- 1二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 22:55:13
- 2二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 22:57:06
偉く貧相な顔でおじゃるな…麿の肉でも分けてやろうかのほほほほ…
- 3二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 22:59:31
- 4二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 23:00:31
- 5二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 23:05:44
- 6二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 23:13:37
- 7二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 23:16:54
ゆうすけちょっとこっちきて歌集はさすがに草
- 8二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 23:24:03
藤岡佑介(ふじおかのゆうすけ)
平安時代中期の貴族 川田将雅らが所属した馬寮二十の会をまとめた
その信頼で朝廷から国司の介を任命されたが任地に行く際に有力貴族から本当に行くのかと引き止められた逸話がある
津村明秀(つむらのあきひで)
平安時代中期の貴族、武将 馬寮二十の会で最優秀であったが最終的に指導力の高い藤岡佑介がまとめ役になった。
戦女神杯で愛馬の十幸薔薇での勝利が有名 - 9二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 23:24:46
- 10二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 23:28:58
自由之女神島
将雅の愛馬。雌。戦の際には簪を付け出陣していた事で知られている - 11二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 23:31:10
ちょっと前に競馬界戦国概念流行ったが、今度はタイムリーに平安貴族か
- 12二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 23:36:11
災招山之宝
砂地で活躍する将雅の愛馬。雄。人民からは怠惰な労働者と親しまれていた。 - 13二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 23:42:15
- 14二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 23:45:32
丹内祐次(たんのうちのすけつぐ)
- 15二次元好きの匿名さん24/10/15(火) 23:46:43
- 16二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 00:08:33
- 17二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 00:12:39
- 18二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 00:20:33
このレスは削除されています
- 19二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 00:21:03
印度之天体観測施設
将雅の愛馬。雄。伍阡弐佰捌拾尺競走を得意とする。 - 20二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 01:00:53
じよつきゐかめら
将雅の提案により生み出された武具。頭部に装着し使用する。戦の記録を見返す事が可能。
自由島号に騎乗した際には将雅が自由島号に優しく話しかける様子が記録されている他、
予知号に騎乗した際には落ち着かない様子の予知号を必死に宥めようとしたり、予想だにしなかった走り出しを見せた予知号に対し叫び声をあげる将雅の姿が残されている。 - 21二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 09:16:49
肥前国
川田氏の拠点がある場所 - 22二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 09:25:36
藤岡兄だと奈良時代や飛鳥時代っぽい気がする
- 23二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 09:38:18
川田氏
肥前国に拠点を置く一族
少なくとも将雅の曾祖父の代には武将兼地方貴族としての権威を確立していた模様 - 24二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 09:38:27
- 25二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 09:45:10
船長極北島
大競走で勝利した際の馬の一頭で芦毛が美しいのが特徴
一方、競走後に骨折をしていたことが判明し川田自身が競争の後に皆がする勝利拳をしなくなった理由とされる - 26二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 09:59:36
寺安多留満足琉?
- 27二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 11:44:40
見湖出無朗(みこのでむろう)
平安時代中期の貴族、武将 渡来人説があるが非常に納豆を好み、抹茶を飲まないと手が震えた記録もあり、そのうえ流暢に都言葉、宮中言葉を使用していたため地方豪族の可能性が高い
名前から蝦夷だと思われる流滅入(るめいる)と仲が良い記録が多い
皐月の宮中馬競争で勝った際に田中勝春(でんちゅうかちはる)の頭を叩いたことで有名
理由はわからないが宮中主催の馬競争で勝利した時に滑空する鳥の真似をするため罰則金を何度も支払うが支払えばできるのだとそれを続けた
一説には騎乗馬の持ち主がぜひやってほしいと懇願したとの話がある - 28二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 12:02:48
- 29二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 12:05:06
- 30二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 12:30:03
- 31二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 13:06:55
これ系だと
松若風馬
義英真(引退)
城戸義政
が素でそれっぽい名前3傑な感じがある - 32二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 13:23:47
このレスは削除されています
- 33二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 13:25:33
本田正重
- 34二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 16:19:19
