- 1二次元好きの匿名さん24/11/03(日) 19:07:21
——チリリリリリ……
遠くでかすかに響く鈴虫の鳴き声は、静まり返った深夜の闇に溶け込み、まるで入眠を誘っているかのようだった。俺はその音をBGMに、重たいまぶたを何度も持ち上げながらデスクと向き合う。ここ数日、トレーナーとしての仕事は多忙を超え、戦場のような様相を呈していた。担当ウマ娘、サクラローレルが見せた強い決意により急遽決まった、11月下旬のジャパンカップへの出走。そしてきっとこのまま、有マ記念にも出ることになるだろう。それに向けて期待が高まる反面、スケジュールの調整や必要書類の準備が容赦なく俺に押しかかる。この仕事には慣れてきたとはいえ、連日の残業続きで積み重なった疲労に、体は常に悲鳴を上げていた。
時計の針はとっくに一周し、新たな一日の始まりを静かに知らせている。その針が静かかつ残酷に進むたび、俺は焦燥と絶望の渦に苛まれていく。パソコンは長時間の稼働で熱を持ち始め、ファンが僅かに唸る音が静寂に響いていた。それがいつしか、自分の意識をもかき混ぜんとしているかのように感じてくる。
……と、その感覚に耽っているうちに、一瞬視界が暗闇に染まった。慌てて頬を叩き、机の上の冷めきったコーヒーを口に流し込む。苦味で視界はにわかに晴れたものの、依然として鈍い眠気は自分にまとわりついていた。デスクには、数時間前に飲み干したエナジードリンクの缶が整然と並んでいる。それはまるで、無理に労働し続けた証として俺を責めているかのようだった。
再びパソコンに目を向けると、その強い光に視界がじわりと滲む。何度も深呼吸をし、何度も眉間を揉みこむものの、あまり効果は見られない。丑三つ時に差し掛かろうとしているこの時間帯は、無理やり誤魔化していた自分の体力が遂に尽き、眠気の波が無慈悲に押し寄せてくる。少しでも油断すれば、睡魔の闇に引きずり込まれ、何時間も眠ってしまいそうだ。俺は頬を力強く叩いて無理やり体を起こし、気合いを入れ直した。 - 2二次元好きの匿名さん24/11/03(日) 19:07:32
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時刻は午前8時。朝の陽光が学園を照らし、静まり返っていた校舎に、徐々に生徒の賑やかな声が広がっていく。すずめのチュンチュンというさえずりに、カラスの低い声が混じる。夜の気配はすっかり溶け、活気のある朝の訪れを肌で感じた。それと同時に、ようやく仕事の区切りが見えた。大きく伸びをして、全身に溜まった疲れを解きほぐす。それに伴って束の間の達成感と解放感が押し寄せ、つい気が緩む。
……このまま寝てしまおうか。いや、待て。最終確認を一度済ませてから寝るべきだ。俺は気力を振り絞ってエクセルを起動するも、一度終わったことで緊張感が切れたのか、頭のなかには濃いもやが漂う。それどころか、忘れていたすいまがじわじわと……おとずれ……て……。 - 3二次元好きの匿名さん24/11/03(日) 19:07:43
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キーンコーンカーンコーン……
昼休みを知らせるチャイムが鳴ると同時に、私は教室を飛び出した。
——「よし、今日はこれで終わりにしよう。俺はこの後トレーナー室で作業してから帰るから、このままここで解散ということで」
なんて笑っていた、昨日のトレーナーさん。でも、その目にはどこか陰が差していた気がした。目の下が少し黒い気がした。声にいつものハリがない気がした。その姿が心の奥に引っかかり、いてもたってもいられなくなったから。
コン、コン、コン。
ドアを控えめにノックするも、彼からの返事は無く、ただ静寂のみが返ってきた。
「失礼しまーす……」
小声のままそっとドアを開けると、予想通りの光景が目に飛び込んだ。机の上には開きっぱなしのパソコンに、いくつも並べられた栄養ドリンクの缶。そして、その中心で突っ伏すように爆睡しているトレーナーさんの姿。
「(……トレーナーさん)」
彼を起こさぬよう、心の中で呟いた。……何から何まで、全て予想通り。数日前から彼が忙しくしていたのは知っていたけど、ここまで体力を削ってまで仕事をこなしていたなんて。ふと目に入った机の端に、すっかり冷めきったコーヒーカップが一つ。手に取ってみると、わずかに残った香りが鼻腔を刺激し、胸の奥がじんわりと軋むように痛んだ。 - 4二次元好きの匿名さん24/11/03(日) 19:08:06
