- 1二次元好きの匿名さん22/01/22(土) 22:09:22
- 2122/01/22(土) 22:09:55
【1】
浅草線のその電車は、定刻通りに押上方面へと出発した。
ガタンゴトンと揺れる車内は、乗車率は9割ほどといったところだろうか。通勤ラッシュほどではないが、それでもそれなりの乗客が乗り合わせている。 - 3122/01/22(土) 22:11:01
【2】
「グラス、大丈夫?辛くない?」
隣にいたトレーナーに心配されるグラスワンダー。彼女は普段の制服姿ではなく浴衣を着ていた。栗毛の艷やかな髪をハーフアップに纏め上げ、夕顔文様の浴衣を着込んだ、その姿はまさに大和撫子そのもの。
人混みに紛れないように、と繋いだトレーナーの手から伝わる温度が愛おしい。 - 4二次元好きの匿名さん22/01/22(土) 22:15:12
期待
- 5122/01/22(土) 22:15:42
【3】
「はい……なんとか」
少しだけ息苦しさを感じながら、しかしそれを表情には出さずに微笑む。人の波に揉まれほんの僅かに気分が悪くなったーーーと悟られまいと振る舞ったが、やはり誤魔化しきれなかったらしい。
そんな彼女を見てトレーナーは何かを考え込むように顎に手を当てたあと、ある提案をする。
「外の空気でも吸いに行く?」 - 6122/01/22(土) 22:19:36
【4】
「えっ……」
「ほら、せっかく花火を見に来たんだし、このままじゃ勿体無いでしょ?」
普段なら我慢するところだが、今日くらいは少しだけ甘えても許されるだろう。
そう思ったグラスワンダーはコクリと小さく首肯する。それを見てトレーナーはニカッと笑って見せた。 - 7122/01/22(土) 22:21:30
【5】
電車は押上の3駅前、蔵前駅を出発したところだった。
次の浅草駅までは1分30秒。左手首に巻いた腕時計の秒針の音がやけに大きく聴こえる。
チラリと横目で隣のトレーナーを見る。いつもより近く感じる距離感に鼓動が高鳴った。
今までで最も長い1分間。どうかこの時間が永遠に続かないかしら、と願わずにはいられなかった。
時計の針を少し恨めしそうに見つめながら。 - 8122/01/22(土) 22:25:05
【6】
『次は浅草、浅草です』
車内アナウンスが鳴り、ふたりを乗せた電車は速度を落としてゆっくりと停まる。車輌のドアが開くやいなや、途端に流れ込んでくる夏の夜の熱気。二人は同時に電車を降りて大きく伸びをした。
「ん〜!やっぱり夏って感じだね!」
「ふふっ、ですね〜」
ひとしきり背筋を伸ばした後、改札を抜けると夏の夜風が頬を撫でた。先程までの満員電車による不快感はいつの間にか消えていた。
ここから吾妻橋を渡ればスカイツリーまでは10分少々の道程。花火まではまだ早いか。
「どうしようかなぁ……仲見世通りの方に行こうか」
「はい♪」 - 9122/01/22(土) 22:27:05
【7】
はぐれないようにと手を繋ぎ直し、人の流れに逆らいながら歩き出すふたり。普段以上の賑わいを見せる商店街では様々な露店が軒を連ねている。ソースの焦げる匂いや甘酒の香りが鼻腔を刺激する。
ちょっと待っててねと言い残し、かき氷屋の前で立ち止まったトレーナー。待つこと数分、繋いだ手の感覚が何となく名残惜しい。
「ごめんごめん、お待たせ」
いちご味のシロップが掛かったかき氷をトレーナーから手渡される。彼はどこか申し訳なさそうな顔をしていた。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
ベンチに腰掛け、しゃくり、しゃくりと少しずつ食べ進める。舌の上で溶けていく冷たい甘味が心地よい。 - 10122/01/22(土) 22:29:29
【8】
「そういえば、トレーナーさんの分は買わなくて良かったんですか?」
「あーうん……まぁいいんだよ」
「どうしてですか?」
「それは……」
言い淀むトレーナー。少しだけ間を置いて、照れくさそうに笑った。
「電車の中で少し気分が悪そうだったし、それに……」
「それに?」
「……いや、なんでもないよ」
はぐらかすように笑うトレーナーだったが、その耳が赤く染まっていることに気付いた。それを誤魔化すかのように、今度は彼が口を開く。