池添謙一 (いけそえのたかもと)
平安時代の武将 荒れ馬あれば謙一に任せよと言われた名手
田原成貴のように京都を追放されたわけも宮中追放されたわけでもないがなぜか都人から朝敵と呼ばれていた
愛馬である可憐の最愛はわれなりと言い管理していた安田隆行(やすだのしげあきら)の息子である安田翔伍(やすだのさねくみ)と言い合いになり「その背を押して参ろうか?」と言われた
岩田康誠(いわたのやすなり)
摂津国の武士 小牧太(こまきのふとし)が朝廷に召し出された後を追うように朝廷に召し出された
言語に不自由があったとされ流滅入(るめいる)のほうがよほど上手いと揶揄された
猿踊りなる騎乗技術を用いて勝つ姿は田原成貴をして何たる醜さ、その中に美しく光るものありと称された
外つ国にて三角州労働歌で勝利した際に倭国最高の騎手と称賛された - 35二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 17:06:07
- 36二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 17:37:42
- 37二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 17:40:20
馬ばかり口説くタイプの光源氏だな
- 38二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 17:59:44
中内田充正(なかうちだみつまさ)はまんま貴族や高貴な武家っぽい名前
- 39二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 18:05:26
- 40二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 18:37:43
- 41二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 18:39:09
戦国版スレは昔あったが平安版とは…
- 42二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 19:02:19
丁苦一途易々一時
平安時代前期から中期の人物 岡部幸雄(おかべこうゆう)が貴族、武将時代に引用した言葉
苦しいのは丁度一時のこと一途でいれば易々と解決できる意
岡部は馬寮の職務がままならなくなった際にこの言葉を使い、老年期にこの言葉の通りにいかなくなったと職を辞し、出家し大僧正にまでなった - 43二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 19:08:54
- 44二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 19:13:31
津村明秀とかいう名前の武将感は異常
- 45二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 19:19:33
和田竜二(わだのたつつぐ)
平安時代の武将。父は馬寮を務めた和田守(わだのかみ)
日本史古文わかんねえな…もっと勉強しとけばよかった - 46二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 19:19:37
細江純子(ほそえ すみこ)
平安時代の女房、作家。
女性でありながらも朝廷に召し抱えられ男の武士たちに混ざり戦場を駆けたという逸話がある。
しかしながら、女であるが故に見下す者やよからぬ考えを持つ者達に言い寄られることもあり、戦場では屈辱の日々であったという。
のちに戦いからは一線を退き、結婚。文化人として戦場での記録を執筆する日々を送ることとなる。
その名解説ぶりは現代でも高く評価する専門家がいる一方、やけに艷物・官能的な表現が多く賛否が分かれている。 - 47二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 19:30:59
江田照(えだてらすのみこと)
平安時代に信仰された八百万の神の一柱
田や川を干上がらされる日照りは江田照への信仰を忘れた頃に生じると信じられた。一方で、篤く信じるものには毎年ではないが数年おきに豊作をもたらすと信じられており数多の信仰を得た。 - 48二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 20:04:17
柴田善臣(しばたのよしおみ)
平安時代前期の貴族。永らく中務省にて官職を歴任し、歴代の天皇に側近として仕えた。
現代に伝わる善臣の名も長年宮中に仕えた功績により「善なる朝臣少なからずも多からず、さりとて柴田中務に並ぶものなし」と天皇が称えたことからの通称である。 - 49二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 20:39:32
武士沢津軽守友治(たけつかさわ・つがるのかみ・ともはる)
平安後期の貴族で津軽を本拠とする武士沢氏の出身。若年の頃はその体格ゆえに「小武士」とあだ名されたが、どんなに荒々しい若者でさえ不思議と手なづける素養と人徳から敬意を持って「武師(ふつのし/ぶっし)」と呼ばれるようになった。
東内登(あづま・ないとう)や北島三日月(きたしま・みつかづき)といった数々の暴れ食客を抱えた逸話が残されており、特に三日月は彼の祖父である大豪族、北島三郎兵衛から直々に託されたと伝わる。
第一線を退いて後はその才を朝廷に惜しまれ、学士として宮中へ出仕した。
彼の事績に関しては「武士沢搓連事(たけつかさわ・よりつらねるごと)」という書物が現在まで残る一次資料として知られている。 - 50二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 21:02:28
鎌倉殿の13人に、和田殿いたから普通に平安にも居そうな感がすごい
- 51二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 21:12:42
- 52二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 21:16:11
前から思ってたけど武豊って字面だけだと古代中国の武将っぽいな…って
一騎当千の英傑感ある - 53二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 21:23:18
- 54二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 21:26:46
きっと川田将雅は大河ドラマとかで嫌な奴に描かれがちだったけどある時から愉快な面もあったことが分かる資料がぽんぽん出てきて急にコミカルな描写が増えるタイプの歴史上の人物
- 55二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 21:27:40
- 56二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 21:37:09
藤岡兄と将雅が婚姻の儀を行ったという記録『禰斗競馬』に残されている
しかし本当の婚姻の儀であったかどうかは意見が分かれており、藤岡兄の衣装が婚姻の儀にはいささか不相応なものであったこと、将雅が藤岡兄に与えるはずの砂糖菓子を先に食してしまったことがその証左である
現在では藤岡兄が競馬(くらべうま)の儀で大きな功績を残したことへの祝いであるという説が主流であるが、藤岡兄と将雅の友情の深さを伺い知れる貴重なエピソードのひとつであることは間違いないだろう - 57二次元好きの匿名さん24/10/16(水) 22:54:03
