- 1二次元好きの匿名さん25/01/13(月) 00:08:02
「ご馳走さまでした、キミが作ってくれたお菓子、本当に美味しかったよ」
「お粗末様でした、お口に合ったみたいで良かったです♪」
「……ダメだな、もっとちゃんとした感想を伝えたいのに、上手く言葉が出ないや」
トレーナーは、困ったように頬を掻きながらそう言う。
この日、私はトレーナー室で仕事中の彼へと、初挑戦したお菓子を差し入れした。
ちゃんと試食はしているとはいえ、一抹の不安を心の片隅に抱えていたのだけれど。
「ふふっ……いーえ、ちゃんと十分過ぎるほどに伝わっていますとも」
先ほど見た光景を思い出して、思わず口元が緩んでしまう。
お菓子を見た瞬間、子どものようにきらきらと輝きを放つ瞳。
口に入れた途端、幸せそうに垂れていく眉尻。
こくんと飲み込んで、喜劇の大団円を見届けたかのように綻ぶ顔。
まるで、『目は口ほどに物を言う』という言葉を体現しているかのようだった。
あれがお世辞だというのなら、トレーナーはよほどの名優になれることだろう。
私の言葉に彼はきょとんとした表情を浮かべた。
「そう? なら良かったけど……そうだ、来月のトレーニングについてなんだけど」
「────次月は持久力の強化を重視した計画でしたが、何か変更を?」
刹那、私は頭を切り替える。
次走のコースに合わせ、二人で綿密に組み上げたトレーニング計画。
それを変更するということは、何かしらの外部的要因があったということなのだろう。
背筋を正して、頭に血を巡らせ思考を回しながら、私はトレーナーの言葉を待つ。 - 2二次元好きの匿名さん25/01/13(月) 00:08:18
「……トレーナー?」
しかし、言葉は何時まで経っても帰ってこない。
目の前のトレーナーは、私のことを注視するのみであった。
やがて私の声が届いたのか、彼は慌てた様子で開口する。
「あっ、ああ、ごめんね、ちょっと細かい修正があるから確認してもらおうかと思って」
「そう、ですか」
そう言って、トレーナーはタブレットを取り出た。
大まかなトレーニング内容に変更はなく、日によっての入れ替えがある程度。
確認自体はすぐに終わったのだが。
「……」
先ほどのトレーナーの様子が妙に気になって、思わず探るように見つめてしまう。
そんな私の心の内を見抜いたのか、彼は少し照れたような笑みを浮かべた。
「いやあ、ちょっとキミの顔に、見惚れていてさ」
「…………えっ?」
────心臓を撃つ貫くような、衝撃の言葉とともに。
一瞬、頭の中が真っ白になって、私を構成する何もかもの時間が停止してしまう。
そんな私の状況を知ってか知らずか、彼は舞台俳優のように自らの心情を言葉にし始めた。 - 3二次元好きの匿名さん25/01/13(月) 00:08:33
「オフからオンに切り替わる時のキミの顔を、あまり見る機会がなくって」
「そう、でしょうか?」
「意外とね……それがあまりにも素敵なものだったから、つい見入っちゃったんだ」
「……」
「昼に見た美しい景観が夜景に変わる瞬間を見た気分、というかな」
「……っ」
ああ、これがレースの前でなくて良かった。
いくら気を張り詰めて、表情を引き締めようとも、気持ちが途切れてしまっていたことだろう。
両手で頬を押さえると、緩み切った口元と熱のこもった肌の感触が手のひらに広がっていった。
「上手く言えないけど、とても良くて……って、なんか変なこと言っちゃったね」
「……そんなこと、ないです。少し恥ずかしいですけど、気持ちはわかりますから」
「そう?」
トレーナーの言葉に、私はこくりと頷く。
人の表情が切り替わる瞬間に得も知れぬときめきを感じる────というのは覚えがあったから。
さて、これ以上仕事の邪魔をしてもいけないし、そろそろ片付けてお暇しよう。
そう考えた時、ふと、部屋にバイブレーションの音が鳴り響いた。
「……ちょっと失礼」
音の出所は、トレーナーのスマートフォン。
どうやら着信だったようで、彼は部屋の隅に移動しながら通話を開始した。
