- 1二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:38:38
※史実の気性を取り入れ、一部スズカに少し尖った性格の描写があります。苦手な方はご注意ください。
冬枯れの冷たい空気に包まれたコースをひた走る。常に前にいたい。とにかく走っていたい。トレーニングだろうとレースだろうと、決して妥協しない。何百回走ろうが、それは変わらない。そこに自分が求めているものがあるから。
集中しすぎてノルマも忘れかけた頃、あの音が聴こえた。鳥の鳴き声のような、大好きなあの人の指笛。溜まった疲労も忘れて、一直線に駆け寄った。
「トレーナーさん!」
トレーナーさんは微笑んで、もっと近付くように促した。はやる気持ちを抑えて、ゆっくりと近付いた。トレーナーさんが優しく頭を撫でてくれる。これだけで、頬を痛める冷たい風も、肺を突き刺す冷たい空気も、全身の身体の疲れも、何もかも気にならなくなる。幸せだ。目を閉じて感触に浸っていると、トレーナーさんの手は離れてしまった。......もっと撫でて欲しい。
「あの......もう少し撫でてもらえませんか?」
トレーナーさんは笑顔で頷いて、一度目よりもずっと長く撫でてくれた。トレーナーさんは私のわがままをいつも聞いてくれる。私はトレーナーさんの優しさに甘えきりだ。時々申し訳なくなる。
『満足した?』
「はい!.....すみません。わがまま言ってしまって」
『スズカの為だから、大丈夫』 - 2二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:38:55
トレーナーさんは手の動きを使って、そう話してくれた。トレーナーさんは本当に優しい。だから、せめてレースで結果を残して恩返しがしたい。
私のトレーナーさんは、話すことが出来ない。詳しくは知らないけれど、昔、喉に大怪我を負ったらしく、声らしい声は出すことが出来ない。それでも耳は聞こえるから、私は言葉で話して、トレーナーさんは手話か筆談でコミュニケーションを取る。それを煩わしいと思ったことはない。むしろ、普通に話す以上に想いが伝わる気がして、嬉しい。
トレーナーさんが、カメラで撮った写真を見せてくれた。トレーナーさんは写真を撮るのが好きだ。ただ走っている一瞬を切り取っただけなのに、計算された絵のように美しい。
「どうすれば、こんなに綺麗に撮れるんですか?」
『待つことが大事』
トレーナーさんは少し考えてから答えた。......私には無理そうだ。スペちゃんやエアグルーヴの写真を撮れたら良いと思ったのに。でも、トレーナーさんはきっと才能があると言ってくれた。そういえば、トレーナーさんと出会えたのも、カメラのおかげだった。 - 3二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:39:31
選抜レースのあの日、特に気負うこともなく、いつものように走っていた。スタートから逃げ続け、最終直線に差し掛かった時だった。普段なら気にも留めない観客席が気になった。熱視線を送る大勢のトレーナー達の中、一人だけカメラを構えている人がいた。不思議なことに、私を撮っているのだとすぐに分かった。一瞬、私の目は釘付けになった。
選抜レースが終わった後、見学していたトレーナー達が群がってきた。どの人もうるさくて、煩わしかった。何のためにメンコをしているのか、分からないのだろうか。すぐにその場を離れたが、それからも事あるごとに付きまとわれた。
スカウトを振り続けて、ようやく静かになった頃だった。いつものようにターフに向かうと、あの人がいた。前みたいに、走るウマ娘の写真を撮っている。なんとなく気になって、近付いてみることにした。向こうもこちらに気付いたようで、嬉しそうに手を振って、歩いてきた。カメラマンか何かだと思っていたが、トレーナーのバッジを付けている。穏やかな雰囲気で、首にはスカーフを巻いている。 - 4二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:40:10
「こんにちは......」
その人は言葉では返さず、ぺこりと頭を下げた。そしてメモ帳にさらさらと字を書いて、こちらに見せてきた。
『前のレース、すごい大逃げだった』
「......ありがとうございます。あの、喋らないんですか?」
そう聞くと、その人は首のスカーフを少しずらした。そこには大きな傷跡があった。思わず息を飲んだ。