- 58二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 08:27:31
まなみ
平安時代の女房、武士。
摂津国の貴族・永島氏の娘。はじめは女房として宮中に出仕したが、そこで横山典弘に弟子入りし武士となる。
その戦いぶりは女ならではの素早い動きで相手を翻弄するものから典弘に習ったと考えられる突飛な策まで多岐に渡ったという。
記録によればあまり学問に明るくなかったようで、これが武士の道を選んだ要因の一つではないかと考えられている。 - 59二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 08:35:18
伏僧獺祭ワロタ
- 60二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 08:52:03
- 61二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 08:59:04
将雅は童子の頃より馬寮の仕事に勤しんできた
これが成年後の活躍に繋がったことは言うまでもない
またこの事を知った陰陽師、田原成貴は自らの手記に『小鬼』とだけ記しているが後年の研究においても意図は明らかになっていない
https://twitter.com/aristoHaru1/status/1846156287140418007
- 62二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 09:08:27
宮下瞳(みやのした ひとみ(瞳の上 とも))
平安時代の武将、女房。薩摩で生を受け一族と尾張へと流れる。幼い頃より馬に乗り、自然と女房として宮中に入ることよりも兄と共に武士として活躍することを志していた。
尾張の女騎馬武者として手柄をあげたのち、同志であった小山信行と結婚。男児二人をもうけ家庭に入るも息子たちからの「母上は馬と共に戦う姿が まことによくお似合いでございます」との言葉に一念発起し、再び戦線復帰。馬の訓練は間が空いたこともあり、何度も落馬したという。
書物には久々の手柄をあげた際の「母として息子達に誇らしい姿を見せることができた」といった旨の記述が残されている。 - 63二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 09:30:47
遣唐使船が廃止されるまでは唐というグローバル都市との交流があったんだ
ローマ、ガリア、ブリテン、アラブ世界とか西方との接点がなかったとは言い切れないのがまた - 64二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 11:47:55
馬寮拾弐之會
稀代の戦上手と謳われた福永洋一(ふくながのひろもと)の子息であり自身も飛雲号や独音好号で武功を挙げた祐一(すけもと)を筆頭に、歌劇王号を駆り七つもの大功を挙げた和田竜二(わだのたつつぐ)、女性として初めて戦への参加を認められた細江純子(ほそえのすみこ)、宮中馬競走に於いて飛越と平駆の両方で功績を残した柴田大知(しばたのひろとも)らを擁し、歴史に名を残す名将を多数輩出している - 65二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 11:52:37
田原さんが陰陽師なのしっくり来るな
- 66二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 12:21:28
- 67二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 12:42:51
- 68二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 12:46:54
- 69二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 12:52:20
競馬界の芦屋道満か
- 70二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 13:10:57
「馬が良かっただけで、おまえはちっとも上手く乗っていない」
- 71二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 13:18:19
何か失敗しちゃった今川氏真みたい…
- 72二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 13:25:25
流刑地(東スポ)
- 73二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 13:30:11
あなや。きせき
- 74二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 16:01:34
明松寺
播磨国明石に位置する仏教寺院。
平安時代から明石港の船大工たちの帰依を受け栄えたほか、仏僧や貴族・武士の教育にも熱心であり、元服し馬寮に出仕したばかりの若武者が明松寺へ修行に出され、寺の馬で修練を積むことも多かったと伝わる。 - 75二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 16:37:43
10年の潜伏後、恐山の修業を経ずに京の山にて祈祷師、陰陽師として復活した伝説の人物
恐山の祈祷師しか使えぬ降霊術を自宅の裏庭で散歩しながら習得したという逸話を持つ
宮中永久追放後も度々馬寮以外に堂上家からも話題が出ており、弟子の藤田伸二が辞任後に馬寮から接触禁止を出され名前も出されぬ差が当時の宮中政治に関係があるのかと研究が待たれている
東京競技(あずまのみやこきょうぎ)なる日付すらも信用できぬ、おもしろき記事は妖怪のみと言われた民間高札組織に雇われ詩を発表し続けていた
武豊が若き頃に憧れと言った人物の一人、もうひとりは河内洋(かわちのわたる)
追放理由はご禁制の薬であった説は様々な資料から見て取れる
河内洋(かわちのわたる)
平安前期から中期にかけての貴族・武士 武豊の父である武邦彦(たけのくにのひこ)の弟弟子
河内出身であり父が貴族であったので宮中へ出仕した。田原成貴との年間を通して激戦が有名
牝馬と言えば河内に任せよと言われた牝馬上手の一人
武豊をして「今最も上手き者、河内の兄上」激戦を繰り広げた田原より「日ノ本一の美しさ、素晴らしい、言う事無し」と称された
宮中主催の優駿杯の際に三宅正治(みやけのまさはる)が詠んだ「河内の夢か、豊の意地か」はあまりにも有名
馬寮を辞める際は都人から「何故辞むや?」「辞めらるとも乗れ!」と声をかけられたという
- 76二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 16:43:00
- 77二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 19:23:51
丹内渡島守祐次(たんない・おしまのかみ・すけつぐ)
平安中期の武将 蝦夷地渡島国出身。
若かりし時より辺境の戦場を渡り歩き
勇名を馳せた事で知られており、後に
辺境の流滅入(るめいる)との異名を奉られた。
馬寮二十の会の同期である津村明秀(つむらのあきひで)とは特に親交が深く、たびたび相撲に興じたと
言われている。 - 78二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 19:45:15
- 79二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 21:36:40
