【トレウマ/SS】指先を賭ける話

  • 1◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:52:43

     指先に触れられるのは、心地の良いものじゃない。

     私にとってこの飾り気のない指先は、賽を振り牌を繰り札を切るもの。時折誰か──『先生』だとか『弟妹』だとかに差し伸べることはあるけれど。
     そうじゃなければ捕らえられるなんて真っ平御免。
     私の脚がそうであるように、ただひたすらに自由奔放に、私の意のままにしていたい。

     そんな指先が、私のそれよりも少しだけ小さな手のひらに捕らわれている。

     見苦しくない程度に切り揃えられた私の爪と違い、丸みを帯びて鮮やかに彩られた爪の持ち主はトーセンジョーダン。もう片手には直径にして5ミリ程度の筆が構えられる。

     飯食って風呂入って、ここが談話室ならばゴールデンタイムのバラエティ番組に賑わうだろう午後八時、栗東寮。
     トーセンジョーダンの部屋にて私は──すみれ色よりは淡い、薄紫のポリッシュが掬われたネイルブラシと対峙していた。

  • 2◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:52:59

    ***

    『トレーナーさんとデートなん? なら爪やったげよっか?』

     事の発端はトーセンジョーダンの、そんな一言だった。

     デート。
     それは色めく逢瀬である。
     お互いがそれなりの情を抱く状態で、連れ立って出かける。時間を共有する、特別なひととき。一般的に言えばそんなもんか? もっとも近頃じゃ友人同士で遊びに出かける様もそう表現されるから一概にゃ言えないが。
     しかしジョーダンが思い浮かべるのは、友人だの家族だのの話じゃあない。
     その相手として想定していやがるのは、よりにもよって私の担当トレーナーなんだからタチが悪い。

     まぁな、こいつがそう思っちまうのもわからなくもないさ。私と私のトレーナーが、互いにそれなりの情を抱いていることは肯定してやってもいい。
     そもそもの話、ただひとりの相棒として走り始めて足掛け三年を越えりゃあどんな担当トレーナーと担当ウマ娘でも、遣り取りだって気安くはなるだろうさ。
     遠慮なんて一切なし。気の置けない間柄。つうと言えばかあ、阿と言えば吽……とまでは流石に言いすぎか? そうであったとしてもアイツとはそれなりの関係性を培ってきている実感はあるし、他人行儀なことがなくなった様を見れば、おそらく向こうも感覚としては変わるまい。

     連れ立って出かける。

     言ってみればこれも間違いじゃないだろう。休養日たる土日にわざわざ時間を合わせて街に出る。朝方、校門前で待ち合わせて、バスに乗って、専門店に蹄鉄を打ちに出す。駅前でスポーツ用品店を巡り、新しいトレーニングウェアとダンスレッスン用のシューズを見繕ってさ。
     昼飯食って、ゲーセン行って、テキトーに買い食いしながらぶらついて。だいたい午後三時くらいまでか?

  • 3◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:53:23

     時間を共有する。
     さて。それが特別なひとときかは神のみぞ知るところ。
     
     それでも、この外出をデートと定義するためには──私はただの担当ウマ娘で、奴はただの担当トレーナーだった。

     故に。私の回答は冷たき鉄槌の如く下される。

    『んなワケあるか』

     やれやれ。いくら恋に恋するお年頃と言えど早とちりにも程があるんじゃねえの? 女子ってのは本当にこういう話が好きだよな。誰が誰を好きで誰と誰との関係がどうとかこうとか。
     私にゃ無縁の世界だね、なんて肩を竦めて見せるも、ジョーダンは間髪入れることはない。

    『いやそれ、どう考えてもデートだし』
    『違ぇよ。……そんなんじゃない』

     どんなにらしかろうと、ジョーダンがどう考えようと、前提条件が違う。少なくとも私のトレーナーにとってはな。
     そして、そんなシチュエーションだからと言って浮足立てるほど、私は可愛らしい乙女なんかじゃない。

     そんなやり取りをしたのが午後イチ音楽理論の最中。座学っつうのは理解出来ないと退屈でしかないからな。
     そうして放課後。この同期の提案通り、私の素朴な手指の爪に、小さなブラシが行き来してるっつう寸法だ。

  • 4◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:53:35

    ***

     ポップな風合いのカーテンが締め切られた窓の向こう、春の夜は静けさを享受し、深々としている。
     この部屋のもう一人の主であるウイニングチケットは、ジョーダンとはまた別のベクトルで賑やかなヤツだ。なんでも年頃の女子が食いつきそうな恋愛バラエティ番組が放送されるとかなんとかで今は談話室へ出向いているらしい。それもあってか殊更、この部屋における居心地を左右する静けさが漂う。

     もっとも静けさと言えど、雑音を打ち消すかのようにかすかなBGMが流れてはいる。

     私の鼓膜を揺らすのは異国情緒溢れるご機嫌なナンバーで、爪の先同様に部屋着までカラフルなジョーダンの雰囲気に合ってはいる。ただし、それがこいつの趣味かと問われたなら私は首を傾げるだろう。
     確かにトーセンジョーダンはどこかしら緩さはある。『ギャル』っつう属性について私は造詣が深いわけじゃあないが、爆発的な眩さのダイタクヘリオスに比べればジョーダンのテンションはダウナー寄りに近いだろう。けれどそれは、気が抜けていくようなウクレレの音色とはまた性質が異なるものだ。
     私は音楽ジャンルにそこまで詳しいわけじゃなかったから、こいつの好きな傾向じゃあないだろうってことくらいしかわからないんだが。

     さておき。
     空いた片手で端末をいじるのも限界があった。まさに手持ち無沙汰。それゆえ耳を澄ましていたことにどうやら気づかれてしまったらしい。
     この時間から外出するわけでもあるまいに、気を抜かず艶めかせている唇を、トーセンジョーダンはにっと笑わせる。

    「ね、ね、サロンみたいだと思わん?」
    「生憎ネイルサロンにゃ縁がなくてな」
    「知ってるしぃ。あのね、セジュツのときにこーゆー音楽流すといいんだって。お客さんをリラックスさせたりアゲたりできんの」

  • 5◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:53:46

     どーお? リラックスしてる? しとけ〜? なんてさ。いつもなららしいポーズでもキメんだろうが。きゃらきゃらと笑うその口調は随分とお気楽な風だったが、あくまでもジョーダンの手は私の爪先から動くことはない。
     それこそ夜が更けたとしても、その調子の良さは平時となんら変わることがない。……が。
     
