(SS注意) Absence

  • 1二次元好きの匿名さん24/06/04(火) 09:07:00

    「Oh、トレーナーは――不在か」

     そのウマ娘は、ノックの反応がないトレーナー室の扉の前で、小さく呟いた。
     彼女の表情はぴくりともせず、声にもあまり抑揚がなく、感情の動きを感じさせない。
     しかし、その特徴的な形の耳だけは、ほんの少しだけ力なく垂れていた。

    「残念だが、仕方がない――greetingは、トレーニングの時にしよう」

     そう言って、彼女は踵を返した。
     黒鹿毛の長いポニーテール、鋭い蒼緑の瞳、すらりの伸びたモデルのような体躯。
     シンボリクリスエスはトレーナー室から離れて、数歩で立ち止まり、ちらりと振り向いた。
     立ち寄ったのは、別段、用事があったわけではない。
     たまたま所用で近くに来たので、挨拶をしていこう、という思いつきから。
     だから、トレーナーが不在だったしても何の問題ない、そのはずであった。

    「最近……多い気がするな」

     ふと、クリスエスは思った。
     ここ最近、トレーナーがトレーナー室にいないことが多い気がする、と。
     無論、彼女のトレーナーが仕事を放棄している、というわけではない。
     トレーニングは熱心に見てくれているし、ミーティングも予定通りに実施されている。
     彼女が連絡を取ればすぐに対応してくれるし、何かトラブルがあれば即座に駆けつけてくる。

     ただ今日のように、突発的に訪れると、留守にしていることが多くなった。

     それ自体は、おかしな話ではない。
     トレーナーだからといって、常にトレーナー室にいなくてはならないルールはない。
     資料集めや情報収集、あるいは他ウマ娘の視察だって、立派なトレーナーとしての仕事。
     ただ、以前であれば――――いつでも、暖かな微笑みのトレーナーが迎えてくれていた。

  • 2二次元好きの匿名さん24/06/04(火) 09:07:12

    「……What? これは――MUZUMUZU? いや、MOYAMOYA、か?」

     胸の奥から感じる違和感に、クリスエスは首を傾げる。
     コンディションに、問題はない。
     前日の睡眠時間も過不足はなく、食事もいつも通り、しっかりと摂っている。
     故に、身体の異常というのは考えづらかったが、胸の奥の妙な感覚は、静まることはない。

    「No problem、教室へ――戻る」

     クリスエスは違和感を振り払うように首を振って、歩みを進める。
     結論からいえば、彼女の言葉通り、問題はなかった。
     トレーニングの時間になって、トレーナーと顔を合わせた時には、その感覚は消え去っていたのだから。

  • 3二次元好きの匿名さん24/06/04(火) 09:07:33

    「…………今日も、不在か」

     数日後。
     再びクリスエスは、トレーナー室を訪ねてみるものの、結果は前回と同じだった。
     そして、彼女の胸の中には、消え去ったはずの違和感が舞い戻ってくる。
     
    「Don’t worry──すぐに、会える」

     クリスエスは、そう言って、踵を返す。
     それは純然たる事実、トレーニングの時間になれば、トレーナーにはすぐ会える。
     けれど、その言葉を吐き出す彼女の声はまるで、自分に言い聞かせているようにも感じられた。
     
    「クッ、クリスエスさんっ!」

     その時、突然の呼びかけが廊下に響き渡った。
     クリスエスの耳がぴこんと反応して、そのまま反射的に振り返る。
     その視線の先には、大きな黒縁眼鏡をかけたウマ娘が一人。
     黒髪の大きな三つ編み、切りそろえられた前髪、文学少女のような雰囲気
     ゼンノロブロイは、心配そうな表情を浮かべながら、クリスエスのことを見つめていた。

    「ロブロイ? 私に――何か、用事か?」
    「いっ、いえ、特に用事はないんですけど、ちょっと、元気がなさそうだったので」
    「……っ」

     クリスエスの思考が、一瞬止まる。
     元気がない、なんて自覚は一切なかった。
     けれど、図星を突かれたという思いが、彼女の中には存在していた。
     ましてや相手はゼンノロブロイ、その言葉に虚飾などはあり得ない。
     ロブロイは少し駆け足気味に、呆気に取られているクリスエスへと駆け寄って来た。

  • 4二次元好きの匿名さん24/06/04(火) 09:07:55

    「あの、もしよろしければ一緒にお茶をしませんか? カフェで色んなミネラルウォーターを取り扱うようになったんですよ」

     ロブロイは、早口で、言葉を紡いでいく。
     その様子からは、彼女の一生懸命な想いが伝わって来て、見る人の気持ちを穏やかにさせるよう。
     クリスエスは小さく、薄く、けれど確かな笑みを口元に浮かべた。

    「Thanks、ロブロイ――tea time――是非、付き合わせて欲しい」
    「……はっ、はい! でっ、では、早速ご案内しますね!?」

     嬉しそうな笑みを見せるロブロイは、クリスエスを先導すべく、彼女の横を通り過ぎる。
     その時、ふわりと、クリスエスの鼻先を、微かな匂いがくすぐった。
     クリスエスにとって、覚えのある、慣れ親しんだ匂い。
     けれど、それは――ロブロイの匂い、ではなく、別の人物の匂いであった。

    「――――Stop、ロブロイ」
    「はい? …………って、ひゃあああ!? クッ、クリスエスさん!?」

     ロブロイを呼び止めたクリスエスは、突如として顔を彼女へと近づける。
     そして、すんすんと、匂いを嗅ぎ始めるのであった。
     突然の出来事に、ロブロイは顔を真っ赤に染め上げて、硬直してしまう。
     数秒後、クリスエスは耳をピンと立てると、顔を上げて、じっとロブロイを見つめた。