渡辺薫彦(わたなべのくんげん)
平安時代中期の武将・又は馬寮。
近江国栗東に生まれた後、名馬・成田頂道を駆けり菊花の競べ馬にて勝利する。
後に「最も麗しき馬は成田頂道」と述べ、他の馬が嫉妬し暴れたという逸話が残っている。 - 80二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 22:15:50
坂井璢星 (さかいのるせい)
芳人が目にかけている武士。
幼少期から戦好きであり、圭太が同じく地方豪族の父より活躍する姿を「戸﨑ばかり勝つゆえ気に入らぬ」と述べ、地方豪族の馬全てを暗記していたという逸話が残っている。
また美薔薇号に対し「彼女にせばや」、檸檬軽妙号に対し「我が愛し檸檬軽妙」と述べたりと馬への愛が大きく人民から「顔はよそほしきに戦のほかに興なし」と評価がされている。 - 81二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 22:43:38
横山和生(よこやまのかずき)
平安時代の貴族、武将
典弘の長男であり、武史(たけふみ)は実弟。
太陽神号との出会いから徐々に頭角を現しはじめ、題目得号との活躍で民にも知られるようになった。
料理の腕に優れており、武史は「兄の作りしつみれがいちばん好まし」と書物に残している。
なぜか陣地を戦場の外れに置くのが多いことでも有名。 - 82二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 22:49:59
石神深一 (いしかみのふかかず)
平安中期の武将
若い頃に酒に酔って検非違使庁で狼藉に及んだ事で閑職に追われるが相馬眼に優れたという長山氏から坂東の悍馬「我也※」を託され飛越の競べ馬にて長年に渡って王者として君臨した。
他の馬に乗る際に「我也に及ぶが如し」「我也が事思ひ出づ」とよく口にしていたという。
※我也ー本来の読みは「われなり」であるはずだが当時の日記には「わろなり」と書かれている。 - 83二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 22:50:35
本田正重の戦国武将感
- 84二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 22:56:55
- 85二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 22:59:08
最近発見された文献ではあまりにも早すぎる別れを惜しんだ文通相手から「君さるなりや」と手紙を出されるも、猿と去るの掛詞であることに気づかず、「然なり。我猿なり」と答えたそうな。
- 86二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 23:02:59
- 87二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 23:32:06
藤田伸二(ふじのたの のぶつぐ)
平安時代前期から中期にかけての陰陽師。
幸英明と共に田原成貴の高弟に数えられる。
江戸時代までの文献には公明正大で正義感の強い人物像が伝えられており宮中の公達らを集め地震を治める祈祷などを行っていた記録が残っている。
この事から浄瑠璃や読本などの創作物では安田康彦(やすだのやすのひこ)、川田将雅、池添謙一などの軍事貴族をライバルに据え、それらに相対する正義の陰陽師として描かれる事が多かった。
しかし戦後に発見された当時の日記や随筆文では酒に酔って公達らを面罵した記述や、時に刃傷沙汰に及んび検非違使に取り押さえられた記録などが見つかっており更なる研究が待たれる人物でもある。 - 88二次元好きの匿名さん24/10/17(木) 23:54:29
安藤勝己 (あんどうのまさみ)
平安前期の武士 中期ごろには詩人として活躍した 安心して勝つことから安勝(あんしょう・あんかち・あんかつ)とよばれた
元は北浦氏の出自であり、兄が小物として武家である吉田氏宅に出入りするようになると同じく出入りを始め、兄と同じく武士になった。
若年より活躍し、当時中央で栄華を恣にした福永洋一(ふくながのひろもと)に比べられ笠松の福永洋一の異名を取った
異名に引けを取らず「烏の鳴かぬ日はあふとも、勝己の勝たぬ日はあらず」と称され笠松地方最強の地位を保っていた
後に中央に召し出され宮中から感謝するほかなき馬と称された小栗帽と笠松の戦場をかけ抜けた
この時期をして勝ちすぎてつまらぬと隠居を考えていたという
中央が地方武士を召し出す勅を出した際に試験を受けさせられ不合格とされた際に都人から「合格さする気やある?」と非難され、馬寮や清華家からも「はやく手柄ある人にさすることか?」と試験を非難され改定された
改定後に合格した際は中央に来れたのも小栗帽のおかげと答えた
地方武士の先駆けとして活躍し、岩田康誠・内田博幸(うちだのはくこう)らと並び地方三傑と呼ばれた
体重の加増に苦しんだことと思うように軍馬を動かせずと辞意を表明し、以降は詩人としての活動に重きをおいた
特技は麦酒比べと麦酒当て - 89二次元好きの匿名さん24/10/18(金) 00:01:14
競馬兄弟物語集(くらべうませうとものがたりしゅう)
平安時代に成立したとされる物語集。全80巻。
福原直英(ふくはらのすぐひで)と土屋伸之(つちやののぶゆき)という2人の人物が武士や貴族を邸宅に招いて話を聞くという所謂インタビュー形式で進行する、当時としては珍しい形態の物語である。
この時代の物語集は寓話性の高いものや社会批判的な内容を含むことが多いが、この作品はそういった要素が極端に薄く、娯楽小説のような性格が強い。
物語中に登場する武士や貴族は全て実在の人物であり、内容は彼らの仕事ぶりをはじめ幼少期や趣味などのプライベートな情報まで多岐にわたる。
一部の人物は他の書物で描かれる人物像とこの作品の内容が一致しておらず、この物語は後世の創作ではないかと考えられていた時代もあった。しかし研究の進展や新たな資料の発見により、この物語集の人物像こそ実際の姿に近いのではないかと分析する学者もいる。 - 90二次元好きの匿名さん24/10/18(金) 03:08:30
このレスは削除されています
- 91二次元好きの匿名さん24/10/18(金) 03:10:53
江堀三浦(えぼり・みつうら)
平安後期の東国に本拠を構えた豪族・武士。若武者の内から華々しい活躍を見せた優秀な人物であったとされる一方、記録によっては非常に毀誉褒貶の差が激しい人物。当代随一の美人と謳われた"星の方"を娶ったことでも知られ、それが原因で神々の怒りを買ったという内容の記録も多々残っている。
紅玉髄丸を始めとする多くの駿馬と共に戦った記録が残ると同時に、運の無さを思わせる逸話も多いのも特徴。
景見由良(かげみ/けいみ・ゆら)
江堀三浦と同時代の人物。記録は少なく散逸しているものの、その殆どが彼を賞する内容であることから非常に優秀な人物であったことをうかがわせる。またいずれの文献にも「にはかに参りたるは景見由良」「景見由良いそぎ来たりて」などの記載があり、どうやら常に急いでいる人物だったようである。
旧来異国人とするのが定説であったが、近年は江堀三浦との関連が指摘されている。
- 92二次元好きの匿名さん24/10/18(金) 07:01:49
将雅は「馬上の鬼」「この世の全てを憎みたらむ顔」と称されており、非常に恐ろしい存在として解釈されることが多かった。しかし最近では「川田将雅と遊ばむ」で芸人と共に行事を開催したり、馬寮之會弐拾の面々、祐一や圭太という先達と仲睦まじい姿が描かれている古文書が発見され研究者達の解釈が変わりつつある。
- 93二次元好きの匿名さん24/10/18(金) 18:34:38
もっと武将も貴族も見たいわ!