「しばらくしたら、浅草寺の方にも行ってみようか」
「はいっ♪」 - 11122/01/22(土) 22:32:18
【9】
ーーーそれから程なくして、彼らは浅草寺の境内へと辿り着く。
既に大勢の人で賑わってこそいるものの、花火の打ち上げ時刻までにはまだまだ余裕がある。
参拝列に並びながら雑談を楽しむこと十数分。ようやく賽銭箱の前に辿り着いた。
ふたり並んで静かに手を合わせる。願い事はーーー
目を閉じながら、心の中で強く念じる。そして最後にもう一度深く礼をして、その場を離れた。 - 12122/01/22(土) 22:33:38
【10】
「何をお願いしたの?」
隣にいたトレーナーから声がかかる。
「内緒です♪」
「そっか、じゃあ俺も内緒にしとくよ」
悪戯っぽく微笑み合う二人。 - 13二次元好きの匿名さん22/01/22(土) 22:35:58
- 14122/01/22(土) 22:36:28
【11】
再び人混みの波に押し流されるように、隅田川を渡る。
目的地のスカイツリーはもう目の前。業平橋の欄干で、グラスワンダーが口を開く。
「この橋、業平橋って言うんですね。歌人の名前が冠されているなんて、素敵だと思いませんか?」
「へぇ……言われてみれば確かに」
在原業平。六歌仙に名を連ねる平安時代の和歌の名手であり、『伊勢物語』の主人公といわれる人物だったかーーーと学生時代の記憶を頼りに呟くトレーナーの横で、グラスワンダーは更に続ける。
「私、伊勢物語の和歌が好きなんです」
そう言って彼女はトレーナーの手を取った。
そのままぎゅっと握りしめ、ゆっくりと深呼吸する。そしてトレーナーを見上げながら、静かに言葉を紡いだ。 - 15122/01/22(土) 22:38:30
【12】
『君により 思ひならひぬ 世の中の 人はこれをや 恋といふらむ』 - 16122/01/22(土) 22:39:48
【13】
「『恋』とはどういうものなのか、ずっと分からなかったんです」
「……でも、今日分かりました」
トレーナーさん、あなたのことがーーー
花火が天高く昇る音とともに、夜空に大輪の華が咲く。
赤や青や紫、色とりどりの光が二人の影を照らした。わぁっと上がった歓声や玉屋、鍵屋の声が、周囲の喧騒がどこか遠くに聴こえる。 - 17122/01/22(土) 22:41:52
【14】
「……好き、なんです」
「あなたと一緒にいられる時間が、何よりも大切なんです」
「だからーーー」
「これからも一緒にいて下さい」
ーーー春も夏も秋も冬も越え、いつまでも一緒にと願って。
トレーナーは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐにいつものように優しく微笑んだ。
そして繋がれたままの手を強く握る。 - 18122/01/22(土) 22:43:38
【15】
「来年もその先も、この花火を一緒に観られるといいね」
「……はい!」 - 19122/01/22(土) 22:44:57
【16・終】
夜風に乗って運ばれてくる火薬の匂い。
枯れることのない光の花が咲いたのは、そんな夏の夜の話。
〜おしまい〜 - 20二次元好きの匿名さん22/01/22(土) 22:45:45
夏の風情が感じられるとてもいいssだった
途中の歌は伊勢物語かな - 21二次元好きの匿名さん22/01/22(土) 22:46:23
素晴らしいSSだ 風景が浮かんでくるようだ
- 22二次元好きの匿名さん22/01/22(土) 22:46:49
こりゃまた雅な物を…大変良ござんした!
- 23二次元好きの匿名さん22/01/22(土) 23:01:47
良質なグラ×トレSSだった…ありがとう…
- 24二次元好きの匿名さん22/01/23(日) 02:52:08
雅で良き物を読ませて頂きました。ありがとう
- 25二次元好きの匿名さん22/01/23(日) 04:37:11
懐かしい曲のタイトルが見えてスレを開いたら素晴らしいSSがあった
実にいいものを見せてもらった - 26二次元好きの匿名さん22/01/23(日) 04:43:05
そういえば浅草って浅草線もあったな……と銀座線ばかり解釈してた俺が通る
歌からSS作れるのは最高の行いなんよ