「……無理しすぎ、ですよ」
思わず口に出た私の言葉は、空気の中に静かに溶ける。私はトレーナーさんを起こさないように、音を殺して引き出しから毛布を取り出し、彼の肩にかけた。肩がわずかに上下するのを見守りながら、毛布がずり落ちないよう、ふわりと毛布が彼の体を包むよう整え、椅子に絡ませる。彼が休んでいる間は、少しでも心地よく過ごしてほしい——そんな願いを託して。
すうすうと静かな寝息を立てる彼の顔をそっと見つめる。いつもなら、中々見られない彼の寝顔に、ドキドキしていたかもしれない。でも今だけは、その高鳴りは普段のそれとは違っていて、私の胸を容赦なく締め付ける。頼られる立場だからこそ無理をしてしまう——それが彼の性格なのだろう。でも、こんなに疲れきった姿を見ると、そんな彼の優しさが棘のように刺さる。
この後トレーナーさんが起きたら、また自分と私に「大丈夫」なんて嘘をついて、自分を奮い立たせるのだろう。そして、今日のように無理を重ねてしまうのだろう。でも……だからといって、無理に引き止めようとしても、多分彼を困らせるだけだ。学生の私にできることは限られているけど、せめて午後のトレーニングが始まる前までは、少しでも休息を取ってもらいたい。無理ばかりしているトレーナーさんのことを、どうか少しでも癒せるように。そう決意した私は—— - 5二次元好きの匿名さん24/11/03(日) 19:08:16
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遠くに聞こえるチャイムの音で、ふと意識が浮上する。うっすらと目を開けると、窓から差し込む柔らかな日差しが視界に広がっていた。その光の暖かさと、照らされた机上の明るさは、自分がいかに長時間眠り込んでいたかを克明に告げていた。慌てて壁の時計を見上げると、時刻は既に午後2時半。どうやら、完全に爆睡してしまっていたようだ。
「やばいな…」
今朝の自分は、どうやらソファに横たわる余力すら無かったらしい。ともかく、後1時間ほどでローレルのトレーニングが始まってしまう。今の時間から考えると……うん、急いで片付ければ、帰ってシャワーを浴びるくらいの余裕はありそうだ。となれば、早く取りかからないと。
そう決意して立ち上がった瞬間、ばさっ、と何かが床に滑り落ちた。振り返ると、トレーナー室備え付けの毛布が視界に入る。あれ、昨日使ったっけ……? いやいや、眠気を誘発するから使わなかったはずだ。となると誰かが気を利かせてかけてくれたのか……?
「……ローレル?」
もしや、彼女が様子を見に来てくれたのだろうか? そんな可能性に、さっと胸が騒ぐ。……いや、そんなことを考えるのは後だ。早く片付けよう。
落ち着かない心を抑えつつ、資料をまとめようと手を動かす。その瞬間、ある違和感が心に芽生えた。書類の端が、不自然なほど綺麗に揃えられている。……昨夜の俺は、こんなに几帳面に整理しながら作業していただろうか? 確か、「片付けは後回し」という気持ちと溜まった疲れで、机の上は散らかり放題だったはずだが……。そうだ、エナドリの缶も捨てておかないとな。……あれ? どこにも缶が無い。確か3本くらい空き缶があったはずなのに……。
そう考えているうちに、違和感は確信へと変わる。毛布をかけてくれた上に、机の片付けや、ゴミ捨てまでしてくれた『誰か』がいる確信。そう気づいた瞬間、胸にじんわりとした温かさが広がる。「誰かが自分を気にかけてくれた」という確かな事実に、思わず視界が滲んだ。 - 6二次元好きの匿名さん24/11/03(日) 19:08:27
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終業のチャイムが鳴ると同時に、トレーナー室に戻る。何とか間に合ったようだ。そのまま今日使う資料を準備していると、やがて足音が近づき、ローレルがいつものように入ってくる。
「トレーナーさん、こんにちは」
……いや、心なしか、いつもより声が温かいような。彼女の瞳に、どこか心配と安堵の眼差しが浮かんでいるような。ということはつまり——
「ローレル。もしかして、毛布をかけてくれたり、部屋を片付けたりしてくれたのって……」
彼女はわずかに照れたように視線を逸らし、頬を薄紅色に染めて頷いた。