- 94二次元好きの匿名さん24/10/18(金) 19:34:29
- 95二次元好きの匿名さん24/10/18(金) 19:42:00
吉川元春っぽい
- 96二次元好きの匿名さん24/10/18(金) 19:49:07
- 97二次元好きの匿名さん24/10/18(金) 21:01:29
松永幹夫(まつながのみきお)
平安初期の貴族、武将、歌人
整った顔立ちと人当たりの良さから数多くの女房と恋歌を交わし「女房落としの松永」とあだ名されたと伝わる。
時の天皇が臨席した歌会では親交の深い山本家の紹介で宮中に出仕していた北丘家の娘・天式部(あまのしきぶ)と見事な歌を交わし称賛されたが、松永は日記で、お転婆で気難しいところがある天式部が帝の前で無作法を働かないか気をもんでいたと回顧している。 - 98二次元好きの匿名さん24/10/18(金) 21:22:52
岡部幸雄(おかべのゆきかつ)
平安時代末期の武将・歌人。上野国新田荘の出身。
当代一の勇将と知られ、新堀帝に仕えて七度の大戦に勝利した事が夙に知られている。
晩年は崩御した新堀帝を偲んで出家し、大僧正の務めを果たしつつ、歌集「帝の妹背」を記した歌人としても名高い。 - 99二次元好きの匿名さん24/10/19(土) 01:05:33
森泰斗(もり・やすます)
現在の千葉県船橋市を中心に強い勢力を築いた平安末期の武将。群雄割拠の関東地方において実力の抜きんでた武将の一人であり、しばしば中央の武者たちをも制するほどであった。
武士沢津軽守から託された北島三日月と共に多くの戦いを制したことや、彼との別れに際して書き残した強烈な文が現在まで良く知られている。
— 2023年08月08日
また極めて強靭な体を持っていたために頭へ致命傷を受けても平然と復帰した、などのやや疑わしい逸話も伝わっているが、これはあくまで武将の事績を広めるため付け足された後世の創作と考えられている。
- 100二次元好きの匿名さん24/10/19(土) 08:04:03
大西 直宏(おおにしの なおひろ)
平安中期の武士。
武勇に優れるも宮中の覚えはそれほどではなく、中々武功を立てる機会にも恵まれなかったが優駿杯競い馬において日照勇士に跨がり鮮やかな逃げ切り勝ちを決め、その名を天下に轟かせた。
寡黙な性格ながら優駿杯での勝ち名乗りの際の
「第一の覚へは要らじ、欲せしは第一等の武勲なり」
という言葉は「古今に無双の名口上」と評された。
後に越後国直路競い馬において軽石光王と共に飾った勝利は「其の疾きこと雷光の如くにてまさに日ノ本一なり」と記録される。 - 101二次元好きの匿名さん24/10/19(土) 08:25:34
鷲頭虎太(わしがしらの とらた)
平安後期の武士。
丹内渡島守と同じく蝦夷地渡島国出身
元は武家の出身ではなく、西洋より伝わった麺麭なるものを売る商人の出だが、戦好きの父の影響により
武士となった異色の経歴の持ち主。
初めは中々武勲に恵まれなかったが、時の上司であった小牧加矢太(こまきの かやた)より
「飛越やらざるか?」の一声で飛越に挑戦し、
徐々に頭角を表したと言う。 - 102二次元好きの匿名さん24/10/19(土) 09:07:42
尾形主馬頭藤吉郎景造(おがたの・しゅめのかみ・とうきちろう・かげみち)(?-?)
奈良末期から平安初頭にかけての貴族、豪族。初め大河原。
宝亀年間に下総国の御牧の官員として名が現れるのが初見である。
その後、上洛したと思われ、延暦二年の宮中行事における競馬(くらべうま)に参加しているのが見え、この時には既に母方の家を継ぎ尾形と記載がある。
以後、競馬の行事には常に名前が見えており、天皇から少なくとも11度の褒章を得たことが分かっている。
また、安捨(あすとらる)、博将(はくしょう)、阿須琴(あすこと)などの馬名が「尾形之馬」として残っている。
特に、博将と那須野(なすの)との一里競走一騎打ちについては当時の貴族の日記や後代の水鏡にも散見されるほど広く知られていたようであり、また阿須琴は遠く唐国まで運ばれ飛馬術(現代でいう馬術競技)を走ったとされる。
大同三年以降、文献に「尾形之馬」と「尾形之騎」と混在して記載されていたものが「尾形之馬」に統一されるようになり、この頃の馬寮の改編に伴い、競馬において騎乗をせず馴致、管理に専念するようになったのではないかと言われている。なお、この改編で主馬寮は無くなったはずだが、尾形は綽名として主馬頭と呼ばれていた。
当時から馬において尾形に勝る者なしとされ、資料からも保田将監隆芳(ほうだ・たかよし)、野平次郎祐永(のさか・じろう・すけなが)など、左右馬寮や近衛府における官人の多くが尾形の影響を受けていたことが伺える。
「尾形之馬」は以後も、鉄門(てつもん)を始め、博力(はくちから)、明瑞(めいずい)などの馬名と共に見えるが、
嘉祥年間の競馬における締淡(ていたん)の名と共にあるのを最後に尾形主馬頭の名は見えなくなりこの頃没したと考えられる。死後は、その影響の大きさから後世の物語では大尾形と呼称された。
なお、嘉祥年間以降も「尾形之馬」の記述はあるが、これは子の尾形右馬助盛次或いは孫の尾形右馬大允充弘が管理した馬である。 - 103二次元好きの匿名さん24/10/19(土) 21:00:14
- 104二次元好きの匿名さん24/10/19(土) 21:40:52
- 105二次元好きの匿名さん24/10/20(日) 09:01:14
我保守致
- 106二次元好きの匿名さん24/10/20(日) 09:20:49
浜中俊(はまなかのすぐる)
大変な美貌を持つ人物であった為、三木之宮女王や奈村紅麗亜姫に見初められ、競馬(くらべうま)の儀にて多大なる功績を賜ったとされている。
一方で名将田原、三木之宮愛留等の些か難しい性格の者とも戦場を駆けたと言われており、俊は折り合いに苦労したとされている。