    「んじゃいったんドライヤーで乾かしていきまーす。手、冷たくてしんどくなったら言え?」

     ポリッシュの小瓶とブラシを傍らに、取り出されたのは長鼻のヘアドライヤー。その作動音はいとも簡単にリラックスだのアゲだののBGMをかき消していく。
     そして、風温を確かめるかの如く吹き出し口を己の手のひらに近づけるトーセンジョーダンのその姿は、その表情は、ただひたすらに真剣そのものだ。

     ハンドマッサージから始まった丹念な下準備。
     はみ出しも塗りムラもない十指を染める薄紫のポリッシュ。
     門限までの時間も迫っている。次の作業に素早く移るため、ドライヤーの冷風が私の指先を乾かしていく。

     ジョーダン曰くのくすみカラーのラベンダー。
     これは明日の外出時に行われる、私の勝負の舞台だ。

    「乾いたらクロームパウダー載せるね。ちょー可愛くしてやっから、期待しとけ?」
    「どうせやるなら徹底的に、だ。頼んだぜ?」

     指先に触れられるのは、心地のよいもんじゃあなかったが、ジョーダンはジョーダンなりに、私と私の指先に向き合っていることは伝わってくる。
     それならば、私も私で覚悟を決めなきゃ失礼ってものだろう?

     勝負っつう舞台の幕開けの気配が、指先を染めていく。
     それは私にちょっとした高揚感を抱かせるのに充分といえば充分ではあった。

  • 6◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:53:56

    ***
     
     爪の先が、午前十時の陽光に、控えめな光をたたえている。

     皺ひとつないカッターシャツのようなマットな風合いのラベンダーネイル。透明な光沢が抑えられているかわりにその表面をきらめきで飾るのは、クロームパウダーなる細かな粒子の粉だ。
     ジョーダンにも伝えはしたがネイルサロンなんてものには縁がない。普段だって素爪か、レース前に保護用のトップコートを塗るくらい。大体、指先の制御が効かなくなるのは御免だし。そんなわけで今までネイルなんてものにはさして興味を抱くことはなかったのだけれど。

    「……思うより悪くない」

     なんて言葉をこぼしちまったもんだからワケねぇな。我ながらチョロすぎる。
     施術主としちゃまだこだわりたかったらしいけど、もとよりあまり華美すぎるのは趣味じゃねぇし。爪の先がうっすらとした閉塞感を覚えちまってるのは事実だが、少なくとも見た目は私好みの、丁度いい塩梅だ。

     校門前バス停で待ち人を待つ間、光り物を好むカラスみたく薄紫の風合いを様々な角度から眺めていると。

    「待たせちゃったかな、おはよう、ナカヤマ」

     それなりに櫛を入れてきた鹿毛耳に、すっかり馴染んだやわらかな声音が届く。
     小走りで駆け寄ってくるのは──私の、トレーナー。

    「おはよう。時間通り。賭けは私の勝ちだな?」
    「え?!」

  • 7◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:54:10

     挨拶ついでに思い立って告げてみれば、浮かぶのはわかりやすい狼狽顔。相変わらずくるくる変わる表情。朝っぱらから忙しないヤツ。
     賭けっつってもただのひとり遊びだったがねと付け加えると、トレーナーはその細面を安堵の色に染める。

     攻撃性をどこかに落っことしてきたんじゃないかってくらいに柔和な様は、平日、学内にいる時の印象とほぼ変わらない。

     たとえば常よりもカジュアルではあるが、けして普段着や私服のたぐいではない様相であったり。
     そのジャケットの襟元にトレーナーバッジが存在を主張していたり。
     
     コイツを『トレーナー』として形作るあれこれは、そういうものだと頑として物語る。

     私たちは担当ウマ娘と担当トレーナーであり、恋人だのなんだのでないのだから当然の身なりだ。
     コイツがそうならば、私だってそう。さして着飾ることのない『普段着』を身に纏う。

     桜のような鮮やかさよりは淡く。菫のような可憐さよりは大人びた、ラベンダーカラーに染まる指先を除いてな。

    「お昼、何食べたいか決めた?」
    「何だと思う? 当ててみな」
    「なら、幾つかピックアップしたものをどうぞ?」

     芝居がかった──にしては大根役者だったかもしれないが、そんな言葉とともに個人用のスマートフォンが懐から取り出される。そのディスプレイに並ぶのは、ラーメン屋の一覧だ。
     やるじゃねぇかと口端を上げると、コイツ、賭けは自分の勝ちだ、とばかりに瞳を細めやがった。大方、さっきの意趣返しか何かのつもりなんだろうけど。その先回りの賭けが私をそこそこ喜ばせるっつうことに、恐らくコイツは気づいちゃいない。
     だから私も「大義だったな」とどっかの金色の真似をして、無防備にも差し出されたスマホを手のひらで受け取るわけだ。

  • 8◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:54:20

     そうこうしているうちに、駅前行きのバスが煙を吐きながらほぼドンピシャなタイミングでやってきた。
     吸い込まれるように乗り込んで、躊躇いもなく空いた席に並んで座る。躊躇いもなくっつうか、当たり前のようにっつうか。

     外出のたびに社用車を借りるわけにもいかないから、私たちの移動は大体バスか電車になる。トレセン学園と提携してるだかなんだかで生徒手帳やらトレーナーバッジの提示で交通費が割引にもなるからな。
     勿論車内が混み合ってりゃ立つこともあるけれど、ほとんどの場合は二人がけの狭いパイル生地の座席に隣り合う。

    「ナカヤマ的にはこの熱め濃いめこってりめがいいのかなって思ってるんだけど」

     心理的距離感とでも言うのだったか。
     腕だとかが触れ合う距離に覚える違和感も、時間が経つにつれ、気づけばどこかに消え失せちまっていた。
     ゆえに、今日みたく頭突き合わせてひとつのスマホを覗き込むのもそう珍しいことじゃなくなっている。

    「悪くない。だがこのレモン&トマトラーメンとやらも物珍しさで言えば気になるな」
    「今日は湿度も高くなりそうだったからさ。さっぱりめもチョイスしてみたんだ」
    「相変わらず気が利くこって」
    「どういたしまして。せっかく出かけるんなら、良い一日にしたいじゃない」

     見上げるトレーナーのゆるい眉が照れくさそうに下がってから、その瞳が春先の木漏れ日を思わせる優しい笑みをたたえる。
     素直じゃない捻くれ担当ウマ娘の反応すら褒め言葉として受け取る素直さは、コイツの数多くある美徳の一つだ。善性っつうか、邪気のなさっつうか。コイツとやりあう勝負の中で、これまで何度となくだまくらかして罠に嵌めることはあった。どんな相手だろうが勝負となれば手加減も容赦もしないさ。
     ただ、こうも無防備にされると、流石の私も多少のやり辛さを覚えないわけじゃあないし、……良心の呵責っつうのを感じないこともないんだが。

