- 1二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:49:40
「Oh……まさか、こんなことになるなんてね」
トレセン学園の中庭。
普段であれば、いつも人に囲まれている彼女は、珍しく一人でベンチに腰かけていた。
栃栗毛の長いウェーブヘア、自信に溢れた美しい瞳、左耳には薄手の耳カバーと星の耳飾り。
デアリングハートは、スマホの画面に向けて、複雑な表情を浮かべていた。
「入山禁止、だなんて、そろそろ追い込みをかけようと考えていたのだけれど」
小さくため息をつきながら、ハートは微かに眉を歪めた。
彼女は、レース前になると、山に籠もるようにしていた。
厳しい環境に身を置いて、冷たい湖で瞑想を行うことによって、心身ともに鍛えあげる。
トリプルティアラのクイーン、その夢を歪めてでも、勝ちたいと思った相手を倒すために。
────結果としては、届かなかった。
けれど、彼女は、自らの選択に一切の後悔はしていない。
このレースを走れて本当に良かった、彼女は心の底から、そう思っていた。
そして、それはそれとして。
「困ったわね……もう、スケジュールに組み込んでいたというのに」
山に籠もることは、彼女の中での、一種のルーティンと化していた。
次走も決まり、そろそろ準備を、と考えていた矢先に飛び込んできた情報が『それ』だった。
どうやら、数日前の悪天候によって、山中の状況がかなり危険な状態になっていたらしい。
場所を変更しようにも、日本生まれだがアメリカ育ちである彼女は、そこまで日本の山に詳しくはない。
そもそも、短期間で条件に合致した山を見つける、なんてことは詳しくても不可能だろう。 - 2二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:49:56
「別の調整方法を考えるしかない、か」
山篭りという手段が使えない以上、苦渋の決断ではあるが、それしかなかった。
レースにはトラブルは付き物、全てが上手くいくなんてことは、まずあり得ない。
走っている最中はもちろん、走る前だって同じこと。
そのことをハートは十分に理解していた────していても、残念なものは残念であった。
「……ハートさん、何かお困りですか?」
「あら、Hi、タクト……ふふっ、ちょっとしたトラブルよ、気にしなくても良いわ」
ハートが思考の海に沈もうとしていたその時、突然、彼女は声をかけられた。
顔を上げれば、そこにはハートも良く知るウマ娘が、いつの間にか立っている。
ふわりと広がる青鹿毛のポニーテール、透き通る海のような瞳、左耳に煌めく三ツ星の髪飾り。
デアリングタクトは、心配そうな表情で、ハートのことを見つめていた。 - 3二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:50:11
「あえて厳しい環境に身を置いて、自らを追い込む……! さすがです、ハートさん! それが正しい調整なんですね!」
「……NO、調整方法は人それぞれ、私のやり方が正しいわけでも、間違っているわけでもないのよ?」
「あっ、そっか、そうですよね、あはは、私ったら」
恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべるタクトに、ハートは目を細めて、優しげに頬を緩めた。
デアリングタクトは、今年の春にトレセン学園へ入学したばかりのウマ娘である。
トリプルティアラにおける数々の激戦を目に焼き付け、彼女はそこに強い憧れと夢を抱いていた。
トレセン学園に入学するウマ娘においては────珍しくもないことである。
そんな凡百の憧れと夢を抱いた彼女は、新入生の中でも目立つ存在ではなかった。
しかしハートは、そんな彼女の中に自らと通じる『何か』を感じ取って、彼女とタッグを組んでいた。
……また、ハートの目指す相手である、『彼女達』にも少し似ていた、というのもある。
そのせいか、ハートはタクトに対して、少しばかり甘かった。
黙っておこうとした内容を、懇願されて、あっさり全て話してしまうくらいには。
「……あの、ハートさん、もしよろしければ、なんですが」
ふと、タクトは手を揉みながら、もじもじと遠慮がちに声を漏らす。
どちらかといえば受け身がちな彼女が、自ら提案をしてくるのは珍しく、ハートは静かに言葉を待った。
やがてタクトは意を決したように、言い放った。 - 4二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:50:26
「実家の方に来てみませんか? そういう場所に、心当たりがあるんです」
「あなたの、実家?」
「はい、山とは少し違いますけど、私も小さい頃そこで練習を……あっ、ハートさんには物足りないかもしれないですけど!?」
「No problem……うん、そうね」
ハートはすっと目を閉じて、思考を巡らせる。
山篭りの代替手段にかんしては、今現在、なんの当てもない。