三木之宮愛留との戦いで自陣に迷惑をかけてしまい、謹慎の処分をとられ落ち込んでいたところ、藤岡兄が手土産を持って俊を尋ね、此度の行動を諫めた後、落ち込む俊を慰めたという逸話も残っている。
藤岡家とは親密な交流があったようで、藤岡康太(ふじおかのやすただ 藤岡兄の弟にあたる)とも親しい仲であったとされ、藤岡兄弟と一緒に行動する俊の姿は絵巻や和歌にも残されている。 - 107二次元好きの匿名さん24/10/20(日) 09:21:30
淡々と古語に置き換えられてるのに弱くて開くたびにバカみたいに笑ってしまう
英明、えいめい呼びで長らく通ってたけど成貴あたりの文章からひであき/ひであきら呼びだった可能性が浮上してきたりするみたいな経緯があったりしそう - 108二次元好きの匿名さん24/10/20(日) 12:58:05
北村友一(きたむらのともかず)
平安中期の公家・武士
宮中杯の黒ノ創世記号での三勝が最も有名。落馬したいに「黒ノ創世記号いまえ乗らずや」と嘆いた話は美談として伝わる。
若き頃の失策が原因で参内停止を命じられた際は文机を持ち上げておいたあと倒すという独特な抗議をしてさらに参代停止期間を伸ばされた
以降は「机」「机の君」として語られた
そのため数々の貴族や武家から机と記されこれが北村友一か普通の机かわからないことが多く研究者を悩ませている - 109二次元好きの匿名さん24/10/20(日) 13:28:32
四位洋文(しいのようぶん)
平安前期の貴族・武士 田原成貴の黒衣衆の一人 性は不明だが位階は四位あったため都人からも四位と呼ばれた
同じく黒衣衆である藤田伸二ら馬寮7の回で優秀な人物の一人であった
清離散量で荒れ地、芝生の宮中杯を制し内一回は和田竜二の帝笑歌劇王を倒した
牝馬である火酒で優駿杯を制し翌年の深空で勝った際に騒ぐ都人に対し「うるさきぞ、おい」と返したことは有名
馬寮退寮時は疫病が流行っていたため馬寮の同僚らに贈られ都人の参加はなかった
「田原に殴られしためしのあるは我ばかり」と誇らしげに言った直後に藤田から「黒塗りのため不明」とかえされ「あぁ…」と嘆息した
このことから馬寮退寮前の田原が四位を殴り飛ばせた位階、一位、二位に合った可能性が高い
位階の高い人間多かった黒衣衆がどのような集団だったかの研究が待たれる - 110二次元好きの匿名さん24/10/20(日) 14:35:56
松山弘平(まつやまのひろひら)
平安時代の貴族・武士
競い馬において好成績を残し、大胆戦術号を参冠(さんのかんむり)の地位に導いた事で知られている
なお近代になり、弘平に似た表情をした馬の耳を付けた少女の画が複数発掘されているものの、弘平との関わりは未だ解明されていない
(大胆戦術号の祖先にあたる馬を少女のような姿で描いた物との説あり) - 111二次元好きの匿名さん24/10/20(日) 23:28:59
松岡正海(まつおかのまさうみ)
平安時代の武士・歌人。
競馬の儀において優秀な成績を残しており、特に勝出光采という馬での劇的な勝利で有名。この試合の様子は当時の文献や絵巻物の題材としてよく選ばれていた。
歌人としても当時から評価が高く、愛馬や親しい人々を題材に様々な歌を詠んだ。これらの歌は東京伸図歌集に納められている。
このように文武ともに秀でた才を持っていたが、多くの浮き名を流した遊び人でもある。特に早朝に女の家から帰る際、朝の支度をしていた親友・石橋脩(いしばしのしゅう)と遭遇した話はあまりにも有名。 - 112二次元好きの匿名さん24/10/21(月) 00:34:08
的場均(まとばの ひとし)
平安前期から中期の武士、後に馬寮
蝦夷地日高国出身。
初めは馬寮大久保房松(おおくぼの ふさまつ)
の下で修行を積み、独り立ちしてからは
特定の勢力に属さない独立傭兵として
戦場を渡り歩いた。
その冷静に相手を仕留める姿から
「刺客」と呼ばれ恐れられた。
刺客と恐れられていた彼だが、本人の人となりに
ついて兄弟子の郷原 洋行(ごうはらの ようこう)
が書き残した回顧録には
「前向きで誠実に努力を惜しまぬ男なり。是は誰もが知りうる」と記されている。
後に一戦を退いた後、馬寮に転ずるが
華々しい戦果を上げることはなかった。
これについて後世の歴史家からは彼の優しすぎる性格が起因し、馬に対して非情に徹する事が出来なかった為であると評しており馬寮ではなく学徒を導く学士となった方が本人の気質に合っていたのではないかという評価が大多数を占めている。 - 113二次元好きの匿名さん24/10/21(月) 00:49:09
使役名(しえきな)
馬の神よりの告げを伝える口伝人が名乗る名の事
真名を神事で用いると魅入られる、触りがあると言う言い伝えから生み出された一種の偽名
また口伝人を務める人間は大半がかつて罪を犯した前科人であり、神に仕え奉仕することで罪を償うという側面もあったとされる - 114二次元好きの匿名さん24/10/21(月) 01:06:24
- 115二次元好きの匿名さん24/10/21(月) 10:48:41
- 116二次元好きの匿名さん24/10/21(月) 11:06:45
第62次にあらずや
- 117二次元好きの匿名さん24/10/21(月) 12:10:59
今浪(こんろう)
平安時代から江戸時代にかけての説話、物語に登場する架空の僧侶。
平安時代に編纂された『尚介上人説法集』や鎌倉時代に成立した『馬事拾遺物語集』にその名が散見される。
非常に徳の高い老僧であり愛馬の金船とともに世界各地を旅しているが気性の荒い金船に振り回され袈裟を破られたり森に置き去りにされたりなど様々な災難に見舞われる。
これは尚介が広めた仏教的概念の中核である『蘇梛識(ソダシ-サンスクリット後に由来する輝かしき物、純真なる物という意味の語)への無償の献身』を表したものとされるが、今浪と金船のコミカルな交流は特に庶民の間で広く親しまれ江戸時代に入ってからも多くの読本や浮世絵、演劇の題材とされた。 - 118二次元好きの匿名さん24/10/21(月) 12:16:51
