- 1二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 18:34:44
- 2二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 18:36:39
普通にいるくない?
- 3二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 20:06:14
ギリシャ人主体になってる時点でローマとは別のものに変質した感がある
まあ神聖ローマよりは百倍ローマしてるのは認めるが - 4二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 20:08:59
- 5二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 20:11:53
ビザンチン帝国っていうとオチンチン帝国って感じになる
ビザンティンでもいい - 6二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 21:07:32
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- 7二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 21:08:38
当時のビザンツ人達は滅亡の時までローマ帝国を自称していた
ローマ法皇及び西欧諸国からはギリシアと呼ばれていた
16世紀頃の神聖ローマ帝国の学者が古代ローマとも古代ギリシアとも違う文化として、ビザンツ帝国と呼び始めた
今現在はビザンツ(ビザンティン)が一般的
どう見えるかだ
- 8二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 22:09:40
このレスは削除されています
- 9二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 22:10:05
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- 10二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 22:10:41
ローマ帝国は東ローマ帝国と西ローマ帝国という二つの国家に分裂したのではなく、あくまで東西二人の皇帝によるローマ帝国の分割統治だった
複数の皇帝による分割統治は、古くは五賢帝の時代のマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスの頃からあり、
三世紀の危機(軍人皇帝時代)を終結させたディオクレティアヌス帝の時代以降は半ば常態化しており
テオドシウス大帝の子息の代に最終的な東西分割が起きた際も、当時のローマ人達は「またいつもの分割統治の始まりとしか認識していなかった
最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位した傭兵隊長オドアケルは自ら帝位に就くことはせず
皇帝の証を東ローマ皇帝ゼノンに返還し、あくまで名目上は東皇帝の支配に服した。これにより、名目上はローマ帝国の東西分割統治は解消され、東ローマ帝国は唯一のローマ帝国に戻った
このローマ(ビザンツ)帝国は少なくとも13世紀初頭の第四次十字軍まで存続した
よって、正式名称(自認)はローマ帝国
- 11二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 22:24:55
ロシア史マニアはルーシ風にグレキと呼ぶかも知れない
- 12二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 22:27:05
台湾を「中華民国」と呼ぶか?に近い
あっちは大陸を完全に失ったわけじゃないけど - 13二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 22:29:27
ビザンツなのかピザンツなのかヒザンツなのかわからないから東ローマって認識だったわ
- 14二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 23:04:26
(続き)
6世紀にローマ(以下、「ビザンツ」と表記)帝国はイタリアを始めとする地中海西部の領土を回復したが
7世紀に異民族の侵入と新興のイスラム勢力との戦いで、バルカン沿岸部とクリミア南岸部、南イタリア、小アジア以外の領土の大半を失った
8世紀にはイタリア半島中部最後の拠点ラヴェンナを失い、都市ローマを守ることも困難となった