無難な調整メニューを組む、という方向が固いが、彼女の気遣いも無下にはしなくない。
何よりもハート自身、タクトの生まれ育った地、というものに興味が湧いていた。
────こういう時は、心赴くままに。
目指すべきティアラではなく、『彼女』の待つターフへと向かった、あの時のように。
パチン、とハートは指を鳴らした。
「It’s a deal!」
「えっ?」
「タクト、あなたの案に乗るわ────さあ、さっそくプランを立てるわよ!」
「……はっ、はい! まかせてくださいっ!」
嬉しそうな笑みを浮かべて、タクトは大きく頷くのであった。 - 5二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:50:40
「……良い風が吹いているわね」
「はいっ! 今日は比較的穏やかな天候で、本当に良かったですっ!」
「…………これで?」
ごうごう。
まるで童話か何かのような音を、風が奏でる草原に、彼女達は立っていた。
タクトは、懐かしそうに目を輝かせて、爛漫な笑顔で。
ハートは、不意の強風に吹き飛ばされそうになりながら、困惑の表情で。
学園のとあるウマ娘が垂涎しそうな環境に────彼女達は立っていた。
「本当に強い時は、立っているのも一苦労ですからね!」
「そっ、そうなのね……それに、なんか、結構大きな動物がうろうろしていないかしら?」
「エゾシカさんやアライグマさんなんかがいっぱい居ますので!」
「……OK」
「でも、師匠はいないみたいですね、ハートさんを紹介したかったんですけど」
「……あなたにもそういう方がいたのね?」
「ええ、大きくて、優しくて、力持ちで、もさもさしていて」
「ふぅん、そうなの────もさもさ? えっと、タクト? それはどういうヒトなのかしら?」
「いえ、ヒトじゃないですね!」
「…………I see」
ハートは、考えることをやめた。
そんな彼女を尻目に、タクトは大きく背伸びをしながら、深呼吸をする。 - 6二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:50:56
「何にも変わってないなあ……ここは、知る人ぞ知る、トレーニングの名所なんです」
「そうなの?」
「色んなスポーツのタイトル保持者が来ているとかなんとか、私は会ったことないですけど」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、タクトは踊るように足を進めて行く。
トレセン学園で見せる姿とは少し違う、童心に帰ったような、楽しげな姿。
────これだけでも、来た甲斐はあったかしらね。
ハートはどこか母性に溢れた笑みを浮かべながら、手をぶんぶんと振るうタクトに着いていくのであった。
「ところでタクト、寝泊まりの準備はどうしたのかしら?」
「少し行ったところに管理用の建物があって、そこを間借りさせていただくことになっています」
「……キャンプではないのね?」
「あははっ、やだなあハートさん────テントなんてすぐ吹き飛ばされちゃいますよ?」
「…………これは、私が少し甘く見ていたみたいね」 - 7二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:51:15
厳しい環境に身を置くのが主題ではあるが、トレーニングも並行して行う。
無論、トレセン学園ほどの設備はない場所なので、あくまで軽く、ではあるが。
そして、トレーニングをこなしている間に、ハートはいくつかの点に気づいた。
────強風による負荷は、想像以上。
向かい風が吹けば、それだけ前に進むのは大変になる。
誰もが知っている理屈ではあるが、それを長時間受け続けるような経験は、滅多にない。
色んなトレーニングをこなす内に、風を四方八方から受けることになり、その負担はなかなかのもの。
恐らくは、ここで日常的に遊ぶだけでも身体を鍛えることが出来るだろう、そうハートは感じていた。
────野生動物の気配も、なかなか精神を削ってくる。
来た時からずっと、ハートは動物の視線を感じている。
トレーニング中もそれは変わらず、どうしても、気になってしまう。
それは一種の本能のようなものなのだろう、精神的な圧迫が、この場所にはあった。
このプレッシャーに耐えられるメンタルが身に付けば、どんな大舞台にも臆することはないだろう。
────それと、あの子。
ハートは、ちらりと横目でタクトの姿を見やる。
彼女は、緑のベッドで大の字になって倒れ伏せて、大きく息を荒げていた。 - 8二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:51:46
「はっ、はっ、はっ、げほっ、ごほっ!」
「大丈夫、タクト?」
「ふぅー、ふぅー……ハッ、ハートさんは、息も切らしてないのに……っ!」
二人の姿は、あまりにも対照的であった。
汗こそ流しているものの、ほとんど息も切らさず、涼しげな顔をしているハート。