菱田裕二(ひしのでんひろつぐ)
平安時代中期から後期の武将。
平民の出ながら横山典弘の武勇に憧れ武将の道へ進み、愛馬である呂伊(ろい)とともに3ヶ月で二十里以上の距離を駆け抜け、天皇の名が刻まれた手盾を賜ったとされる。
逸話の一つとして、新しい弓矢を受け取った際にその出来が劣悪であったことに憤慨しその不満を書き認めたが、何故か自らの名も書いてしまっていた。その弁明も「同名のもののふのありしなど知らざりき」など粗末なものであり、彼の迂闊さを象徴する逸話として広く知られている。
また、筆跡から他の書も特定されており「昔は馬医を志したれど、馬の鼻血はげに危ふき」「屑なり」(他の武将が女性に対し乱暴したことを指したとされる)などの内容が確認されている。そのほか、眼が非常に大きい容姿をしていたとされるが、純子の随筆を書くことを強要されているのではと心配するなど純情な面もあったようだ。 - 119二次元好きの匿名さん24/10/21(月) 12:59:33
- 120二次元好きの匿名さん24/10/21(月) 18:27:52
西村淳也(にしむらのあつなり)
平安時代の貴族・武士
馬寮三十四の回出身。彼以外の武士は戦の中で全滅したとされるが、木村和士(きむらのかずし)が米国へ漂着し、現地で活躍したとする資料も存在する
戦において周囲からは全くの低評価であった愛馬、義平恩号を駆り敵将を討ち取ったことで一躍有名となる
各種文献から松山弘平を慕っていたことが伺えるほか、「我は坂井璢星の人なれど向かふは我がことを人と思ひたらず」と話していたとされ、坂井璢星も「淳也は我が従者なり」という発言が残されていることから両者の中に密接な関係があったとされる
馬の乗り心地を問われた際に「魅力薔薇は海豚の如し」「様々変化は牛車が如し」と答えたという逸話が残っているほか、「淳也に完勝明日久号はいかなる馬か聞きたてまつらば、「女子に、五歳に、馬に、脚が四本つけるぞ」と言はるれば」というまなみの言葉が残っていることから、馬に対して独特のセンスを持っていたと考えられる - 121二次元好きの匿名さん24/10/21(月) 19:57:16
- 122二次元好きの匿名さん24/10/21(月) 22:07:46
明松怒涛(あかまつのいかなみ)
播磨国の豪族松元好雄(まつもとのすみよし)の家臣、武将。
愛蘭国(現在のアイルランド)より流れ隋国の大将軍となったノルマン人ヴァイキング大石の息子であり、本来の名前は道头と言う。
帰国する遣隋使に同道する最中台風によって船が転覆、播磨国の海岸に漂着したところを鷹狩りに出ていた好雄に発見され、手厚い看病を受ける。
渡来人の自分を救った好雄に感服した怒涛は好雄を第二の父と呼んで忠誠を誓い、松本家に光明を齎す者になるという覚悟を決め自らの姓を『明』『松』と名乗った。
当時中央方では竹園家の嫡男で覇王と呼ばれた竹園歌劇(たけそののかげき)が敵対していた成田家、近藤家を壊滅寸前に追いやり、松本家領地にも狙いを付けていた。
だが怒涛は歌劇を相手に勇猛に立ち向かい一歩も引かず、6度に渡って死闘を繰り広げた。
歌劇の部下が怒涛を領地をなんとか守る事しかできない臆病者とさげすんだ時、宿敵である歌劇は「戦ひとはおくりし者こそが勝者なれ。怒涛殿を弱き将と見たる者は見る目無し。さる手のみある我は既に怒涛殿に負けたるも同じなり。」と部下を叱責し大いに嘆いたと言う。
戦となれば猛獣の如き戦いぶりを見せ、鬼怒涛と呼ばれたが性格は温厚であり、部下や家族を大切にし、弱者、特に動物たちには格別の慈愛を見せていた。 - 123二次元好きの匿名さん24/10/21(月) 22:56:28
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- 124二次元好きの匿名さん24/10/21(月) 23:37:20
糸紡十二夜物語(いとつむぎじゅうにやものがたり)
8世紀中頃に成立した中古日本の物語。作者は不明。
主人公である美貌の皇子、永福の宮(えいふくのみや)をめぐって糸紡の姫君(いとつむぎのひめぎみ)と男装の麗人、十二夜の侍(じゅうにやのすけ)が恋敵となる恋愛喜劇の形式を取る。
永福の宮のモデルは在原業平とともに光源氏のモデルになったと言われる貴公子、福永祐一(ふくながの すけもと)であり当時宮中にて様々な女房と関係を持っていた祐一のゴシップを物語という形で発表したのではないかという説が一般的である。
また、凛々しい武士の一面と可憐な少女の一面とを併せ持つ十二夜の侍の存在はシェイクスピア劇「十二夜」の主人公、シーザリオに先立つ物であり、両作品の比較的批評は日英の文学者の中で大きな課題ともなっている。 - 125二次元好きの匿名さん24/10/22(火) 08:52:12
- 126二次元好きの匿名さん24/10/22(火) 10:35:04
- 127二次元好きの匿名さん24/10/22(火) 17:02:36
常陸国 近江国
馬の育成や馬乗りの育成を重点的に置いている国
在庁官は馬術が高い者限定という厳しい制約があると噂されるほど - 128二次元好きの匿名さん24/10/22(火) 21:06:52
このレスは削除されています
- 129二次元好きの匿名さん24/10/22(火) 21:46:51
このレスは削除されています
- 130二次元好きの匿名さん24/10/22(火) 21:53:02
春の御方/春麗尼(はるのおかた/しゅんれいに)
平安時代の武将・尼僧
大貴族・日ノ本帝と女主役御前との間に誕生したが貴族の子女ではなく幼少の頃より武将としての修行を積まされる。生来臆病で気弱、それでいて癇癪持ちという性格により剣や薙刀の稽古はいつまで上達しなかった。
