『ほら人間椅子に座って。もっとシャツのボタン外して。』 作:天川乱歩

  • 1二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 22:53:58

    【閲覧注意】

    【閲覧注意】

     プロデューサーは、毎朝、藤田ことねの登校を見送ってしまうと、それはいつも九時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、アイドル科の方の、教室を転用した事務所へ、とじ籠こもるのが例になっていた。そこで、彼は今、初星学園の夏のH.I.Fに参加する為の、長い演出計画にとりかかっているのだった。

     世界一可愛いアイドルである藤田ことねは、この頃では、中等部時代の落ちこぼれアイドルの影を薄く思わせる程に有名になっていた。彼女の所へは、毎日の様に藤田ことねちゃん教の崇拝者達からの手紙が、幾通となくやって来た。

     今朝もプロデューサーは、デスクの前に坐ると、仕事にとりかかる前に、まず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。

  • 2二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 22:56:11

    それはいずれも、きまり切った様に、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼は、担当アイドルへの優しい心遣いから、どの様な手紙であろうとも、彼女に宛てられたものは、兎も角く一通りは読んで見ることにしていた。

     簡単なものから先にして、二通の封書と、一葉のはがきとを見てしまうと、あとにはかさ高い原稿らしい一通が残った。別段通知の手紙は貰っていないけれど、そうして、突然怪文書を送って来る例は、これまでにしても、よくあることだった。それは、多くの場合、長々しく退屈極まる代物であったけれど、彼は兎も角も、表題だけでも見て置こうと、封を切って、中の紙束を取出して見た。

     それは、思った通り、原稿用紙を綴じたものであった。が、どうしたことか、表題も署名もなく、突然「世界一可愛いあなた」という、呼びかけの言葉で始まっているのだった。ハテナ、では、やっぱり手紙なのだろうか、そう思って、何気なく二行三行と目を走らせて行く内に、彼は、そこから、何となく異常な、妙に気味悪いものを予感した。そして、持前の好奇心が、彼をして、ぐんぐん、先を読ませて行くのであった。

  • 3二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 22:57:05

     世界一可愛いあなた、
     突然、このような無躾けな御手紙を、差上げます罪を、幾重にもお許し下さいませ。
     こんなことを申上げますと、あなたは、さぞかしびっくりなさる事で御座いましょうが、私は今、あなたの前に、私の犯して来ました、世にも不思議な悪戯を、告白しようとしているのでございます。

     私は数ヶ月の間、全く初星学園から姿を隠して、本当に、悪魔の様な生活を続けて参りました。もちろん、広い世界に誰一人、私の所業を知るものはありません。もし、何事もなければ、私は、このまま永久に、初星学園に立帰ることはなかったかも知れないのでございます。

  • 4二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:00:06

     ところが、近頃になりまして、私の心にある不思議な変化が起りました。そして、どうしても、この、私の因果な身の上を、告白しないではいられなくなりました。ただ、かように申しましたばかりでは、色々ご不審に思し召す点もございましょうが、どうか、兎も角も、この手紙を終りまで御読み下さいませ。そうすれば、何故、私がそんな気持になったのか。また何故、この告白を、殊更あなたに聞いて頂かねばならぬのか、それらのことが、悉く明白になるでございましょう。

     さて、何から書き初めたらいいのか、余りに人間離れのした、奇怪千万な事実なので、こうした、アイドル業界で使われる、怪文書という様な方法では、妙におもはゆくて、筆の鈍るのを覚えます。でも、迷っていても仕方がございません。兎も角も、事の起りから、順を追って、書いて行くことに致しましょう。

  • 5二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:02:14

     私という女は、生れつき、世にも烈しい情熱を、燃やしていたのでございます。私は、身の程知らぬ、甘美な、贅沢な、「夢」にあこがれていたのでございます。

     私の夢は、トップアイドルを自らの手で育てることでありました。私という女は、どんな難しい仕事でも、確実にこなしてみせる一番星というので、学園でも、私には特別に目をかけて、仕事も、上物ばかりを、廻してくれて居りました。そんな立場になりますと、完璧な自分にはもはや伸びしろはないのではないか、それならば自分の全精力を傾けて、完璧なアイドルをプロデュースするのが私の行くべき道ではないか、そう思うようになりました。成長途上や未熟な生徒には、ちょっと想像出来ない様な不安ではございましょうが、でも、苦心をすればしただけ、出来上った時の愉快というものはありません。生意気を申す様ですけれど、その心持ちは、芸術家が立派な作品を完成した時の喜びにも、比ぶべきものではないかと存じます。