  • 9◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:54:32

     さておき。
     トーセンジョーダンはデートだのなんだのと騒ぎ立てたが、これは、いつも通りの、ただの『お出かけ』だ。

     相手は、後戻りの出来ないここぞの大一番を除けばブラフがクソほどヘタな担当トレーナー。
     万が一にも担当ウマ娘に必要以上の気を持って、デートだなんだのと認識しているのだとしたら。懸想のケがあるとしたなら。正直な所、一発で気づく自信はあるぜ。そのくらい、分かりやすいヤツ。

     それじゃ、対する私はどうかって?
     ……こっちばっか浮つくのは腹立たしい。これでおおよそは伝わるだろう。誰にも言ったことはねぇけどさ。
     
     だから、本当は──あからさまに浮かれポンチなネイルなんてするつもりはなかったし、ジョーダンの提案も不要だと却下する気でいた。

     けれど、私の爪先は──丁寧に、丁寧に整えられて塗りムラも剥がれのひとつもないラベンダーカラーに染まっている。
     派手な装飾もなくグラデーションすらかけられてないワンカラー。ただし陽に翳せばほんのりと光を宿すそれ。

    「あとはこの街中華、店主との勝負に勝利すればチャーシュー増量キャンペーン中みたいだね」
    「へぇ? 燃えるじゃねぇか」
    「君ならそう言うと思ったよ」

     がっつりこってりの所謂家系、物珍しい創作ラーメン、昔ながらの中華そば。その他諸々の色々。ド定番から変わり種まで。
     そんな豊富なラインナップを、これがいいあれもいいなんて言いつつも、私は、手のひらに乗せたスマホを親指の側面だけでスクロールする──なるべく爪先を見せないように。
     端末の持ち方としては安定性はない。けれど、操作において稚拙さはないはずだ。

     さて。そのちょっとした不自然さに、トレーナーが気づくか否か。

     それは、私が『トレーナー』相手に仕組んだ、ほんのささやかな勝負だった。

  • 10◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:54:45

    ***
     
     天頂にじわじわと近づくおてんとさんに見守られつつ、担当トレーナーとの『お出かけ』はつつがなく進む。
     
     とはいえこの季節はどうしたって天候不順になりがちだから、空模様は不機嫌な乙女もかくやのお冠。まぁ山だの谷だの川だの海だのに足を運ぶわけじゃねぇし、雨に降られたところで街中であれば軒下なんざいくらだって見繕えるだろう。

     金物屋に赴いて蹄鉄をメンテナンスに出しちまえば、荷物を持ち歩くのが好きじゃない私の両手は、真っさらの自由になった。
     二つ折りの財布も入ってるせいで手狭なジャケットのポケットに片手だけ突っ込んで、次はあっち、次はこっちと先導するトレーナーの後を行く。

    「ラーメン二丁、お待ちぃッ!」

     ここだけ季節を先取りしているかの如く、様々な熱気が篭もるラーメンチェーンは、アブラと腹を満たしにきたとばかりの客と店員のデカイ声の応酬であふれている。
     恐らくかかっているだろう有線放送の流行りのJ-POPすら、絶え間なく交わされる店員同士のやり取りにかき消されているくらいだからな。そりゃあもう、思わず耳を伏せた上で両手で塞いでしまいたい、そんな喧しさだ。
     それでも、静けさが約束されているだろう洒落たインテリアの創作ラーメン屋を直前で取りやめたのは、私の勝負に向かないと判断したからだ。

    「は。やっべぇな、これ。カロリーの暴力にも程があるだろ」
    「週明けのトレーニング計画、考え直そうかな……」
    「馳走を前にして日和る奴がいるかよ。食う以上はなんとかしてやるさ!」

     厨房の見えるカウンターに肩を並べた私たちの前にたいそう勢い良く置かれるたのは、雷紋に龍の文様が描かれた洒落っけのないスタンダードなどんぶりだ。
     食欲をそそるニンニクの匂い。立ち昇る湯気にテラつく分厚いチャーシュー。レンゲで掬ったスープは脂の膜が貼る。……思わず舌なめずりをしてしまいそうな盛り具合。
     真っ二つに割れた質の良い割り箸を振りかざし麺をすすれば、絡みつく魚介と牛骨のエキスのマリアージュ。こんなの、食うのに夢中にならないわけがない。
     触感の違うモヤシとメンマを噛み千切り、箸休めにニラがたっぷり埋め込まれた餃子を頬張る。どんどん満たされていく腹。朝食を早めに摂って昼に備えていたかいがあったというもんさ。

  • 11◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:54:59

     鉢の底が見えるまで味わい尽くし、びっしりと汗をかいたコップの甘水を喉に流し込んで熱い息を吐く様は──お世辞にもデートだなんだとは言えないだろうな。

     たとえばこれがあのレモン&トマトラーメンなんてのを扱う創作ラーメン屋だったら、まあ多少はデートめいた雰囲気にもなるかもしれない。ターゲットとなる客層が違えば、店構えも変わる。より都会的とでも言えばいいのか? 洒落たBGMに扱うのも気を遣いそうな洗練された食器。食事以外に会話だとか雰囲気だとかを提供されちまえば、私にとっちゃ隙になりかねない。
     チェーン店みたく注文から配膳まで最速のシステム化はされてないだろうし、それだけ私はこの爪先を違和感なく隠し続ける必要がある。
     要はさ、食事に集中できるか否かで、今日の勝負の行方は変わっちまってたんだよ。
     
     ごちそうさま、と声を合わせて店を出れば、次の行き先はショッピング街のスポーツ用品店だ。

     トレセン学園近辺にある老舗とはまた違い、世界中の様々なメーカー品が取り揃えられているこの店は、ショッピング街の中でもかなりの敷地面積を有している。
     東京レース場にも近いし、なによりトレセン学園のお膝元。ウマ娘向けの品揃えは関東一とも言われているとかなんとかって話。そういう本格的な店だ。そうなると当然、話のわかる店員ってのが存在するわけで。

    「トレセン学園生さんでしたら、ダンススニーカーのラインナップをお勧めしています。レッスン用でお間違いはありませんでしたか?」
    「はい。レッスン用です。足のサイズは──」

     両腕を組み、デザインも値段もピンキリなダンスシューズを眺める私にかわり、対応するのはトレーナーだ。トレーナーはレースに関連するトレーニングだけの指導に携わっていると勘違いされがちだが、ライブレッスンの分野も若干の心得がある。無論、本格的なレッスンとなれば講師には及ばないが、基本の基本リズム練だとか発声練だとかの知識は蓄えているからな。
     ゆえに私が無闇に口を出すより、序ノ口くらいはその道に長けた奴らでやってくれた方が、話は早いってもので。

  • 12◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:55:13

    「ナカヤマ、足のサイズを測り直そう」

     にこやかに微笑む店員──シューフィッターって言うんだったか? に、誘われるままソファに座る。通常のサイズ自体は把握しちゃいるが、なにぶんまだまだ成長途上。計測は足先から踵までに加え、甲の高さと足幅まできっちりと。
     正直、走るだけならランニングシューズがありゃあそれでいいんだよ。でも、トゥインクル・シリーズっつう国民的スポーツエンターテイメントは、レースばかりが華じゃないだろ?