  • 5二次元好きの匿名さん24/06/04(火) 09:08:09

    「……Why? トレーナーの――匂いがするな」
    「えっ」

     ぎくりと、ロブロイの身体が跳ねる。
     赤くなっていたはずの彼女の顔が、今度は青色に染まっていく。
     その様子を見て、クリスエスはどこか珍しいほどの柔らかな、そして圧の強い笑みを見せた。

    「ロブロイ――カフェで、話をしよう」

  • 6二次元好きの匿名さん24/06/04(火) 09:08:26

    「Hello――お前は、相変わらず――真面目だな」
    「……クリスエス?」

     学園の図書室。
     クリスエスに声をかけられた男性は、相手を見て驚いたように目を丸くする。
     これといった特徴はないが、落ち着いた雰囲気がある彼は、彼女の担当トレーナーであった。

    「どうして、ここに?」
    「……ロブロイが、教えてくれた」
    「あー、そっか」

     トレーナーはクリスエスの言葉を聞いて、何かを察したように苦笑いをする。
     クリスエスはそんな彼の表情を見ながら、ちらりと、机の上に視線を落とした。
     使い古されたノートに、各種参考書、そして辞書。
     そしてそこに記された文字列を見て、彼女は、彼が何をしていたのかを理解した。

    「英語の――勉強か?」
    「あははっ、実はそうなんだ」
    「…………私の、日本語では――communicationが、難しいか?」
    「いやいやいや、そうじゃないよ……そう誤解されたくなかったから、ここで勉強していたんだ」

     むしろ不安にさせちゃってゴメンね、とトレーナーは謝罪を告げた。
     クリスエスはアメリカから日本へとやってきたウマ娘であり、今も日本語の勉強を続けている。
     周囲からしてみれば十分流暢に話せているように感じるが、本人はまだ習得の度合いに満足していない。
     それ故に、トレーナー室で英語の勉強をしていると、あらぬ誤解をされてしまうのではないかと、彼は考えたのだ。

  • 7二次元好きの匿名さん24/06/04(火) 09:08:47

    「ゼンノロブロイに参考書を選んでもらってね、秘密にしてもらっていたのだけど」
    「……I see」

     クリスエスは、こくりと頷く。
     トレーナー室にいなかった理由、ロブロイが知っていた理由、その筋は通っているように感じられた。
     だけれど一点、そもそもの根本的な部分が、未だ明かされていなかった。
     
    「では何故――急に、英語の勉強を?」
    「……うん、それは、だな」

     クリスエスからの問いかけに対して、トレーナーは少し恥ずかしそうに頬をかいた。
     しばらくバツが悪そうに視線を彷徨わせて、困ったように眉を垂らして、やがて小さくため息をつく。
     そして、観念したように、彼は理由を口にした。

    「いつか、君の故郷に行くって話をしただろ?」
    「Yes、それは――私も、お前と話したのを――覚えている」

     それは、一月ほど前の話。
     クリスエスの下に、彼女の両親から、一度帰ってこないかと連絡があった。
     日本での彼女の活躍は著しく、それは海を越えて、彼女の故郷へも伝わっている。

     そのお祝いと――――そこまで支えてくれたトレーナーへのお礼を兼ねて、というで、二人を誘っていた。

     クリスエスとしても、一度、母国に顔を出しての報告をしておきたい。
     トレーナーとしても、担当の両親に、ちゃんと挨拶をしておきたい。
     行くのは確定、ローテーションの問題もあるが故、予定を組み立てるのは落ち着いてから。
     二人は、そう結論づけていた。

  • 8二次元好きの匿名さん24/06/04(火) 09:09:03

    「その時に少しでも君に近い視線で、君の故郷を知られたら良いなって、そう思ってさ」

     クリスエスが、どのような気持ちで故郷にいたかを知りたい。
     クリスエスが、どんな風に周りの人から愛されていたのかを知りたい。
     クリスエスが、何をして日々を過ごしていたのかを知りたい。
     彼が勉強を始めた理由は、そんな幼子のような好奇心からであった。
     
    「――――」
     
     きょとんとした表情で、クリスエスはトレーナーを見つめた。
     無言のまま、彼の隣の席へと腰掛けて、読みかけの参考書を手に取る。
     そして、椅子を少しだけ寄せると、今度は彼の方がきょとんとした表情を浮かべていた。

    「クリスエス?」
    「次回は、私を呼ぶことを提案する――その方が――Missionの達成は容易と、思う」
    「……いいのか?」
    「Never mind――私も、お前に祖国のことを――良く知って欲しい」
    「……そっか、それじゃあ遠慮せずに、お願いしようかな」
    「ふっ……All right、何でも――聞いてくれ」

     そう言って、クリスエスは柔らかな微笑みを浮かべる。
     彼女の尻尾は、ゆらゆらと、トレーナーの背中を撫でながら、楽しげに揺らめいていた。

  • 9二次元好きの匿名さん24/06/04(火) 09:10:14

    お わ り
    完全にとばっちりを受けたロブロイさん

  • 10二次元好きの匿名さん24/06/04(火) 10:52:58

    このレスは削除されています

  • 11二次元好きの匿名さん24/06/04(火) 19:58:45

    匂いが移るほど近くでナニしてたんですかね…

  • 12124/06/04(火) 20:39:30

    >>11

    気づいたクリスエスの方が凄いということで

  • 13二次元好きの匿名さん24/06/04(火) 21:40:54

    ありがとうありがとう・・・
    クリスかわいいよぉ・・・

  • 14124/06/05(水) 06:24:23

    >>13

    こういうクリスエスもいいよね……

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