「はい、トレーナーさんがとてもお疲れのようだったので、少しでも休んで欲しかったんです」
やっぱり彼女だったのか。感謝の気持ちが押し寄せる一方、申し訳なさが胸を苦く締め付ける。情けない姿を見せたばかりか、余計な心配をかけ、片付けまでさせてしまった。ローレルには、レースのことにだけ集中していて欲しいのに……。 - 7二次元好きの匿名さん24/11/03(日) 19:09:00
「……やっぱり君だったか。その、本当に申し訳——」
そう言いかけた俺の口に、彼女の指がそっと触れた。
「トレーナーさんは悪くありませんよ。……あの時の約束——『一緒に』夢を叶えようって、言ってくださいましたよね? いつもトレーナーさんは私を支えてくださってるので、私もトレーナーさんの支えになりたいんです」
彼女の真摯な眼差しに、再び目頭がかっと熱くなる。
「……ありがとう、ローレル。じゃあ何かせめて、お礼をさせてくれ。欲しいものとか、何かないか?」
彼女は少し考え込むように口元を手で覆い、やがていつもの微笑みを向けた。
「欲しいもの……そうですね……。じゃあ——」
彼女の口が小さく、いたずらっぽく歪む。
「——ハグ、してほしい、かもしれません」 - 8二次元好きの匿名さん24/11/03(日) 19:10:09
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「ハグ、してほしい、かもしれません」
ぽつりと漏らしてから、はっと後悔する。彼が少し元気になってくれたのが本当に嬉しくて、ついいつもの調子で言ってしまったけど……。今日はこれ以上、彼に余計な心労をかけさせちゃいけない。
「なんて、今のは——」
冗談です♪ と笑顔で取り消そうとしたその刹那。私の体がふわりと包み込まれた。
まるで魔法をかけられたみたいに、体がぴたりと硬直した。トレーナーさんの温もりが私を包み、あっという間に心臓がうるさくなる。え、どうして? なんで? いつもの彼なら、私がこんなことを言っても顔を赤らめるだけ、なのに。でも、私は今、確かに彼の腕の中にいる……んだと、思う。たぶん。
「……ぅ」
声にならない小さな言葉が零れた。……夢、じゃないのかな。中山金杯の後、私からトレーナーさんに軽く抱きついたことは何度かあったけど、その度に決まって彼は照れるばかりで。ましてや、彼の方からのスキンシップなんて、ただの一度も無かったのに。
……少しずつ、少しずつ、この現実を飲み込めるようになると、それに比例して、言いようのない喜びが全身から溢れた。 - 9二次元好きの匿名さん24/11/03(日) 19:11:27
「……っと、ごめん、ローレル。もしかして嫌だった?」
……嫌、じゃない、です。
その言葉のかわりに、ようやく魔法がとけた腕を彼の背に回した。頬がこれ以上ないほどに熱くなっていくのを感じながら、ぎゅっと、少し強めに抱きしめ返す。すると、今まで感じていた彼の温もりが、もっと強く伝わってきた。意外とがっしりした体つきも、ジャージからほんのりと漂う柔軟剤の香りも、少し速い鼓動も、ぜんぶ。
きっと、今の私はすごい顔をしてるんだろうな。だから、彼には見られたくなくて、きゅっと彼の胸に顔をうずめる。……あれ? 少し、石鹸の香りもするような。もしかして、私が戻ってくるまでにシャワーを浴びてきてくれたのかな。
……ずるい。普段は嬉しいその気遣いが、今は少し悔しい。彼のそういうところが好きなのに、私は何を思っているんだろう。でも、ずるい。私は一日中授業を受けて、きっと少し汗が残ってるのに。そもそも、こういう時だけ積極的になる彼も、ずるい。
「ずるい……ずるいです、トレーナーさん」
「……え? 何が?」
困惑する彼をよそに、更に彼に抱きつく。高揚感と安心感と、ほんのちょっぴりの嫉妬心がごちゃ混ぜになり、もう頭の中はぐちゃぐちゃ。
やがて、そっと目を閉じる。彼の温もりに身を委ねているうちに、外の風の音も、時間の流れも、いつしか気にならなくなっていた。何もかもが柔らかい空気に包まれて、まるで世界に私たちしかいなくなったみたい。
この瞬間が、ずっと続けばいいのに。そう強く願いながら、彼の腕の中で小さく息をついた。 - 10二次元好きの匿名さん24/11/03(日) 19:12:29
- 11二次元好きの匿名さん24/11/03(日) 23:50:55
エエヤン