- 1二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:01:41
空というものは、こんなにも重苦しいものだっただろうか──快活なビコーペガサスらしからぬ感想だった。どんより、という言葉をそのまま押し固めたような、息苦しい雲が府中の町を覆っている。
ぐるり、と見渡してもグラウンドに彼女以外の姿は見えない。くん、と彼女が鼻をならしてみると、土と水が混じった泥のような匂いがする。気が付けば地面が湿り気を帯び始めていた。ぼつり、ぽつりと遠くから雨の音が近づいてきている。そして、小さな水滴が彼女の前髪を叩いた。
その雨粒のノックに誘われるように上を向く。見上げれば、そのまま落ちてきそうな重圧感さえある空の下で、ビコーペガサスは一人佇んでいた。
「はやく中に入らなきゃいけないぞ……」
彼女は一人呟くも、その体は動こうとしなかった。先ほどまで行っていた練習の疲れが残っているせいだろうか。否、それだけではないことは彼女自身が一番承知していたのだった。
いつからだろうか、ビコーペガサスの心から燃える闘志というものが失われつつあった。カッコ良いヒーローを目指して、みんなに勇気を与えたくて頑張ってきた動力源。車でいうガソリンのようなもの──それがまるですっからかんとなってしまったような心地だった。多分、親友のヒシアケボノが引退してしまった後からだった。
ビコーペガサスがトゥインクルシリーズを駆けた時間は5年を優に過ぎ去ろうとしている。全盛期を過ぎてどうしようもなく衰えていく体、切れ味。彼女のレース成績は低迷を続けていた。そんな姿を受けて、ヒロイックさを讃える声援も減り始めていた。
ビコーペガサスは誰かのためにという想いで強くなれるウマ娘である。応援してくれるファンのために、競い合う仲間のために。いくらでも強くなれる、カッコ良いヒーローになれる。それがビコーペガサスだった。 - 2二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:02:37
けれども、親友のヒシアケボノはもうレースの世界から去ってしまった。それだけではない。かつて鎬を削った仲間たち──ヒシアマゾン、サクラバクシンオー、ノースフライトたちもいない。一度きりの対決を行ったナリタブライアンも姿を隠した。ダートのシンコウウインディはまだ走っていたものの、路線の違いから対決することはなかった。
世間では新進気鋭のマイラー達の名声が聞こえ始めている。ビコーペガサスが活躍していた輝かしい短距離の時代が終わろうとしていた。それを彼女も感じずにはいられなかった。
「……こんなことしてる場合じゃないぞっ!アタシ!……もっと練習しなきゃ、だっ!」
短距離の大きなレースが間近に控えていた。URAファイナルズやトゥインクルスタークライマックスのような特別競走だった。冷たい雨に晒されながら、重い体を引きずって彼女は練習を続ける。しかし。
自分は衰えてる。もう、誰もアタシのようなヒーローを待っていないのかもしれない──
特撮番組が通常一年で切り替わってしまうように。主役たちが過去のものとなってしまうように。自分というヒーローはもう時代遅れで不要なのではないか。そう思ってしまうことが増えた。
「こんなときキャロットマンなら……」
「そうだな……もう、考えるのはやめたっ!」
ビコーペガサスは、キャロットマンの名セリフの1つをどうにか絞り出すように吐き出す。今は暗いことを考えたくなかった。心に憧れのヒーローを宿して、少しでも前向きになりたかった。昔の元気な自分に戻りたかった。こんなのは自分らしくないことは彼女が一番承知していたのだった。
けれども、彼女の頭の中には泥が詰まったかのようにどんよりとした思考が浮かぶばかりだった。天候は悪化の一途をたどっている。彼女の耳には強くなっていく雨音が聞こえていた。そして次第に何も見えなくなって。雨以外の音は聞こえなくなった。 - 3二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:03:02