  • 6二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:05:07

     ところが、いつの場合にも、私のこの、ふわふわもこもことした金色の夢は、たちまちにして、生徒会の姦しい話声や、ブルドーザーの様に轟き叫ぶ、そのあたりの庶務の声に妨げられて、私の前には、又しても、醜い現実が、あの灰色のむくろをさらけ出すのでございます。現実に立帰った私は、そこに、理想のプロデューサー像とは似てもつかない、哀れにも完璧すぎる、自分自身の姿を見出します。そして、夢の中で、私にほほえみかけてれた、あの美しい担当アイドルは。……そんなものが、全体どこにいるのでしょう。その辺に、埃まみれになって遊んでいる、汚らしい非公認マスコットでさえ、私なぞには、見向いてもくれはしないのでございます。ただ一つ、寂しく輝く一番星という椅子だけが、今の夢の名残の様に、そこに、ポツネンと残って居ります。
     私は、そうして、一番星としての仕事を果たす度ごとに、いい知れぬ味気なさに襲われるのでございます。その、何とも形容の出来ない、いやあな、いやあな心持は、月日が経つに従って、段々、私には堪え切れないものになって参りました。
    「こんな、完璧な生活を、続けて行く位なら、いっそのこと、死んでしまった方がましよ」私は、真面目に、そんなことを思います。レッスン室で、コツコツとステップを踏みながら、或は、生徒会室で仕事を坦々とこなしながら、その同じことを、執拗に考え続けるのでございます。「しかし、死んでしまう位なら、それ程の決心が出来るなら、もっと外に、方法がないものかしら。例えば……」そうして、私の考えは、段々恐ろしい方へ、向いて行くのでありました。

  • 7二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:06:57

    こわいよぅ

  • 8二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:07:53

     その頃私は、嘗て手がけたことのない大きな仕事を任されておりました。完璧にこなしたといえども、日頃の不満と相まった疲労は中々癒えてくれはしませんでした。そんな中、私の日々の癒しの一つは、十王家にある大きな四人がけソファで寛ぐことでありました。

     その日、私は例によって、四人がけになっているその椅子の一つを、日当りのよい板の間へ持出して、ゆったりと腰を下しました。何という坐り心地のよさでしょう。フックラと、硬すぎず軟らかすぎないクッションのねばり工合、適度の傾斜を保って、そっと背中を支えてれる、豊満な凭れ、デリケートな曲線を描いて、オンモリとふくれ上った、両側の肘掛け、それらのすべてが、不思議な調和を保って、渾然として「安楽(コンフォート)」という言葉を、そのまま形に現している様に見えます。

     私は、そこへ深々と身を沈め、両手で、丸々とした肘掛けを愛撫しながら、うっとりするのを好んでおりました。すると、私の癖として、止めどもない妄想が、五色の虹の様に、まばゆいばかりの色彩を以って、次から次へと湧き上って来るのです。あれを幻というのでしょうか。心に思うままが、あんまりはっきりと、眼の前に浮んで来ますので、空恐ろしくなった程でございます。

  • 9二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:09:22

     そうしています内に、私の頭に、ふとすばらしい考えが浮んで参りました。悪魔の囁きというのは、多分ああした事を指すのではありますまいか。それは、夢の様に荒唐無稽で、非常に不気味な事柄でした。でも、その不気味さが、いいしれぬ魅力となって、私をそそのかすのでございます。

     最初は、ただただ、職人が丹誠を籠めた美しい椅子を、自分の手元から離し度くない、出来ることなら、その椅子を学園に持ち込みたい、そんな単純な願いでした。それが、うつらうつらと妄想の翼を拡げて居ります内に、いつの間にやら、その日頃私の頭に醗酵して居りました、ある恐ろしい考えと、結びついてしまったのでございます。そして、私はまあ、何という気違いでございましょう。その奇怪極まる妄想を、実際に行って見ようと思い立ったのでありました。
     私は大急ぎで、一番よく出来ていると思う椅子の一つを、バラバラに壊してしまいました。そして、改めて、それを、私の妙な計画を実行するに、都合のよい様に造り直しました。