『しゃべれない。でも、聞こえる』
「......すみません」
『大丈夫。変なもの見せてごめんなさい』
互いに謝ったのがおかしくて、少し笑った。すると、何かを思い出したらしく、かばんを探って1枚の紙を渡された。
「綺麗......」
それは写真だった。あの日、私がゴール板を走り抜ける瞬間を撮ったものだ。陽光を浴びて青々と茂るターフは、今にも風に吹かれてそよぎ出しそうだ。後ろ髪は躍動的になびき、毛先は光に照らされて向こうの青空を透かしている。そして、私の他には誰も写っていない。そうだ、これは、先頭の景色だ。他の人には、こう見えるんだ。 - 5二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:40:27
「あなたが......撮ったんですか?」
その人は頷いて、手をくるくるとひねるように回した。裏返せ、ということだろうか。裏返してみると、そこには文字が書いてあった。
『あなたをスカウトさせてください』
胸がとくんと高鳴った。あれほど辟易していたスカウトなのに。確かにこの人は、他のトレーナーとは違う。静かで、一緒にいると落ち着く。でも、でも、一つ確かめないといけないことがある。
「私......みんなが思ってるような大人しい子じゃありません。納得出来なかったらきっとわがままも言います。それでも良いんですか?」
『分かった。君がやりたいように走ればいい』
その日から、私とトレーナーさんは担当ウマ娘とそのトレーナーになった。 - 6二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:40:45
トレーナーさんとメイクデビューに向けての日々が始まった。トレーナーさんは、オーバーワークを気にしながら、私が満足のいくまで走らせてくれた。一緒に過ごすうち、トレーナーさんのことをもっと知りたくなった。好きなこと、嫌いなこと、過去のこと......互いに教え合った。そのうち、トレーナーさんに毎回筆談をさせるのが申し訳なくなって、手話の勉強を始めた。部屋で勉強をしていると、時々スペちゃんが覗きに来た。エアグルーヴは、私が走ること以外に打ち込めることが見つかったのを驚いて、応援してくれた。トレーナーさんはとても喜んで、褒めてくれた。私もたまらなく嬉しかった。それと、遠くにいる私への合図のために、手笛を使うことにした。本当は、鳥を撮る時に呼び寄せる為に使うものらしい。その音を聴くと、心が落ち着く気がした。
- 7二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:41:13
そんなある日、トレーニングに向かっている時だった。トレーナーさんから少し離れた場所にいる、二人のトレーナーの話し声が聞こえた。
「なんでサイレンススズカはあんな奴を選んだんだ。ずっとカメラ構えてぼーっとしてよ」
「あいつ、喋れないらしいじゃないか。そんなんでトレーナーが務まるのかね」
「トレーナーがいないとデビュー出来ないから、うるさくない木偶の坊を選んだんじゃないか。自分に文句言わない奴をさ」
それ以上は何を言ってるのか分からなかった。腹の底から激しい怒りが込み上げてきて、何も聞こえなくなった。あの人をバカにするな。気付けば脚は加速を始めていた。気付いた2人が怯えている。近付いて何をするつもりだったのか、自分でも分からない。距離が詰まってきたその時、音が消えた世界に音が鳴り響いた。トレーナーさんの手笛だ。それで少し冷静になって、ブレーキをかけた。二人は逃げるようにその場を後にした。立ち尽くしていると、トレーナーさんが近寄ってきた。 - 8二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:41:33
『どうしたの?』
「あ、あの人達が......トレーナーさんのことを......!」
『落ち着いて。俺は気にしてないから』
「でも......!」
『慣れてるから、大丈夫』
「慣れてるって......そんなの......何が大丈夫なんですか......!」
震える私の背中を、そっとトレーナーさんがさすってくれた。大きくて、温かい手だった。自分の中の怒りや悲しみが吸い取られていく気がした。
『走ればすっきりするよ』
「そう......ですね」
『俺の為に怒ってくれてありがとう』