精神修行と行儀見習いのために土佐(現在の高知)に流れたのち、そこでの目付役である宗石大(むねいしのまさる)と藤原健裕(ふぎわらのけんすけ)両名には徐々に信頼を抱いたという記録が残されている。
土佐での動乱、113戦全て敵前逃亡などをしたが地元では「何がなんでも生きて戻る女武者」「逃げ上手の姫君」として縁起の良い存在と祀られ、「春の御方の姿を見たものは生涯病や事故に合わず、また職も失わない」といった噂が広まった。
のちに大僧侶・武豊(ぶほう)が彼女と対面した際には「何も出来ず逃げるしか能のない小娘が、なぜこうも民衆の支持を得られるのか」と痛烈に批判。御前試合での剣技を視察に訪れた際、土佐国中の民が見物に訪れ春の御方を応援。春の御方は敗退するも武豊は彼女に対し「良き剣筋である。やや動きが遅いが」と評価した。
手柄はあげられずも順風満帆な日々であったが、彼女の人気に目をつけた興行師(のちに詐欺師と判明)により、「春の御方を衝撃帝と婚姻させる」との名目で土佐国を半ば誘拐のような形で連れ出される。これに関しては宗石や藤原も寝耳に水であったという。
その後の春の御方の行方はつゆ知れず、故郷に帰った記録もない。姿が書かれた文書もここから数年は抜け落ちており、専門家の間でも暗殺説・病死説を唱える者が多数いたが近年、下総国(現在の千葉)にて有志の協力者たちの手で詐欺師から救われ生存していたことが発覚した。
下総の真麻寺(まあさでら)にて春麗尼(しゅんれいに)と名を改め出家しており、婚姻はしなかったものの寺の人々と仲睦まじく暮らしていたことがうかがえる。
特に水星尼(すいしょうに)とは親密な間柄であり、春麗尼は彼女の茶菓子をこっそりつまみ食いしたり、参拝に訪れる若い青年にときめいた事を日記にしたためたり、遠方から「あの春の御方が生きていた」と話を聞きつけ説法を依頼する人々もいた。晩年も年寄り扱いをすると激怒するなど、俗っぽい面もあったという。
安価128だけど誤字多すぎたから治した... - 131二次元好きの匿名さん24/10/22(火) 22:27:18
青嶋幕親王(あおしまばくしんのう)
平安時代中期の皇族。富士産経天皇の第三皇子。
臣籍降下して後は青嶋達也(あおしまのたつなり)を名乗った。
若き日より文学的な才能に恵まれた皇子であり蹴鞠や競馬に関する生き生きとした詩を好んで詠った。
特に競馬を題材にした旋頭歌(5.7.7を二度繰り返す形式の和歌)に関しては宮中でも右に出る者はおらず根岸の歌会などで高い評価を得たという。
しかし、長歌となると途端に語彙が乏しくなりそのことで恥をかくといった場面も当時の随筆や日記文学の中に確認できる。
また山岳信仰に熱意を注いでいたことも窺え、度々『坂を登らむ』と叫んでは公達らを引き連れ登山に勤しんだという記録が残っている。
晩年は奇行が目立つようになり、屋敷の中を犬が走り回る幻覚に悩まされた。資料的な裏付けは無いものの臣籍降下についてこの事が原因になったのではないかと推察されている。 - 132二次元好きの匿名さん24/10/22(火) 23:08:10
銀舎利雄という馬を2本足で走らせたという逸話が知られているが、現在では馬の存在含め茂木淳一(もぎのあつかず/あきかず)による創作であるとする説が定説。
- 133二次元好きの匿名さん24/10/22(火) 23:55:59
田原の代表作とされる『がっきゐすまなし』は流滅入の武芸が未熟であると批判する内容であったが、最近になって彼が後年その評価を改めていたことを伺える文献も発見されている。ある文献には『来世においては流滅入が愛馬たる脚速き牝馬になりてしか』という言葉が彼の発言として記されている。
なお、流滅入が蝦夷より召し抱えられ頭角を表したした時期は田原が中央から追放された後であるため、二人の間に直接の面識はないだろうとする意見が多数を占める。
(>>66ではないけど蛇足を思い付いてしまったので。要請があれば消します)
- 134二次元好きの匿名さん24/10/23(水) 00:09:25
この人競馬のみならず欧州蹴鞠杯決勝里味陂(リヴァプール)対未蘭(ミラン)や撫子日本の女子蹴鞠世界杯決勝亜米利加戦の歌は有名かな。
特に後者は天災に襲われた我が国を勇気づけたし,欧州蹴鞠杯の歌なら毎年この人が詠っていたから
- 135二次元好きの匿名さん24/10/23(水) 00:22:25
日静大師
平安時代の僧侶、法師武者。日本仏教の主流である天輪宗の開祖であり、日静派の宗祖。
隋の首都大興(現在の長安)出身、俗名は不明。
遣隋使であり、北踊宗北味派社台寺の僧侶吉田善哉(とみただのたるちか)の大興での警護役として吉哉の後見人である隋の僧侶汎刻(はんこく)に推挙される。
元来腕っぷしが強く一度暴れれば手が付けられない乱暴者であったが、汎刻や善哉と言った信頼できる人物には素直であり、善哉の帰国に際し、仏僧としての才能を見抜いた善哉に連れられ日本へと渡航、善哉に師事。
ある時社台寺で国内でも高名な二人の僧、目白宗間空院(めじろいんまくういん)、咲花法師(さっかほうし)の二名と邂逅。
是々非々の仏教論争を三日三晩不眠不休で続けた後、昇りくる朝日に天命を自覚し出家、日静と名乗る。
諸国を旅しながら修行を積み、集めた浄銭で奈良に後の日本天輪宗の総本山である石寺を建立。
人生の虚無を語る仏教が多い中で日静は念仏による生への感謝、自然の儚さ、愛の尊さを示寂するまで主張し続け、世俗の者たちの生き汚さを肯定し続けた。
間空院、咲花法師とは終生の友であり、同時代に日本に渡来し自らの宗派を発足した新斌(にいびん)、庵碓(あんたい)と合わせ平安時代三僧とも呼ばれる。
また人材発掘能力にも長け、富士輝、闇踊、静鈴、金路、特週、心叫、深衝等後の日本仏教界に多大な影響を与え中世日本仏教を組み立てた高僧を多数弟子に持つ。