特別競走の当日まで、残念ながら空模様は改善しなかった。暗い空、雨はどうしようもなくどんよりとしていて、体が重くなるような錯覚を抱くほどだった。発走前の控室まで雨音は響いている。鬱々とした空気が否応なしに広がっていた。
「トレーナー……。アタシはどうしたら良いんだ?」
そんなビコーペガサスの様子を見て、トレーナーは澄み渡った声で告げた。湿っぽい空気を切り裂くような声だった。苦難の中にいる彼女を救うためのアドバイス。今まで彼女と共に戦ってきた仲間──キャプテンオニオンとして下す指令だった。
「ビコー!キャロットマンの34話を思い出すんだ!」
「キャロットマンの34話?それって……」
それだけを言い渡して、トレーナーはビコーペガサスを送り出したのだった。軽く背を叩く音が響く。彼女の身体には、背中を押された感触がどういう訳かずっと残り続けていた。 - 4二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:03:45
『本日も快速自慢のウマ娘が勢揃い!電光石火のレースが今、スタートしました!』
背中に残るじくじくとした何かを感じながら、ビコーペガサスは走る。芝の浸みた重い匂いが漂っている。跳ね上げられた泥がそこら中に舞っている。流れ落ちる雨は依然として、滝のように彼女を襲っていた。レース中だというのに、考えられることは先ほどのトレーナーの言葉のことばかり。未だに、雨以外の音は聞こえなかった。
キャロットマンの34話とはどのような話だっただろうか。たしかキャロットマンが敗れ去った仲間たちの力を受け継いで生まれ変わる話だったはずだ、と彼女は反芻する。けれども、その話をどうして思い出す必要があるのか。泥んこのビコーペガサスには、まだよく分からなかった。
短距離のレースはあっと言う間に決着がついてしまう電撃戦である。そんなことを考えているうちにレースの趨勢は最終直線に移行しつつあった。ビコーペガサスは後方のバ群に閉じ込められている。早く抜け出して加速しなければいけない──焦りが募るも、弱り切った小さい体、衰えてしまった足では思うように走れない。
彼女の心の中には諦めの闇が広がっていく。諦めたくない。諦められない。それは確かなのだが、同時に「でも」「だって」「だけど」という現実が。言い訳の言葉が彼女の頭を埋め尽くしていく。
追いつけない、追いつけない。前のウマ娘の背中は少しずつ遠ざかっていく。一歩、一歩と懸命に踏み出すも、叶わない。 - 5二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:04:45
もうこれまでか、ふと彼女が顔を上げた──刹那。暗い雲を割って一筋の光が差し込んだ。暗いばかりだった視界に青が見えた。灰色に燻っていたビコーペガサスの目に、元来のような空色が映り込んだ。
濡れていた芝が陽光でぴかぴかと輝いている。それはまるで、彼女がキャロットマンを好きなったきっかけのシーンの景色のようだった。そして、彼女は背中に途轍もない熱も感じた。トレーナーに押された背中から、燃えるような何かを感じる。雨に打たれて冷えていた筈の背が熱い。そんな熱に──激励に導かれて、ビコーペガサスは泥んこから抜け出した。光る芝へと足を進めた。もう、雨の音は聞こえなかった。そんな耳には信じられない声までが聞こえた。
「ビコー!」「ビコーちゃん!」「ビコーさん!」
こんなところに居るはずがない、声が聞こえる訳がない。けれども、確かに彼らはそこにいたのだ。ビコーペガサスの前を走っていたのだ。もう一緒に走れない筈の強敵たち──ヒシアケボノを始めとした友たちが青空の下で、輝く芝の上で走っていたのだった。
友が。強敵たちが。澄み渡る青空がビコーペガサスに手招きをしている。
そんなところで立ち止まっていても良いのか?そう告げているかのようだった。
ビコーペガサスというヒーローはここで終わりなのか?