トレーナーさんは微笑んだ。その日は体力が続く限り、ひたむきに走った。トレーナーさんは止めないでくれた。気が付くと、辺りは暗くなって、空には星が輝いていた。流石にふらふらだ。
「トレーナーさん......」
『すっきりした?』
「はい......疲れました......」
『少し休憩したら、帰ろうか』
「はい。......あの、撫でて、くれませんか?」
耳を寝かせて、頭を差し出す。背中をさすってくれた、あの感覚が忘れられなかった。トレーナーさんは困った顔ひとつしないで、頭にそっと手を添えて、撫でてくれた。嬉しさで、尻尾が勝手に動いてしまう。星空の下、余計なことは何も考えず、目を閉じてトレーナーさんの手の感触を味わった。 - 9二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:42:11
メイクデビュー当日。私はこの日を、一生忘れはしない。控え室で全ての準備が終わった時だった。
「じゃあ、行ってきますね」
『話したいな』
「良いですよ。何を話しますか?」
トレーナーさんは、スカーフを緩めて、口を動かして、喉から何かを振り絞ろうとした。はっとして、メンコを外して、耳を近付けた。少しの音も聞き逃さないよう、耳を澄ませた。
「がんばって......」
その時の気持ちを、何と言えばいいのだろう。私には、言い表せない。微かで、か細いとも言えないような声。ああ、この人はこんな声なんだ。初めて思った、自分以外の誰かのために走って、勝ちたいと。 - 10二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:42:54
『本当に良かったの?』
「何がですか?」
『せっかくのお祝い、どこにも出掛けなくて』
天皇賞(秋)優勝のご褒美に、私はトレーナーさんの部屋で一日過ごしたいと言った。二人きりで、トレーナーさんと一緒にいたかったから。どんな豪華なお祝いよりも、幸せに思えた。
「トレーナーさんが側にいてくれれば、私、他には何も要りません......だから、聞かせてください」
「スズカ......」
私の名前を、呼んでくれている。
「はい......」
焦らずに、ゆっくり聞かせてください。
「おめで、とう」
いいえ。全て、あなたのお陰です。
「......ありがとうございます。......あなたに逢えて、良かった」
そう言って、トレーナーさんとおでこを合わせた。
時々、あの日のように、トレーナーさんは私に声を聞かせてくれる。息の漏れるような、声にもならない声。それでも、私の耳にははっきりと聞こえる。静かで、愛おしい、私だけに聞かせてくれる言葉。あなたの愛は静かに響いて、私の心を満たしてくれる。 - 11二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:43:38
- 12二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:45:35
とても美しいものを見た...ありがとう 良いSSだった
- 13二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:47:17
こんなところに投下しないでハーメルンとかに投稿してほしい
本当にいいものだから… - 14二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 20:54:10
- 15二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 21:06:57
- 16二次元好きの匿名さん22/02/11(金) 21:11:21
へぇそんなものが!調べてみます、ありがとうございます!
- 17二次元好きの匿名さん22/02/12(土) 00:40:46
結局のところ、ハーメルンとpixivってどっちが良いのでしょうか?両方もアリ?
- 18二次元好きの匿名さん22/02/12(土) 01:23:44
- 19二次元好きの匿名さん22/02/12(土) 12:07:02
- 20二次元好きの匿名さん22/02/12(土) 18:08:34
素晴らしいものを見た。
- 21二次元好きの匿名さん22/02/12(土) 18:11:36
- 22二次元好きの匿名さん22/02/13(日) 00:41:11
うう、バッドエンドは無しだぞ!
- 23二次元好きの匿名さん22/02/13(日) 10:34:47