  • 10二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:12:13

     それは、ごく大型の四人がけソファですから、掛ける部分は、床にすれすれまで皮で張りつめてありますし、そのほか凭れも肘掛けも、非常に部厚く出来ていて、その内部には、人間一人が隠れていても、決して外から分らない程の、共通した、大きな空洞うつろがあるのです。無論、そこには、巌丈な木の枠と、沢山なスプリングが取りつけてありますけれど、私はそれらに、適当な細工を施して、人間が掛ける部分に膝を入れ、凭れの中へ首と胴とを入れ、丁度椅子の形に坐れば、その中にしのんでいられる程の、余裕を作ったのでございます。

     そうした細工は経験がないものの、持ち前の完璧さで十分手際よく、便利に仕上げました。例えば、呼吸をしたり外部の物音を聞いたり小型カメラで撮影したりする為に皮の一部に、外からは少しも分らぬ様な隙間を拵えたり、凭れの内部の、丁度頭のわきの所へ、小さな棚をつけて、何かを貯蔵出来る様にしたり、ここへ水筒と、保存用の食料とを詰め込みました。ある用途の為めに大きなゴムの袋を備えつけたり、そのほか様々の考案を廻らして、食料さえあれば、その中に、二日三日這入はいりつづけていても、決して不便を感じない様にしつらえました。謂わば、その椅子が、人間一人の部屋になった訳でございます。

  • 11二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:13:51

     私はレッスン着一枚になると、底に仕掛けた出入口の蓋を開けて、椅子の中へ、すっぽりと、もぐりこみました。それは、実に変てこな気持でございました。まっ暗な、息苦しい、まるで墓場の中へ這入った様な、不思議な感じが致します。考えて見れば、墓場に相違ありません。私は、椅子の中へ這入ると同時に、丁度、隠れ簑でも着た様に、このアイドル業界から、消滅してしまう訳ですから。

     間もなく、学生寮から業者のものが、四脚の椅子を受取る為に、大きなトラックを走らせ、十王家にやって参りました。車に積み込む時、業者の一人が「こいつは馬鹿に重いぞ」と怒鳴りましたので、椅子の中の私は、思わずハッとしましたが、一体、椅子そのものが、非常に重いのですから、別段あやしまれることもなく、やがて、ガタガタという、トラックの振動が、私の身体にまで、一種異様の感触を伝えて参りました。

  • 12二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:15:09

    怖すぎる…

  • 13二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:16:17

     非常に心配しましたけれど、結局、何事もなく、その日の午後には、もう私の這入った椅子は、学生寮の一室に、どっかりと、据えられて居りました。後で分かったのですが、それは、私室ではなくて、人を待合せたり、軽い食事をしたり、プロデューサーと相談したり、色々の人が頻繁に出入りする、談話室とでもいう様な部屋でございました。

     もうとっくに、お気づきでございましょうが、私の、この奇妙な行いの第一の目的は、人のいない時を見すまして、椅子の中から抜け出し、学生寮の中をうろつき廻って、アイドルの視察を行うことでありました。椅子の中に人間が隠れていようなどと、そんな馬鹿馬鹿しいことを、誰が想像致しましょう。私は、影の様に、自由自在に、部屋から部屋を廻ることが出来ます。そして、生徒が帰ってくる時分には、椅子の中の隠れ家へ逃げ帰って、息を潜めて、彼女たちの無防備な私生活を、見物していればよいのです。

  • 14二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:18:18

     さて、この私の突飛な計画は、それが突飛であっただけ、人々の意表外に出でて、見事に成功致しました。学生寮に着いて三日目には、もう、たんまりと一仕事済ませて居た程でございます。いざ部屋に侵入するという時の、恐ろしくも、楽しい心持、アイドルの原石を見つけた時の、何とも形容し難い嬉しさ。それがまあ、どの様な不思議な魅力を持って、私を楽しませたことでございましょう。

     でも、私は今、残念ながら、それを詳しくお話している暇はありません。私はそこで、そんな視察などよりは、十倍も二十倍も、私を喜ばせた所の、奇怪極まる快楽を発見したのでございます。そして、それについて、告白することが、実は、この手紙の本当の目的なのでございます。

  • 15二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:20:54

     お話を、前に戻して、私の椅子が、学生寮の談話室に置かれた時のことから、始めなければなりません。

     椅子が着くと、一ひとしきり、学生寮の寮長が、不具合がないか点検して行きましたが、あとは、ひっそりとして、物音一つ致しません。多分部屋には、誰もいないのでしょう。でも、到着そうそう、椅子から出ることなど、とても恐ろしくて出来るものではありません。私は、非常に長い間(ただそんなに感じたのかも知れませんが)少しの物音も聞きもらすまいと、全神経を耳に集めて、じっとあたりの様子を伺って居りました。