対して、汗だくになって、呼吸を乱し、立つことすらままならない状態になっているタクト。
この状況にもっとも衝撃を受けていたのは、実のところ、ハートの方であった。
────まさか、最後まで付いて来られるなんてね。
確かに、今日のハートのトレーニングメニューは、軽いものであった。
しかしそれは、トゥインクルシリーズ現役のウマ娘、その中でも一際ストイックである名高い、デアリングハートにおける比較の話。
入学して間もなく、ロクに身体も出来上がってないようなウマ娘では、半分もこなせないような内容であった。
現に、ハートはトレーニング中、タクトの様子を気にかけ、限界を見極めようとしていた。
そして、その限界は最後の最後まで、ついに来なかったのである。
「…………やっぱり、私が甘く見ていたみたいね」
「……はえ?」
「なんでもないわ……さあタクト、今日のトレーニングは終わりよ、立てるかしら?」
「もっ、もちろんですっ!」
ハートはタクトに向けて手を差し出す。
すると、タクトは負けん気からか、無理矢理笑顔を作り出しながら、差し出された手を握った。
まだ小さく、微かに震えが残っている手、けれどその手には確かな力が込められている。
────きっと、この子は強いウマ娘になる、私を、あの子を、私達を越えて。
その想いに、何の根拠もない。
けれど、揺るがぬ確信をハートは感じて、思わず、微笑んでしまった。 - 9二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:52:18
「ふう……そろそろ戻らないと、タクトが心配するかしら」
日が落ちきり、世界が闇に包まれて、空に星々が瞬く頃。
ハートは、激しく冷たい風が吹きすさぶ草原の中、瞑想をしていた。
さすがにこの時ばかりはタクトに離れてもらって、彼女一人で。
山中の湖水には劣るけれど、ここもまた、芯まで凍り付き、奥歯が震えるような、耐える意味のある場所だった。
なお、ハート本人は水の中に入るのを希望していたが、タクトから必死に止められたので諦めている。
「……あら?」
帰路につき、間借りしたという管理用の建物の前。
電灯などの輝きとは少し違う、どこか柔らかで、緩やかな、小さい光が灯っているのを、ハートは見つけた。
まさか、と思って少し歩調を早めて近づくと、そこには予想通りの人物が待っていた。
「おかえりなさい、暖かいお茶、いかがですか?」
「……建物の中で、待っていれば良いでしょうに」
「少しでもハートさんと同じ気分でいたいなって思って…………毛布も、暖かいですよ?」
「…………もう、仕方ないわね」
トーチの前、魔法瓶を傍らに置くタクトは、自らを包み込む厚手で大きめの毛布を、少しだけ開ける。
それを見てハートは苦笑を浮かべながらも、彼女の隣に腰を落とし、その毛布へ、共に包まれた。
体温によって温められていた毛布は、ハートの凍り付きそうな身体を、徐々に溶かしていく。
そして、トドメと言わんばかりに、タクトは白い湯気の立つカップを、ハートへと差し出した。 - 10二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:52:38
「Thanks……ふぅ、暖かくて、ほんのり甘くて、とても美味しいわ、でも初めての味」
「小豆のお茶なんですよ、この辺りで採れたものを使っていて、私も小さい頃から飲んでました」
「そう、これはあなたの故郷の味、ということね」
満天の星空の下、二人は毛布に包まれ、小豆茶の飲みながら、他愛のない話を繰り返す。
しばらくはそうしていると、次第に話題がなくなって、気が付けば、揃って夜空を見上げていた。
不思議と、その時だけは、風の勢いが少しだけ収まっている。
ふと、ハートはタクトへと、言葉を向けた。
「そういえば、ちゃんと伝えていなかったわ」
「えっと、何か、ありましたか?」
「今日のことよ、ありがとうタクト、あなたのおかげで、充実した時間を過ごせそうよ」
「ハートさんが、私の好きな場所を気に入ってくれて何よりです……それに……その……」
タクトは、迷うように視線を彷徨わせる。
やがて、真っ直ぐにハートのことを見つめて、少しだけ、後ろめたそうな顔をした。 - 11二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:53:00
「下心、なんです」
「……what's?」
「ハートさんに近づける、ハートさんの役に立てる────『私が』という」
「……タクト」
「でも実際には違った、ハートさんはずっと遠いところに居て、私は着いていくことすら出来なかった」
「……」
「実力も、姿勢も、覚悟も想像以上だった、私の考えは甘かった……だから、お礼を言われるようなことじゃないんです」
悔しそうに手を震わせて、顔を顰めるタクト。
至らぬことが、届かないことが、とても悔しいと、彼女は本気で思っていた。
ハートは、その姿に過去の自分を想起する。
