とそうとしてる感はあると思います
    しかしあにまんのイロハSS作者は文豪が多いな……

  • 85二次元好きの匿名さん24/03/20(水) 00:48:58

    >>84

    イロハの何が文豪達を引き寄せるのか…

オススメ

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