また当時、ビザンツ皇帝であったシリア朝の皇帝達はキリスト教に対して聖像破壊主義という立場を取っており、ローマ教皇と教義上の対立を抱えていたこともあって
ローマ教皇はビザンツ帝国に対して見切りをつけ、当時躍進していたフランク王国に接近、その庇護下に入った
こうした経緯から、ローマ教皇は西暦800年にフランク王国のカール大帝にローマ皇帝位を授け、西に新たなローマ(フランク)帝国が誕生した
カール大帝は自らを「ローマ人とフランク人の皇帝」と称し、ビザンツ皇帝を「コンスタンティノープルの皇帝」と呼び、
自ら(カール)のローマ皇帝位の承認を求めたが、ビザンツ側はカールの皇帝位は認めても、「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」としては認めなかった
フランク帝国が分裂後、西の帝位は中フランク王国・イタリア王国へと引き継がれたが、最終的に東フランク王国のオットー大帝がイタリア王国を征服し、神聖ローマ帝国が成立した
オットー大帝は自らの子・オットー2世へのビザンツ皇女の降嫁及び自身の西ローマ皇帝位の承認をビザンツ帝国に求めたが、時の皇帝に拒絶された(降嫁は、後に、次の代の皇帝に認められた)
この際に、神聖ローマ帝国側の使節がビザンツ皇帝を呼んだのが彼の有名な「ギリシア人の皇帝」だったりする
- 15二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 23:07:17
(続き)
こうして再び西と東に二つのローマ帝国が存在することになった
ビザンツ帝国と本家争いをすることになる西の帝国及びローマ教皇庁の関係者は、その後もビザンツ皇帝を「コンスタンティノープルの皇帝」、「ギリシア人の皇帝」と呼んだが
その成立時には、ビザンツ皇帝に自身のローマ皇帝位の承認を求めたことから、ビザンツ帝国がローマ帝国の本家・本元であるという認識はあったようだ
それ以外の勢力(イスラム勢力やヴェネツィアなど)は概ね、東の帝国をルームやロマニアなどと呼び、この帝国をローマ帝国と認識していたと思われる
第四次十字軍により、この帝国を滅ぼした十字軍騎士達が起こしたラテン帝国も皇帝の自称はコンスタンティノープルの皇帝ないし、ローマ人の皇帝だったため
基本的に滅亡のその日まで、同時代人達にはビザンツ帝国がローマ帝国であるという認識は多かれ少なかれあったと思われる
- 16二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 23:07:55
長い歴史を持つから様々な変化があるけどローマ帝国東部領域がずっと存続しただけの話なんだよね
古代ローマ帝国と区別した名称を使いたいという実用上の要請はわかるけどだったらビザンツ(ビザンティン)よりも東ローマの方が実態を正しく表してると思う
南宋や北元を北宋や大元と全く別の国だとは普通は言わないようにビザンツ帝国は東ローマ帝国と呼ばれるべき
王政でなくなったらローマではないのか、都市国家でなくなったらローマではないのか、共和制でなくなったらローマではないのか、多神教国家ではなくなったらローマではないのか、帝国第一の都市がローマではなくなったらローマではないのか、西部領域が帰属しなくなったらローマではないのか
解釈は人それぞれかもしれないけど1204年(1453年)までローマは続いたと考えるのが個人的には一番しっくりくる - 17二次元好きの匿名さん24/12/31(火) 23:55:41
(続き)
「ビザンツ」は首都であるコンスタンティノープルの旧称ビザンティウムに由来
ビザンツ帝国時代にも、東京をお江戸と言うように、コンスタンティノープルをビザンティウムと呼ぶことはあったが、帝国自体をビザンツ、ビザンティウムと呼ぶことはなかった
この国をビザンツと呼ぶようになった背景には、帝国滅亡後に起きたイタリア・ルネッサンスやその後に続く近代化の中で
西欧知識人にとって古代ギリシア・ローマ時代は理想の古代となり、一方キリスト教が強く社会に影響をもたらした中世はろくでもない時代だという認識(いわゆる中世暗黒時代のイメージ)が広がったことが大きい
ビザンツ帝国は言わばキリスト教化したローマ帝国であり、ろくでもない中世の代表格と見なされた
また、古代ギリシア・ローマの継承者は自分達西欧人であるという想いもあって、ビザンツ帝国はギリシアでもローマ帝国でもない別の何かだというレッテルが貼られた
こうした経緯から生まれた偏見に満ちた呼称が「ビザンツ帝国」だった
現在はこうした偏見は薄れたものの、古代ローマ帝国との領域、国教、政治体制の大きな違いなどから、
古代ローマ帝国と区別するための、学術上の必要性からビザンツ帝国という呼称が今も使われている
なんで、当時の正式名称で呼びたかったら「ローマ帝国」
古代ローマ帝国と区別したい場合や学問上は「ビザンツ帝国」
になる
ビザンツ史の本で、東ローマ帝国という呼称を東西分割統治期以外に使用しているものは見たことがない