  • 16二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:23:28

     そうして、しばらくしますと、多分廊下の方からでしょう、すたすたと軽やかな足音が響いて来ました。それが、二三メートル向こうまで近付くと、部屋に敷かれた絨毯の為に、ほとんど聞きとれぬ程の低い音に代りましたが、間もなく、初々しい少女の吐息が聞え、ハッと思う間に、栄養の足りないらしい小さな身体が、私の膝の上に、ドサリと落ちてフカフカと二三度はずみました。私の太腿と、その娘のキュッとしまった小さなお尻とは、薄い鞣皮一枚を隔てて、あたたかみを感じる程も密接しています。幅の狭い彼女の肩は、丁度私の胸の所へもたれかかり、軽い両手は、革を隔てて、私の手と重なり合っています。そして、少女は汗をかいていたのでしょう。女性的な、豊かな薫りが、革の隙間を通して漂って参ります。

  • 17二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:25:42

     仮にあなたが、私の位置にあるものとして、その場の様子を想像してごらんなさいませ。それは、まあ何という、不思議千万な情景でございましょう。私はもう、余りの恐ろしさに、椅子の中の暗闇で、堅く堅く身を縮めて、わきの下からは、冷たい汗をタラタラ流しながら、思考力もなにも失ってしまって、ただもう、ボンヤリしていたことでございます。

     その少女を手始めに、その日一日、私の膝の上には、色々な人が入り替り立替り、腰を下しました。そして、誰も、私がそこにいることを——彼女たちが柔いクッションだと信じ切っているものが、実は私という人間の、血の通った太腿であるということを——少しも悟らなかったのでございます。

  • 18二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:27:03

     まっ暗で、身動きも出来ない布張りの中の天地。それがまあどれ程、怪しくも魅力ある世界でございましょう。そこでは、人間というものが、日頃目で見ている、あの人間とは、全然別な不思議な生きものとして感ぜられます。彼女らは声と、鼻息と、足音と、衣ずれの音と、そして、幾つかの丸々とした弾力に富む肉塊に思えるのでございます。私は、彼女等の一人一人を、その容貌の代りに、肌触りによって識別することが出来ます。あるものは、ふくふくと肥え太って、柔らかい餅の様な感触を与えます。それとは正反対に、あるものは、コチコチに痩せひからびて、骸骨のような感じが致します。その外、背骨の曲り方、肩甲骨の開き工合、腕の長さ、太腿の太さ、或は尾てい骨の長短など、それらの全ての点を綜合して見ますと、どんな似寄った背恰好の人でも、どこか違った所があります。人間というものは、容貌や指紋の外に、こうしたからだ全体の感触によっても、完全に識別することが出来るに相違ありません。

  • 19二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:28:53

     余りにあからさまな私の記述に、どうか気を悪くしないで下さいまし、私はそこで、一人の少女の肉体に、(それは私の椅子に腰かけた最初の娘でありました。)烈しい愛着を覚えたのでございます。

     声によって想像すれば、それは、まだうら若い15の乙女でございました。丁度その時、部屋の中には誰もいなかったのですが、彼女は、何か嬉しいことでもあった様子で、小声で、不思議な歌を歌いながら、躍る様な足どりで、そこへ這入って参りました。そして、私のひそんでいる椅子の前まで来たかと思うと、いきなり、華奢な、それでいて、非常にしなやかな肉体を、私の上へ投げつけました。しかも、彼女は何がおかしいのか、突然アハアハ笑い出し、手足をバタバタさせて、網の中の魚の様に、ピチピチとはね廻るのでございます。

     それから、殆ど半時間ばかりも、彼女は私の膝の上で、時々歌を歌いながら、その歌に調子を合せでもする様に、クネクネと、重い身体を動かして居りました。

  • 20二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:32:16

     これは実に、私に取っては、まるで予期しなかった驚天動地の大事件でございました。今、身も知らぬアイドル科の乙女と、同じ部屋に、同じ椅子に、それどころではありません、薄いなめしがわ一重を隔てて肌のぬくみを感じる程も、密接しているのでございます。それにも拘わらず、彼女は何の不安もなく、全身の重みを私の上に委ねて、見る人のない気安さに、勝手気儘な姿体を致して居ります。私は椅子の中で、彼女を抱きしめる真似をすることも出来ます。皮のうしろから、その豊かな首筋に接吻することも出来ます。その外、どんなことをしようと、自由自在なのでございます。