「違う!アタシは──」
ビコーペガサスは力尽きそうな足をからからと回す。自分の足がどうなっているかも分からない。レースの後に粉々になってしまうかもしれない。けれども、もう負けたくなかった。自分というヒーローが時代遅れになるのも嫌だったし、それ以上に──今自分が負けてしまえば、ターフを去っていった友の記憶も色褪せてしまう気がした。あんなに楽しそうに走って。挑戦的に見つめて来るみんなを過去のものにしたくなかった。
だから、自分のこと以上に、強敵たちのことを忘れてほしくなくて。負けるわけにはいかなかった。
「そういうことだったんだな!トレーナー!」
ビコーペガサスの目にははっきりと見えていた。仲間たちと競って、先頭でゴールして、歓声の中ポーズを決める、ヒーローの姿が、自分の姿が。 - 6二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:05:26
「もう、考えるのはやめた!」
以前とは違い、自然と口からこぼれたキャロットマンの名セリフを言いながら、ビコーペガサスは自らを縛る陰気な思考を完全に振り払う。どうやら、知らない内にエンジンのかけ方というものを忘れてしまっていたみたいだった。けれども、みんなと一緒なら──強敵たちと一緒なら、この泥の中だって誰よりも早く駆け抜けてみせる。彼女の心が激しく鼓動を始めていたのだった。
ビコーペガサスの走りが変わった。眼にヒシアマゾンのような闘志が燃える。足にバクシンオーの如き速さが宿る。走る姿はまるでノースフライトのように輝いて。
「うおぉぉぉぉおおおおおっ!」
平時のビコーペガサスらしからぬ叫びが響く。近くのウマ娘だけでなく、観客までもが委縮してしまいそうな咆哮。シンコウウインディの野生が、ナリタブライアンのような熱い渇望が。彼女から発せられていたのだった。そして、親友──ヒシアケボノのような力強さで彼女はバ群を完全に抜け出した。
「みんな!ひとっ走り付き合ってもらうぞ!」
そうビコーペガサスが言うと、友たちは、満足そうに笑った。強敵たちの形をした光が一つ、また一つと彼女に重なっていく。消えかけた心のエンジンに火は轟々と燃えていた。限界を超えた彼女の足はオーバーヒート寸前だった。しかし、彼女は加速する。とっくに限界だったギアをさらに引き上げて──
「ペガサス……マッハ!ストラーーーイク!!」
天を駆けるかのような圧倒的な走り。豪快な直線一気。生まれ変わったビコーペガサスが放つ必殺技であった。そのまま、空まで登らんとするかのような勢いで、伝説のペガサスのような速さをもって。彼女はゴールを超えたのだった。
『ゴール!ビコーペガサスです!ビコーペガサスが1着を勝ち取りました!』
限界を迎えたビコーペガサスはターフへ倒れこむ。けれども、誇らしげな顔で右腕を青空へと突き上げた。祝福の光に照らされた彼女の姿には、沢山のウマ娘の姿が重なっているかのように見えた。抱き合っているかのように見えた。レース場には復活したヒーローを讃える声が溢れている。
そんな歓声を受けてビコーペガサスは、青空のような顔で笑ったのだった。 - 7124/07/15(月) 20:06:24
お読み頂いた方々、誠にありがとうございました!
凄く久しぶりにウマ娘のSSを書きました。
公式のビコーの育成ストーリーが非常に完成度高くて満足しきっていたのですが、あるきっかけがあり、再び筆を取ってしまいました。ご期待に添えたものかは分かりませんが、少しでもお楽しみ頂けたのなら幸いです。
ゲーム本編に比べて曇り過ぎでは?という意見も勿論あると思いますが、ヒーローものは挫折からの復活もお約束ですので!そういう二次創作と思って下さると幸いです。
ビコーペガサスの育成ストーリーで特撮ネタが散りばめられていたので、このSSにもある特撮番組のオマージュを沢山取り入れてみました。元ネタは知らなくても大丈夫です。 - 8二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:06:39
このレスは削除されています
- 9二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:06:55
このレスは削除されています
- 10124/07/15(月) 20:08:05
- 11二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:08:16
乙ですな。
実際のアプリシナリオのビコーはメッチャ光の存在でアレはアレで良きですが、
ビコーの史実戦績的にマジでメンタルが折れかかってもおかしくなかったわけで… - 12二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:11:32
また書いてくださるのをずっとずっとずっとずっとずっとずっと待ってました! ファンです!!!!!