     納得いかない部分やら疑問やらに適宜口を挟みつつ、シューフィッターが出してきた数足を吟味する。
     土踏まずのフィット感に優れ、爪先のコントロールがしやすいスプリットソール。その中でも繊細な動きを得意とする薄手のソールのもの、クッション性が高く脚への負担が少ない厚手のソールのもの、動きやすいローカット、安定性のハイカット──
     シューフィッターの説明を受けながら私の脚に注がれるトレーナーの視線は真剣そのものだ。仕事から離れられる休養日だってのに、これだからワーカーホリックってやつは手が負えない。

     もっとも、それがわかっているからこそ、私は指先を隠しやすいというもの。コイツがあんま遊びのないマジメな奴だってことを、きっと私は誰よりも理解しているんだから。

     履いては脱いで、脱いでは履いて、軽くジャンプして履き心地や重量を確かめて。商品の確保をして、シューフィッターとは別れる。
     まあそんな感じでさ、新しいトレーニングウェアだとか最新の蹄鉄槌だとかを、知見のある店員を捕まえつつも集めていく。

  • 13◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:55:23

     あれはどう? これなんかは? なんて。コイツは私というウマ娘を仕上げるにあたり、基本的には使えるもんには手を伸ばし妥協を厭うタイプだ。他人を頼ることに躊躇いがないから、他者の意見も寛容に取り入れる。
     お仕着せのマネキンでいるのは好きじゃない。それでもトレーナーに任せられるのは、

    「ナカヤマ、こういう機能のあるウェアみたいなんだけど、どうかな?」

     こうしてちゃんと、振り返ってくれるからなんだろう。

     さて。ここまでの状況を鑑みたところで、改めて問うてみようか。
     果たしてこれはデートなのか?
     ……ダンスシューズにトレーニングウェアその他諸々の詰まった大判のショッパーは、トレーナーの手に預けられ、私は変わらず徒手空拳。
     判断に困るとばかりに、脳内のトーセンジョーダンは眉尻を下げている。

     そうして。
     元々の予定に加えて計画外の書店とドラッグストアに寄り道して、足裏がほんのりと疲労を主張する頃合い。
     どう見繕っても晴れだとは言い募れない、そんな空模様が頭上にあった。
     如何にもこれから降らせますと言わんばかりの厚ぼったい雲が陽射しを奪えば、頬や耳を掠めていく風にも冷たいものが混じる。

     ぼたりぼたり、と、大粒の雨がアスファルトの色を変えるのは、最早時間の問題だった。

  • 14◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:55:33

    ***

     例えるならばそれは、カウントダウン。
     尻尾やらニット帽で押さえつけている鹿毛頭が、じわりじわりと空気を動かしはじめた生ぬるい風に膨張していくような。
     かすかに届く遠雷。大粒の水滴が一つ落ちる。果たしてそれが合図だったかのように、バケツをひっくり返したような勢いで、雨が強い音を立てて叩きつけはじめた。

    「チッ。降ってきやがったか」

     予感はあった。予報もあった。分が悪い方に賭けるのはヒリつくが、いつもそっちにかまけるわけじゃあないさ。
     ただ、たまたま今日も、そうだっただけの話で。

     折悪く丁度、軒の少ない通りの真ん中を歩いていたのも災いした。街中だ。傘も持たずにのんびり歩く通行人もそこそこいて、突然の雨から身を守るための屋根の下の確保は当然ながら早い者勝ちになる。
     さてそうなればどこを目指すべきか。子ども連れ、老人、青年、少年少女、目的を同じくする奴らの姿を見定めて、どの軒下が最適解か……そう、視線を巡らせたところで。

     トレーナーの、荷を持っていない方の手が私の手を掴んでいた。

    「ナカヤマ、あっち。行こう!」
    「は? ちょ、おま……、っ……!」

     躊躇いなんてなかっただろう。それこそ行き掛け、あまりにも自然に隣り合ったみたく、私の指先はトレーナーの手の中に、そりゃあ綺麗におさまっていたんだから。

     まるであらかじめそうであることが、決まっていたかのように。

     待て、だとか、離せ、だとか。そういう主張しとくべきだった内容が、どういうことだか一切合切言葉にならなかった。ただしく私は泡を食って、虚をつかれたのも相俟ってその手を振り払うこともできないまま、誘われるがままに先導される。

     粒の大きな雨が頬を打つ。冬よりも夏が近くなった季節だ。温い雨水が弾けて、視界が烟る。それだけじゃない。突然の雨に上がる悲鳴にも似たひとびとの声だとか足音だとか、そういうものが激しく打ち付ける雨によって隔絶される。

     それなのに。
     私たちの手は、つながっている。
     ひんやりとした手のひらに、指先は包まれている。

  • 15◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:55:45

     その指先が熱を宿しそうな予感がして、頭を振った。──なぁ、いま、私は、何に気付こうとした?
     予想すらしなかった展開に掬われかけていた歩様を整えて、先を行くトレーナーと並走したのはせいぜい数十秒そこら。
     1ハロンにすら満たない距離の先、先客のない軒下に駆け込んで、二人してため息をつく。

    「少し濡れちゃったね。タオル持ってきてるから、使って」
    「……助かる」

     雨足のテンは相当良かったな。まるで、ゲートを出て位置取り争いのために速攻でスピードに乗る逃げウマ娘か何かのよう。
     かといって今すぐ着替えが必要なほどびしょ濡れでもない。用意周到に取り出されたタオルを受け取って、顔を拭う。もとより崩れて困るような化粧は施しちゃない。ニット帽伝いに雨水滴る前髪にふわふわのタオルを当てて顔を上げたところで、待ちかねていたとばかりのトレーナーと視線が合った。