     この驚くべき発見をしてからというものは、私は最初の目的であった視察などは第二として、ただもう、その不思議な感触の世界に、惑溺してしまったのでございます。私は考えました。これこそ、この椅子の中の世界こそ、私に与えられた、本当のすみかではないかと。

  • 21二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:33:08

     椅子の中の推し活(!)それがまあ、どんなに不可思議な、陶酔的な魅力を持つか、実際に椅子の中へ這入って見た人でなくては、分かるものではありません。それは、ただ、触覚と、聴覚と、そしてわずかの嗅覚のみの推し活でございます。暗闇の世界の推し活でございます。決してこの世のものではありません。これこそ、悪魔の国の享楽なのではございますまいか。考えて見れば、この世界の、人目につかぬ隅々では、どの様に異形な、恐ろしい事柄が、行われているか、ほんとうに想像の外でございます。

     無論始めの予定では、視察の目的を果しさえすれば、すぐにも学生寮を逃げ出すつもりでいたのですが、世にも奇怪な喜びに、夢中になった私は、逃げ出すどころか、いつまでもいつまでも、椅子の中を永住のすみかにして、その生活を続けていたのでございます。

  • 22二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:35:20

     殆ど二六時中、椅子の中の窮屈な場所で、腕を曲げ、膝を折っている為に、身体中がしびれた様になって、完全に直立することが出来ず、しまいには、食堂や化粧室への往復を、這って行った程でございます。私という女は、それ程の苦しみを忍んでも、不思議な感触の世界を見捨てる気になれなかったのでございます。

     元来学生寮のことですから、そこには絶えず生徒の出入りがあります。したがって私の奇妙な推し活も、時と共に相手が変わって行くのを、どうすることも出来ませんでした。そして、その数々の不思議な推しの記憶は、普通の場合の様に、その容貌によってではなく、主として身体の恰好によって、私の心に刻みつけられているのでございます。

     あるものは、バレエダンサーの様に精悍で、すらりと引き締った肉体を持ち、あるものは、年下の姉のように妖艶で、ふわふわと包容力のある肉体を持ち、あるものは、ゴム毬の様に肥え太って、脂肪と弾力に富む肉体を持ち、又あるものは、ギリシャの彫刻の様に、ガッシリと力強く、円満に発達した肉体を持って居りました。その外、どの娘の肉体にも、一人一人、それぞれの特徴があり魅力があったのでございます。

  • 23二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:36:49

     さて、私が学生寮へ参りましてから、何ヶ月かの後、私の身の上に一つの変化が起ったのでございます。といいますのは、とある生徒が、怪しげに発光するドリンクをこぼしてしまったために、私の住まいでもある椅子を、やむを得ず処分することになってしまったのです。

     私は、それを知ると、一時はガッカリ致しました。そして、それを機として、もう一度学園へ立帰り、新しい推し活を始めようかと思った程でございます。その時分には、調査済みアイドルの資料が相当の量に上っていましたから、たとえ学園に戻っても以前の様に、アイドルプロデュースの夢に焦がれることはないのでした。が、又思い返して見ますと、学生寮を出たということは、一方に於ては、大きな失望でありましたけれど、他方に於ては、一つの新しい希望を意味するものでございました。といいますのは、私は数ヶ月の間も、それ程色々のアイドルを推したにも拘らず、私がプロデュースするにふさわしいアイドルには全く(真の意味で)接触することができていないということなのでした。やはり、私という女は、本当の才能を持ったアイドルの原石に対してでなければ、本当の情熱を感じることが出来ないのではあるまいか。私は段々、そんな風に考えていたのでございます。そこへ、丁度私の椅子が処分ついでに他所に譲渡されることになったのであります。今度は、ひょっとすると、私の目にかなうアイドルの元に行けるかも知れない。それが、私の新しい希望でございました。私は、兎も角も、もう少し椅子の中の生活を続けて見ることに致しました。

  • 24二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:40:56

     寮長との申し合わせをする際に、それとなく誘導することで、アイドル科の事務所のいずれかに椅子を引き渡すよう取り決めてもらいました。

     引き取り手が決まる二三日の間、非常に苦しい思いをしましたが、でも、募集が始まると、幸せなことには、私の椅子は早速さっそく貰い手がつきました。謎のドリンクで汚れても、十分人目を引く程、立派な椅子だったからでございましょう。