仲間たちの気持ちと力とともに走り切るビコーとっても格好良かったです……また拝見できて良かった……! - 13二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:14:11
- 14二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:14:22
最近育成した者です。
こういうドン底からの胸アツ展開大好きです。
過去作も読ませていただきました、ありがとうございます! - 15二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:15:07
このレスは削除されています
- 16二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 20:31:54
どうしてこうビコー題材のSSは心の琴線に触れるのか
謎を解くために私はビコーの育成に赴いた - 17二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 21:50:17
前のコンパクトな文体も良いけど、情景描写マシマシの濃厚なSSも素敵
レースシーンが良かったです - 18二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 21:51:04
このレスは削除されています
- 19二次元好きの匿名さん24/07/15(月) 23:48:01
寝る前に熱くなれる良いSSを読めた
ありがとう - 20二次元好きの匿名さん24/07/16(火) 09:08:48
夜に感想返しさせて頂きますので、保守させて下さい
- 21二次元好きの匿名さん24/07/16(火) 09:16:28
面白かったです 良かった...
- 22二次元好きの匿名さん24/07/16(火) 14:35:17
お久しぶりです 続きをありがとうございます、大変にアツくてカッコいいビコーでした!
- 23二次元好きの匿名さん24/07/16(火) 17:35:39
素晴らしい…
- 24二次元好きの匿名さん24/07/16(火) 17:40:35
細かい描写と熱い展開の合わせ技が絶妙の良ssをありがとうございます!!
進兄さんは最初はビコーに引っ張られる形になってそうだけど最後には並び立って時には引っ張ることもできるような間柄になれそうですね - 25二次元好きの匿名さん24/07/16(火) 20:51:01
ナイスです…
- 26124/07/17(水) 00:30:48
久しぶりの投稿なのに沢山の感想ありがとうございます!大変励みになります!
ありがとうございます!
育成シナリオのビコー本当に光属性強くてヒーローみ凄いですよね!
ボノシナリオでは曇りかかってたりするので世界線の問題なのかもです。
史実で対戦した相手が全員ヤバ過ぎる問題。
拙作を待ってくださっていたというお言葉、光栄の限りです!ありがとうございます!
ビコーの話を書きやすく展開できそうなのがこんな感じの育成シナリオより後のアフターエピソードかなぁと思って書いてみた次第です。お褒めのお言葉、大変嬉しかったです!
日曜日の朝にピッタリの明るいドライブのOP曲本当に好きです。
ビコーシナリオにライダーネタ結構あったので、何か絡めてみようかなと脳内検索したところ、このOP曲結構合うのでは?と思ったのがこのSSの始まりだったり。
カッコイイBGMを脳内に流すことが出来ていたのなら嬉しいです!
ビコーの育成シナリオは良いですよね……!
ドン底からの復活劇もヒーロー物のお約束です!そこがまたたまらないのです!
過去作もお読みいただき誠にありがとうございました!
感想ありがとうございます!
心の琴線に触れるようなSSを書くことが出来ていたのなら大変嬉しいです!
ビコーの育成シナリオは何度読み返しても良いものです……
感想ありがとうございます!
以前のコンパクトな形を焼き直しても、うまい具合に書けそうになかったので描写に振ってみました!
レースシーンは楽しみながら力を込めて書いていたのでお褒め頂き嬉しいです!
- 27124/07/17(水) 00:31:01
感想ありがとうございます!
寝る前の1つの楽しみになれていたのなら書いた甲斐がありました!
感想ありがとうございます!
面白いと言って頂けて大変嬉しいです!
お久しぶりです!某所を見て再びビコーSSを書いてみた次第です。
アツくてカッコ良いビコーを書きたくてこのSSを書いていたので、そう言って頂けて安心しました!
感想ありがとうございます!
お褒めのお言葉大変嬉しいです!
描写と構成、両方をお褒め頂き嬉しい限りです!ありがとうございます!
進兄さんとビコーも良いコンビになりそうですよね。トライドロンとベルトさんを見て目を輝かせるビコーも絶対いる。
感想ありがとうございます!
お褒めのお言葉大変嬉しいです!
- 28二次元好きの匿名さん24/07/17(水) 00:54:52
- 29二次元好きの匿名さん24/07/17(水) 02:15:51
読んでる側の心も思わずStart Your Engine!してしまう熱いビコーSSでした
ビコーとドライブどちらも好きでオマージュ見る度にニヤニヤしながら楽しめました - 30124/07/17(水) 02:46:50
- 31二次元好きの匿名さん24/07/17(水) 02:59:48
スレ主さん描いてもらってよかったなあ
絵師さんもいつも楽しませてもらってます