    「なんだよ。えらくご機嫌な顔して」

     何やらどうしようとなく居心地が悪くて、怪訝な表情を作って聞いてみる。そしたらさ。
     空は厚く垂れ込む雲にすっかり薄暗いのに、トレーナーの瞳が、まるでおてんとさんみたくキラリと光った。

    「賭けはこっちの勝ち、かな?」

     賭け?
     そう返す間もなく、さっきタオルを取り出してみせたスリムなビジネスバッグから出てきたのは、コンパクトサイズの折りたたみ傘だ。
     ああ、なるほど? ……ドヤ顔ってのはきっとこういう顔のことだよな。感情に従順な犬の尻尾でも生えてりゃ、きっとぶんぶんと振られてるに違いない。そのくらい得意げで、意気揚々。ふふん、なんて調子よく鼻が鳴らされる。

     さて、一方の私はといえば。
     さっき敢えて怪訝な顔を作ったみたく、演じることについては若干の覚えがあるものだから。
     褒めろと自己主張するだけで一切自分に降り掛かっていた雨を拭こうともしないバカにタオルを突き返し、かわりに肩を竦めてみせてやることにした。

    「あのなぁ。そもそもの話、予報が出てる時点で持ってこないアンタじゃねぇだろ。無効試合だ、無効試合」

  • 16◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:55:55

     向こうが鼻を鳴らすならこっちは鼻で笑ってやらなきゃな?「そこをなんとか!」なんて、ようやく水滴を拭き取りつつも言い募る担当トレーナーに対して、見せつけていくのは、とりつくしまもないいつもの私だ。

     そもそも二人で示し合わせて勝負を始めた覚え、ひとつもねぇんだけど。

    「ほら。ちゃんと拭け。風邪引くだろうが。ちんたらしてんなよ」

     私のことになれば、コイツはこんなにも『担当トレーナー』でいてくれる。
     用意周到でしっかりもんで。けどさ、そのくせ自分のことになると、どうしようもなくぬけてるヤツでさ。

     さっき突き返したタオルは、結局奪うように取り上げた。そんで、まだ吸水しきってない面を表にして、腕を伸ばす。
     顎下から頬、鼻先、額。放っておいても乾くだろうけど、放っておけば冷えちまう水滴を拭ってやると、トレーナーはきまりが悪そうに眉を下げた。ざまあみろ。

     そして。
     眉を下げたと思えば──その視線が、ぱっと明後日の方向にすっ飛んでいく。

    「……どうかしたか?」
    「え?」

     彷徨い泳いだ目線は戻ってきたが、あからさまに裏返った声に気づかないほど、私は愚鈍じゃないつもりだぜ?
     今、間違いなくこいつは何かから目を逸らした。何か、までは現時点じゃ掴めない。けれど私の直感が告げている。

    「な」
    「……」
    「なんでもないよ!」

  • 17◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:56:06

     ……ヘタクソか??
     ただでさえブラフは不得意。時折つける勝負師の仮面をどうやらどこぞに忘れてきたらしい。なんでもない、なんて言い訳はなんでもなくないから出てくんだよ、素人か何かかよ。
     いつもの私なら、いつもの私たちなら、こんなところじゃ終わらない。「ならいいが」なんて妥協許すことなんてしてやらねぇ。詰めて詰めて詰めて、洗いざらい吐かせてやるところ。

     けど、今日の私は、私たちは、そうはならなかった。

    「……ならいい」

     たった一言で終わらせて、口を噤む。あからさまに安堵したトレーナーの表情は、見ていないふりをして。
     何かを隠そうと、誤魔化そうと、はぐらかそうとしているのは、コイツだけじゃない。

     私は私で、騒ぎかけた心臓を落ち着かせなけりゃならなかったから。

     なんでもない。
     そんな言い訳が必要なのは、きっと私もだ。

     浮ついたネイルなんてしてきてしまったことも。
     指先に触れられるのは、心地の良いものじゃなかったはずだった、ことも。

     街を包み込む雨の音に紛れて、逃して、見えなかったことに、聞こえなかったことに、しちまいたかったんだ。

  • 18◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:56:19

    ***

     普段から耳カバーをつけていない素耳が。
     湿り気を帯びた髪が、尻尾が、じっとりとした重さを主張している気がする。
     もっとも、素早い移動とやたら吸水性に長けたタオルのお陰で濡れ鼠は免れているから、……有り体に言えばそれは気持ちの問題というやつだ。

     ビジネスバッグと私のショッパーを手に、担当トレーナーの視線は野暮ったい雲が横たわる空に向けられていた。
     突然視線を逸らされる理由を幾つか思い描いてみたものの、いまだ解決には至っていない。ちょいと色気のある少年漫画とかにある雨水に濡れたせいで下着が透けて見えるとか、そーいうのでもねぇし。つか万が一そうなってたとしたらジャケットを寄越してきたりするだろ、コイツならさ。
     それじゃあなんだ? ……気に食わねぇなら直接聞けばいいんだが、その意図を知られたくないから誤魔化そうとしてるんだろうし、わざわざ白状しろなんてこと言いたかねぇし。……レースのことならまだしもさ。

     落ちる沈黙。手持ち無沙汰に私は指を閉じたり開いたり。光の散らないラベンダーネイルはマットな色合いも作用して随分と裏寂しい風情になっていた。
     ため息はつかないように、少しばかり冷えたその指先をポケットの中に突っ込んで、仕方がないから私も雨の降り落ちる空を見上げる。

    「雨、止まないね」
    「そうだな」

     ざあざあと、雨脚はただひたすらに淀みない。
     例えるのならスローペースの中長距離レース。脚を使いすぎず程よい巡航速度で追走する。最終直線で末脚を爆発させるために。いざというときに被せられて前壁っちまわないよう冷静沈着に位置取りを調整しながら。

     仕掛け所を見極める。
     大丈夫。恐らく今は、そんなタイミングだ。

  • 19◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:56:29

     雨が弱まったら移動しようというトレーナーの提案に、私は是で答えていた。傘と言っても所詮は折りたたみ傘だ。アスファルトに打ち付ける雨の強さを見れば、たとえ長傘であったとしても、移動するだけでも靴が濡れるだろうことは分かりきっていた。

     幸運にも借りた軒の店はクローズの看板がかかっていたが、いっそのこと喫茶店あたりの軒だった方が良かったのかもしれない。
     そう、一瞬でも考えてしまうくらい。私たちの間には、雨音が作り出す静寂が横たわってしまっている。

     でもな、そもそも。考えてもみろよ。
     私たちは四六時中くっちゃべってるような間柄じゃない。
     お互いに会話をしてなきゃ生きてけないみたいなタイプでもない。
     それどころか街路樹を弾く雨粒の不規則な音もまあオツなもんだろと言葉を交わすこともある。
     今日まで幾度となく沈黙と対峙したこともあるし、静けさに身を任せたこともあった。

     二人で並んて空を見上げて、言葉無く立ち尽くすことだって、ないわけじゃなかったんだぜ?
     