……トレーナー室なのだから遠慮しなくても良いのにと、くすりと笑みを浮かべてしまう。
しばらくすると、電話を終えた彼は申し訳なさそうな表情を戻って来た。 - 4二次元好きの匿名さん25/01/13(月) 00:08:48
「ごめん、理事長から緊急の呼び出しを受けちゃって」
「まあ、それでしたら、片付けや戸締りは私に任せてください」
「お願いするね、お菓子のお返しはいずれ必ずするから」
「気にしなくても良いんですけど……そういうことでしたら、期待しちゃいますよ?」
「任せて」
トレーナーはにこりと、少しだけ子どもっぽいを笑顔を浮かべる。
そして少しだけ忙しない様子で、資料などを鞄の中に詰め込み始めた。
恐らくはレースかトレーニングか、何にせよ、仕事に関係するお話で呼ばれたのだろう。
そんな彼を見ていると、私も何か手伝いたくて、そわそわしてしまう。
けれど特に出来ることはなくて、とりあえず、かかっていたジャケットを手に取った。
そして、荷物の整理が終わったタイミングを見計らって、彼に近づく。
「どうぞ」
「うん、ありがとう」
お礼を告げながらトレーナーはジャケットを受け取ると、バサっと回しながら袖を通していく。
普段は柔和なカーブを描いている眉が、ほんの少しだけ吊り上がって。
いつも暖かく見守ってくれている優しい瞳が、ちょっぴり鋭く険しいものになって。
先ほどまでにこやかに緩んでいた口元が、きゅっと引き締まって、顔つきもキリっとなって。
背筋もピンと伸びて────まさに仕事モードオン、といった様子だった。
誰にだって、オンとオフというものは存在する。
私の場合はちょっとだけ極端らしいけれど、それは彼だって例外ではない。
いつもは少しのんびりしているトレーナーも、専門分野のこととなればオンに切り替わる。
その瞬間を、私はじいっと、見つめていた。 - 5二次元好きの匿名さん25/01/13(月) 00:09:09
「……シーザリオ?」
「!」
突然の呼びかけに、耳と尻尾がびくんと反応してしまう。
目の前には、不思議そうな表情でこちらを覗き込んでいるトレーナーの顔。
……私も同じ顔をしていたのかな、と少しだけ頬が熱くなる。
「あっ、ええと、その」
少しだけ気持ちがあたふたして、誤魔化そうにも言葉が上手く出てこない。
ああ、お菓子食べたトレーナーのように、心の内が見透かされていないだろうか。
一抹の不安を抱えながらも、私は微笑みを浮かべて、彼へと伝える。
「……いってらっしゃい」
「ああ、いってきます」
するとトレーナーも微笑んで、くるりと私に背中を向ける。
名残惜しさを感じながらも、部屋を出ていく彼の姿を、私は見送った。
しばらくして、私はすとんと、椅子へと腰を落として胸に手を当てる。
とくんとくんと、素晴らしい舞台を見届けた直後のように、心地良く高鳴る鼓動。 - 6二次元好きの匿名さん25/01/13(月) 00:09:22
「やっぱり、素敵だったなあ……♪」
目を閉じて、先ほどのことを思い出す。
トレーナーの優しい顔が凛々しい顔になる、その瞬間。
私の心は歓びの詩を叫んで、得も知れぬときめきを感じてしまうのだった。
私のオンオフが切り替わる瞬間は、クラフトを始め、色んな人が見ていることだろう。
でも、彼が切り替わる瞬間を見ているのは────きっと、パートナーとして傍にいる私だけ。
「私だけの特等席、かあ」
妙な優越感を心に抱きながら、私は一人、呟くのであった。 - 7二次元好きの匿名さん25/01/13(月) 00:10:42
お わ り
ホーム台詞がなんか良かった - 8二次元好きの匿名さん25/01/13(月) 00:11:37
- 9二次元好きの匿名さん25/01/13(月) 00:17:21
きっかけになったであろうスレが立ってからSSになるまでが早いよ!
表情の描写めっちゃ気合い入ってて好き - 10二次元好きの匿名さん25/01/13(月) 02:27:09
綺麗だね…