その想いが、明日への原動力になることを、彼女は良く知っていた。
気が付けば、ハートはタクトの頭に手を伸ばし、優しく、柔らかく、撫でつけていた。
タクトは、ぽかんとした表情を浮かべる。
「……ハートさん?」
「想ってくれて、ありがとうタクト、きっとあなたも私も、もっともっと強くなれる」
────だって、私の心は、こんなにも燃え上がっているのだから。
タクトは、ハートのタッグとして相応しくあろうと、悔しさを噛みしめている。
ハートは、そんなタクトを見て、彼女に誇れるような走りを見せようと、改めて、誓いを刻む。
そして、きっとその走りは、タクトの想いを強くする。
繋ぐことの、相乗効果。
それは、もしかしたら、『あの子』が目指した先なのかもしれない。
そんなこと考えながら、ハートはさらさらとしたタクトの髪に、手を滑らせていた。 - 12二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:53:24
「だから、むしろ、私が貰いすぎなくらいね?」
「えっ?」
「これは良くないわ、タクト、あなたから私に聞きたいことや教えて欲しいことはないかしら?」
「ええっ!? きゅっ、急に言われても……!?」
困惑した様子で、耳をくるくると回すタクト。
そして、でしたら一つだけ、と遠慮がちに人差し指を立てて、言葉を紡ぐ。
「私、入学する前から大事なレースの前とかになると、すごい緊張をしちゃって」
「なるほど、今の調整とは、真逆の話ね」
「はい……ハートさんは、どうリラックスをしているのかなって」
「そうね、私はジャズを聞いて、時間を過ごしているけれど」
「じゃず」
「……聞いてみる?」
音楽のジャンルとしては知っているが、聞いたこと殆どない。
そんな、実にわかりやすい顔をしたタクトをおかしく思いながら、ハートはスマホを取り出す。
実家には実物の名盤を揃えているが、寮生活ではそうもいかず、スマホで管理をしていた。
それを聞いたタクトは、きらきらと目を輝かせて、こくこくと頷く。
「はっ、はい! 聞きたいです! お願いしますっ!」
「OK、ここなら少しくらい音量を上げても……wow!?」
ハートがスマホを操作しようとしたその時、バサッと大きな音を立てて何かが飛来した。
二人は顔を見合わせて、その『何か』を観察する。
膝の上、ちょうと間に挟まるように、一羽の小鳥が、じっと彼女達を見つめていた。
威勢よく飛んできた割には、その場から動こうとせず、鳴き声を上げようともしない。
タクトは、こてんを不思議そうに首を傾げた。 - 13二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:53:39
「この辺りじゃ良く見る子ですけど……こんな風に寄ってくるのは、珍しいですね」
「ふふっ、あなたも一緒に聴きたいのかしら?」
当然、鳥は言葉を返さない。
ただ、羽を休めるように、その場でのんびりとしていた。
全く持って非日常な光景だけれど、二人にとっては、不思議としっくりとくる状況だった。
ハートは微笑みながら、スマホで音楽を再生する。
夜の草原に流れる、4ビートのリズム。
二人は目を閉じて、その音色にそっと、耳を傾けるのだった。 - 14二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 10:54:26
お わ り
タクトはもっと喋って - 15二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 11:08:23
ふんわりしたやり取りが良かった
この内容でサポカください - 16二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 11:09:04
ひーーー好き…感謝…よき作品を読ませていただけて幸せです
後半の穏やかな空気感?雰囲気?が好き…
(語彙力皆無で申し訳ないです) - 17124/08/01(木) 19:13:07
- 18二次元好きの匿名さん24/08/01(木) 23:35:15
- 19124/08/02(金) 06:41:20
どこのファーなのでしょう……
- 20二次元好きの匿名さん24/08/02(金) 06:50:41
ハートとタクトに入り込む「鳥」……あっ
- 21二次元好きの匿名さん24/08/02(金) 12:42:56
タイトル保持者でダメだった
熊で鍛えたんやろなあ…… - 22二次元好きの匿名さん24/08/02(金) 12:59:49
タクトちゃんジャズ聴きながら育ったからねえ
- 23124/08/02(金) 20:23:36
- 24二次元好きの匿名さん24/08/02(金) 22:51:53
これのサポカ連続イベントのラストは『師匠』との対決なんやろな
- 25二次元好きの匿名さん24/08/03(土) 00:44:41
凄く良い…
- 26124/08/03(土) 06:48:53