     それなのにさ。
     なぁ、トレーナー。
     なんて、喉元まで出かかっちまう。
     どちらが先にこの烟る雨を割いて声を上げるのか、まるで我慢比べでもしている気になる。
     けど、腹立たしいことに……どうしようもなくそう思っているのは、やっぱり私だけなんだろう。

     爪を覆う閉塞感を撫でる。ラベンダーカラー。陽の光でほんのりときらめくそれは、曇天の下じゃ然程目立たない。
     きらびやかな装飾を厭ったのは、私だったけど。

     ──なぁ、アンタはこういうの、気づかないヤツだったか?

     うっかり零れそうになるのは、毒にも薬にもなりゃしない言葉だ。

    『デート』に浮かれる小娘みたく、爪先にネイルを施して。
     それをこの隣人が気づくか否かを当てる。
     それが、トーセンジョーダンの提案に乗り、私が仕掛けていた勝負だった。

  • 20◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:56:43

     こと私に対しては目敏い奴だ。普通にしていれば気づく。そんな確信はあった。けれど勝ち筋が見えすぎている勝負なんざ面白みはねぇだろ?
     だから私は『気づかせない』ように動こうとした。必要以上に手の甲を見せない。爪先は隠す。それをあくまで自然に行った上で──それでもなお気づくだろうと勝負を賭けた。私自身との戦いにもなる手加減無しの真剣勝負。私の腕の見せ所。

     どことなく気持ちが昂るくらいに仕上げてくれた昨晩のジョーダンは、トーゼン、呆れ顔をしたさ。

    『……そんなややこいことせんでも見せ付ければ?』
    『そんなつまんねぇことできっかよ』
    『ナカヤマこういうときナンギってよく言うよね。ナンギってなに? からあげのこと?』
    『そりゃ難儀じゃなくてザンギだろうが』

     ヨレっかもだし風呂入るときはこれはめてね、と、個別包装のビニール手袋を押し付けつつ、トーセンジョーダンは続ける。

    『ま、そんなナカヤマにはピッタリかもね、ラベンダー。フカカチ、ってやつ?』

     付加価値。あるいは織り込み。はたまた象徴。
     露悪的な言い方をしてしまえば誰かが何かの都合のために決めた根拠のない意味付けにしかならないだろう。
     けれど。

    『くすみラベンダーのワンカラーは今年の春の流行だけど、お客さんによってはちゃーんと意味を持たせたほうがよろこばれたり、するし?』

     ニヤリ、と得意げに、ジョーダンが笑う。
     どこか楽しげに、含むようにして。きっとジョーダン曰くの未来のお客さんにはこういう不躾とも思える反応はしないんだろう。
     気のおけない私だからしてみせる、そんな表情で。
     
    『ね、ナカヤマ。ラベンダーの花言葉って、なんだと思う?』

  • 21◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:56:54

    ***

    「──バスが発車します。次の停車は──」
     
     駅前バス停でバスに乗り込んだ数分後。
     乗車客をそれなりに詰め込んで、定時通りにバスはそろりと走り出した。

     結局あの後、雨の勢いは若干ではあるが弱まりはした。
     けど、大人ひとりガキひとりとは言え狭い折りたたみ傘で移動するには心許ない。ウェザーニュースも断続的な強い雨を報せていた。
     覗いたコンビニも急な雨でビニール傘は完売御礼。この後は適当にぶらつく予定だったが、当然それも立ち消えになった。

     そうして。
     数時間前と同じように、私とトレーナーはトレセン学園前バス停を経由するバスに揺られている。

     雨風情に気を塞がれるほど私は繊細なタチじゃない。滝のように雨水が流れ落ちる車窓を横目に口を噤むのは、べつに、言葉を失ってるからとか、そういうんじゃない。

     じゃあどうしてかっつうと。
     行き掛けと同じように隣に座るトレーナーが、さっきから業務用スマホとイチャついてやがるからだ。まだ子どもめいたやわらかさが捨てきれない私のそれとは違う指先がディスプレイを忙しなく走る。勿論、ちゃんと前置きはあった上だ。ジャケットの襟でトレーナーバッジが車内灯の光を鈍く弾く以上、コイツにとっちゃ今の時間も業務時間。労働報酬が出るかは預かり知らないし……、そうさせてんのは私なんだけど。
     もっとも、業務時間外と一睨みでもしてやれば、きっとこいつは困ったような笑みを浮かべて業務用端末をカバンの中に仕舞うんだろう。
     
     手持ち無沙汰にスマホを見る気にもなれなくて、両手をジャケットのポケットに突っ込んだまま、視線だけをあちこちに彷徨わせる。
     停車ブザーの音の元を目で追ったり、降りていく奴らを見送ったり。その中にどれくらい、この陰鬱な雨のせいで今日の精算をせざるを得なかった奴がいるんだろうか。予定を繰り上げたり、打ち切らざるを得なかったり。
     バスがトレセン学園に近づくにつれ、私にも精算の時が迫っている。

  • 22◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:57:04

     結局この『担当トレーナー』は、ついぞ私の敷いた罠にかかることはなかった。
     かかることはなかった、っつうのは語弊があるか。かからなせないようにしていたのも私だったわけだし。私のちょっとした変化にも気づく奴だから、隠していてもどっかしらで気づくだろうなんてさ。我ながら微塵も根拠のない賭けをしちまった。

     バカみたいなタカを括ったくせに。気づかれなかったと、ほんの少しだけ落胆している。
     本当にざまあねぇ。

     信号が赤く灯るたび、バスは緩やかにブレーキを踏む。軽いカーブがありゃ遠心力がかかる。そのたびに車体が揺れて、肩や腕が触れ合った。

    「っと、ごめんね」
    「……バス酔いしねぇの?」
    「仕事だからかなぁ?」
    「あっそ」

     バランスを取るため、私は片手だけをポケットから取り出す。話はお終い、とばかりに視線を車窓に投げながらも──それでもなお、この期に及んで、親指を隠して拳を握りこんだ。

     この日のために、飾り立ててしまった指先だった。
     不自然さを隠すために、不自由を許容した指先だった。
     アンタにだったら、捕らえられても構わないと、許してもいいと……一瞬でも思ってしまった指先だったんだ。

