- 1二次元好きの匿名さん24/11/06(水) 19:27:56
トレーナーはベッドの中で寝返りをうった。
寝心地が悪かった訳ではない。担当ウマ娘、ファインモーションの賓客として招かれたので、恐れ多くも上等な部屋と寝具が与えられていた。昼間は故郷を案内するのだと張り切っていたファインとあちこち歩いたので、疲労もある。
故に、深夜に起き出したことに理由があるのなら、それは、虫の知らせと言うものだろう。
カツカツ、と窓ガラスを叩く音がした。
トレーナーは靴を履き、窓辺に近寄る。
外から窓を叩いていたのは、ファインモーションだった。
人差し指でカツカツと窓を叩いていたファインは、こちらが認めたのを見ると悪戯そうに笑って外を指さした。
ファインたち王族の住む城ではなく、所有する別荘のようなものと説明を受けていたその屋敷には、森のような広大な庭があった。昼間にも少し散策したが、なるほど、月の下の散歩も悪くない。
トレーナーは窓を開け、するりとそこから抜け出した。
夜のせいか、奔放な気分だった。 - 2二次元好きの匿名さん24/11/06(水) 19:28:17
月夜といえど、木々に阻まれては上手く歩けない。
泳ぐようにすいすいと歩いていくファインの背中を追うように、トレーナーは一生懸命着いて行った。
木々の切れ目から月の光を受けるファインは、時折ちらちらと輝いて見えた。それはどこまでも幻想的な光景で、トレーナーは物も言わず歩き続けた。
やがて、ファインは足を止めた。その後ろでトレーナーも足を止める。
目が慣れなかったが、しばらくすると雲に隠れていた月が姿を現したのか、辺りに月光が投げかけられた。
それは、緑色の湖だった。暗くて全景は杳として知れない。少なくとも、トレーナーの目に向こう岸は見えなかった。
ファインはゆっくりと振り返った。青白い月光の下できらきらと輝く彼女は、女神のような微笑みをたたえてトレーナーに手を差し伸べる。
「俺は行けない」
トレーナーが初めて口を開いた。ファインの笑みが凍る。
「君は誰だ」
ファインは胸に手を当て、何か言おうとする。
「お前は誰だ」
トレーナーは目の前のウマ娘を睨んだ。
「何故お前の髪には水草が絡みついている」
濡れた目が怪しく光った。水の滴る髪を振り乱し火のような形相でこちらを睨(ね)めつけるそれは、既にファインの形をしていない。
しかし、トレーナーはその場から足を動かすことができなかった。足どころか、万力のような力で全身をぎりぎり締め付けられるようで、首すら動かすことができないのである。
それは標本台に縫いとめられた蝶のように無力なトレーナーに、手を伸ばし── - 3二次元好きの匿名さん24/11/06(水) 19:28:35
「その者に触れることを許しません」
毅然とした声が森に響いた。
「私の客人です。私の恩人です。私の大切な方です。アイルランドの王家に連なる者として、私のトレーナーに貴女が触れることを許しません」
振り返ることするできないトレーナーだったが、後ろから誰が来るのかは疑わなかった。
トレーナーと化け物の間に割り入った彼女は、恐ろしい形相の化け物から目を逸らさずに言い放つ。
「退きなさい、水妖アッハ・イシュカ。このファインモーションの命ある限り、トレーナーを連れていくことはできません。──それとも、鉄釘か鐘の音がお好みかしら」
水妖はごぽ、と泡のような声を発した。
不満げに土を蹴りながら、音も無く湖の中へと入っていく。何度も恨めしそうな顔をしながらこちらを振り向き振り向き、そして沈んで見えなくなった。 - 4二次元好きの匿名さん24/11/06(水) 19:28:50
屋敷に戻った二人の仕事は、まず深夜にこっそり屋敷を抜け出したことを隊長に叱られることだった。
何かに先導され普段とはまるで違う様子で森に入って行くトレーナーを心配したファインは、説明する間も惜しいと思い窓から抜け出して追いかけてきていたらしい。
あれを見ていなかった人に信じてもらうのは難しそうだという理由で秘密にすることを決めた二人は、護衛に声もかけず勝手に深夜に散歩に出たという理由でみっちり叱られた。
その後、トレーナーにブランデーと蜂蜜入りのホットミルクを差し出したファインは事の顛末を話した。
あれはアイルランドではアッハ・イシュカ、その他の地方ではケルピーと呼ばれる妖精のようなもので、ウマ娘の姿で人を誘い水に沈めるのだという。
御伽噺ではよく聞いたけれど、本当に見るのは初めてだったなあと笑うファインに、トレーナーは怖くなかったのか、と問うた。
「ううん。私が怖かったのは、キミが連れていかれてしまうことだけ」
そしてトレーナーの胸に寄りかかった。
「だからね、トレーナー。何も言わずに、声も届かないような、どこかへ行ったりしないでね」
その肩は少しだけ震えていた。トレーナーは、固い声で「約束するよ」とだけ返した。
しばらくしてぱっとトレーナーから離れたファインは、元気そうに笑ってみせた。
「それにしてもトレーナーは、本当に妖精に縁があるのね。またこんな不思議なことが起きたりして」
「また、があったら困るな」
酒精と温かさで夜の空気の冷たさを忘れつつある体は、あれが夢の中の出来事だったのではないかと思わせる。
しかし、この後もトレーナーが度々不思議な騒ぎに巻き込まれることになるのは、また別の話。 - 5二次元好きの匿名さん24/11/06(水) 19:30:20
おしまい
- 6二次元好きの匿名さん24/11/06(水) 19:34:07
アイルランドのケルピーか
- 7二次元好きの匿名さん24/11/06(水) 19:37:46
深夜なのに真っ先にトレーナーに気付いたファインも大概というか
- 8二次元好きの匿名さん24/11/06(水) 20:50:30
城生まれのFさん…!
- 9124/11/06(水) 22:45:39