     貰い手のプロデューサーは、かなり見上げた性格の持主で、私の椅子は、彼の事務所の壁際に置かれましたが、私にとって非常に満足であったことには、その事務所は、プロデューサーよりは、寧ろ、彼の担当アイドルが使用するものだったのでございます。それ以来、約一ヶ月の間、私は絶えず、彼女と共に居りました。彼女の授業と、下校後の時間を除いては、彼女のしなやかな身体は、いつも私の上にありました。それというのも、彼女は、その間、日頃の疲れのために事務所につめきって、休息に没頭しておられたからでございます。

  • 25二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:42:05

     私がどんなに彼女を愛したか、それは、ここにくだくだしく申し上げるまでもありますまい。彼女は、その輝きに初めて見惚れたアイドルで、しかも十分素晴らしい才能の持主でありました。私は、そこに、始めて本当の恋を感じました。それに比べては、学生寮での、数多い経験などは、決して恋と名づくべきものではございません。その証拠には、これまで一度も、そんなことを感じなかったのに、その生徒に対してだけ私は、ただ秘密の視察を楽しむのみではあき足らず、どうかして、私の存在を知らせようと、色々苦心したのでも明らかでございましょう。

     私は、出来るならば、彼女の方でも、椅子の中の私を意識して欲しかったのでございます。そして、虫のいい話ですが、私を愛して貰いたく思ったのでございます。でも、それをどうして合図致しましょう。若し、そこに人間が隠れているということを、あからさまに知らせたなら、彼女はきっと、驚きの余り、プロデューサーや先生達に、その事を告げるに相違ありません。それではすべてが駄目になってしまうばかりか、私は、恐ろしい罪名を着て、法律上の刑罰をさえ受けなければなりません。

  • 26二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:43:32

     そこで、私は、せめて彼女に、私の椅子を、この上にも居心地よく感じさせ、それに愛着を起させようと努めました。アイドルである彼女は、きっと常人以上の、微妙な感覚を備えているに相違ありません。若しも、彼女が、私の椅子に生命を感じてくれたなら、ただの物質としてではなく、一つの生きものとして愛着を覚えてくれたなら、それだけでも、私は十分満足なのでございます。

     私は、彼女が私の上に身を投げた時には、出来るだけフーワリと優しく受ける様に心掛けました。彼女が私の上で疲れた時分には、分らぬ程にソロソロと膝を動かして、彼女の身体の位置を換える様に致しました。そして、彼女が、うとうとと、居眠りを始める様な場合には、私は、ごくごく幽かに、膝をゆすって、揺籃の役目を勤めたことでございます。
     その心遣りが報いられたのか、それとも、単に私の気の迷いか、近頃では、彼女は、何となく私の椅子を愛している様に思われます。彼女は、丁度あかんぼが母親の懐に抱かれる時の様な、又は、乙女が恋人の抱擁に応じる時の様な、甘い優しさを以て私の椅子に身を沈めます。そして、私の膝の上で、身体を動かす様子までが、さも懐かしげに見えるのでございます。

     かようにして、私の情熱は、日々に烈しく燃えて行くのでした。そして、遂には、ああ、遂には、私は、身の程もわきまえぬ、大それた願いを抱く様になったのでございます。たった一目、私の推しの顔を見て、そして、言葉を交わすことが出来たなら、其そのまま死んでもいいとまで、私は、思いつめていたのよ。

  • 27二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:48:04

     ことね。あなたは、無論、とっくに悟っているのでしょうね。その私の推しというのは、実は、他ならぬあなたなのよ。

    椅子の引き取り手を募集した時、あなたは真っ先に立候補してくれたわね。その時私は狂喜したものよ。「運命だ」とね。

     ことね、一生の御願いをさせてもらうわ。たった一度、私に逢ってもらえないかしら?そして、一年でも、私のプロデュースを受けてもらうわけにはいかないかしら?私は決してそれ以上を望むものではないわ。私は昨夜、この手紙を書く為に、あなたの事務所を抜け出したわ。面と向って、あなたにこんなことをお願いするのは、非常に危険でもあり、かつあなたに迷惑がかかると思って私にはとても出来ないことだから。