     たとえば。
     たとえばの話だ。
     一瞬でも、一瞬でも、……この『お出かけ』がいつものものと違うのだと、気づきやしないかと、まどろっこしい期待を、私は抱いていたんだ。
     気づかれないように仕草に細心の注意を払いつつ、気づかれなくてもいいなんて思いつつ。
     それなのに、気づかないのは気づかないでちっとも面白くなんてないだとか、私の心が騒いでいる。

     私の期待を返せなんて身勝手なこと、まかり間違っても言えないんだけど。

  • 23◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:57:15

    「ナカヤマ、ついたよ。降りよう」
    「ん」

     まったく私らしくもない思考をぐるぐると巡らせているうちに、お利口なバスはトレセン学園前バス停にたどり着いていたらしい。
     いつの間にやら減ったり増えたりした乗客や停車ブザーの音にすら気づかなかったことに眉をひそめる。それでもワンテンポ遅れて頷けば、荷を持っていない方のトレーナーの手が再び私の手を取った。
     さっきみたいに。ためらいのひとつもなく。
     
    『通路は大変滑りやすくなっております。お乗り降りの際は、お足許にお気をつけください──』

     ガキじゃねぇんだぞ、とか、足腰が衰えてるように見えんのか、とか。そういう悪態を塞ぐようなアナウンスを浴びながら、私たちはバスを降りた。
     ワンタッチで開いた小さな折りたたみ傘を分け合って、細くなった雨の向こうに去るバスの背を言葉無く見送る。
     相変わらず空の下は薄暗く、私の指先もつやめくことはない。

    「寮まで送るよ」
    「……ああ」

     流石のワーカーホリックも片手に荷物、もう片手に傘の柄を持った上で業務用スマホはいじれない。そのことに心のどこかで安堵しつつ、促されるまま歩き出した。

     小さな雨粒がぱらぱらと傘の上で跳ねる。完全に止みはしないけど、強すぎる雨脚でもない。こんな雨の中グラウンドやら外周でトレーニングをする奴もいないだろうから、私たちを包むのはひんやりとした雨音とお互いのくっきりとした足音だけだ。
     途切れた会話の緒を繋ぎ直すこともなく、私たちの足はいつもの速度で、確実に歩みを進めていく。

     バス停を背に、校門前の横断歩道を渡り寮門を踏み越えてしまえば、美浦寮はすぐそこだ。

     今日という日が終わってしまう。どれだけ惜しんだところで、時間も距離も容赦はないさ。いずれ足は止まっちまって、……目の前にはゴール板、もとい、美浦寮の玄関口。
     届かぬ差し脚ただ虚しく。持たせていた荷に手を伸ばす。伸ばそうと、して。

    「なぁ、トレーナー」
    「ナカヤマ、あのさ」

     分け合う傘の下、雨音を縫って、ふたつの声が重なった。

  • 24◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:57:27

    ***

     頼むから見なかった振りをしてくれないか。

     思わずそんなことを思っちまうくらい、あからさまに私の耳は跳ねていた。耳も尻尾もブラフに使うのは朝飯前。担当トレーナーにおかしな疑念を抱かせないように、制御していたつもりだった。
     はっと顔を上げれば、ぱっと目が合った。昼間、突然の雨に追いやられた軒下のことを思い出す。あの時と違うのは──そうだな、私が言葉にすべきことを見失っていないのと、トレーナーの表情が得意げなものじゃあないところ。

    「ナカヤマ、先にどうぞ?」

     どっかしら迷っているような、決めかねているような表情。こういう時に先手を取るのは大体トレーナー。私もゲートの出はそう悪くないつもりなんだが、出負けしちまったもんは仕方ない。
     小さく頷いて、荷に伸ばしかけていた手を引っ込める。どう切り出すか逡巡して、また、頭を振った。

    「なんか気づくこと、ねぇの?」

     見せびらかしてけばいーじゃん、とジョーダンに言われたことを思い出すが、それが出来てりゃワケねぇんだよ。私にはそんな可愛げもない。口に出してから察して女かよと頭を抱えたくなったが、こうなっちまったもんはしょうがねぇだろ。
     両手は重力に引かれるまま。あえて隠すことも、あえて見せびらかすこともせず、視線だけをただ真っ直ぐに『トレーナー』に向ける。

     そうさ。
     私は、アンタに気づいて欲しかったんだ。
     だからまどろっこしい手順を踏みながらも、アンタが、このラベンダーネイルに気づく方に賭けたんだ。いつもの『お出かけ』と一緒じゃないとか思わなくったっていい。私ばっか浮かれてるのは腹立たしいが、──それでも。

     ああ、クソッタレ! 気づいて欲しいんだろ?!
     ならいつまでも日和ってんじゃねぇよ!

     曖昧すぎる問に対する言葉が返って来る前に、私は自身の右手を握りしめた。それから腕を上げて、トレーナーが持ってた折り畳み傘の柄を奪い取る。
     見せつけまではできねぇよ。でも、隠さない。この指先がその視界に、確実に映るように。

  • 25◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:57:39

     まったくさ、私はいつからこんなにも臆病になっちまったんだろうな。
     前までの私はもっと豪胆で、ハイリスクハイリターンに焦がされて、呆れるくらいどうしようもない博徒だったはずなのに。
     今の私は、どうしようもなく、恋とやらに振り回されるガキでしかない。合わせていた視線もいつの間にか逸らしていて、そのクセきっと可愛らしさの欠片もない、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。

    「ナカヤマ」

     無茶苦茶言ってるのはわかってた。無茶苦茶やってんのだって、自覚の上だ。
     だから。
     思いの外やわらかな声音が届けば、柄にもなく心臓が跳ねた。今度こそ耳も尻尾も誤魔化せなくて、アホみたいな反応を見せたと思う。
     そろり、と、慎重に、視線をトレーナーに向ける。まるで悪いことでもしでかしたガキみたいに。

     でも、その先には。晴れの日だろうと雨の日だろうといつも変わらない、柔和な眼差しが、そこにある。

    「その、……ずっと隠してたみたいだっし、触れない方がいいのかなと思ってたんだけど」

     さっき私が折り畳み傘を奪ったかわりに自由になったトレーナーの手が、そっと伸びる。その手が捕まえるのは──行き場を失くしていた私の左手だ。
     仄かに温かな手のひらが、私の指先を包む。そのまま持ち上げられて、私の手の甲は眼下に晒される。
     
     丁寧に形から整えられて。
     ラベンダーカラーに染まり、ほんのりと光を宿しはじめた指先が。
     この日のために。今日という日が、いつもとは違うのだとひそやかに主張したかったその指先が。

     いつの間にか生まれた雲間から差し込む白日の元、そこにあった。

    「すみれ色のネイル、だよね? とっても似合ってる。素敵だね」
    「……菫じゃねぇよ」
    「えっ」

     すみれじゃないの?!
     なんてさ、ガキじゃねぇんだから。素っ頓狂な反応してくれるなよ。確かに私は『先生』の影響もあってなにかとすみれの花に縁があるが、別にこれといってお気に入りなわけじゃないんだから。……嫌いってワケでもねぇけど。

  • 26◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:57:53

     それはさておきだ。
     あーあ、間違いやがったな。これが本当のデートとやらなら極刑モノじゃねえか? さっきまでのしおらしさはどこへやら。そんな意図を込めてジト目を向けてやると……そりゃあもうわかりやすく慌てだすから、アンタって奴は本当に飽きねぇよな。もっとも、本当のデートとやらについて私はそんなに詳しくないし、本気で責めてやる気はなかったが。
     だからさ、……コイツの手のひらにいい塩梅でおさまっている指先を、ほんの少しだけ角度を変えてみせてやる。
     いまだ細かな雨の降る傘の下ではあったけど、いつの間にやら雲間を割いて顔を覗かせた、陽の光を逃さぬように。

     ひそやかにきらめきを灯す指先を、見せつけるようにして。

    「ラベンダー。トーセンジョーダンのお節介だ」

     他意はねぇよ、といつものように告げかけて、やめた。可愛げがないのはそれこそ今に始まったことじゃない。けど、可愛げを生むには役者不足。
     それでもだ。訪れた機会を、待ち望んでしまった瞬間を見送ってしまうほど、私は愚かじゃないつもりだし。

    「でも、……悪くないだろ?」

     今日という日の特別。──気づけばいいのにと願っていた私の、声も、心も、ついでにおそらく表情も、きっと今日一番晴れてるよ。

     ああ、ほんとうに、どうしようもなくさ。

  • 27◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:58:06

    ***

    「賭けをしているんじゃないかと思ったんだ。内容がどういうものかまではわからなかったけど」
    「……だから気づいてない芝居を打った、ってか? おかしな気を回しやがって」

     まるで太陽の光に雲が追いやられるみたく晴れ間が広がれば、大体の雨は止む。
     勿論、一瞬の晴れのあとまた雨が振り始める可能性は充分あったが。束の間であったとしても、小さな折りたたみ傘は、取り敢えずの役目を終えた。

     トレーニングウェア、ダンスシューズ、その他諸々をまとめて突っ込んでいたショッパーを今度こそ受け取った別れ際。事情聴取って程でもないが、あれやこれやと問うてみる。

     別に? 時間稼ぎをするつもりなんてなかったが、諸々の答え合わせは必要だろう?

    「ちなみにいつから気づいてた」
    「朝、バス停で待ち合わせしてた時かな。……声をかける前、君が嬉しそうに爪を見てたから、なんだろうって」
    「……。ああ、そう」

     なるほど。勝負は始まる前に決していたらしい。
     それとなく日中の様子を思い起こせばなるほどと腑に落ちることもあるってもので。

     確かにコイツはブラフがヘタクソだ。じゃあボロが出やすいコイツが上手い具合に芝居を打つためにゃどうすればいいか。

     答えは簡単。別のことに集中しちまえばいい。

     たとえばダンスシューズ購入相談であったり。スポーツウェア購入相談であったり。帰りのバスで仕事に打ち込んでいたり。
     あとは、そうだな。
     角が立たないよう自然に手を取って、そもそも爪先を隠してみたり、とかか?
     
    「知ってはいたが、アンタ、本当に目敏い奴だな」
    「君についてはね、いつだってそうでありたいと思っているよ」

  • 28◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:58:18

     こういうことを恥ずかしげもなく言ってのけるんだから、やってらんねぇよな。
     それがどれだけ私の心を揺るがすか、コイツは知る由もないんだろう。

    「……そりゃご苦労なことで」

     勝敗も賭けの行方もその経緯もつまびらかに明かされた。
     君を理解することについては誰にだって負けたくないから、なぁんて威勢よく誇らしげに『トレーナー』は拳を握る。そうだな、悔しいが今日は私の負けだ。

     豪脚一閃の差し切り勝ち。……いや、番手追走からの横綱相撲かもしれねぇな。ま、なんでもいいよ。
     私の企みに気づけたことにたいそう自慢げだが、……ひとつだけ、アンタは見落としていることがある。

    「なあトレーナー」
    「うん?」
    「ラベンダーの花言葉を知ってるかい?」
    「ラベンダー?」
    「ああ。ラベンダー」

     空いている指先を目の前にかざしてみせて。
     シンプルなラベンダーカラーを見せつけて。

     なんだろう? と首を傾げて幾つかの当てずっぽうを答えたら、ほんの少しの恨み節とともに教えてやろう。

     それは沈黙。
     それは期待。

     そして。

     ──『あなたを待っています』だったってことをさ。

  • 29◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 07:58:51

    おしまい。

    あなたが気づくのを期待して待っていますみたいなナカヤマが欲しい

  • 30二次元好きの匿名さん24/05/26(日) 08:46:43

    甘酸っぱいトレナカを、ありがとうございます………!!!!
    気づいて欲しい、たったそれだけの事を言葉にはしない、けど何となく浮かれたような気持ちが表情や仕草に漏れ出てしまうナカヤマが年相応で微笑ましくて本当にかわいいです………好きです……………

  • 31二次元好きの匿名さん24/05/26(日) 11:55:38

    トレーナーと合流する前にマニキュア施された自分の爪を矯めつ眇めつ眺めてちょっと楽しそうなのかわいい
    ナカヤマの嫌じゃないけど気が進まないことに乗せられた後なんだかんだ楽しくなってるみたいな食わず嫌いさあるところ若干の子供っぽさ感じて好きなので非常によかった

  • 32◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 21:05:38

    掲示板で読むには長すぎる作品だったにも関わらず目を通していただきありがとうございました!


    >>30

    ナカヤマはこういう奥ゆかしいところを持っているのではないか、持っていればいいなあと思いながら書きました!

    雨宿りしている時はそれどころじゃなくて隠せてなかったりもして、そういう可愛らしいところも書けていたらいいなと思っています~!


    >>31

    ナカヤマ、思ったより子どもっぽいところあると思うんですよね……!

    基本的に大人びているし裏路地で遊んでいたら世知辛い世界のことも知っているとは思うのですが、まだ学生らしい子どもっぽさが出てきてくれたらなあと思いながら書きました!

  • 33◆s.yi1y1z5A24/05/26(日) 23:31:05

オススメ

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