     そして、今、あなたがこの手紙を読んでいる頃合いには、私は心配の為に青い顔をして、アイドル科棟のまわりをうろつき廻らずにはいられないわ。

     もし、この私のお願いを聞き届けてくれるなら、事務所の窓のサボテンの鉢植に、あなたのお守りであるメダルを掛けてちょうだい。それを合図に、私は、何気ない一人の訪問者としてあなたの事務所を訪れることでしょう。

  • 28二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:50:14

     そして、この奇妙な手紙は、ある熱烈な祈りの言葉を以て結ばれていた。

    世界一?可愛い
    宇宙一?可愛い
    もっともっと聞かせて
    ご褒美は…目を閉じて?
    ちゅ

    見つけてくれてサンキュー
    愛してくれてサンキュー
    生き甲斐にしちゃってもいいのよ
    一人じゃ無理だ 逆境
    みんながいれば最強
    見つめ合って両想い
    「好きになっちゃえ!」

    涙じゃ何も解決しないの分かってるから
    だから“言葉で”“行動で”
    魅せるよ
    覚悟はいい?

    世界一?可愛い
    宇宙一?可愛い
    もっともっと声出せ
    よそ見はダメ!OK?
    まばたきも?可愛い
    存在が?可愛い
    もっともっと聞かせて
    ご褒美は…目を閉じて?
    ちゅ

  • 29二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:51:04

     プロデューサーは、手紙の半程まで読んだ時、すでに恐しい予感の為に、まっ青になってしまった。

     そして、無意識に立上がると、気味悪い椅子の置かれた事務所から逃げ出して、食堂の方へ来ていた。手紙の後の方は、いっそ読まないで、破り棄ててしまおうかと思ったけれど、どうやら気懸りなままに、机の上で、兎も角も、読みつづけた。

     彼の予感はやっぱり当っていた。
     これはまあ、何という恐ろしい事実であろう。藤田さんが毎日腰かけていた、あのソファの中には、見も知らぬ一人の女が、入っていたのであるか。

    「オオ、気味の悪い」

     彼は、背中から冷水をあびせられた様な、悪寒を覚えた。そして、いつまでたっても、不思議な身震いがやまなかった。

     彼は、あまりのことに、ボンヤリしてしまって、これをどう処置すべきか、まるで見当がつかぬのであった。椅子を調べて見る(?)どうしてどうして、そんな気味の悪いことが出来るものか。そこにはもし、もう人間がいなくても、食物その他の、彼女に附属した汚いものが、まだ残されているに相違ないのだ。

  • 30二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:52:55

     「プロデューサーくん、お手紙ですよ」

     ハッとして、振り向くと、それは、あさり先生が、今届いたらしい封書を持って来たのだった。

     プロデューサーは、無意識にそれを受取って、開封しようとしたが、ふと、その上書きを見ると、彼は、思わずその手紙を取りおとした程も、ひどい驚きに打たれた。そこには、さっきの無気味な手紙と寸分違わぬ筆癖をもって、プロデューサーの名宛が書かれてあったのだ。

     彼は、長い間、それを開封しようか、しまいかと迷っていた。が、とうとう、最後にそれを破って、ビクビクしながら、中身を読んで行った。手紙はごく短いものであったけれど、そこには、彼を、もう一度ハッとさせた様な、奇妙な文言が記されていた。

  • 31二次元好きの匿名さん24/06/25(火) 23:53:47

     ごきげんよう。
     突然御手紙を差上げます無躾を、幾重にもお許し下さいませ。私は日頃、あなたのプロデュースするアイドルを推しているものでございます。別封お送り致しましたのは、私の拙い創作でございます。私のアイドルプロデュースへの姿勢と、アイドルのファンの一人であるという自分を、椅子というかたちに託して見たのでございます。御一覧の上、御批評が頂けますれば、此上の幸いはございません。ある理由の為に、原稿の方は、この手紙を書きます前に投函致しましたから、已に御覧済みかと拝察致します。如何でございましたでしょうか。若し、拙作がいくらかでも、先生に感銘を与え得たとしますれば、こんな嬉しいことはないのでございますが。

     原稿には、わざと省いて置きましたが、表題は「会長椅子」とつけたい考えでございます。
     では、失礼を顧みず、お願いまで。匆々。




    後日押収された椅子から毛髪や体液が検出され、十王星南は退学処分となった。

    【B End】

  • 32二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 00:00:28
  • 33二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 00:04:22

    >>28

    もうまともに聴けねえよ…怖すぎるよ…

  • 34二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 00:06:18

    おそろしや、おそろしや…

  • 35二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 00:26:53

    これ、ある日ことねが事務所に入ると椅子が消えてて、理由をPに聞くと「あの椅子なら壊れていたので処分しました」って言われて、「え〜あの椅子お気に入りだったのにな〜」って不満を言うんだけど、Pが見た事もないような表情で「新しいのを買っておきますから、あの椅子のことはもう」って言うもんだから、勘のいいことねは何か察してしまって、どうにも気になって探ってたら、Pが捨てられずにいたこの手紙を偶然見つけてしまうんだよね……

  • 36二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 00:29:11

    オチに笑ったw人間椅子ってやっぱ傑作だわw
    ことねちゃん教の司祭になりかけてたり怪文書についてきた歌詞はそのまま曲にしちゃうプロデューサーもやべーやつだな?

  • 37二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 00:34:25

    >>35

    椅子に座ると「誰かが入ってるかも」と考えて立ち上がってしまうことね?

    そのうち、寝ているときや立っているときにすら、背中に誰かが張り付いているかもという不安に襲われて続けることね?

  • 38二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 01:02:27

    そういえば原作の解釈の一つにガチで椅子の中に人いたけど拒否られたから手紙追加して創作ってことにしちゃった説があるんだっけ

  • 39二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 02:27:56

    >>37

    一体誰なの?ことねにこんな不安を植え付けた相手は。会長として許せないわ

  • 40二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 06:40:29

    およそ文章と言うものを読み、時に怪文書に仕立て上げる生活を長く送ってきたが
    これほど悍ましい気分を感じたのは何時以来だろうか

  • 41二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 07:32:37

    会長椅子というタイトルは拒否されてるのがじわじわ来る

  • 42二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 07:36:05

    >>37

    トラウマになってプロデューサーの膝の上でないと座れなくなることね?

  • 43二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 07:36:25

    >>31

    これで上から3番目に良いB Endって

    それより下のC~E END3つには何があるんだ

  • 44二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 07:36:46

    >>42

    ふむ…続けて?

  • 45二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 08:01:50

    >>44

    そりゃお前、

    こんな事になったら詰め物が入った椅子がトラウマになってもおかしくないだろ?でも固い椅子にしか座らない様にしてると体が休まらないって心配したプロデューサーと色々試した結果正体不明じゃ無きゃ大丈夫と分かってプロデューサーの膝の上に座ることになるんだ。初めはお互いおっかなびっくりだけどだんだんと慣れてきた頃にプロデューサーも詰め物が無い椅子にしか座ってないことにことねが気付いて、実は自分だけじゃ無くプロデューサーも先の一件がトラウマになっていることまで察してしまうんだ。

    一度気付いてしまうと自分だけ楽をしてる形になるのがどうしても気になってしまって、どうにか恩返しできないかと考えるんだけどでてくる結論は自分とプロデューサーが逆になる事しか出てこない。いやいやそれはあの人と同じだろうと却下するんだけど、でもそれなら自分の椅子になっているプロデューサーは何を考えて自分を座らせているんだろうと疑問に思うんだ。そうやって椅子になるならないを考えていくうちに気持ち悪かったはずの手紙の内容が段々と共感できるものだと感じ方が変わってきて、それと同時にもしかしてプロデューサーも自分と同じ事を考えているんじゃないか、自分を座ることに対してプロデューサーが抱いている思いは…という考えにとらわれたことねはある日意を決してプロデューサーに声を

  • 46二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 08:32:42

    >>33

    プロデューサーが自分のために作ってくれたと思っていた歌が、実は変質者の怪文書だったことを知って

    それでも頑張ってファンのために歌おうとするも脳裏に椅子の感触が浮かんでしまいライブ中に嘔吐することね…

  • 47二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 08:41:45

    >>43

    これもうBad Endだろ…

  • 48二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 08:48:53

    >>46

    2番のサビに「寝起きでも可愛い」って歌詞があるのが

    一気にホラー度合いが増す

  • 49二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 09:02:43

    創作で終わらせておけよ…

  • 50二次元好きの匿名さん24/06/26(水) 20:42:02

    >>22

    ここ原文では「ゴム鞠」なのをきちんと毬にしてるのえらい

    何でその丁寧さを以てこんなものを生み出そうと思ったんだ

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